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上総がだんまりを決め込んでいたのは、元担任のあたたかい打ち明け話に感動していたからだ。おめでたさ腹いっぱいの菱本先生にわざわざ自宅まで車にて送っていただいた。お礼を言わねばならないのが吐き気するほどむかつくが、人間としての礼儀だ、しかたない。
「ありがとうございました」
「夏休みはいい機会だ。直々羽飛から、同窓会の誘いが来るだろう。お前も来るな」
首がちぎれるほど横に振りたかったが、これも恩師に対してすべきことではない。あえて耐えた。
「じゃあな、今度遊びに来いよ」
──それはあんたの葬式だ。
毒を身体から発散しない自分の顔、これぞポーカーフェイス。
車が走り去った後上総は、すぐに台所へ直行し、氷皿半分の氷を一気に口へ放り込んだ。
むりやり噛み砕いた。
菱本先生がなぜ、いきなり、両親と麻生先生との間に結ばれた秘密を暴露したのかそのあたりが解せない。本当なら卒業までとことん騙してくれればよかったのだ。そうすれば上総も一切反応することなく、麻生先生を無視することができただろう。もともと担任教師なんてどうだっていい存在だ。菱本先生のように無理やり心へ割り込んでこられるようなことをされるよりは何万倍もましだ。
──しかし、うちの親にはどう言い訳するつもりなんだ?
飲み込んだ氷の冷たい喉越しに、少しずつ理性を取り戻す。部屋に戻り、制服を脱ぎ捨てた。そのままベッドに横になる。
──種明かしをした以上は、報告するよな。
少なくとも隠しておく意味などない。もうばれてしまった以上、麻生先生はわざとらしい非情教師の仮面を被る必要はないわけだ。母の指示に従って、本来心温かい中年教師の笑顔を封じてきただけなのだから、当然だ。
夏休み中にうまく自分の心を整理して、二学期以降笑顔で英語科一年A組に居座れとのお達しだろうか。たまたま見つけておせっかい焼きの菱本先生の本能が炸裂したのか。その辺は想像しない限りわからない。
ただ、はっきりしているのは、
──その手には乗らない。
上総の確固たる決意、そのものだけだ。
しばらくまどろんでいた。味はともかく満腹感だけは味わえる食事だったこともあり、自然と瞼が重くなる。宿題はたんまりだが、夏休み前日にさっそく手をつけるほど上総は優等生ではない。考えないですむ方法はただひとつ、ひたすら眠ることだけだ。できれば夢も見たくはない。
やわらかい発信音が、窓辺から聞こえてきた。
普段なら部屋の戸を締めっぱなしにしているので、居間からの音は聞こえてこないのだが、窓を思いっきり開けているせいかかすかに響いてくる。
──電話か。
シャツ一枚でまずは起き上がり、受話器を取った。
「はい」
時計を見あげると、まだ二時を回ったばかり。ということはまだ、三十分しか寝ていないということになる。
──立村か? 関崎だ。
太い声が、背後から響く風のような物音を押しつぶすように聞こえてくる。中途半端な睡眠だとやはり、頭がうまく働かない。一度頭の中で相手の発言を繰り返し、確認する。
「関崎か」
──そうだ。
「何か用か」
クラスメートの関崎という「事実」は理解できる。用事があるからかけてきたのだろう。電話線は繋がっていても熱せられた頭の回線がまだ届いていない。
──お前と直接話がしたい。
「いきなり言われても」
思わず言葉が飛び出した。一方的な要求を突きつけてくるのはなぜなのか。思考の準備が整っていないうちに重たい言葉を押し付けてほしくない。今、話したいのなら電話でもいいだろう。忘れ物でもしたのか、それとも青大附高の宿題量に恐れをなしたのか。
上総の返事を全く聞いていないと見える。関崎はとつとつと要求を突きつけてきた。
──いや、お前の家の側まで来ている。
家の側というのは、つまり品山に、ということか。
たまたま用事があって来たというわけではなさそうだ。だんだん口を動かしていくうちに、状況が飲み込めてきた。これは今までの関崎行動パターンに沿った、本能での押しかけ要求に違いない。予約なしで飛び込んでくるという、非常に迷惑極まりない行動だが、関崎の中では「友情の現れ」と解釈されているのだろう。
──この前のカラオケボックスの近くまで自転車で来た。だから、これからお前の家に行きたい。住所録は持っている。
住所録を持っていることと、家に押しかけることとイコールになるのだろうか。
おそらく関崎の考えではそうなのだろう。
非常識じゃないかと文句を言いたいところだが、似たようなことを別の相手に対してしたことのある上総にはつっぱねられない。誰とは言わないがたとえば、杉本梨南とか。
過去の行動に戒められつつ、上総は答えた。
「来るのは構わないが」
それしか言いようがない。間髪入れず、関崎が重々しく返事をした。
──わかった。じゃあ今から行く。
もうこういう場合、諦めるしかない。受け入れるしかない。別に上総は関崎が嫌いなわけでもないし、露骨に縁を切りたいとも思っていない。ただ、適度な距離がほしいだけなのだが、そのあたりを理解してもらうには外部生という壁が高くそびえているこの現状。
だがしかし、住所録だけで本当にたどり着けると思っているのだろうか。
念のために尋ねてみる。
「ただ、行き方本当にわかるのか?」
やはり速攻で関崎は答えた。
──品山駅まで行くが、そこまで迎えに来てもらえるとありがたい。
「わかった」
読み通りだ。少しだけ溜飲が下がった。「青潟の秘境」と一部生徒から揶揄されている品山地区をなめてもらっては困る。いくらスーパー外部生頭脳の関崎であっても、そうやすやすと上総のホームタウンを我が物顔で歩いてもらいたくはない。いや、歩けるわけがない。
あまりだらしない格好で外に出るのもいやなので、水色のパーカーをひっぱり出して羽織った。暑くても腕をさらしたまま歩くことに、なんとなく抵抗があるのは昔からのこと。自転車で日陰の多い道を探して走った。コンクリートで固められた道の方が早く駅に到着するのはわかっている。急いでいたらもちろんそちらを選ぶだろう。
──関崎は何を考えているんだろうか。
時間をかけてゆっくり漕いでみる。
──俺の顔を見て、何を話すつもりなんだろう。
全く想像していないわけではなかった。
考えられるとすればまずは、麻生先生に追試の際言われたこと、
──後期評議委員に選ばれる予定の関崎に付き従い、僕になれ。
その旨、当の本人関崎から申し渡されるのかもしれない。
もしくはその流れにおいて、規律委員に押し込もうとかそういったことを考えているのかもしれない。藤沖が応援団結成のため評議委員を降り、その後釜に関崎が入るとなると当然、規律委員の座が空席となる。そこに収まって服装検査やら季刊誌の「青大附高ファッションブック」を編集するのか、その辺を勧めようとしているのか。
──もちろん、規律委員会が悪いわけではない。知り合いもいるし。
南雲もいるし美里もいる。まあ、東堂についてはこれから少し考える必要はあるだろうが、少なくとも居心地の悪い場所ではなさそうだ。
だがこうやって陰から手を回されることをありがたく思えるほど、今の上総は人間ができてはいないのも事実だった。ただでさえ、猛烈に脳内が沸騰している状態の今、関崎に何を話せというのだろう。いや、何を聞けと言うのだろう。
駅前に到着した。
昼下がり、鈍行しか止まらない駅前。繁華街などもちろんなく、いかにも家に戻っていない学校帰りの男子高校生連中がたむろっているだけだ。一応、品山駅前にはファーストフード店が一軒建っているので、自然とそこがたまり場となる。上総は決して立ち寄ったりしなかった。小学校時代の同級生と顔を合わせる可能性もあるしそれ以上に青大附属の制服を着ているだけでガンつけられないとも限らない。危うきに近寄りたくはなかった。
まず駅前脇の自転車置き場に無理やり滑り込ませ、駅の入り口に向かった。戸は開け放たれていた。汽車が通り過ぎた後なのか、人気はあまりなかった。誰か降りていれば、すぐに見つかるはず。
待合室を見渡すと、背を向けたまま自動販売機を眺めている男子がいる。
白いTシャツに、デニムジーンズのさっぱりした格好で首をひねっている。
──喉が渇いたのか。
学校から直行したわけではなさそうだ。てっきりジュース一本買うつもりなのかと思いきや、考え直したのかいきなり男子トイレへ向かおうとする。時間つぶしのつもりなのか見当もつかない。とりあえず上総は直感に任せて一本、コーラのボタンを押した。缶ではなく、瓶で買うことにした。
派手な音。すぐに取り出し、立ち止まった男子の背に呼びかけた。
「関崎、これ」
振り返った関崎に、上総は瓶を差し出した。最初に上総の顔を、次にコーラ瓶へ目を移し、関崎は黙って受け取った。すぐに礼を言われた。
「ありがとう」
この男、とにかく礼儀はきちんとしている。何かがあると必ず礼を欠かさない。
──確か、杉本にも、葉牡丹を受け取った時、礼を言ったらしいな。
隣に腰掛け、コーラ瓶の口を開け、一気に煽った。炭酸なのにがぶ飲み平気のようだ。
口を片手で拭い、上総に手渡そうとする。まだ半分ほど残っている。白い泡がたっている。
「お前も飲めよ」
「いい、いらない」
きっぱり断ってしまい、あわてて訂正しておいた。誤解は避けたい。
「人が口をつけたもの、食べたり飲んだりするの、苦手なんだ。いや、別に、関崎が汚いとかそういうわけじゃない」
「だいたい想像はつく。わかった。全部飲ませてもらう」
気を悪くした風でもなく、関崎は穏やかにその半分を飲み乾した。
「この時間はあまり人がいないのか」
「この駅からは、あまり乗らない。急行の停まる本品山駅まで自転車で行ってそこから乗るパターンなんだ」
人気のない駅を不思議に感じたのか、関崎が質問してくる。
ごもっともだ。簡単に説明をしておくと納得したのか、しばらく黙って瓶の口をなめていた。自転車をどこに置いてきたのかそれとも汽車で来たのか、その辺がわからない。まだ顔が赤らんでいるところみると、おそらく自転車だろう。かなり根性かけて漕いできたのだろう。ご苦労なことである。
──けど本当に、なぜ来たんだろう。
わざわざ、こんな品山くんだりまでよくも、がんばって漕いできたものだ。
もちろん質問されたら答えるしかない。だが、最初から不利な体制のままお人よしの顔をするつもりもない。まずは、こちらから様子を伺ってみるのが得策だろう。本条先輩からの教えでもある。
──まずは、先手を打て。ジャブを繰り出せ。その後、相手の要求をうかがえ。
本条先輩の言葉は、上総にとってバイブルだ。当然、それに従わせていただく。
「関崎」
「なんだ」
呼びかけると関崎は、瓶を両手で持ち、心なしかほっとした顔を見せた。
「聞いていいか」
「ああ」
「関崎はこの前の、あの女子と、付き合っているのか」
地面にとんがった音が響いた。鈍音だった。慌てて関崎が腰をあげ、コーラ瓶を拾っている。初対面の時から関崎乙彦という奴は、きわめて分かりやすい感情表現をする男だった。
手を差し伸べ、コーラ瓶を受け取った。
どうやら、最初のジャブは急所を直撃したようだ。先手必勝、本条先輩はやっぱり正しい。
座り直し、関崎は耳を火照らせたまま問い返した。
「あの女子というのは、誰のことだ」
「視聴覚教室で、隣にいた、B組の」
上総はそこで言葉を切った。
やはり本条先輩のお言葉その二だ。
──露骨に答えを言うな。様子見段階では匂わせろ。もし答えが外れていたら一気に相手が有利になっちまう。確信するまでは小出しにしろ。
関崎の見事ゆでダコ状態を見れば、露骨に言い切ってしまってもいいような気がするが、やはり本条先輩の教えは守るべきだと思う。
「付き合ってはいない。いないが、友だちだ」
「本当に、それだけか」
「ない。あいつは面白い、いい奴だ」
「あいつ、か」
もう答えは出ているのに、なぜ隠すのだろう。
第一、女子に対して「あいつ」などという二人称を使うこと自体が、答えだ。気付いていないのか関崎は、露骨に言い訳をする。
「別に青大附属では珍しくないだろう、そういう友だち関係は」
「そうだな、確かに」
「なら、これから先、付き合うつもりはあるのか」
「わからん」
曖昧な答えを、きっぱり答える関崎。ここで手を引くつもりは全くない。
藤沖も早い段階で、関崎の恋人候補として挙げていた。
その女子の名をあえて出さずに問いつづける。
「なぜ、そう思う?」
「先のことはわからないからだ」
やはり優柔不断な台詞だが、即答する。そこまで言い切れる根拠とはどこにあるのかわからない。どう次の一手を繰り出していけばいいのだろう。汗がこめかみに滲んでくる。
──何が、先のことはわからない、だよ。そのくせ杉本に対しては。
考える間もなく、次の言葉がこぼれてしまった。脳のどこかが緩んでしまったようだった。
「なら、杉本とこれから先」
言いかけた瞬間、言い切ることを許さない勢いで拒否された。
「ない、去年の二月に話したことは、変わっていない」
「先のことはわからないだろう?」
「わからないが、これは俺の確信だ」
頬の辺りに何か、鋭くちくちく刺してくる感覚が走る。蚊に刺されたのだろうか。かゆみはない。横目で関崎がじっとにらみつけてくるのだけ感じた。
「そうか。杉本に対しては、変わらないのか」
「それは去年話したはずだ」
関崎があらゆる言葉でもって、何度も自分をあきらめさせようとしていたことを、上総は決して知らないわけではなかった。わかっている。でも、杉本は諦めていない。屈辱をも、関崎から受け入れられることを信じることによって乗り越えている。
その力を与えられるのが今は、関崎だけだ。
どんなに関崎のスペースに杉本梨南の居場所が存在しないとしても、「可能性あり」のランプがついている限りは諦めずに生きていける、杉本梨南にとっての関崎はそういう存在だった。
──杉本にとって価値のある奴からでないと、命綱にはならないんだ。ただの、蜘蛛の糸でしかないんだ。
どんなに上総が心を砕いたとて、杉本にとっては役に立たない。
上総の与えた言葉をすべて集めても、関崎の「信じている」という言葉にはかなわないのだ。
それと同じく、関崎が「受け入れてくれる」という可能性を信じることにより、杉本は来年三月の公立高校入試に向けてがんばることができるのだろう。
たったひとつの命綱が自然と断ち切られようとしている。関崎が誰と付き合おうともちろんそれは自由だし、杉本の想いを受け入れられないというのも当然のこと。だが、その願いが受け入れられないという事実を、今の段階で気付かせてしまったらおそらく杉本は木っ端微塵に壊れるだろう。
さっき、関崎が落っことしたコーラ瓶と同じくらいの強度を、杉本が持っていると思ったら大間違いだ。どんなに理不尽と分かっていても、伝えずにはいられない。それしか上総にはできることがみつからなかった。
「俺が関崎にこんなことを頼むのは、間違っているかもしれない。だが、頼む」
上総は瓶を足元に置いた。
「これから先、お前が誰か他の女子と付き合った場合、できる範囲でいい、杉本の前に見せないような付き合いにしてくれないか」
さすがに「付き合うのをやめろ」という権限がないのは、上総も承知していた。
特に表情も変えず、関崎はたんたんと問い返した。
「前に見せられないとはどういうことだ?」
何度も繰り返した説明を、またここで語らねばならない。
「杉本は、来年の三月で青大附属から出て行く。予定通り、公立高校試験を受験して、他の学校に進学するはずだ。もう青大附属には戻ってこない。でもせめて、公立の試験が終わるまでの間、杉本をこれ以上不安にさせたくない」
一気に言い切った。すでに台詞と化したその言葉がどう響いたかを知りたい。
「どこの高校を受けるんだ」
「青潟東。本条先輩の進学先だ」
「立村、つまり俺に来年の三月まで、静内と付き合うなと言いたいのか」
関崎は、彼女の苗字を今日初めて、口にした。
──まずい、本気か。
警報ランプが点滅する瞬間、頭上に衝撃が走った。思いっきり叩かれた。関崎は鼻まで紅潮させ、立ち上がり外を指した。
「ちょっと来い! 外で話すぞ!」
完全に激昂させてしまった。ジャブのつもりが急所を直撃してしまったようだ。
ここは人気のある場所にて冷静にさせたほうがいい。うっかり外で、あの高校生連中の前で修羅場になってしまったらしゃれにならない。本条先輩の教えその三、
──相手がぶっちぎれたら、とにかく自分のホームから動くな。少しでも落ち着かせてか次に進め。これはな、女も一緒だぞ。まずは宥めることだぞ。いいな。
「いや、外はまずい」
落ちついて交わすつもりだった。だが関崎の怒りは収まる気配がない。
「こんな薄暗いところで話していたら、いつまでたっても埒が明かないだろうが!」
──やはりこいつにとって静内さんという人は。
上総は確信した。
「話をするだけだ。お前がなんでいきなり、静内に対してわけのわからないことを言ったのか、その理由を論理だてて聞きたいだけだ」
腕をひっぱられ、強引に立たされ、引きずり出されながら答えを受け入れた。
──特別な人なんだな。
あの、視聴覚教室内で見た時、杉本の様子に動揺した静内さんという人の気持ちを推し量ればおそらくそういうことなのだろう。
あとは時間の問題と笑っていた藤沖の言葉もさもありなんだろう。
このままでは、自動的に、誰からも応援される外部生カップルが誕生する。
同時に、ひとりぷっつり救いの糸を断ち切られ、すべてを失う女子が現れる。
どんなに代用品を用意してもどうにもならない。
上総自身が、杉本にとって関崎の代用品になんてならないことくらい、最初から分かりきっていること。そんなことを考えることすらおこがましい。
──だったら、どうする?
上総の脳裏には、巨大なタイムウオッチの針が回り始める様子がはっきりと映っていた。
──先の一手を俺は、どう打っていけばいいんですか。本条先輩。
さすがの本条先輩も、そこから先のノウハウは教えてくれたためしがなかった。