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男子同士で昼間話すことといえば、最近のテレビ・ラジオの音楽番組情報かスポーツ関連のことばかり。上総と貴史もその例に洩れていなかった。といっても上総のその方向への関心は偏っているので、まずは一方的に貴史の話を聞くのみとなる。
「お前なあ、最近、英語の歌詞翻訳とかしてやんねえの」
「あまりないな」
「中学の時は、まず立村にLP渡して、その歌詞全部訳してもらうってのが俺らD組男子のパターンだったんだけどなあ。ま、英語科ならそんなことしねえでもいいか」
「そういうこと」
一部の男子連中からは「自動翻訳機」とあだ名されていた上総も、英語科に進学してからはすとんとその稼業から足を洗っている。貴史の言う通り、みな英語にはそれなりの自信を持っているクラスメートが揃っているし、頼み頼まれるような気軽さも感じない。となれば得意技を封印せざるを得ない。
「へえ、もったいねえな」
「もっとも天羽とか難波とか、あのあたりからは頼まれることもあるよ」
元評議委員仲間たちからのお声がかりはある。上総は頷いた。浴衣の襟が少し緩んでいるが、汗を少しかいていたこともありそのままにしておいた。貴史はベッドの上にこしかけ、とうとうランニング一枚でごろっと横たわった。
「俺もあんまり人のこと言えねえけどな」
「なんだよ」
残りのサイダーを瓶ごと勧めた。貴史が受け取るため身を起こした。ラッパ飲みのポーズで空にした。
「ほんっとに立村、お前委員会に戻る気、ねえの?」
「ない」
何度も同じ返事をしている。きっぱり、すっぱり答えた。
「部活にも入る気、ねえの」
「全くないよ」
「じゃあ、何してるわけ」
「何も」
言いかけ、首を左右に動かしてみた。肩こりのポーズとも言う。
「担任にもなんも言われねえのか」
「全く。ありがたいことさ」
言い放つ。担任の麻生先生からは見事な無視をかまされている。いつかしびれを切らして上総が謝りにくるであろうとの読みかもしれないが、そんなのとっくに見抜いている姑息な技だ。三年間無視には無視でやりかえすのが、上総のしたたかな報復のつもりだ。
「お前がうっとおしいと思うの承知で言うけどな」
「話だけは聞くよ。聞き流すかもしれないけど」
今の上総は、そのあたりをうまく流すこつを身に付けていた。いや、その「つもり」だった。
かつての自分が中学時代の担任でかつ天敵の菱本先生、および今隣にいる貴史や美里にいらいらさせられていた頃とは違い、お互いの空気をうまく切り離す技を習得したと思っている。
「大人だなあ」
茶化す貴史の言葉を、それこそざる状態にして上総は聴いた。
「菱本先生の家にな、先月の終わり、美里連れて行ったんだよ。子ども、すっごくでっかくなってた」
「ああ、カンガルーのポケットのだな」
幕切れの後味の悪さを思い出しつつ、さらりと答えることに勤めた。
「で、まあ、夏休みだし三年D組のクラス会やるかってことになってな」
「いいんじゃないか。俺は出る気ないけど」
「お前の答えはわかってる。それよか、菱本先生が言うにはな」
貴史も承知してくれたのがありがたい。話の続きを聞いた。
「できるだけ早い段階で、将来の目標を決めた方がいいってありがたーい、お説教を食らったってわけ」
「そうか」
「そうそう流すなよ。で、美里はどうかわからんけど、俺なりに考えてまずおっきな目標を掲げたわけ」
ずいぶん「〜わけ」と続ける貴史の口調。どことなく、古川こずえの口癖に似ていた。
「鈴蘭優の追っかけを極めるわけじゃなくてか」
まぜっかえすと思いっきりはたかれた。
「あのな、お前、俺をまるっきりあほと思ってるだろうが!」
「悪い、悪い」
貴史に向き直るため、ベッドの上で正座した。
「その、大きな目標とは?」
どうせたいしたことではないだろう。中学時代からそれなりの夢を抱いていた奴らはもちろんいたし、そのうちの数人は目標に向かうべく進路をそれぞれ選んでいった。奈良岡や水口のように医学を志し青大附属から飛び出したものもいるし、金沢のように美術の道をまっすぐ突き進む奴もいる。花森なつめのように三味線修行のため転校した女子もいる。
ただ、今の段階で具体的な職業名を出せと言われても、正直、困る。まずは大学に進学してから考えても遅くないのではないだろうか。仮に上総自身、自分の得意分野で職業を選べと問われても、どう返事をしたらいいかわからない。語学が得意だからといって外交官だとか通訳だとか翻訳者とかそのあたりしか思い浮かばない現在、どう答えたらいいのだろう。
──そんなわけのわからないことを無理やり答えさせようとするあの担任、何考えてるんだろう。
方向違いかもしれないが、むしょうに菱本先生に対して腹が立つ。
「俺、バスケ部やめて美術部に専念しよっかって思ってるんだ」
「え? お前今、なんて言った?」
菱本先生への苛立ちは次の貴史の発言によって、一瞬のうちに吹き消された。
正座したまま、思わず両手をついて貴史の顔を伺った。
──冗談、言ってるのか? バスケ部を続けて美術部をやめるなら話、わかるけどさ。
貴史も正座して、両手を膝に置き、もう一度言い放った。
「美術関連の仕事がしたいから、そちら方面の勉強しようかって思ってるんだ。けど運動部やってると時間ぜんぜん取れねえし、そんなバスケも面白くねえしってとこで、そう決めた。今日、キャプテンに退部届け出してきた」
そう驚くな、とばかりに貴史は上総へ、空のラムネ瓶を手渡しにやりと笑った。
──もともとバスケ部では期待されていたと噂には聞いていたのに、なんでだろう?
中学時代に何度もバスケ部から誘いが来ていたにもかかわらず、三年間帰宅部で通していた貴史のことだ。もちろんそれなりにこだわる理由はあったのだろう。しかし、中学卒業を境に、思い切って今まで逃げてきたことに立ち向かう覚悟を上総に手紙で書いてよこした。そのひとつがバスケであり、もうひとつが美術だった。
美術に興味を持つようになったきっかけが、修学旅行中の出来事だとは聞いている。それを境に人呼んで天才少年画家・金沢と共に行動することが多くなり、かなり影響を受けたとも言う。美術がかならずしもすばらしいものなのか、上総には全く理解できずじまいだし、語り合うには足りないことも承知している。ただ、あくまでもそれは貴史にとって二番目の興味に過ぎないと高をくくっていた。むしろ、身体をばりばり動かすバスケットボールに打ち込む方が自然な姿に思えた。
──美術部って何するんだろう? 絵を描いたり凧を揚げたり粘土をこねたりするだけだろう?
想像が全くつかない。「美術部」と呼ばれるキャンバスの中に、貴史の姿がどういう位置付けになるのかすら、思い浮かばない。
「まあなあ、前からバスケは性に合わねえと思ってたんだ」
上総の握り締めたラムネ瓶の口をぽんぽん叩きながら、貴史は語った。
「ゲームやってる時はいいんだ。準備運動してる時もまあ、かったるいけどそれはそれだ。てっきり上級生に締められると思ってたけどそんなこともねえし人間関係も良好、平和な世界ではあるんだわな」
「やめる理由はないんだな」
「ない。ネガティヴな理由はひとっつもねえ」
「ならなんで」
「だから最初に言ったろ。時間ぜんぜん取れねえって」
「羽飛、ひとつ聞きたいんだけどいいか」
上総は問い掛けた。
「反対にバスケ部を続けて美術部をやめるという選択肢はなかったのか」
「ねえなあ」
少し天井を見上げて腕組みし、喉仏を動かしつつ貴史は答えた。
「だってな、バスケにしろ運動するだけなら、学校の部活以外でもできるだろ。たとえば町内会のクラブチームとかさ、結構あるんだぞそういうとこ。町内会ならいろんな学校や学年、それこそ社会人の人たちもいっぱいいるし、そこでやればいいことだしさ。俺、結構町内会の活動好きだし、すげえ腕の人も近所の人の中にたくさんいるし」
「試合に出たいとか思わないのか?」
「あんまりな、出て、どうするって気もするし」
「勝ち抜きたいとかそういう気も、ないのか」
「全然、ねえなあ」
──こいつの球技大会で見せた熱い闘志を知っているなら、今の理由は絶対に信じられない。
のほほんと答える貴史を観察しつつ、上総は首を傾げつづけた。とはいえ、このままでは納得できる返事が戻ってくるとも思えない。話を逸らしてみることにした。
「美術部に専念するとしたら、いったい何をするつもりなんだ」
「まずは、いろんな美術展を観ることだろうなあ」
指を折りながら語り始めた貴史。どうやら本気のようす。
「金沢にも言われたけど、まずいいもんをたくさん観ないと目が肥えないって言われててな。青潟の美術館やデパートに来るイベントはすべて観るくらいの気迫がないとやばいそうなんだ。となると、時間、ねえだろ。どう考えたってな」
確かにそうだ。運動部の放課後は試験休み以外ほとんど練習に費やされるはずだから。
「それから、美術関係でどういう仕事があるかをまず、調べねえとまずいだろ。俺は観ることが好きだけど作る方はあんましだし。ということでそのあたりもいろんな人たちにインタビューして聞いて回るつもりなんだ」
もっともだ。上総も美術関連の仕事というと舞台照明や背景画などの大道具作り、美術館員などしか思い浮かばない。調べたいというのはごもっともだろう。
「こういうことに関しては金沢が結構詳しいしな。けどそのためには軍資金も必要だってことで、まずはバイトが先決だ。そっちの時間工面もしねばなんないってこと。さあ、どうだ、納得したか!」
「参りました、おみそれしました」
──バイト、どうやって見つけるんだろうか? それ以前にどうやって許可もらうんだろう?
一応、青大附属ではバイト厳禁のはずなのだが。そのあたりの疑問も上総はあえて飲み込んだ。
貴史の汗かいた顔がつやつやてかり、しかも肩から腕にかけて力瘤までこしらえているその姿、まったくもって嘘とは思えない。どうやらこれは、本気と認めざるを得ない。
片手の瓶をテーブルに置いて、もう一度上総は貴史に向き直った。
「部活やめた理由はよくわかった。けど、その道を選ぶ決め手となったのは、どこなんだ」
適性を考えれば圧倒的にバスケを代表とした運動部の方が舞台としても最強に思える。美術の道もまんざら悪いとは思わないが、そこまで熱くなるものがどこにあるのか見当がつかない。どうしても裏を探りたくなる。
上総の掘り込む問いに、貴史の答えはあっさりしていた。
「そりゃあ、わくわくする方を選んだんだよ、あったりまえじゃん!」
「わくわく、って?」
「俺の顔みりゃあ、わかるじゃん!」
──確かにそうだが……。
裏表のない貴史の性格、知らないわけではない。だから信用せざるを得ない。
「立村、なあにそう不思議そうな顔して俺の方見るわけ? そりゃあまあ驚くとは思ったけどなあ。とにかく、俺は将来の道を選んだってわけなの。わかったか?」
「じゃ、美大を目指すとか」
「そんなわけねえじゃん!」
おずおず尋ねたがあっさり笑って返された。
「俺が目指すのは芸術系のお仕事であって、芸術家じゃねえの! だから青潟大学にも進学するつもりに決まってるだろ。まあ経済学部か商学部かそのあたり考えてるけどな」
──羽飛、もう、すでに、学部まで絞ってるのか。
「あたりまえだろ、ビジネスとしてこれから考えていくわけなんだしな」
──早すぎる。
ハイテンションのまま笑い続ける貴史に、上総はただ言葉を失った。
同じ経験を上総は二年前、したことがある。
確かあの時は年末、花森なつめが退学すると決めた瞬間に立ち会ったはずだった。
事情はもちろんいろいろあるにせよ、一歳年下の花森がきっぱりと決めた姿を上総は絶句しつつ見守った。自分の将来を年下の女子中学生が選び取る姿にまぶしさを覚えつつ、その一方で早すぎる決断に不安を覚えたことも事実だった。
将来の自分、全く想像などつかない。
一年後の、英語科に所属する自分の姿すら曖昧なままだというのに。
三年後、七年後、十年後、自分が生きていることすら考えられない。
それを夢や希望に満ちた将来として位置付ければ言い訳などいくらでもできる。
見えない将来だからこそ、楽観しつつ歩めばいいとも思う。なんとかなるさとも開き直ることができる。そのために勉強して将来の道を開いていけば、選択肢は広がるはずだ。
でも、その一方で。
──確固たる目標を見出してる奴もいるんだ。
──よりによって、あの羽飛がだ。
なんにも考えず、鈴蘭優のコンサートのことばかり考えていたような脳天気な貴史が、「わくわくするから」の一言でバスケ部をやめ、美術関連の道を選ぼうとしている。しかも、画家を目指すのではなく、それにかかわる道をということで、きわめて現実的な方向を模索しようとしている。
蘇る激しい痛みを、上総は心臓近くで受け止めた。
──俺は、いったい何をしてきてるたんだろう?
「もう一本、持ってこようか」
ふらつきつつベッドから降り、上総はゆっくり部屋を出た。部屋中をまばゆく照らす太陽として貴史が寝転がっている。側にいると生焼けのまま自分がこげてしまいそうだ。
ラムネと一緒に氷皿をそのまま運んできた。台所で二個口に放り込みがりがり噛み砕いたので喉の渇きは若干癒えた。ついでに指先もぴんと張った感覚が残った。まだ母たちは戻ってきていないようだった。一時間以上経っているはずなのだが、女同士盛り上がっているのだろうか。また妙はことをふきこんでいないだろうか、母も、そして美里も。
「羽飛、開けるか」
身を起こしてにやにやしている貴史に瓶ごと渡そうとしたが、手を振って断られた。
「喉渇いてないのか」
「それよか、こっち、こっち」
ひょいと立ち上がり、ベッドから降りて貴史が手招きする。
「どうした」
カーテンをひっぱり、いったん影を溜め、ふたたび手招きを続ける。表情が読めなくなった。
「何やってるんだよ」
近づき、隙間から覗き込もうとするがじらされる。
「まあまああせるなよ」
「わざとらしいな」
別に無理強いしているわけではないのだが、いかにも気を持たせる態度がわけもなくいらだつだけだ。
「まあ待て。あらよっと!」
手を離した上総の前で、貴史が一気にカーテンを引いた。
まばゆくて視界が白く溶けて見える。
「立村くん」
呼びかけてきた声が誰か認識した。
その姿を見出す前に、上総は乱れた襟を片手で直していた。
部屋の窓からよじ登りもぐりこむなら簡単なことだ。ふだんからやっている。
貴史をひっぱり上げたことも何度となくある。
一年前だったら平気で、窓辺から顔を出している美里に向かって手を差し伸べただろう。
面白そうに上総を見上げている美里に、貴史が話し掛けている。
「おいおい、何食ってきた?」
「あんみつとオレンジジュース」
──それって組み合わせ、まずくないか?
あっけらかんと答える美里に、上総はまだ話し掛けられずにいた。
「で、さっきまで、何の話してた?」
「いろいろね。けど、変なこと話してないからね、安心してよ立村くん」
──誘導尋問で何話したか覚えていない可能性もあるな。
安心はできない。曖昧に微笑んでごまかす。ふたつわけにした髪の毛がやたらとつんつんして目立つ。
「それはどうでもいいけど」
白いブラウスの襟元に赤いリボンが揺れている。目を細めてみるとまばゆい光がさえぎられる。
「うちの親とはどこで別れた?」
「お店の入り口で。先に帰るってことにしたの」
「じゃあなんでここに来た?」
「貴史を迎えにきたの」
あっさり過ぎる、でもわかりすぎる答え。
「そうか」
上総は即、決断した。
「羽飛、悪い、すぐ帰ったほうがいい」
「はあ、なんでだよ」
「あの人が清坂氏の考えを読まないわけがない」
「……読まない?」
「とにかく即、逃げたほうがお互いの身のためだと思う」
「納得いかねえなあ」
「とにかく、靴を持ってくる」
立ち上がると同時に貴史が腕を引っ張った。
「いいだろ、そんな隠さねえでも。お前がこれから母ちゃんに罵倒されるのは想像つくけどな」
シャツを羽織り直し、上総の肩を浴衣から軽くもんだ。
「美里に礼のひとつくらい言ってやれよ」
横目でもう一度、上総は窓辺をにらんだ。
──わざわざこんな僻地まで見舞いに来てくれたんだよな。
貴史に諭されなくてもそんなことくらいわかっている。
だったら自然にやさしくありがとうくらい言えばいいだけのことだ。
「なんでそんなに慌ててるの?」
きょとんとした顔を覗かせる美里にかける言葉が見つからない。
「話の内容によっては出入り禁止になるかもしれないから」
「大丈夫よ立村くん。私、聞かれてまずいこととか話してないもの」
「清坂氏がそう思ってなくても、向こうでは何考えてるかわからないんだ」
貴史を部屋から出そうとするが、入り口で面白そうに覗き込むのみ。まずは貴史を玄関まで押し出して、スニーカーを靴箱から出してやった。廊下や居間の気配からして、まだ母は戻っていないらしい。
「今日は、ありがとう。また、学校で話したいことあるから、その時にしよう」
「いや、こっちこそどうもな。俺もすっきりした」
貴史もだいぶ状況を把握してくれたのだろう。母に関する追及はほどほどにとどめ、上総に笑いかけた。
「なんか、すっきりするようなこと、俺、したか?」
「バスケ部やめたこと話したの、お前が最初だ」
「え? でも」
とっくに美里をはじめ他の連中には報告済みと思っていたのだが。
両手をぶらんとぶら下げた上総に、貴史は肩をすくめて首を振った。
「美里には言ってねえよ。古川に言いつけられてみろ、今度は尋問されちまうぞ。おなごふたりに詰問されてみろ、たまったもんじゃあねえ」
それでもいつまでも隠しとおしておけるとは思わないのだが。
「ま、とにかく、これから関係者に一挙にばれるだろうな。とりあえず今度の土曜にでも、情報収集第一弾ということで中学の駒方先生とこに行って来る。お前もそんとき、よかったら来いよ。E組時代世話になったんだろ?」
軽やかに話しつづける貴史の口調には、何一つ悔いのようなものは感じられなかった。
──バスケが嫌いだったわけじゃないのに、なんで。
大好きなことをあきらめたというような悲壮な決意もない。貴史の顔にあるのは、全身からほとばしる躍動感のみだった。今にも顔に並んだ目鼻口が浮き上がって踊りだしそうな感覚に、上総はくらりとめまいを覚えた。
貴史を追い出した後、部屋に駆け戻る。まだ美里がいるはずだ。窓辺に取り付いた。
「清坂氏、今から羽飛が来るからさ」
「なんだか笑える、立村くんそんな慌てちゃうなんて」
なんとなくだが母は美里のようなきっぱりはっきりした女子を好んでいるような気がしていた。だからあまり心配はしていない。ただ上総のどうしようもない高校生活がばれている可能性はゼロではない。
「大丈夫なのに。私、立村くんとは友だちだって前から言ってるじゃないの。そのことくらいよ。付き合ってたことだって話してないし」
「ああ、そうか」
美里の口からはっきりと「付き合ってたこと」と過去形で出てきた段階で、ひとつの区切りがきちんとついたのを感じた。互いにもう、「友だち」以外の何者でもなく、ましてや「恋人」でもなんでもない。別に親にそのことを説明したことなんてないが、今度揶揄された時にはさらりと交わせばよい。
「でもね、私は立村くんにとって大切な友だちだよ。それは変わらないよ」
「ありがとう」
やっと礼を述べることができた。顔が自然とほころぶ。
「清坂氏、ひとつだけ確認していいか」
「なあに」
「羽飛とはこれからも、友だちのままでいいのか」
つい口から転がった言葉に上総も戸惑った。そんなこと、言うつもりじゃなかったのに。
「立村くん、どうしたのいきなり?」
ぽかんとしたまま、美里が首をかしげた。同時にふたつ分けの髪の先が揺れた。
「みんな友だちでいいじゃないの、あたりまえじゃないの」
どう返事をしたらいいのかわからず言葉を飲み込んでいるうちに、貴史の脳天気な声が響き渡った。しまった、騒ぐなと伝えておけばよかった。近所に母がうろついている可能性大なのに、だ。
「おーい、美里こっちこっち、行くぞ!」
「わかったー! じゃあね、顔見ることできてよかった。また学校でね!」
全く動じる気配もなく、美里は上総に手を振って去っていった。友達に向ける笑顔いっぱいに。あの笑顔が一年前は息苦しく迫られるようなものだったことを、上総は思い出した。穏やかに、そしてやわらかな日差しとして今は上総に降り注いでいた。
カーテンを閉めた。一気に薄暗い部屋の中、そのままベッドに横たわった。
いやな風邪っぽい熱はひき、その代わり妙に身体が火照るのを感じる。
──羽飛にとって、清坂氏は友だちでしかないのか。
──清坂氏にとっても、そうなのか。
ふたりが以前から「男女の友情」というスタンスを一切変えず、どう考えても恋愛関係としか思えない言動を繰り返していたことを上総は知っていた。貴史に懸想するこずえも、もし美里が相手ならばあきらめるとすら言い放っていたくらいだ。卒業間際に何をとち狂ったか貴史に告白したという奈良岡彰子も、奪うつもりなどさらさらなく、美里相手ならば応援すると言ったとか言わないとか。南雲経由の情報にも有る通りだ。
──もしも、ふたりがそういう気持ちならば、一番それがいいと思っていたんだけどな。
美里が仮に関崎への気持ちを押さえられないままだったとしても、もし貴史がそれ以上の想いを秘めていたとしたら、無理やりにでも方向転換させて傷を浅くさせるという手もある。関崎の態度がどう考えても静内菜種しか見ていないこの状況を変えることはできない。ならばせめて、とも思うのだが。
──そういう気持ちがもし羽飛にあれば、バスケ部か美術部かの選択を、清坂氏に話さないってことはないだろう。
男子にとって、進路の選択は……もちろん女子にしても同じだろうが……かなりのエネルギーを要するものだ。その重さゆえに上総もまだ決断の段階に至っていない。決める時は自分で判断するもの。しかし、美里との長い付き合いを考えれば一言二言なんらかの相談はしそうな気がする。
それを一切せずに、今だに話していないという事実。
どうなのだろう。これは。
ふたりの言う通り、「大切な友だち」以上のなにものでもないのかもしれない。
上総にはそれ以上、答えを見出すことができなかった。
──友だちが、このまま黙って傷つくのを見守るだけなのか。
先が見えすぎる、ゆえに何も口に出せはしない。
玄関から騒がしい物音がする。まだふたりが消えてから十五分くらいしか経っていない。あえて寝たふりを決め込んだ。誰が、一人息子を獣扱いするような母と正面から顔を合わせたくなるものか。廊下を勢いよくつっきってくる母に耳をふさぎ、上総はベッドにもぐりこんだ。やっぱりノックせずに入り込んできたものである。
「上総、狸寝入りするのはやめなさい」
あきれ声で母が枕元に近づいてくる。怒ってはいない様子だった。無視してそのまま、うつぶせの体勢を変えずにいた。頭をいきなり枕に押し付けるのはやめてほしかった。
「何するんだよ、病人を起こすなよ」
「まったくねえ。まあいいわ。もう氷もすっかり溶けてるし。それよかあんた、美里ちゃんに振られたみたいねえ」
──やっぱりとんでもないこと話したんじゃないのか?
死んでも顔なんか出せやしない。返事はしない、眠れる物体になる。
今度は、手で頭を撫でまわされる。
「まあそれはいいことよ。美里ちゃんみたいにしっかりしてて、賢い女の子ならあんたみたいな優柔不断のとんまなんかにふさわしいわけないものねえ」
──さっさと出て行けよ。人を物笑いにして何楽しいんだ。
あとで美里にしっかりと問いたださねばなるまい。熱がかあっと上がる。
「ほんとは、美里ちゃんみたいな子の尻に敷いてもらってあんたが成長してくれれば一番いいんだけど、人様のお嬢さんにそこまで要求できないわ。全く情けないわよ」
どうやら母が美里のことをお気に入りなことだけは確かのようだった。
「でもね、上総。自分にそっくりだからといって、おんなじタイプの女の子にのめりこむのはやめておきなさいよ。杉本さんとか聞いたけど」
「母さん、何言い出すんだよ!」
思わず飛び上がった。母の手を振り払い怒鳴る。まさか、杉本の話まであんみつをはさんで飛び交ったというわけか。もちろん杉本の事情については美里の知っている範疇のみの話題だろうから、それほど深い内容で問い詰められたわけではなさそうだが、しかし、わからない。
母はラムネ瓶二本と水のたまった氷皿を片手に、上総を見下ろした。
「どうやら図星、ってとこかしら」
にらみつける自分の目が、力入りすぎて痛かった。
「警告したから覚えておきなさいよ」
驚く様子もない。母は微笑みさえ浮かべながら上総に告げた。
「お互いの傷をなめあっているままじゃ、ろくな大人になれないってことよ」




