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上総は机から椅子をひっぱりだして座り、見下ろした。。
口を拭いながら貴史が見上げている。
テーブルの上に置いたままのラムネ瓶を持ち上げて、何度か中のビー玉を鳴らしていた。
「立村、あれ、なんだいったい」
問い掛けるでもなく、ただぽつんと呟いた。答えた方がいいのだろうか。
「そういうこと」
端的に答えてみた。
「そういうことじゃあわからねえだろ」
うんざりした顔で貴史は上総に、ラムネ瓶の口を突きつけた。
「お前はひとりで納得してるし、美里も行っちまったし、俺だけか? 何が起こったのか理解できねえままなのは」
「これから説明する」
「ああ、説明しろよ。お前の得意技でねっとりとだ」
まだ関崎と美里の発した熱気は残っているようだった。透明クッションに似たものが、今の上総と貴史の間には挟まっているかに思えた。少しだけ呼吸を整え、上総はゆっくりと語ることにした。
──俺の話し方ってそんなにねっとりしていたんだろうか。
このあたりの誤解については、あとで解くことにしよう。
「見た通りなんだ。清坂氏は関崎に興味があったけど、なかなか話をするきっかけがなかったようだから、あえて二人きりの機会を用意しただけなんだ」
「はあ? だからどうしてそんなことする必要ある?」
もっともな貴史の質問だ。当然、前々から決まっていた答えを返した。
「学校だといろいろ面倒なことがあるしさ。羽飛も知っている通り、今清坂氏はB組で大変な思いをしていると聞いている。だから、できるだけ人目につかないところでゆっくり話をしてもらったらどうかな、と考えた次第なんだ」
「おい、ちょっと待てよ」
マイク代わりに貴史はラムネ瓶の口をそのまま上総に向けた。
「俺の聞いたのはそういうことじゃあねえ。俺が知りたいのは、立村がなぜ、そんなことしようと考えたのかってことだぞ。当たり前だろ」
「ああそうか、ごめん」
つまりは上総自身の行動理由を知りたいらしい。あっさり答えた。
「やはり友だちだからだろう」
「美里が、お前とか?」
「そう、それ以上の理由はないな」
もっと深く説明することも可能だが、貴史がそんなだらだらした理由を求めているとは思えなかった。
「俺も羽飛からいろいろ話を聞いていたから、できれば清坂氏がこれ以上しんどくならないようなこと、手助けできないかなと思っていたんだ。それでたまたま今日、関崎が俺の家に遊びに来てさ」
「どうしてだよ」
「なんか用はあったようなんだ。よくわからないけど」
細かい話はあえてはしょった。
「ふたりだけだと話も尽きるし、そういえば天羽たちのカラオケ大会がこのあたりで行われていることを思い出して、呼び出しただけ」
「じゃあなんで天羽たちも呼ばなかったんだ?」
「本当は清坂氏だけ呼びたかったけどさ」
話がかみ合わず、上総もどう進めてよいのかわからない。とてもだが思いつきで呼び出したなんてことを言えはしない。関崎がなぜいきなり上総の家へ押しかけてきたのかとかも詳しい事情は話したくない。小学校時代のやりきれない記憶でパニックを起こしかけて、そこを関崎の正義派攻撃で突かれたとか、隠しておきたいことはたくさんある。
「おいおいなんでお前そうまどろっこしい言い方しかできねえんだよ」
「俺が悪かった、だから」
「違うだろ、そうやって逃げるのもいつものパターンじゃあねえの」
苛立ちを隠さず貴史がテーブルを平手で叩いた。もちろんラムネ瓶のマイク化はそのままだ。
「俺が聞きたいのは、なんで立村が、美里を関崎とくっつけようと企んだかってことだぞ。あたりまえだろう? お前、仮にも美里とは一夜を共にした仲じゃあ」
「誤解を招く表現はやめろよ」
文字通りの事実ではあるのだが、その裏に潜んだ意味まで重ねるのはできれば避けたい。貴史はもともと細かい言葉の意味を熟考する奴ではない。そのまま続けた。
「そういうお前がなんで愛のキューピットしねばなんねえんだよ」
「やはり見るに見かねてといったところかな」
「はあ?」
仕方ない。この辺は素直に答えよう。
「この前、羽飛と話した時にも触れたけど、高校に入ってから清坂氏が関崎のことを気に入ってたのはなんとなく感じてたんだ。隣のクラスだし、そういうのはなんとなく伝わってくるしさ。中学時代は俺といろいろあって迷惑かけたし、この機会に応援に回ろうかと思ったのがまず発端なんだ」
「お前そういうこと、なんで先に言わないんだ?」
「てっきりそういうこと、羽飛も知ってるんじゃないかなと」
言いかけて思い出した。いや、話してないはずだ。あえて美里の恋心そのものが自分以外の誰かのもとにあることだけは伝えたが、その相手の名前までは伏せていた。話しながら気がついた。貴史は知らないはずだ。
「知るわけねえだろが」
「ごめん、気づいてるかなと思った」
でもなんで謝る必要があるのだろう。違和感あり。
「けどさ、羽飛なら清坂氏のことを理解しているからこそ、きっと俺の今回の行動を納得してくれると思うんだ」
あえて自分を正当化してみた。恐る恐るではある。貴史の目つきが険しいのは部屋に入ってきた時から変わらない。カーテンが揺らぎ一瞬日が翳った。貴史の顔にうっすらとレースの影が写って消えた。
「東堂とは羽飛が話し合いを持ったと聞いていたしそのあたりはあまり心配してなかったんだ。B組女子同士のいざこざも、清坂氏ならあっさり乗り越えていくと読んでいた。ただ、味方がだんだん減っていっている状況の清坂氏のことを考えると、ひとりだけで戦っていくのは酷なような気がしたんだ」
「ひとり、かよ」
「もちろん、羽飛が見守っていることは俺も承知しているよ」
こつこつ、今度はラムネ瓶の尻を打ち付けている。
「俺のことはどうでもいいだろ。それよかお前はどうなんだよ。仮にも付き合っていたってのに、いきなり他の奴にお下がりとして押し付けるのはなんかふざけてると思われても文句言えねえんじゃねえか?」
──お下がり?
言われた意味がわからない。お下がり?
「お下がりの意味がよく理解できないんだけどさ。ただ清坂氏と俺とが付き合っていたことがあまりいい影響を与えてないんだなということは気づいていたよ」
「おいおい、またお得意の自己批判かよ」
テーブルに傷がついているんじゃないかと思われるほどの音がする。
「そんなわけじゃないけどさ。ただ女子同士では、清坂氏の相手として俺ではちょっとなんというか、という気持ちはあるんじゃないかと思う」
「お前が勝手にひっこんでどうするんだよ。事実お前らは三年近く付き合ってただろ。やることはまあ、どこまでやったかは置いといて」
「やることなんかやってない。それ以上下ネタを持ち出すなら話すのやめるからな」
やめても貴史を追い出すのはまず無理だろう。承知で脅してみた。
ここまで一度も貴史は笑わなかった。
「実際俺と清坂氏はいい友だちであれ、それ以上の何かってのはない。ただ誰にもその事実を公表する機会がなかった。よく知らない奴は俺たちがまだ、いわゆるその」
「付き合ってるんじゃねえかと思ってるってわけか」
「そう、そういうこと」
頷きながら、一息ついた。心ならずも椅子に腰掛け貴史を見下ろす格好となる。反対のパターンは多かったけれども、こうやって形だけでも優位だと話がしやすいの。
「B組女子もそのことで清坂氏を冷たい視線で見ていたというのは、羽飛から聞いた記憶があるな。清坂氏はあまりそういうこと気にしないタイプだからかまわないけど、女子同士の争いはひとつの弱点をとことん突くことが多いと聞いたことがあるし、だったらひとつでもマイナスポイントを外すのがベストじゃないかとも思ったんだ」
「自分をマイナスポイントって決め付けるのかよ」
「そう。そういうこと」
聞き流した。
「本当は誰か清坂氏に新しい交際相手が出てくれば、俺とのことは消えるし、少しは居心地もよくなると思う。最初は俺もそんな差し出がましいことをするつもりはなかったよ。押し付けられるのは個人的にたまったものじゃないしさ」
「でも結局は、キューピットとなったわけか」
「結果的には」
貴史は黙り、すとんとテーブルにラムネ瓶を置いた。窓辺に視線を走らせ、
「夏休み前にカップル誕生かあ。ずいぶんとお熱いようで」
「いや、それはたぶんない」
余計な一言が唇から、そうめん一本の細さで滑り落ちた。
──言わねばよかった。
後悔する前に貴史がふたたびラムネ瓶を握るのが見えた。
「おい、今なんと言った?」
「いやなんでもない」
「いいや、お前、『いや、それはたぶんない』とか言っただろ!」
「深い意味はないよ」
「ないならなぜ言った?」
片手にラムネ瓶を持ったまま貴史はゆっくり腰をあげた。烈火ではないにしても太陽熱で焦げそうな臭いはしそうだ。何か上総の発した言葉が発火点となったのか、それもわからない。背もたれに背中をぺったりくっつけ上総は答えた。
「羽飛も噂では聞いているだろう。関崎と、もうひとり、時間の問題という相手のこと」
「誰それ。悪いが俺は関崎とは殆ど喋ったことねえぞ」
「ほら、清坂氏と犬猿の仲という女子のこと。確か、静内さん」
「関崎の相手がか」
まさかとは思うが気づいてなかったのだろうか。上総は貴史に見下ろされつつ様子を伺った。立場が逆転している。しかも貴史ときたら使うつもりのなさそうな武器すら握り締めている。圧迫感ありだ。立場が弱くなってしまった。
「たぶん、あのふたりは時間の問題だと思うんだ。俺もそれは感じる」
「ちょいと待てよ立村。つまりお前、全くあてがないとわかっていて、あえて美里をけしかけたってことか?」
「結論から言うとそうなる」
言い切ったとたん、貴史の目つきが険しさを通り越して激怒の色に染まったように見えた。一瞬の幻であってそれは、単に白目が充血しているだけのようだが、その瞳で見下ろされると上総はどうしても一歩、また一歩引きたくなる。
「なんでよ」
「それが一番いいと思ったから」
「なんでだよ」
「清坂氏にはそれがベストだと思ったから」
「なんでだ?」
「羽飛、お前ならわかるだろ?」
しつこく問い詰められても答えは変わらない。このままラムネ瓶で頭をぶん殴られても不思議のないその目つきが怖い。椅子を心持ち後ろに下げ、貴史から距離を取ろうとするが果たせない。しかたなく上総は答えた。
「正直なところ、俺はあのふたりが付き合う可能性はゼロに等しいと考えている。関崎の性格から考えて、恋愛対象にならない女子と付き合うような軽い真似は決してしない。だから水鳥中学時代はシーラカンスとか堅物だとか融通利かないとか、全校生徒に言われていたらしいんだ」
「お前とどっこいどっこいの堅物同士ってことだな」
──おい、俺と関崎とイコールと思っているのか、羽飛は。
心外だが、この場で文句を言う必要はない。
「俺があえて清坂氏をこの場に呼んで告白をけしかけたのは、付き合わせようと思ったからじゃない。もしそうなら学校内で、一目につきそうなところでも構わないわけだしさ」
「じゃあ理由はなんだよ」
──本当に気がつかないのか?
恋人以上の幼なじみ、そんな貴史がなぜ気付かないのか? 理解しがたかった。
上総が自分で説明するしか方法がないのか。
一言間違ったら速攻張り倒されそう。
だが、答えなければまた別の制裁が待っていそう。
自分で早く答えにたどり着いてくれればいいのに、その気配すらない。
やはり上総から白状することになりそうだ。観念した。
「中学時代のように、自信のある態度を取り戻してほしかった、それだけなんだ」
「はあ?」
まだわからないのか。いらだたしい。
「清坂氏は自分からまっすぐぶつかっていくタイプだよ。それは羽飛もわかってるだろ。なのに関崎の件についてはずっと様子を伺っているだけだった。もちろん見込みがないならそれはそれでいい。玉砕するのは誰もが避けたいだろうしさ。俺はよくわかんないけど。ただどういう結果にせよ、まっすぐ関崎に話をして、その上で気持ちを整理できればそれはそれできっとすっきりするんじゃないかって思ったんだ」
「すっきりさせてどうなる? 流すのか? 水洗トイレみたいに」
「そうすれば、うまくいくんじゃないかな、って思っただけさ」
あえてこれ以上は秘めた。
かつての自分がいいかげんなまま美里を翻弄し苦しめてきた罪が、今なら読み取ることができる。清坂氏がどんな想いで上総に告白してきたのか、その上でどういう付き合いを求めてきたのか。気持ちが恋心とは別の友情と気付いた時に、どうして早い段階で軌道修正してやれなかったのか。上総の奥に澱として残っているその悔い。関崎ならばそんなあとを引きずるような恋心を上手に切ってくれるだろう。美里の登場にかなり仰天してはいたけれども、一度決めた想いを切り替えるような真似は決してしない。その点は信頼していた。
「付き合う付き合わないなんて、俺はどうだっていい」
上総は言葉を締めた。
「友だちとして俺が清坂氏のために一番いいことを考えたらこうなったんだ。わかるだろう? 羽飛」
わかってもらえると信じていた。
美里のことを一番理解しているのは貴史なのだ。
恋愛感情というものとは違う次元で美里を見守っている。将来貴史に彼女ができたとしても、美里との繋がりは全く変わることなく続くような気がする。
同じ絆を上総も、中学三年間のすったもんだの末得た。
おそらく、貴史と同じ目で、色恋沙汰とは関係のない眼差しで美里を支えたいと思っているはずだ。貴史とくっつけば本当はベストだと考えてはいたけれども、その気持ちがお互いにないことは確認ずみ。だからこそできることがある、そう信じていた。
上総は貴史の顔を見上げた。ちらとラムネ瓶の持ち位置を確認した。
ゆっくりぶらんとぶら下げていた。
「友だち、かよ」
「悪いか」
「ふざけんな。よりによって外部の奴に押し付けやがって!」
「関崎はいい奴だよ。かなり鬱陶しいところがないとはいえないけどさ」
「そういう問題じゃあねえだろ?」
空いている手で上総の肩を揺すぶった。
「立村、いいのか、本当に手放して後悔してねえのか?」
「してないよ。何度も言うけど俺は友だちとして」
「いいかげんにしろ!」
外の物音がかすかに止まった気配がし、すぐに元通りとなった。
貴史の怒号を受け止めたのは、まだ美里と関崎がいた時の熱気がクッションとして挟まっていたからだろう。不思議なほど上総は落ち着いて貴史の目を見つめていられた。
「あいつが受け入れちまったらどうするんだよ、後戻りできねえぞ」
素早く貴史は背を向けた。ベッドにこしかけたまま、握り締めたラムネ瓶を膝に置き、何度も口を平手で叩いていた。
「受け入れられたらそれは、間違いなく関崎も清坂氏のことを好いているということだからそれはそれでいいと思うよ」
そこまで答えて、上総は息を細く止めた。
「それだと羽飛、まずいのか?」
もう一度ゆっくり繰り返した。
「羽飛、まさか、まずかったのか?」
返事はなかった。貴史がそのまま怒った顔で窓の外に目をやっている。
──まさか、本当にまさか、羽飛は。
ちゃんと何度も確認したつもりだった。
付き合う気持ちなどないはずと、念には念を入れたはずだった。
美里とは純粋に親友のままでいただけと信じていた。
──まさか俺は、羽飛の気持ちを読み違えたのか?
空のラムネ瓶を口に近づけ、貴史は空気を飲むような格好をしたまま黙っていた。
──まさか、羽飛は、清坂氏のことを、やはり。
まだ断言できなかった。動揺する様をごまかそうとしない貴史の態度は、確かな答えのように思えてならなかった。