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中学校舎へ移動する間に、上総の中から水分は完全に搾り取られていたようだった。できるだけ涼しい道を選んで歩いたつもりだったが、自転車という子分を面倒みなくてはならない以上体力を消耗してしまったようだ。
──暑いな。
ありふれた一言を思いつつ、上総は中学校舎の自転車置き場へまず向かった。突き当たりの窓からよく出入りしたものだと、正面から校舎一階の大きな窓を眺めた。大きく開け放たれているし、もぐりこもうと思えばたやすくできるだろう。そうしないのは、うっかり知り合いの誰か……まずは中学の教師たち、および生徒会連中、杉本梨南や霧島たち……と顔を合わせたら最後、何を言われるかわからないからだ。当然のことだ。
かといって、職員玄関にへこへこ歩いて、来客名簿にサインするのも面倒だ。
夏休み中に洗濯するため、上履きを持ち帰っておいたのは正解だった。上総は中学生徒玄関から突入することにした。目的はひとつ、杉本梨南を捕らえるためだ。
──用事があるのだから、当然、会いにきたっておかしくないはずだ。
きっぱり心で断言した。
──藤沖は渋谷さんのことがさぞ心配なんだろう。今だに付き添い続けているんだからな。難波も本当によくやると感心するよ。中学時代はあれだけ罵倒しあっていたのにな。
恋愛感情という把握しきれないものを通じて行動している二人の男子に驚く。それも一切甘い世界とは縁のなさそうな奴らだったのに、ふとしたきっかけでいきなり踊り出してしまう、それが奇妙だった。
ただ一緒に語りたい、側で励ましたい、上総が杉本梨南に望むものはそれだけだった。とりつかれたかのようにべたべた張り付いていたいとかそういうわけではない。なのにこずえを代表とする附属中学出身者軍団は、「立村は嫌われ者女子に魂を抜かれている」などとほざくのだ。非常に、心外だ。
久しぶりに歩く生徒玄関までの砂利道を、上総はふらつきつつ進んだ。
──杉本の今の状況を確認しておく義務だって、俺にはある。あの問題に付き合った立場としては当然だよな。
繰り返し、言い聞かせる。
どうも藤沖と同じような扱いをされることに、上総は耐えられないものを感じていた。例の事件を通してそれぞれの後輩思いが溢れたわけだが、どうしても藤沖と渋谷名美子のカップル……あえて「カップル」とかぎかっこをつけたいくらい……と同一視されたくない気持ちが見え隠れしていた。
──あのふたりはやることやってるんだからしょうがないのかもしれないけどさ。
昼間思うべきではない言葉が浮かび、慌てて消した。
──けど、あいつらのせいで杉本がとばっちりを食ってるってわけなんだ。一応、藤沖付き添いのもと佐賀さんがあやまって、杉本は溜飲下げたみたいだけどさ。でも、言い訳を今後一切しない以上、杉本は結局、事件の犯人扱いされて青大附中を追い出されるんだ。
ちゃんと、今日これから、杉本梨南を探して会う理由は、ある。
──まだ教室にいるかな。それとも中庭かな。
なぜか「帰ったのかな」とは思わなかった。自分の勘には信頼を置いている。少なくとも杉本梨南に関しては、だが。
上総以外にも数人、高校生や大学生の姿を見かけた。
以前はあまり出入りすることなかったはずなのだが、上総の代が卒業したあたりから中学との交流が活発になってきたようだった。もし本条先輩が公立に進まず青大附高へ進学していたらまた、話は別だったかもしれない。中学生が大学にもぐりこむのは日常だったけれども、高校へは何故か足を運んではいけないようなムードもあったし、これも時代の流れなのだろう。
──杉本、いるかな。
一度、ぐるりと見渡してみる。一階廊下、あとは図書館。思い当たる場所をしらみつぶしに当たってみようかと思い立つ。その一方、二階の生徒会室付近には近寄りたくないという本音も隠れている。さて、どの階段から昇ろうか。階段踊り場の窓を見上げ考え込んでいたら、いきなり右肩が重くなった。
──誰かいるのか?
振り返った。全身に張り付いていた汗が瞬間、凍った。
「……あ、あの」
死んでも目の前でにやりとしているこの男を、「先生」とは呼びたくない。
冗談じゃない。なぜ、天敵・菱本が上総の肩に手を置いて、微笑んでいるのだろうか。
「よお、立村、久しぶりだな。元気か」
「お久しぶりです」
夏の風、身体は氷柱。同じく強張った返事をするのみだった。卒業式後、もう二度と顔を合わせたくないと思っていた、うっとおしい熱血男。三年間担任が変わらないという青大附中の制度を無理やりにでも改正させたくなった理由がこの男だ。上総以外の連中からすると、極めて生徒思いの暖かいハートの持ち主で、全く何を考えているか分からない狩野先生と比較して人気度もかなり高いという。そいつらには喜んで自分のクラス籍を譲ってやりたいとかねがね思っていたものだった。しかも最後の最後、卒業式の英語答辞を巡るどたばた劇には、正真正銘の殺意を感じたものだった。あの瞬間、上総がマイクを直球で壇上から菱本先生に命中させてやっても、きっと後悔はしなかっただろう。
──見たくない奴に会ってしまったか。
でも大丈夫。ちゃんと用事があるから抜け出せばいい。
「用事がありますので、失礼します」
「ああ待て待て。もうお前の彼女は帰ったぞ」
──彼女?
とっくに血色なんて上総の顔から失せているだろう。
いくらなんでも「彼女」という言葉を教師たるもの、口に出してよいものか。
生徒にもプライバシーというものがあるはずだ。いやその前に、決め付けるような浅はかさにあきれ返る。いったい誰を意味しているのか。問い詰めてやりたい。
白いワイシャツにカーデガンを肩から羽織り、下手したら大学生のような顔つきで菱本先生は続けた。
「今日は、早めに終業式が終わったんだ。その後、希望者は午後から講習会に参加することになっている。学外のセンターで模擬試験を受けることになっているんだ」
──杉本、そんなこと何にも話してなかったぞ?
唇を動かしている自分に気付く。菱本先生は調子よく語りつづける。
「今年からな、できるだけ公立高校向けの模擬試験を力試し用に受けさせるよう三年たちに勧めているんだ。附属高校に進学することが決まっていても自分の順位が青潟内でどのくらいの位置にあるのかをチェックしておくのは必要だしな。また、将来の進路について考えるきっかけにもなる。ということでだ、お前の大好きな杉本はそちらに参加しているはずだ」
──お前の大好きな? この男、全く成長してないな。
いつも菱本先生と対峙する時、片手のこぶしが大きくなる。
振り上げてぶん殴れば、こぶしもしっかり解放されるだろう。
しかしそれができないのは上総のモラル意識がしっかりしているからのこと。
──日本に、殺人許可証がないのが残念だと、これほど思ったことはない。
無理にでも静かに押し込めて思わざるを得ない。
側に貴史でもいれば知らん振りして背を向けて去ることができただろうに、よりによって今日は一人だ。すれ違った他の高校生、大学生も残念ながら上総との付き合いは全くない。
「いい機会だ、時間はあるだろう。ちょいと付き合え。車で連れて行きたいところがある」
万事休す。どうやら菱本先生は本日、終業式にも関わらず早めに帰る予定らしい。手には大きなショルダーバックの紐がぶら下がっていた。
「いえ、僕は用が」
「いや、いいだろう? 俺も今日は早上がりだ。いい機会だし品山まで乗っていけ」
「いえ、僕は別に結構です。自転車なので」
「こんなくそ暑い中、自転車で品山まで漕ぐのはしんどいだろう。つべこべ言わず、まずは付き合え!」
もう一度、今度は両肩に暑苦しいおもりがどすんときた。
──こいつの両手には、鉛が埋め込まれているのかよ!
袋のねずみ、その言葉を上総は思い出した。
確かに楽ではある。何度か逃げるチャンスを伺おうとしたが、さすがに菱本先生、上総とのバトルに慣れっこになっているのか、決して手を緩めようとしない。気がつけばあっという間に深い緑色の車前に連れ出され、トランクに自転車を詰め込まれ、最後には助手席に座らせられる羽目となった。本意ではない。
すっかり熱せられた車内には、ガソリン臭さと蒸し風呂臭さとが同居している。煙草臭さだけはなかったのが救いだ。一発で酔っ払うだろう。それでも唇をかみ締め耐えるしかないのもまた事実。上総は窓を開けて無理やり外の空気を吸った。クーラーをかけようとはしなかった。
「どうだ、高校には慣れたか?」
──十分俺の噂は伝わってるだろう?
「なんとかやってます」
無難な言葉でごまかした。鼻歌歌いながら菱本先生はさらなる質問を繰り出してくる。
「羽飛と清坂がこの前うちに来てな、お前のこと心配してたぞ」
──やっぱりあいつら余計なこと言いやがったのか!
一応、貴史からその報告は受けている。確か同窓会を企んでいるとか聞いた。何も触れずにすむことはないだろうと思っていたので、上総を話の肴にされたことに関しては甘んじて受けようと思う。しかし、なぜこうも、勝ち誇ったような尋ね方をするのかが理解できない。
「相変わらずクールに構えるのもいいが、もう少し気持ちをクラスメートにぶつけたらどうなんだ? 話によると、お前のことを応援している同級生がいるようだな。確か、ほら、公立から来たという、なあ」
──なにが「なあ」だよ。
誰を指しているのかはいやでもわかる。それよりも驚いたのは、なぜ外部生の関崎についてこうも情報が早く回っているかということだった。信じられない話だ。中学と高校とでは、情報交換がかなり盛んなのだろうか。当然かもしれないが意外でもある。気を付けたほうがよさそうだ。
気持ちを引き締め外を眺めていると、いつのまにか品山の国道沿いまでいたのに気付いた。自転車よりももちろん早い。ゆっくりスピードを落とし、ロードサイドのファミリーレストラン駐車場に車を留めた。びっちり込み合っているように見えるが、それでもかろうじて場所を押さえることはできた。
「まあいい、食えよ。遠慮すんな。立村とは卒業式の後もう少し話をしたかったんだが、さっさと帰っちまったからなあ」
──永遠に話したくなかったからだよ。
罵倒許可証を所持していない上総には、さすがにそこまで口に出せない。
一礼して車から降り、胃の重たい状態で店に入った。一階のみのかなり広いファミリーレストランのようだった。親子連れが殆どだったが、極めて運のいいことに窓際の席がちょうど入れ違いで空いていた。すぐに案内された。
「俺はなあ、運がいいんだよ、どんなに混んでいる店でもな、俺が行くとすぐに座れるんだ」
──何がそう自慢してるんだか。
上総は黙って案内された席に腰を下ろした。昼ご飯を食べていないので当然空腹のはずなのだが、車に揺られたせいか食欲が失せている。一方的に菱本先生がステーキ定食を二人前注文したのは何か嫌がらせでもしたいのだろうか。教師運最悪の上総には、不愉快きわまりない。じりじりに熱い鉄板のまま、顔に押し付けてやろうかとすら思ってしまう。
「いやー、腹、減ったよなあ」
あえて答えず、水だけ飲んだ。
「喉も渇くよな。そうだ、立村、どうだ。麻生先生がお前のことを心配してたぞ、入学してからすっかり元気を無くしていて、大丈夫だろうかってな」
──麻生先生? ああ、第二の天敵か。
黙って顔を見るだけにつとめた。そこまで中学と高校の情報交流が行われているのならば、さぞろくでもない情報が集まっているのだろう。上総が言い訳したところでどつぼに嵌るのがおちだろう。能面をかぶってやろうと思う。
「オリエンテーション後にもな、にお前の父さん母さんと、麻生先生と、俺と四人で話をしたんだがな、全員なんとしてもお前に素晴らしい三年間を与えてやりたいという点で一致したんだ。まあ、その後は麻生先生がいろいろと気遣ってくれているようだが」
──何考えてるんだ?
一言、それにつきる。上総はコップの水を飲み乾した。ウェートレスがすぐに水を足してくれた。まだステーキランチは来ない。こう言ってはなんだが、菱本先生が勝手にメニューを選んだ以上、ここの食事代はおごってくれるものと解釈していいのだろうか。
ざわめく子どもたちのおしゃべりが店内のBGMと入り混じり、ちょうどいい厚手のカーテンとして遮断されている。だから菱本先生も遠慮なく喋りつづけられるのだろう。
「立村、この前、羽飛からも聞いたが、お前は麻生先生のことを誤解しているんじゃないか?」
答えない上総に業を煮やしたのか、菱本先生はお得意のお説教をとくとく語り始めた。別に誤解しているつもりはない。ただ事実、上総のことをあの先生は露骨に無視している、とただそれだけのことだ。
「いえ、してません」
「いや、確かになあ、麻生先生も思い悩んでいると思うぞ」
信じ難い言葉を平気で言い放つ菱本先生を、上総は完璧に軽蔑目線で見据えた。
貴史がいったい何を吹き込んだのかはわからない。聞き出そうとも思わない。また貴史に上総が、麻生先生について愚痴ったことがないわけではない。教師運の悪さを呪っただけだが、やはり貴史からするといろいろ考えることもあったに違いない。
悪いが、上総は菱本先生のことも三年間、ありのまま観察して来て、思いっきり嫌いになった、ただそだけのことだ。
「いい機会だから話しておくが、麻生先生がな、なぜお前に対して厳しいのか、その理由はひとつなんだ」
──浪人回しをするなとか、英語の能力だけで威張るなとか、さんざん嫌がらせしておいてか?
もちろん尋ねることはせず、上総は菱本先生の鼻だけにらみつけていた。
すっと二人の前に、ライス皿とじゅるじゅる騒いでいるステーキの盛り合わせが差し出された。相手に互いひとこと断ることもなく、すぐにナイフとフォークを脇の籠から取り出した。まずは肉を一切れ切り刻み口に押し込むと、さっきまで車酔いの感覚が残っていたにも関わらず、すぐにすっきり消えた。食べたとたん、空腹だと気付いた。
「麻生先生はな、お前の御両親から、厳しくしてほしいと頼まれているんだ。これもすべて、お前への愛情から出たことなんだ。きっと麻生先生は卒業まで言うこともないだろうが、俺が説明する分には問題もなかろう。ほら、熱いうちにさっさと食え」
二口目に押し込んだステーキの肉が、どうしても噛み千切れない。
ひたすらガムを噛みつづけるような気分だった。
──あの、親たちがまたたくらんだのかよ!
ぞっとする。吐き気がする。もちろん、読めないわけではない。やりかねない。
「先生、あの、それは、いつ」
なんとか喉に流し込み、二杯目の水を飲み乾し、上総は尋ねた。
天敵に「先生」と呼びかけねばならない屈辱を、なぜ耐えねばならないのだろう。
こんな、訳のわからないことを勝ち誇ったかのように言い放つのが許せない。
「やはり、知らなかったんだな」
わざと間を持たせて、焦らせようとするその小手先テクニックに勘付き、さらに部千切れそうになる。しかしここで切れてはなるまい。話を聞きだすにはまず、黙ること、これが必勝法だ。上総が言い返さなかったのを、動揺しているためと勝手に勘違いしてくれたようだ。
「そうなんだ、麻生先生に俺は、お前のことをしっかり申し送りしておいたんだ。いろいろ誤解されやすい奴だが、真面目でひたむきで人望もあった、自分に自信さえつけば、あとは少しずつ好転してくるだろうとな。これは、駒方先生や狩野先生も話してたぞ」
──ああご苦労さん、褒めて褒めて、あとはけなしておわりかよ。
「その時な、お前のお母さんがな、言ったんだ」
「母が、ですか」
嫌な予感がした。確かにそうだ。父も母も、何か妙な口調で麻生先生を褒めてなかったか? てっきり自分の息子の担任だからあがめているだけかとたかをくくっていたのだが、どうやらそこには裏があったらしい。
単純で隠し事のできない菱本先生は、若々しい食欲で一気に全皿、平らげてしまった。まだ上総が噛み切れない肉に四苦八苦している間に、今度はデザートまで注文している始末だ。
「そうなんだ。お前のお母さん曰く、今までお前がずっと友だちに対してしてきたことを、今度は自分がされることで相手の気持ちを学べ、とな」
「そんなこと」
「そうなんだよ。麻生先生も最初は驚いたみたいだな。俺もさすがにそれは残酷だと反対した。だがお前の母さんはおれなかった。とにかく、相手の気持ちを実体験で感じさせることが一番大切だということで、だな」
「それで、麻生先生は」
「そうなんだ、麻生先生は、あえてお前を無視するふりをしていただけなんだ。そして、陰で見守りつつ、立村、お前の方からしっかり話し掛けてくるのを待っているんだ」
──こんな、ネタ晴らしして、何が楽しいんだこのうざったい熱血教師は!
かみつづけていた上総は、一気に口の中のものを飲み下した。
もう一杯水が欲しかった。
──何を勘違いしてるんだ、あいつらは!
余計なことを口走った母。二人の子どもである上総は両親が通常の親たちと比べてかなり変わった価値観を持っていることに気付いていた。そしてその発想が飛び抜けすぎているだけに、かなり反感を買っているであろうことも。特に母の発想は、上総に理解できるものではない。
──普通ってわけじゃないけど、絶対あれ変だ。
よりにもよって、自分の子どもに対し教師へ、
「あの馬鹿の根性をたたきなおしてください!」
と罵倒するのはどういうことなんだろうか。
上総は最初から麻生先生の攻撃をかわしていくつもりだった。無視しつづけるなら上等、こちらも相手になんかしない、そう決めていた。しかし今の話が本当だとするととんでもない勘違いを上総がしていたことになる。
麻生先生が上総を無視してきたのは、単に滝壺へ仔獅子を突き落とした親獅子の振る舞いと同じ、とでもいうわけか。
いや、なによりも、許せないのは。
──そういうことを、なぜ、俺にいきなりばらそうとするんだろう?
──機密問題だろ? それを何故、そんなことを!
アイスクリームの皿を、残っている液体まで丁寧に掬い取り、満足そうににやけている菱本先生を上総は、決して許さないと誓った。ついでに、母親顔をしつつも陰で策を練って上総の足元を救おうとする母にはもう、何も言うまいと決めた。