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深を射す 5
英文学の講義は何事もなく教授の話を聴くだけで終わった。機械的にノートを取っていただけで、頭の中には何も残らなかった。
かといって、何かを考えていたわけでもなかった。
さっき天羽たちと会話していた内容が蠢くわけでもなく、その張本人らしい杉本梨南のことにも思いは巡らず、ただ真空のまま、座っていたにすぎなかった。
鞄をかかえ、大学校舎から出る。私服姿の大学生に混じって制服姿の自分だけ目立つ。
ジーンズとTシャツのみの格好で、自動販売機のジュースを手に一気飲みしている学生たちの前を通り過ぎ、上総はそのまま高校校舎へ向かった。まだ外は明るかった。
「おせえよ、立村」
呼びかけられた。貴史の声だった。完全に男子として形づくられた声だった。
「ごめん、悪かった」
「バスケ部の練習、今日はちょっと早く終わったからな」
運動部の練習が六時前に終わるとは正直考えられない。何かあったのかもしれない。ちらと思ったがあえて知らん振りをした。ポロシャツのボタンを三個とも外した貴史は、まだ乾ききっていない髪を何度も振った。シャワーを浴びる時間があったということは、そうとう早く片付いたのだろう。
まずは自転車置き場へと向かった。
「お前今日、なんか食ってくか」
「そうする」
「学食にするか」
「そうだね」
父の居ない日は時々こうやって手抜きをする。
元評議委員連中の姿は見えなかった。カフェテリアで茶碗一杯のご飯と酢豚のあんかけ、そして味噌汁を選んだ。計350円なり。貴史は貴史でカツ丼を注文している。こちらも同じ値段だ。さらに小ぶりの椀に入ったうどんまで選んでいる。よく食えるものだ。上総が感心していると、
「お前こそさあ、これでほんと、足りるのかよ」
真顔で問い返された。
「足りるよ」
「信じらんねえ」
一刻も早く腹に収めたかったらしく、席に着くやいなや貴史は一気に喉へ流し込んだ。「流し込んだ」とは液状のものを言うのだろうが、貴史の食欲は固形物すらも流れてしまう何かがあった。迫力のある食い方だ。
「立村、お前どうして卓球やらねえの?」
上総が静かに箸であんかけの酢豚を口に運んでいると、あっというまに平らげた貴史がもぐもぐ言わせながら問い掛けた。
「運動部は嫌いだし」
「けど、今、暇なんだろ? 放課後お前何やってんの」
「やってないよ」
「つまらねえの」
「そうでもないよ」
何度か繰り返されたやり取りだった。上総からすれば最初から「部活動に参加する」という選択肢は持っておらず、自然と帰宅部へ収まる形を取っていて、別に不都合はない。もちろん評議委員時代のように学校へ居ずっぱりということは少なくなったが、附属中学から上がってきた友だちとこうやってしゃべるだけでも十分だ。
「卓球やりゃあいいのに。川田が言ってたぞ。立村なら結構インターハイくらいまでいけるんじゃねえのってさ」
「冗談じゃない」
聞き流した。卓球限定でなら、人並みの技量があることは自覚もしている。球技大会において卓球さえ選んでおけば、あとは余計な口出しをされずにすむことも気付いている。しかし、あくまでもそれは身を守るための武器であって、それでもって外に打ち出そうとする気はさらさらない。第一、身体をいじめるだけいじめて試合をすることに意義などあるのか。
「悪いけど地球が滅びてもそれはありえない」
「あっそっか。じゃあ、文化部だったらいいのか」
貴史はいきなり矛先を向けてきた。まだ半分も手をつけていない酢豚と茶碗を見下ろしながら上総は首を振った。
「いや、それもないな。やりたいことがない」
「図書局とかどうなんだよ。お前本読むの好きだからさあ、ややこしい原書とか読んでるしな。古川が言ってたぞ。休み時間と放課後は本を何冊でも借り放題だから、読書マニアには居心地のいい環境だってな」
確かに惹かれるところもあるのだが、それも考えられなかった。
「羽飛、古川さんが入っているということは、どういう話題になるかは想像つくよな」
「……ああ、まあな。エロ本仕入れていきなり渡される可能性大だなあ」
「だろう? クラスの中だけでそういう話は十分だな」
黙った貴史を目の前に、上総はいそいで残りの食事を平らげた。
──やはり、羽飛も何か先生方から言われているんだろうな。
想像はついていた。
かつて三年間中学時代を過ごし、ぶつかり合った関係だったから。貴史の友情あふれる態度が、当時の上総にはありがたくもあり、また重たくもあった。間に美里が入り、ちょうど奇妙な三角関係を形作ったことも、混乱の原因だったのかもしれない。
──もし、清坂氏と付き合ってなければ。
もっと楽に貴史ともばかやれたのかもしれない。
貴史と美里が物心ついた頃からの幼なじみで、周囲からは誤解されることもあるとはいえ、「親友」としての繋がりを保っていることも、上総は知っていた。本来ならばその「誤解」こそ「真実」なのではないかと上総は思ったりもするのだが、あえて口には出さなかった。
本当の意味で、貴史と向きあえるようになったのは、卒業式直後からだろう。
貴史も今は、余計な説教をかましてくることもなく、ただ自然に語りあうのみ。評議委員としての活動も、特に問題なくこなしているようだし、不必要に上総の方からアドバイスすることもない。いわば、完全に学校とは別の世界で語っている感じがする。それが心地いい。
部活動の件については貴史もこれ以上深く追求することはなく、
「アイス買って来る、食いたりねえ」
信じ難い胃袋を見せつけるように立ち上がった。戻ってくる間に食器を片付け、上総はぼんやりとコップの水を見つめて座っていた。
完全に真空だった。
アイスバーを渡され、溶けないうちにまずはかぶりついた。貴史ほど食べたりないところはないのだが、冷たいものを口にするのは嬉しかった。ちゃんとその分小銭で支払った。
「あのな、立村、最近美里と会ってるか」
歯型をアイスバーにくっきりつけたまま、貴史が尋ねてきた。
「会うもなにも、毎朝英語科の教室に来ているから、話はしていくよ」
「ああ、A、B教室隣りだもんな」
「たぶん古川さん目当てだと思う」
「女子っつうのはなんでああもひっつきたがるんだろうなあ」
のんびり語る貴史。また一口、大きくかじりとり、
「まあ、しゃあねえよな。B組がああいう状態だったらな」
しゃきしゃき勢いよく食いついていく。
「ああいう状態というと、やはり、女子たちと清坂氏はうまく行っていないということか」
「お前知ってるだろ?」
「根掘り葉掘り聞くのもな」
C組にたまたま元評議連中、および貴史、南雲が配置されたこともあって、上総も休み時間はほとんど一緒に過ごしている。美里もちょくちょく顔を出している。話すことといえばテレビ番組やらファッションやら、他愛のないことばかりだ。自分のクラスにいたがらないという点だけははっきりしているので、居心地よくないのだろうとは感じていた。
「まあなあ。B組の評議女子見ている感じだと、ありゃあ美里とは天敵になるだろうって感じだしな」
「外部生の、確か静内さん、だったか」
名前は知っている。関崎と噂のある女子だ。
「お前よく知ってるなあ」
「多少は。評議委員だろう?」
誰もがB組の女子評議委員は美里に決まると思っていたのに、いざ蓋を開けてみると圧倒的多数で静内という女子に軍配が挙がったという信じ難い出来事だった。あとで詳しく聞いてみると、美里が何気なく静内にアドバイスしたところ、きっぱりと突っぱねたところにみな、感じるものがあったらしい。仮に中学時代だったら、美里よりも静内の方に矛先が向いていただろうが、そこらへんはやはりいろいろある。
「まあなあ、ただ、評議ったって、たいしたことやってねえぞ。立村のイメージしている評議委員会とは全然違うしなあ。第一部活動を続けたままやれるってことが、すべてを物語ってるってわけじゃねえの?」
「そうだな、確かに」
貴史が美術部とバスケ部を兼部していることがすべてを物語っているように思える。しかも今はわりと、真面目に活動しているようだ。上総からすると体力的にも無理なものがあるように思えるのだが、そんなのお茶の子さいさいらしい。
「たーだ集まって、たーだ先輩方の話聞いて、たーだ結城先輩のアイドル談義を聞いて、それで終わりだぞ。立村みたいに、本条先輩みたいな先輩にこき使われることもねえし、せっかく楽しみにしてた演劇もねえみたいだし、ほんとつまらん」
評議委員会に限らず、他の委員会もその傾向は強いようだった。規律委員の南雲もまた、同じことを話していた。
「最後は古川にエロエロ話持ちかけられてちゃんちゃん、っての。すげえ虚しいぜ」
「それはご愁傷様だな」
古川こずえの愛に満ちた下ネタ攻撃に、まだ貴史は陥落していないようである。
「ところで立村、お前美里のことなんか聞いてねえか?」
アイスバーが一本の骨だけになり、しばらくもてあそびながら貴史が尋ねた。
「何かって? 話は毎日してるし」
「じゃあ、噂なんか聞いてねえのか?」
「なにが?」
すぐにぴんとくるものがなく問い返した。貴史は口端にバーをくわえた。
「まあ聞いてねえんならいいんだ」
一度区切った後、また聞いてきた。
「お前はもう、美里に未練、ねえの?」
「なんだよいきなり」
これも何度か繰り返された質問だった。無理にくっつけようとはしない、と貴史は卒業式の後手紙に書いてよこしたけれども、やはり守られないようだった。ただ、今の上総はあまり気にもならない。無理に返事をしなくても、三人の関係は崩れない自信が形作られていた。
「俺は今が、一番楽だから」
「楽、なあ」
ひとりごちた。貴史はバーを指先でくるくるまわした。
「お前は楽かもしれねえけどな、美里は」
「清坂氏ならたぶん俺よりも別の」
言いかけた。卑屈になってしまいそうな言葉を口走りそうになる。
「ちょい待て、お前より別のってなんだ?」
バーを手のひらに隠し、貴史が上総をじっと見据えた。ぷつと、空気が切れたようだ。
「そういう付き合いしたい奴がいると思うよ」
しかたなく最後まで言い切った。そう思ったことは事実、個人名は出していない。
「誰だよ相手は」
知らないのだろうか。あれだけおおっぴらになっているというのに。天羽たちも知っているはずなのに。幼なじみの新しい恋心を見抜いていないとは、正直、信じ難い。
改めて貴史の表情を伺った。妙に真面目だ。貴史が堅い表情を見せる時は、一発張り倒されるか怒鳴られるかのどちらかだった。そんな表情が何故浮かぶのか?
念のため、聞いてみる。
「羽飛、まさか知らないなんてことないよな」
「だから言ったろ! 噂だけ一人歩きしてるんだ」
「どんな噂がだ?」
「美里が男漁りしてるっていう、アホすぎる噂がだよ。学校内だけなら笑えるけどな、いくらなんでも美里の母ちゃんにそういう話告げ口されたら、そりゃあまずいわな」
──清坂氏が男漁りしている? なんだろうそれ。そんな噂は聞いたことない。
いくら上総が野に下りたとはいえ、そんなえげつない噂ならばもっと早く広まるはずだ。
「もっと詳しく教えてくれないか」
上総もこれは、真面目に向きあって話をしたい内容だった。
「やっぱり気になるだろ、簡単に説明するぞ、いいか」
もし上総ならば周囲を見渡して様子を伺ってから語るのだが、貴史は全く気にしない。さすがに大音量で語ることはしなかったが、一目を忍ぶ気はさらさらなさそうだった。
「美里がB組の女子連中とうまく行ってねえことは、お前も知ってるだろ? どうやら評議委員選挙バトルに負けたことがきっかけだったらしいんだが、どうも美里にはあの教室内に居場所がないようなんだ。だから俺たちC組に長居してねばってる」
「それはわかるな」
「代わりに入った規律委員も、朝の遅刻者つるし上げ当番しかやることねえみたいだし、そうとうストレスが溜まっているだろうとは、思う。んで、相棒規律委員の東堂ともこの前、例の彼女のことで口出ししちまってあいつを怒らせちまった始末だし。とにかく美里、今踏んだり蹴ったりなんだ」
比較的男子とは仲良くやっていたはずなのに、なぜ東堂ともめたのだろう。聞いていない。
「あいつもやめときゃよかったのになあ。よけいなおせっかいだよな。いくら東堂の彼女がばりばりのアウトローだとしても、それはあいつの趣味だろ? 口出すことじゃあねえよ」
例の桜田さんという後輩女子のことだ。ついでに、杉本梨南の現在一番の友だちでもある。
「美里の奴、親切のつもりなのかもしれんけどな、東堂を捕まえて説教したらしいんだ。あのまま不良のまんまだと、周囲が迷惑するんだからなんとかしなさいってな。余計なお世話だよなあ。俺もそう思うぞ。ぶん殴られても文句は言えないわな」
「そんなこと言ったのか……」
もっともだ、それは怒られても文句言えない。頷いた。
「まあ、東堂もぶん殴りはしなかったが、かなりぶち切れてな」
貴史は溜息をつきつつ、手の平をバーでつついた。
「それまではB組の女子連中がいろいろ嫌がらせするのを押さえるよう、それなりに気を遣ってたようなんだが、その一件がきっかけで東堂の奴、仲間連中に言いたい放題言いやがったんだな。自然と連鎖反応で美里に対する悪印象ひろがりまくり。結局美里の居場所はB組の男子女子どちらにもなくなっちまったってわけだ」
──そんなすごいことになっていたのか?
気付かなかった。上総が勘付いていたことはひとつだけ。関崎乙彦への片想いだけ。
「叩けば埃もうもうの過去、美里をふくめ俺たちどっさりあるからなあ。女子連中の悪口だけならまだしも、男子連中の本音トークもすべて流れ出しちまって、そこから一方的に美里の酷い噂が広がり始めたってわけなんだ」
「どういう内容なんだろう」
「修学旅行で男子と一発やらかしたとか、なあ。しかもその相手が立村ならまだしも、別の男子らしいとか、先生がたに色目使ったとか、他の中学の奴らと色仕掛けしたとか、ありとあらゆる話題が溢れかえっちまってて、もう、大変だわ。最後にその噂をな、ご丁寧にも知らせてくださるB組生徒のどこぞの親御さまがいらして、今もう、美里の母ちゃん仰天。俺の母ちゃん通して、美里を見張るようにただいま指示が出ているつうわけなんだ」
すねに傷のあるわが身ゆえに何も言えない。「一発」はやらかしていないが、多少心の奥にある罪悪感がむらむらする。確かに美里とは、修学旅行最終日の夜、いわゆる「一夜を共にした」経験はある。単に文字通り、一夜を過ごしただけでありそれ以上何もない。ないが、やましい気持ちを感じなかったわけではない。しかし、それがばれているというのが信じられない。あれだけ人に見られないよう、ばれないように注意を払ったというのに。知っているのは貴史、美里、こずえ、そして南雲だけのはずだ。
「あのさ、羽飛。清坂氏は東堂にどんなこと言って怒らせたんだろう? それが気になる」
「まあな、あいつの性格上、間違ったことは許せないってのはあるだろうなあ」
次に飛び出した貴史の説明に、上総は息を飲み込んだ。
「ほら、お前知ってるだろ、この前中学の修学旅行があって、そこでねしょんべんしちまってふとん押入れに押し込んでとんずらした女子がいて、学校側ではただいま犯人探しやってるって話。ふたり犯人候補がいて、そのうちのひとりが東堂の彼女と親友らしいんだ。お前も知っての通り、東堂の彼女は札付きだから一緒にいられるとどうしても、一緒にいる奴は色眼鏡で見られてしまうって言うんだ。どうも美里の奴、犯人候補の一人が疑われた理由のひとつとして、東堂の彼女と友だちだったってのが一番の理由だと思い込んじまって、すげえ文句言ったらしいんだよな。後輩いじめはしない奴だが、一方的にかばうってのも、俺は先輩としてちょいとまずいと思うぞ」
貴史はそこまで一気にしゃべり、最後の結論に持っていこうとしていた。
「だから俺が思うに、美里をまずは東堂に謝らせるのが先決かと思うんだよなあ」
これ以上上総は聞いていなかった。
──やはり、その事件は起きていたんだ。
ずっと、頭の中から消そうとしていた出来事。
美里が懸命にかばっていた「修学旅行おねしょ事件」の犯人候補である女子。
東堂の彼女が親友づきあいしているその女子。
繋がっていく。
三時間近く前に天羽たちから聞いた噂は、やはり事実だった。
──杉本、いったいどうして。
今まで感じたことのない奇妙な感情が身体を駆け巡っていた。つい最近会ったばかりの杉本は一切、引け目も感じさせず、日々堂々と背を伸ばして歩いていた。修学旅行でよりによって世界地図を描いてしまうような失敗をしてしまった女子には見えなかった。
でも、ここまで噂が広がっているということは、恐らく出来事そのものは事実なのだろう。
──清坂氏がかばおうとしたのは、きっと杉本だ。杉本を守ろうとしたんだ。フォローしきれない失敗をしてしまった杉本を助けようとしてくれたんだ。杉本のことでは俺が、清坂氏の気持ちをさんざん逆撫でしてしまったことを、許してくれたんだ。
つきあう、つきあわないの二者選択だけで片付けたくないその気持ちに、なんと名前をつければいいのだろう。友情だけではありふれていて、愛情では色が濃すぎる。ただやすらいだその空気をくれる、大切な女子の友だち。
──そんな彼女に、俺は何ができる?
何かをしなくてはならない。
美里のために。
決めるより先に口が勝手に動いていた。
「わかった、東堂に一度話を聞いてみるよ」
きっぱり約束した。
貴史はぽかんとして手元のバーを取り落とした。わかりやす過ぎる驚きだった。
「お前、あいつと話すのか?」
「東堂にもいろいろと思うところがあったと思うしさ。けど清坂氏もただ謝るのはいやだろうな。まず、事情を確認して、清坂氏にも東堂にも一番よい形で解決できるかどうか、やってみるよ」
貴史には聞かれたら話すつもりでいた。
──たぶん、清坂氏のつきあいたい相手は、A組の関崎だと思う。
──関崎はたぶん、B組評議の静内さんと付き合いたがっている。
──関崎はいい奴だから、いい友だちづきあいできるようになんとかしたい。
──羽飛は、清坂氏が関崎にこまめなアプローチをしているのを、本当に知らないのか? あんなに近くにいるのに?
貴史が美里の話をする際に見せる生真面目な表情をどう受け止めていいか、今の上総にはわからなかった。少なくとも、今は伝えられそうにない。