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 英語科の生徒が英語の追試を受けるというのは非常に珍しい。日曜日の朝から昼下がりまで教室にひとり残されている姿は自分でも情けないものがある。真夏の太陽が照りつける中、麻生先生の嫌がらせなのかクーラーは一切掛かっていない。窓は開け放たれているので風が全く入り込んでこないわけではないのだが、それでも自然と額に汗が滲む。救いなのはその汗が、

 ──油汗でないことだよな。

 机の上には、追試開始後五分後にひっくり返してしまった答案が一枚載っている。

 見直しもすでに終わっている。いつも通り、完勝だ。

 教卓に向かい、パイプ椅子であくびを繰り返す麻生先生をちらりと見やり、上総は答案を提出してさっさと教室を出ようかと考えた。予定通り試験制限時間五十分を消化するまで席についているのもばかばかしい。

「先生」

「なんだ」

 短い返事だが、それでもまだ普段よりはましだ。通常、麻生先生は上総の存在を視界の中に入れていない。授業中指名する時も決して上総を当てたりしない。

 上総は座ったまま答案と麻生先生の顔を交互に見ながら伝えた。

「答案を提出したいのですがよろしいですか」

「まだ四十分ある。見直ししろ」

 ──することなさすぎ。

 日曜日ということもあり、当然廊下を通る気配もない。通常ならば各科目ずつ全クラスの追試対象者が集められるはずなのだが、今回上総は期末試験を丸々休むはめとなってしまったわけだ。しかも英語科、カリキュラムが違う。しかたなくこのようなイレギュラーなやり方で追試を受けざるを得なかった。

 ──この四十分をせめて、物理か数学にまわしてもらえればな。 

 叶わぬことを思い溜息をつく。

 もともと期末試験は最初から捨てていた。例の修学旅行における一件のためだ。

 だからというわけではないけれども、苦手科目の教科書……主に理数関係……は一切めくることなどなかった。自分の成績順位なんて英語を除けばどれも下位どんぐりの背比べのようなもの。公式を暗記し直したとしてもたかがしれている。

 とはいえ、やはり空白の多すぎる答案を提出してしまったのはまずいだろう。

 あれじゃあ、おそらく追々試を受けるはめになりそうだ。

 脂臭い麻生先生と一対一、これじゃあ居眠りこくこともできやしない。


 病み上がりの上総には特段何か変わったことがあったわけでもなかった。

 貴史と美里には改めて礼を伝え、C組の元評議野郎チームには試験内容をコピーさせてもらい、またこずえからはいつもの下ネタトークをぶつけられるといったところだ。ありがたいことに今のところ、関崎や藤沖からはその後の状況についての報告を受けていない。

 もう、先日の段階で話が終わっただけ。

 杉本梨南が藤沖と渋谷名美子の願いを素直に聞き入れ、これ以上余計なことを言わないということでけりをつけたあの一件。もうどうでもよかった。わざわざ中学へ足を運んで杉本を捕まえて、「お前本当にいいのか?」と問い詰めたい気持ちはおおいにあるのだが、余計な奴と顔を合わせてしまいそうでそれもまだ果たせていない。

 肩肘をついて、消しゴムをシャープの先でつついて遊んだ。

 ケアレスミスさえなければおそらく、満点を取ることのできる答案だと確信している。

 かといって満点とっても、英語順位トップ陥落したという事実は翻らない。

 ちなみに今回明け渡した英語トップの座に君臨したのは、同じ英語科の片岡司だった。

 上総とは全く口を利かない奴である。点数を見たところ八十点代だったようなので難しいとされる設問ではあったのだろうと思われる。

 ──この程度の問題で、トップから落ちたとなったら笑いものだよな。

 上総は指でシャープを回してみた。最初は指から滑り落ちたが、すぐに指先が馴染んでくるくる回せた。目の前で麻生先生が怪訝そうに見ているが、そんなのどうでもよかった。

 頬にさらさら、風が触れる。


 ──頭を切り替えよう。

 シャープを操りながら、上総は窓辺を眺めた。一階の教室から見える芝生は気持ちよいくらいりりしい緑色だった。

 これから先、杉本が選んだ道についてつべこべ文句を言う権利がないことくらい理解していた。ベッドの中でひっくり返っていた間それはよく考えた。

 ──でも、本当にあれでいいのか。

 ──関崎が信じてくれるからといってそれだけで、濡れ衣着せられっぱなしで、耐えられるのか。

 一方で敵となる藤沖と渋谷は仲良く過ごしているようだ。確認こそしていないが、上総にこれ以上文句をつけてこないところみるときっとそうなのだろう。こちらにも口出しする気などさらさらない。中学生徒会のことでもしかしたら、佐賀生徒会長のからみもあって杉本に火花が飛ぶとでもなれば話は別だが、もうことはすでに終わったのだ。これ以上、何を言うつもりもない。

 ただ、

 ──関崎だけは何も考えず、好き勝手に過ごしているわけだよな。

 すっかり一年A組のサブリーダーとして活躍中の外部生、関崎乙彦に思いを馳せた。あいつはこの三ヶ月間で生じたモテモテ旋風についてどう考えているのだろうか。全く女子から受けの悪かったらしい中学時代を経て、現在杉本梨南と清坂美里、そしてもしかしたら静内菜種の恋心を手玉に取る……いやいやそれは間違いだろうが……といったその態度。おそらく何も考えていないのだろうが、あまりに外部に影響が強すぎる。

 ──もし、関崎が中学と同じ状態で過ごしていたら。

 上総は確信する。

 ──決して、あいつの気持ちだけを頼って自分の不利な条件を飲んだりしなかったはずだ。

 

「立村、その『浪人回し』やめろ」

 気持ちがぷつと切れた。麻生先生がやぶ睨みで上総の指先を見つめ、こう発した。

「浪人回し?」 

 初めて聞いた呼び名だ。指先を止めた。麻生先生は指差しながら、身体は教卓に向けたままだみ声で続けた。

「そういう回し方をしていると、注意怠慢となり、必ず浪人すると言われているんだ。試験勉強もしないでくるくる回し続けているだけで賢くなったようなつもりになるそうだ」

 初めて聞いた。「浪人回し」という呼び名自体、いわゆる受験浪人のことを意味するとは思わなかった。上総の脳内では「浪人」イコール時代劇の素浪人をイメージするのみだった。

「すみません」

 余計な口答えなどするつもりもない。上総は静かにペンケースを開いてしまい込んだ。

「それとだ」

 手の甲で額の油を拭き、ふたたび麻生先生は上総をにらんだ。

「なぜお前は、人に何かを教えてやろうとしないんだ」

「え?」

 いきなり突拍子もない質問を投げかけられた。

「今回の試験問題が易しいのはよくわかる。だがなぜ、他のクラスメートにお前の持つ優れた読解力や、ヒアリングのコツなどを教えてやろうと思わないんだ?」

 全く理解し難い、発想の飛躍だ。もともと麻生先生とは罵倒されるか無視されるかのどちらかで、諭されることは殆どない。中学時代の菱本先生とは違い、とにかく無視を決め込まれる。その一方で親受けはかなりよいらしい。両親がやたらと麻生先生を褒めているのが、正直不気味ではある。

「聞かれませんから」

 きっぱり答えた。それこそ濡れ衣もいいところなのだが。もともと上総は中学上がりの普通科連中には、リーダーの訳文や問題集の答えなどを用意してやっていた。英語科内でも、一部のよく話をする奴にはそうしたりもする。麻生先生はどうも、英語科の中で上総が自分ひとり利を独り占めしているように見ているらしい。英語が曲りなりにも得意な奴同士、誰が上に立つかを競っているような環境の中、助け合う必要がないようにも今は思える。尋ねられたらもちろん、喜んで協力するつもりではある。

 が、説明するつもりもない。

「片岡は懸命に、他の男子連中にアクセントの違いやら、英会話のコツなどを説明していたぞ」

 ──聞かれたからだろ。

 もちろん返事はしないでおく。片岡はどちらかいうと藤沖、関崎と仲がよい。特に関崎への甘ったれぶりは傍目からもあきれるほどだ。おそらく偏った見方をしているのであろう。クラスで目立つふたりに片岡が説明すれば、きっと全クラスメートに協力しているのだと思い込んだのではなかろうか。

 上総は黙って解答の裏に指で文字をなぞってみた。とにかく指を動かしていないと待ち時間、何をしていいかわからない。

 それ以上麻生先生も何も言わず、ただ遠くから聞こえてくる運動部の稽古状況に耳を傾けていた。たぶん陸上部か、サッカー部かだろう。

 ──羽飛、本当にバスケ部に未練がないのかな。


 ペン回しも咎められ、仕方なく答案の裏にドイツ語で悪戯書きをしているうちにやっと制限時間がきたようだ。麻生先生が教卓をげんこで叩くと、

「回収する、出せ」

 ぶっきらぼうに急かした。速攻、手渡した。内容を確認した後、すぐに赤ペンで採点に入り、上総の読み通りの点数を右上に書き込んだ。

「満足か」

 返しながら、また吐き出すように言い放つ。こう言った手合いに答える必要などないと上総は思う。頭を下げて鞄につっこんだ。

「それとだ」

 追試はこれで終わり、さっさと教室から出ようとする上総に向かい、麻生先生は呼び止めた。珍しい。振り返ると、

「この一学期はお前のやりたいようにやらせてきたが、二学期からはこんな甘ったれた了見は通用しないから、そのように考えろ。わかったか」

 また訳のわからない言葉を投げかけてきた。何が「お前のやりたいように」なんだろう。聞き流すのが一番だとは思うのだが、やはりひっかかる。あえて問わず無視して出ようとすると、再び声がかかる。

「二学期に入ってから改めて話をするが、立村、お前にはしばらく規律委員の関崎と組んで、その手伝いをさせるつもりだ。これは命令だ。関崎、および評議の藤沖も了解していることだ。覚悟すると同時に、あのふたりへ感謝しろ」

 ──感謝だと?

 上総は振り返った。影が長く伸びていて、麻生先生の教卓に届きそうなのがわかる。

「委員になれとは言っていない。関崎の、下働きになれと言っているんだ」

「下働き?」

 発した言葉の響きに、少し荒れを感じた。

「元評議委員長には屈辱だろうがな」

 朝から五時間目までの間、初めて麻生先生は顔を緩めた。軽蔑の入り混じった笑いに見えた。


 誰もいない廊下を突き進み、すぐに生徒玄関へと降りる。

 すのこで靴を履き替え、閉まったままの戸を開ける。

 すっかり太陽も南中からほんのわずか、傾いでいるようだった。夏特有の跳ね返るような空気が一気に上総を焼こうとしている。表皮はそのままに、奥まで蒸し焼きにしようとする、悪意すら感じる。

 ──関崎の下働き、な。

 あえてあの場で口答えしなかったのには、他にも理由がある。

 附属生同士のネットワークをどうやら麻生先生は甘く見ていたようである。C組の連中たち……主に天羽・難波・更科、そして貴史に轟琴音、ついでに南雲も忘れてはなるまい……を通じて情報がいろいろ集まってきてはいた。ただ、上総は最初からその話に乗るつもりなどさらさらなかったから、聞き流してきただけのことだった。

 ──俺を、規律か保健か、そのあたりの委員に押し込もうという手か。

 陰でいろいろと動きがある、とは耳にしていた。元・評議委員チームたちからも、もしそんな話が出てきたら絶対乗るようにと、勧められたりもしている。天羽は特に強く推して来る。関崎が好きになれない以上、対抗馬として上総を推したい、その気持ちもわからないわけではない。

 ──もちろん俺はもう、委員に戻るつもりなんてないさ、けど。

 なぜ、「関崎の下働き」なのか。

 しかもあの先生は、

 ──何が「元評議委員長には屈辱だろう」とか言うんだ? 

 ここでかっとなれば、おそらく麻生先生の思う壺だろう。だからあえて落ちなかった。

 むかついても、動かない。しっかり中学評議委員会の中で身に付けてきた。本条先輩に仕込まれてきた。たかが三ヶ月程度担任持っただけの教師に首根っこ押さえられるような真似は、絶対にしない。

 ──俺と関崎を無理やり一緒に組ませて、その上でどちらがリーダーになるかを決めさせようとでもいうのか。上下関係をしっかり叩き込もうという手だな。

 「元評議委員長」の上総に屈辱的な思いをさせ、あわよくば頭を下げてクラスに馴染むよう持っていくというのが計算というのが見え見えだ。麻生先生はこれで上総が陥落するとでも思っているのだろうが、そうは問屋が下ろさない。

 ただ、手袋を投げつけられたという記憶だけが残るのみだ。

 その意味が、じわりとしみてくるだけのことだ。


 自転車置き場に立ち寄り、すっかり熱せられたサドルに座り全身焦げそうな思いでペダルを漕いだ。どういう結果が出るにしても、期末試験が終わればあとは夏休み。宿題や自由研究などは少々面倒だが、頭に来る連中の顔を見ないですむのはかなり嬉しい。

 特に誰か知り合いと顔を合わせることもなく、比較的空いている車道をスピード上げて走り抜けた。いつもなら通らない商店街をくぐりぬけるか、それともいつも通りの国道をつっきっていくか、少し迷って自転車から降りた。

 ──どうしようかな。商店街でなんか買ってくか。サイダー一本飲み乾したい気分だしな。

 結局、自転車を押し、アーケードをくぐることにした。さすがにお客さんの多い日曜日、勢いよく潜り抜けることはしない。めったに通らない近道だ。歩いていってもあっという間に出口が見え、もう一度自転車を漕ぎ直した。だいぶ道も先へと進む、その時だった。

 いきなり、後ろから自転車が追いかけてくる気配がする。軋む音と同時に、かすかな熱が空気ごとぶつかってきた。はずむボールのような感触だ。

 しかたなく歩道の脇に留め、改めて振り返った。

「……お前、なんでここにいる?」

 息を切らせてくっついてきたのは、若草色のヨットパーカーを羽織りぴちぴちのジーンズをはいた男子だった。顔をじっくり見るまでそいつの名前を思い出せなかったのは、やはり制服とのギャップが大きすぎたからだろう。こいつの私服姿を上総はこれで二回、観たことになる。

 俯き、その男子は前髪を派手にかきあげた。

「今、うちの前、お通りでしたから、御挨拶しただけです」

「霧島、お前のうちって」

 言いかけてすぐ、納得した。そうだった。霧島姉弟の自宅は商店街の近辺だったはずだ。門構えこそ派手ではないにしても、青潟ではそれなりに老舗と聞いている。「霧島呉服店」の前を、上総は通り過ぎたのだろう。見かけなかったのは意識していなかっただけ。

 ──見られたのは、こいつが意識していただけだ。

 上総は観念した。試験前に約束していた決着を、まずは青潟大学附属中学・生徒会副会長・霧島真相手にまずはつけなくてはならない。

 ついでに、例の「キャリアOL」グラビア写真集を返してきっちり引導を渡さねばなるまい。

 上総なりに考えた結果、霧島の件も結論は出ていた。

 ──霧島の兄貴分には、俺より関崎の方がふさわしい。


「ちょうどよかった」

 上総もそれ以上、霧島に尋ねなかった。ただ誘った。

「ボーリングでもやるか。話の続きはそこでしよう」

 レールをひいてやるだけのことだった。  


 

 

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