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美里に聞かれた。
「立村くん、今からゆいちゃんに電話掛けるけど、どう言えばいい?」
「どうって?」
尋ね返すと美里は少し間を置いた。
「霧島くんと直接話をしたいので電話口まで呼び出してって言ったほうがいいの?」
「いや、それはまずいだろう」
上総が答える前に、貴史が口を挟んできた。
「天羽や難波からいろいろ聞かされてるぞ。そうとうあの姉弟仲悪いみたいだってな。美里、それ知ってるだろ?」
「まあね、だから聞いてるの。立村くん、どうする?」
再度問われた後、上総は答えた。
「ここに来いと言ってもらえると助かるな」
「はあ?」
また貴史が首をひねって呟く。
「ここで何するんだ?」
「電話で話すよりも、直接話す方が早いかなと思っただけだよ」
美里にはその旨、頷いて伝えた。上総の顔を怪訝そうに見つめていた美里も、
「そっか。そうだね、伝言だけ伝えとくってことでいいよね」
すぐに公衆電話へと駆け出して行った。
美術館地下一階の図書室には、まだ午前中というのにかなりの人が席で画集を広げていた。一冊一冊が大判で重たそうなものばかり。中には親子連れも見受けられ、子どもたちが奇声をあげつつ走り回っていた。
「こういっちゃなんだが、高尚なイメージなんてねえよな」
貴史が顔をにやつかせながら上総に話し掛けた。
「どういうことだよ」
「美術だから敷居が高いなんてことねえんだよなってこと」
ふうんと聞き流した。貴史がしゃべりたいだけしゃべっていればいい。美術そのものに上総は興味を惹かれなかったし、むしろ美里がここに戻って来てからどういう話をするかに気持ちが向いていた。
「ほら、見てみろよ、あそこのがきんちょども、絵本みたいにめくって騒いでるし」
「なんの本だろう?」
「仏像みたいだなあ」
上総から観ればただの写真集にしか写らなかったのだが、貴史は遠目からも詳しく観察していたようだった。
「ありがたやありがたやと拝んでいる人たちもいるけどさ、子どもからしたら超合金のロボットとおんなじようなもんだよなって、なんかなあ、思った」
「そう、なのか?」
発想が繋がらずどう尋ねてよいのかわからない。上総は頷きつつ貴史の言葉をゆっくり耳に流し込んだ。
「あんな感じでのんきに美術に絡んでいければいいなあと、俺は最近思うわけなんだよ、どう思う? 立村」
「それはそれでいいんじゃないか」
返事のしようがない。上総の認識からすれば、貴史がバスケ部をやめて美術部一本に絞り込んだという事実に興味こそあれども、その対象となる美術そのものには答えようがないのだ。おもしろく思うのは、今まで鈴蘭優にしか興味をしめそうとしなかった貴史が、いきなりそれこそ「高尚」な美術について語り始めたことそのものだった。
「俺の記憶違いでなければ」
少し熱を冷ますように口を挟んだ。
「羽飛は中学の頃からそれこそのんきに美術館をぐるぐる回っていただろう。ほら、中学二年の夏、やはり三人でわけのわからない現代美術展を観に行った時、やたらと盛り上がってただろ。俺はついていけなかったけど」
「あったな、そんなこと」
少しだけ間を空け、貴史は平手に拳固をぽんと納めた。
「宿泊研修の前な。お前あの頃からやたらと美術がわからねえとかなんとか言ってたけど、今はどうなんだよ。少しは、関心あるのか」
「絵が綺麗とかわからないとかそういう認識だけはあるよ。羽飛や清坂氏から影響は受けた」
「ほうほうそれはよい影響だ」
おちゃらける貴史に上総は一言添えた。
「今日も羽飛は清坂氏と一緒に美術を堪能する予定なんだろう? そのつもりで、来たんだろ?」
──気付いてないよな、きっと。
言葉の裏に秘めた問いを、さっぱりした貴史は全く気付いていないに違いない。
「ああ、もちろんだ。美里と芸術についてああだこうだつっこみあうのはいつものことだもんな。あいつ、時々とんでもねえこと口走るんだぞ。この前なんてな、『モナリザ』の顔に前髪つけてまゆ毛と付けまつげ描きたいとか言い出すしさ。後ろで聞いてた奴ら、みな瞬間接着剤で地面に靴の裏くっつけられたみたいに硬直してたなあ」
声を出して笑い出した。同時に図書館員の女性にぴしりと注意された。
「お静かに願います」
さっきから図書室の中をけたたましく駆け回っている子どもたちには特段何も言うことないのに、ずいぶんなことである。
「俺だけかよ、ったく」
たいして堪えた風でもなく、貴史は画集を選びに書棚へ向かった。
クーラーのほどよく利いた図書室の中で、上総は手帳を鞄から取り出した。
何かがゆっくりと流れ出している。
決して狙ったわけではないにしても、上総の思惑が自然と実現されてきている。
昨日の関崎襲来に関してもそうだし、霧島との件も同じ事だ。
一学期中なんとかせねばと考えていたさまざまな出来事が、少しずつ動き出している。
貴史と美里との繋がりについては予想外だったが、それでも勝手に当人同士がいいように道を拓き始めている。美術館で三人集おうと思い立ったのが貴史というのがすべてを物語っている。かつて、宿泊研修前に貴史と美里が上総を差し置いて盛り上がっている様を粒さに見つめてきただけに、感慨深いものがある。
──やはりそういうことなのか。
原点に帰る、ということか。
──羽飛が意識しているかどうかは別として、清坂氏と羽飛とはこれから先、もう一度この美術館で語り尽くすことによって、繋がりつづけようとするんだろうな。
たとえ美里の想いが関崎一直線だったとしても、結論は時間の問題、すぐに出るもの。
はたして貴史はそれを待ってから行動するのだろうか、それとも直球勝負に出ようとするのだろうか。わからない。そこまでは読み取れない。上総はそこまで思いを巡らせようとし、やめた。仮に自分がそんな風に掘り下げられたとしたらたまったものではない。
──ここから先は、もう余計なお世話だよな。
いったん開いた手帳を閉じ、しまいこんだ。
階段を降りてくる足音ですぐに気付いた。どたとだではなく、やたらと細かい音が響いた。駆け下りてきたのだろう。美里がテレホンカードを握り締め一度ぐるりと図書室内を見渡した。すぐに貴史と目が合い、走り寄った。
「おせえぞ美里、何しゃべってたんだよ」
顔をしかめて貴史が拳固を振り上げる。もちろん冗談のポーズだとわかりきっている。
「うるさい! あんたがなんで怒るのよ。それよか立村くん、さっきの件だけど」
上総に向き直り、隣に座った。
「ちゃんとゆいちゃんには伝えておいたけど、霧島くんに伝えてもらえるかどうかはわかんないよ」
「それでいい、いろいろ霧島さんもあるだろうし」
「そうなのよ、もう、大変だったんだから!」
力をこめて何度も美里は頷いた。かなり恩着せがましく感じる。
「久しぶりだし琴音ちゃんたちも含めて夏休みみんなで会おうよって誘ったのよ! そしたらごめんねの一言もなく『私、行かない』しか言わないのよ! そりゃ、あまりいい思い出がなかったかもしれないけど、私だって久しぶりにゆいちゃんに会いたいんだもん、わかるよね?」
その押し付けがましさが霧島ゆいに嫌がられた理由のようにも思う。永年の美里との付き合いで、余計な口を挟まない方がよいという教訓を得ている上総。
「でしょ、でしょ。立村くんわかるよね!」
「おいお前ずいぶん先走ってねえのか? 難波にどやされるぞ」
至極ごもっともな助言である。貴史はやはり美里に関して鋭い。
「覚悟してるわよ。難波くんだってゆいちゃんが元気になってくれた方がいいに決まってるし話の内容を聞けば納得するはずよ。とにかく、ゆいちゃん全然乗ってこなくって、しょうがないから立村くんの伝言を伝えたのよ。霧島くんに、この美術館に来るようにって」
「おいおい、立村、こんなとこに呼び出してどうするんだ?」
今度貴史が突っ込む相手は上総である。重たい美術書……ちらっと覗き込んだところによると丸やら三角やらが大量にちりばめられているデザイン書のようなもの……を抱えたまま、ぐいと身を乗り出している。
「電話よりも直接話した方がいいかなと思ったんだ」
「お前をさんざんおちょくってる相手なのにか?」
「だから、なんだ」
短く、余計なことを伝えず上総は返事した。幸い美里が続きを話したくてうずうずしていた。隣にいるからむりやり会話を分捕ることができるわけだ。
「貴史、あんたは黙っててよ。とにかくゆいちゃんに伝えたけど、やっぱり仲良くないでしょ。ゆいちゃんと霧島くんとはね。立村くんが会いたがってるからって伝えたけど、やっぱりいやだったみたい。伝言はするけど、来るかどうか保証はしないよって」
無謀な頼みごとだったと自分でも思う。霧島弟の、姉に対する憎しみたるや壮絶なものがあった。あの状況だとおそらく、日常の挨拶も交わしていないのではないだろうか。
「ゆいちゃんだって、ちゃんと中学時代は青大附属の生徒だったんだもん、胸張って会いに来てくれればいいのに。これ、小春ちゃんにも言えることなんだけどな。天羽くんが仲間に混じっているからあえて小春ちゃんには声かけしなかったけど、私にとってゆいちゃんは、一緒に三年間評議を続けてきた、かけがえのない仲間なんだもん。だから、学校が違うとこになっても友達でいたいって思うよね? 立村くん、どう思う?」
このパターンでおそらく東堂もまくし立てられたのだろう。で、思いきり美里は嫌われたということか。もちろん注意を促すこともできるが、それは自分の仕事ではない。やるなら目の前で話をうんうん聞いている羽飛貴史、お前がやれと言いたい。
「とにかく、伝えたけど、ねえ立村くん、聞いていい?」
「答えられることなら答えるよ」
「なんでそんなに、霧島くんのことを気にするのかなって」
美里が言葉をとぎらせつつ、小声で尋ねた。
「霧島くん、ゆいちゃんの同期を物凄く嫌ってて、難波くんもひどいこといっぱい言われて怒ってるし、天羽くんは霧島くんが入学してきたら叩きのめしてやるとか言ってるよ。悪いけど、高校に入ってきたら、生徒会役員にでもならない限り肩身狭いんじゃないかなって気がするの。立村くんだってそのこと、知ってるよね。私だってゆいちゃんの味方だから、霧島くんあまり好きじゃないよ。いくらゆいちゃんのことでいろいろいじめられたとしても、全校生徒の前で悪口言うのって失礼だと思うんだ。でしょ、でしょ」
──やはり、不思議だよな。
自分でも摩訶不思議なのだから当然だ。
説明をしておいた方がいいだろうか。
上総は簡潔に答えることとした。美里に長い台詞を聞かせても、誤解を招いて収拾つかなくなるのが怖かった。
「清坂氏、言いたいことはなんとなくわかる」
「俺には全然わからねえけど」
口を挟む貴史をちらと見て、上総は続けた。
「ただ、霧島さんの方が霧島と比べるとはるかに、味方が多いように見えるんだ」
「味方って、友だちだもん当たり前よ」
伝わらなかったのか美里が口を尖らした。
「今、清坂氏が遊びに誘ったのだってそうだし、きっと元C組の女子たちだってみな霧島さんを支えようとしているんじゃないかって気がするんだ」
「そりゃ、まあ、そうよね。評議委員だったんだし」
「相棒だった更科だっていろいろ気を遣ってただろ」
「まあね」
「でも、俺の知る限り、霧島にはそういう存在がいるように思えない」
「うっそお!」
今まで注意されなかったが、美里の「うっそお!」には図書館員より厳しい注意がなされた。思いっきりふくれっつらの美里と、一足お先に説教を食らっていた貴史との間に、奇妙な空気が流れた。上総を脇にクッションで押しやるような感覚が残っていた。
「と、いうことは、立村くん」
もう一度言葉を区切りつつ、美里は繰り返した。
「霧島くんを、先輩として、引っ張って行きたいの? たとえば」
つまらなさそうにふたりを交互に見つめている貴史を無視したまま美里は、名前を挙げた。
「立村くんのことを、本条先輩が引き上げようとしたのと同じように」
──清坂氏、やはり鋭い。
話し始めた美里が頷いた時と同じくらいの大きさで、上総は首を立てに振った。
「俺は本条先輩になりたいのかもしれないな」
これ以上言葉を重ねる必要は感じなかった。美里もすぐに納得顔で、
「だいたいわかった。そういうことならもう、私は口出さないから大丈夫」
答えた後、付け加えた。
「大変だと思うけど、応援するね」
それだけ囁き、美里はすぐ立ち上がった。机を大回りして、貴史の隣に座りなおした。すぐに画集を肩並べて眺めつつ、
「これ、面白いよね、貴史」
すっきりした笑顔で話し掛けていた。