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美里を見つめて硬直した関崎。
どういう状況になるか、予想はついていた。
──あとは羽飛がちょっと邪魔か。
どちらにしてもあとで貴史には、ゆっくり事情を説明しておかねばなるまい。
関崎ほどではないにしても、驚きは隠せないようだった。
以前から上総も、関崎に美里がほの字らしいことを匂わせてきたけれども、貴史には目だった反応などなかったし、おそらく古川こずえ的ポジションで接してくれることだろう。一応三年間過ごして来て、互いに気心も知れている。心配することもない。
上総はまず、冷蔵庫を覗き込んだ。さっき確認したラムネ瓶が並んでいた。
何本持っていこうか。
関崎にこれ以上炭酸飲料を飲ませて腹をふくれさせてもどうしようもない。
かといって、あの三人がどういう会話でもって間を持たせているかも謎だ。
これもおそらくだが、かなりかみ合わない会話じゃないだろうか。
さすがに上総も、いきなり割り込む気にはなれなかった。
──さて、清坂氏にはなんて言うか。
冷蔵庫の扉を閉め、背中をつけて天井を仰いだ。
息が上がり、シャツを通して伝わってくるひんやり感にしばらく目を閉じた。
家族以外の人間が三人も部屋の中にいる状況というのは、はっきり言って異常な状態でもある。もともと上総は友だちを部屋に入れるのが苦手だった。だんだん慣れてはきたけれど、今最高でも二人だったはずだ。なのに、よりによって今、美里を含めて三人が因縁のある会話を続けている。
腕を組み、足を絡めた。
──なんで俺がいきなり清坂氏を呼び出したのか、分かってないよな。
自分ではすでにどうことを運ぶか決めてカラオケボックスに電話をかけたつもりだったが、肝心要の美里がどう思っているのか、判断しがたかった。単に、規律委員同士友好を深めてほしいだけなのか、それとも好きな男子にアプローチできるチャンスとほくそ笑んでいるいるのか。貴史というお目付け役がいる以上派手な行動は慎むかもしれない。
そこまで考えて上総は、流し場のステンレスに両手をついた。
「そうだな」
はっきり言葉に出した。
「羽飛の前では、何も言えないよな」
今のところ、貴史は美里の恋に気付いていない。いや、気付いていたとしてもさほど大事とは思っていないはずだ。むしろ、B組で孤立しつつある美里の状況の方が気になってしかたあるまい。それが友情の境界線でもある。
──そうか、羽飛の前では、付き合う話になんて持っていけるわけがない。
美里が貴史に対してどういう感情を持っているのか、上総なりに一時期分析したことがある。まだ自分と付き合ってもらっていた頃のことだ。
最初から上総は、美里と貴史が両想いと思い込んでいたし、なぜ自分にアプローチされてしまったのかその理由も判断しかねていた。とはいえ、上総なりに思索を続けた結果、
──あのふたりは、恋愛沙汰で切れないような、永遠の友情を求め合っているんだ。
との結論に達した。そのために、仲介点としての上総が存在したということだろう。
つまり、三角形のバランスをうまくとることによって、美里と貴史は「男女の友情」を確固たるものに完成させようとしたわけだ。
それに気づいてからは、上総もあえてふたりに「お互い付き合えばいいのに」なんてことは言わなくなった。これぞ余計なおせっかいだ。
だが、しかし。
今回だけは、やはり確認しておきたかった。貴史にきっちりと、
──本当に清坂氏が他の男子を選んでも、後悔しないか?
と。
何度もしつこく確認した結果、貴史の台詞にある通り、
「美里なんかじゃ立たねえよ」
の一言で結論が出た。ならば、もうあとは、上総が美里を促すだけのことだ。
──元の交際相手が言うのもなんだけどな。
美里だって、最初上総の家へ来ることを躊躇していた。
上総とは「友だち」以上の何者でもない。
かつてはふたりきりの時を求められていたというのに、この切り替えの早さには恐れ入る。それが女子なのだから仕方ないとはわかっていても、背中に残った冷蔵庫のひんやり感のようなものが残る。
つまり、お目付け役の貴史がいなければ、もう美里は、「元交際相手」の上総の元へは単独で足を運ぶことなどないということだ。中学時代の激しい想いはもうとっくの昔に、ろうそくの火が燃え尽きるような形で終わっている。
ただ、美里がはたして上総の思惑を見抜いているかどうかは判断できない。
きっとそれはないだろう。
ただ、元交際相手だけにそれなりの気遣いはしているだろう。まかり間違っても元の交際相手を前に、新しい恋人を獲得すべく行動するとは思えない。
──たぶん、無理だろう。でも、清坂氏は今、関崎に向かってそうすべきだ。
上総はもう一度呟いた。ステンレスの放つ光が冷たく溶けて揺れた。
「俺が言うしか、ないか」
改めて冷蔵庫からラムネを一本取り出した。
事が済んでから、貴史としみじみ飲むのもいい。
部屋に戻った時、三人がかもし出していた空気はそれなりに和やかに感じられた。たぶん盛り上がったのだろう。関崎がさぞ頭を抱えたであろうことは、予想がつく。
貴史があきれた風に尋ねてきた。
「お前どこまで買いに行ったんだ?」
──よくわからないな。
質問に答える必要を感じない。上総はラムネ瓶をまず貴史の前に置いた。
美里が貴史をちらっと覗いて何か言いたそうな顔をしている。
指示は、上総から出す。
「清坂氏」
呼びかけてみた。美里は上総を不思議そうに見つめ、あっさり
「なあに」
「ちょっと」
返事した。甘く響くものはなにもない。手招きした。
「なんだろ」
ひまわり色のワンピースを揺らしながら立ち上がった。貴史のラムネ瓶をちらちら見るのは喉が渇いているからだろうか。まあいい。素早く呼び寄せ、まず美里の瞳を見つめ直した。
「なあに」
今度の「なあに」は、少しだけトーンが低かった。それに合わせて上総も声を低くした。小声で、できるだけ他のふたりには聞こえないようにしたつもりだった。
「これから関崎と一緒に帰れよ。それから」
よく聞き取れなかったのか、美里が顔を上総の喉元に近づけてきた。
「関崎に好きだと伝えておいで」
唇が震えているのがわかる。目を大きく見開いたまま今度は美里が硬直していた。
──そんなに驚かなくてもいいのに。
もう一度ゆっくり伝えた。
「今日はそのために、呼び寄せたんだ。だからこれから」
言いかけた途中で貴史が割り込んでくる。肝心要のことを言い切ろうとしている、いいところなのにタイミングが悪い。
「おいおいなに内緒話してるんだ? やらしいなあ」
悪いが本日のスペシャルゲストは美里だ。付き添いの貴史、および押しかけ野郎の関崎への対応は後回しになる。そう決まっている。
「関崎と一緒に帰れよ。そうしたらふたりきりになれるから、チャンスも作ること、できるだろ?」
声もなく、ただ美里は口を動かしていた。
横に唇の端を引いたような形で、顔を強張らせている。
「だって、そんな、いきなり! 立村くん、いったい何考えてるのよ! 私、そんなこと言われたって困る!」
「困らないよ。今までの清坂氏ならまっすぐ、そうしてきただろう?」
「そんなこと、決め付けないでよ!」
こんなに激しく動揺して食って掛かる美里を見るのは久しぶりだった。中学時代の修羅場を思い出すたび、美里の感情をぶつけられて逃げ出していた自分の幼さに笑いたくなる。押し付けられる気持ちが重すぎて、これ以上話したくない、だから走って逃げ出した。
でも、今ならわかる。あれが美里なのだ。ひまわりの花のように、すっくと立って太陽の光を浴びている、一番似あう姿だ。
B組で女子たちから無視されて、しかたなく別の教室に避難して愚痴っているような梅雨空の明けない日々を過ごす美里は、上総にとっては違いすぎる。
もっと怒鳴ればいい、もっと叫べばいい、そのまま走ればいい。
関崎がどういう意志を伝えようとも関係ない。美里が確かなる美里に復活するためならば、上総は元の恋人だったプライドをさっさと捨てられる。
「だって、そんなことできるわけないじゃない! だって立村くん、そんなことなんで言うの? いくらなんでも私、そこまで人間として腐ってないよ。私、立村くんの前でそんなことできるわけないじゃない!」
小声でのやり取りを関崎は聞き取っているだろうか。
何を意味しているか、理解しているだろうか。
「俺と付き合ったことがあるからか?」
はっきり尋ねてみると、美里は言葉をとぎらせつつもう一度繰り返した。
「だって立村くん、そんなこと」
「だからこそ、だよ、付き合い相手だったからなおのこと」
関崎を見据えた。様子を見守っているだけだった。もう無理やり家からたたき出すしかなさそうだ。夏の陽射しに焼かれて、芯まで焦げろ、そう願った。
「俺しか言えないだろ!」
聞かれたっていい。上総ははっきり言い切った。関崎の方に美里を振り向かせ、そのまま触れずに指し示した。
「関崎、話は終わった。清坂さんを家まで送ってくれ」
あとは関崎に任せる。今、美里を大輪のひまわりとして咲かせるには、関崎の存在が必要だと、元交際相手の上総は確信していた。
貴史が立ち上がった。上総の前に立ちはだかった。
「立村お前、何を考えてるんだよおいおい、美里も一緒に連れて来いとか言ってたくせに」
すっかり視界の外に追いやっていたせいか、奴の存在を忘れていた。だがもっともだ。美里のお目付け役にはせ参じた貴史にとってこの展開は想像を絶するものかもしれない。きっと話せばわかってくれるだろう。
「これから話す」
貴史相手にはゆっくり説明するつもりだった。もうすでに邪魔者は関崎のみ。
「清坂さんと一緒に帰ってくれ」
促すが、関崎は重々しく、分かりやすい質問を投げかけてきた。
「なぜだ」
なぜ、は簡単だが答えるには難しい問いの言葉、疑問詞だ。あっさり答えた。
「関崎と話は終わった。清坂さんがお前に話があるそうだ」
しつこく食い下がる関崎をあしらうのは骨が折れる。
「俺はまだ言いたいことがあるが」
何をこれ以上説教したいのだろうか。もうたくさんだ。関崎の、上総に対する二学期以降へのお説教はもううんざりだ。
「夏休み後でもいいだろう。とにかく、今は一緒に出ていってくれ」
「その言い方はないだろう? お前の方から引き止めておいてだ」
「今から羽飛と話をする。聞かれるのはまずいんだ。だから」
暫くぶつかりあった。関崎と話をすると、どんなことを言い返しても終わらない。
側で貴史が「何が理由なんだよ、おい」懸命に問い掛けるのを無視したままでいた。
突破口を開いたのは美里の言葉だった。凛と響いた。
「関崎くん、話があるの。一緒に帰ろう」
──あ、戻った。
貴史がまたおろおろしながら美里に問いかけている。
なぜそんなに慌てているのだろう。
一緒に喜ぶべきだ。
高校に入ってから輝きを失った美里が今、脱皮しようとしている姿なのに。
どうして貴史は気付かないのだろうか。あまりにも近すぎたからだろうか。
好きなら好き、裏表なくぶつかるその美里が戻ってきたのに。
「美里、お前も何を」
「あとで説明するよ。貴史ごめん」
まっすぐ関崎を見据え、美里は戸を開いた。
廊下から、だるまのような丸いかたまった空気が転がり込んできた。暑くはないが、もやっとする。上総はまず関崎を観やり、次に美里、ついでにしつこく問い詰めようとしている貴史の醜態をも観察した。とにかく説明の時間が必要だということだけは理解した。
もう一度、関崎に向かい伝えた。
「話を、聞いてやってくれ」
小声で囁いただけなので、果たして関崎に聞こえていたかどうかはわからない。押し出さないと動きそうにないので、腕を取った。さっさと玄関で靴を履いている美里の側に連れて行った。でかいスニーカーがでんと玄関のたたきに陣取っている。
万事休すといった風に関崎がかがみこむ。その側で、すでに靴を履いた後の美里がじっと上総を射るような瞳で、立っていた。
「立村くん、ごめんね」
一瞬言葉を切った。
「ありがとう」
まっすぐな眼差しが、上総の瞳をも貫こうとしたかのようだった。
大きな瞳の奥には、確かな決意の色も読むことができる。
──清坂氏、関崎はきっといい返事はくれない。けどさ。
今の美里をいいかげんに扱うことのできる男子は、いない。
確固たる価値のある美里を、その通りに扱ってくれるだろう。
心の深みにある一点を射す。その瞳を今の美里は供えている。
──中学時代と同じ目を、だ。
それさえ取り戻せば、もう大丈夫だ。
不承不承といった感じの関崎と、しゃんと背を伸ばした美里を玄関で見送った後、上総は部屋に戻った。貴史が部屋から出てこなかったのだけが気がかりだった。
「羽飛、悪かった、あのさ」
話し掛けながら戸を開け、ラムネ瓶に目を向けた。
──羽飛?
コルクの抜けたラムネ瓶が横向きに転がっていた。当然、空だった。。
貴史は自分で抜いたコルクをかじりながら待ち受けていた。