29
中学卒業後の春休みをきっかけに男子連中の多くが「初体験」を済ませたらしいという噂をよく耳にしていた。隠しておけばいいものを、なぜかみな、嬉々として報告してくるのが上総には理解できなかった。一人で結果を出したならともかくも、なぜたっぷりとリアルな身振り手振りで説明しようとするのだろう。お相手となった女子がその後どういう目で見られるのか、こいつら想像つかないのか? たしなめてしまうこともある。
もっとも上総が直接報告を受けたのは、天羽と南雲のみだ。噂話に留まる程度の武勇伝については、この三ヶ月かなり聞かされたものだった。ちなみに今現在、貴史からはその手の話を伺うことなどない。おそらく最愛のアイドル・鈴蘭優へ操を守っているのだろう。
──それにしても藤沖と、この人が。
なぜこんな狭い部屋の中で、クーラー風の乾いた臭いをかいでそんなことを聞かされなければならないのか。しかも渋谷を除いてあとのふたりは沈着冷静に見守っている。本来罵倒を繰り返すはずの杉本も藤沖の行動を認める発言までしている。
──なんで話が逸れていくんだ?
元に戻したい。ただいま水入り。こずえも涼しい顔で足を組み直して見守っている。
さすがの「下ネタ女王」もどこで取り直しさせるか考えているようだ。
──けど、いつだよ、いつ、どこだよ、どこ。
想像がつかなかった。
──駅前のホテルに連れ込んだのか? まさかそんな金掛かることするわけないよな? それとも自分の部屋なのか? どっちの家だったんだ? 親のいる家でそんなことできるのか? 藤沖は渋谷さんを送り迎えしていたという話だったけど、目的はそれだったのか? 藤沖に付き合い相手がいたという話は聞いたことないし、ということはやはり、初めてだったのか? 合意の上なのか? それに、いったいいつだったんだ? 修学旅行が終わってから今日までそんな経ってないし、あっという間にそんなこと、できたのか?
みじん切りの思惟がすさまじい勢いで飛び交う。
目の前にいるふたりが認めている「やった」という言葉を受け入れられない。上総は唾に味がつくくらい奥歯をかみ締めた。
藤沖は言い返さず、こわばった表情で渋谷を見下ろしている。額から汗が流れているのが不可解だ。クーラーがこれだけ効いているというのにひとりだけだるまストーブ状態で座っている。その斜め下で完全に蟇蛙状態でうつ伏して顔を隠している渋谷。さらに正面から冷静に伺う杉本がいた。
──どんな顔して、どんな格好で。
腹の中に太陽がでんと居座ったかのよう。上総の奥底を頭から腰、足元まで激しく熱した。瞬きの合間に言葉がよぎる。
──先にしやがって。
自分が発するべき言葉ではないと、自覚はあった。口を閉ざしていた。
取り直しの一番はこずえの裁量に任される。居心地の悪い沈黙を気楽に破ることができるのはこずえしかいない。迷走している四人を交通整理してくれる。
「ま、一通り、出るところまで出たね。杉本さん、とりあえずどうする?」
杉本にまず声をかけた。本来被害者としての立場だが、空気のよどみからはかろうじて逃れている表情だった。上総も杉本に視線を向けた。例のふたりを見ないようにした。
「私の要求は満たされておりません」
「はあ?」
間抜けっぽく声を作り、こずえが尋ね返した。
「まだ知りたいことあるのはわかるけどさ、やっぱし、やばいよ、これ以上いやんばかんそこはだめよ、的展開はさ」
「古川先輩、違います。私の申し上げたいことは全く別のことです」
無機質に「あいうえお」の束が転がる。杉本でないと発することのできない口調だった。
「私はただ、渋谷さんから事実を直接伺いたかっただけです。最初に申し上げたはずです」
「まあ、そうだよね」
「しかし渋谷さんは謝る以外、何も語ろうとしません」
「確かにねえ」
今度は渋谷にも声を掛けようとしたこずえだが、すぐに杉本から止められた。
「古川先輩、それはいいのです」
「だってさ、聞きたいんでしょが」
「いえ、話せないのでしょう」
杉本は椅子から立ち上がった。こぶしを軽く握るようにして、真上から渋谷を見下ろした。渋谷も顔をあげようとはしなかった。ただ泣き声は立てなかった。聞いてはいるらしいと見て取れた。
「今、藤沖先輩のおっしゃることがすべて事実とするならば、そのことをすべて渋谷さんの口から話していただきたかったのです」
「いやそれはさあ」
上総の言いたかった相槌をこずえが代わりに打ってくれた。
「無理だよ、自分からはねえいくらなんでも。立村がぶち切れたように、本来内緒にすべきことだったんじゃないかって気も正直するよ」
ちろ、と藤沖をにらんだ。杉本は上総に少しだけ目を留めた。その視線を受け止めたら全身が火照っているのを見抜かれそうで慌てて逸らした。
「今のお話でだいたい事情は理解いたしました。渋谷さんは自分の不始末を自分で片付けることができず、それをお友だちに文字通り尻拭いさせたわけですか」
杉本にしては露骨な物言いだった。苦笑いするこずえ。だんまりを決め込む藤沖と渋谷。
「まあ、ほんっとの尻拭いよねえ」
嫌味に聞こえる。
「よく理解しました。渋谷さんは風見さんと佐賀さんに守られて、最後には藤沖先輩を味方につけないと、生きていけないのですね」
──生きていけないとは、それまずい言い方だろう?
はらはらするが杉本相手ならばそれはいつものことだ。
「本来ならばきちんと事前に申告し、夜中に起こしていただくかもしくは先生の部屋に一緒に泊めていただくかして、夜尿症回避策を講じるべきところ、それを怠り、事に至れば今度は人に後始末を押し付ける。どういうことでしょうか。私には全く理解できません。だから佐賀さんが私を犯人に仕立てあげようとしたのですね。風見さんならともかくも。人間として最低ではないですか」
「待って、違うの」
この部屋で初めて渋谷が反論した。顔を上げて、首を振った。顔はぬれたように光っていた。
「佐賀さんは、本当に、知らなかったの」
息絶え絶えに、必死に搾り出すように訴えた。
「佐賀さんは、今でも、私のことを無実だと信じているの、だから、私」
「これだけ証拠が挙がってもですか」
冷酷そうに聞こえる杉本の返事に、渋谷が食らいついた。その背後で藤沖はぐっと俯いている。明らかに渋谷の訴え……むしろ願いに見える……を否定しているように感じられた。
「だから、佐賀さんだけは、本当に知らないの、今でも、本当に、だから、だから」
再び顔を俯けしゃくりあげ出した。前髪は動かず、目はほぼ隠れたままだった。
──佐賀さんが今だに信じているってどういうことだろう?
なぜそこを力強く訴えるのか、そのわけがわからない。上総は藤沖だけを様子見した。女子の意味不明瞭な言葉よりも、男子の分かりやすい行動を観察したかった。
こずえが声をかけた。
「佐賀さんに、ばれてほしくなかったってことよね」
肩を震わせ、両手をついたまま、渋谷は黙って頷いた。
「そっか。さっき言ってたね、佐賀さんには知られたくなかったって。なのに佐賀さんのいる部屋でおねしょしちゃったからばれるのは時間の問題。だからなんだね」
「何がだからなのですか」
上総と同じ疑問を杉本はシンクロして尋ねてくれた。
「杉本さん、きっとさ、大好きな友だちに軽蔑されたくない、その一心で渋谷さんは隠したんじゃないかって思うんだよね。だから必死に嘘ついたんだよね。全校生徒に隠したかったというよりも、佐賀さんにだけは気付かれたくなかったんだよね。それと、霧島にも」
「霧島にも」のところだけ、力が篭っているように聞こえた。
「渋谷、いいかげんに諦めろ」
藤沖が口を切った。
「この前も話しただろう。もう佐賀も霧島も、すべてを知っている」
激しく被りを振り、藤沖に背を向けたままの渋谷。椅子から立ち上がった藤沖は後ろから回るようにして、そっと肩に片手を置いた。顔を覗き込むことはしなかった。
「もう隠してもあのふたりには無駄だ」
「だって、だって、違うって」
肩に手が乗ったとたん、また身体が震え出したようだった。杉本が仁王立ちで見下ろす先、上総とこずえが椅子に腰掛けたまま見つめる先、藤沖と渋谷だけが語りつづける。
「あのふたりにだけは、真実を話せ。あのふたりは条件を呑めば、黙ってくれる」
震えが止まった。さらに藤沖はとつとつと言葉を繋いだ。
「俺が今日、ここでお前を連れてきたのは、諦めさせるためだ」
「諦めさせる?」
こずえが問い返した。そちらには答えなかった。
「どんなに霧島を誘っても無理だ。霧島は佐賀に惚れている。だから諦めろ。だが、佐賀を味方につけて霧島を黙らせてもらうなら、できる。霧島は佐賀の言うことなら素直に聞くだろう。暫くは我慢するんだ」
膝をつき、正座した。杉本に向かい合った。
「今回の件は、渋谷と一緒に謝りたい。申し訳ない」
手をついた。一度腕をつっぱらせるようにして、床に額をすりつけるようにして頭を下げた。
「謝っても許してもらえることではないと承知している。だが、いま渋谷は」
半そでで、ハンカチで隠していた渋谷の手首をいきなり握り、引き寄せた。身をよじる渋谷をにらみつけ、ハンカチを取り去った。白い包帯で覆われていた。
「このままでは死ぬかもしれない。どんなに周囲が彼女の失敗を受け入れたとしても、立ち直れないかもしれない。どんなに霧島や佐賀が許したとしてもだ。これ以上、周囲の冷たい視線に耐えられる女子じゃないんだ」
「本当にそうみたいですね」
冷ややかに杉本は答えた。感情に揺らぎはなかった。
「犯人になってくれとは言わない。ただ、この事件については口を閉ざしてほしい、それだけだ」
「ずいぶん都合がよろしいですね」
また杉本が冷たく返す。全くもってその通りだと上総も思う。
「俺は、ただ、もう見たくないんだ」
吐き出すように、藤沖が俯いたまま、その名を告げた。
「霧島の姉のようなことには、もう二度と、なってほしくない、それだけだ」
──霧島さんのことか!
「藤沖、あんたまさか」
演技でない驚きの声はこずえだった。
「ゆいちゃんのことをあんたまさか」
答えの代わりに藤沖は小さく頷いた。
繰り返し「死なせたくない」そう訴える理由の核はそこだったのか。
「霧島先輩のことを」
杉本も言葉を詰まらせた。可愛がってくれた霧島ゆいのことを、杉本は西月小春と同様慕っているはずだった。今まで話題として「霧島」が現れたのは弟のことのみだった。しかし今、姉が浮かび上がった。
「俺はもしかしたら、霧島の姉のことを早い段階で救うことができたかもしれない。退学させられる前に生徒会長として何か手を打てたかもしれない。西月や清坂が教師たちに抗議を行おうとした際になぜ協力を申し出なかったのか。今も、後悔している」
ゆっくり、渋谷が身を起こした。顔を上げ、何度も顔をこすり、振り返り藤沖を見上げた。目が合ったようだった。ヘアバンドのゴムが眉間のところまで降りていた。
「俺がしようとしているのは、霧島への償いだ」
声を震わせ、唾で言葉を示しつつ、続けた。
「ゆいちゃんの方? それとも弟の方?」
「両方だ」
短く答えた。
口を尖らせて、そのくせびくびくしながら様子を伺い、怒られそうになると大嘘こいて逃げ出して、一夜明ければまた知らん顔して近づいてくる。霧島ゆいの弟はそんな奴だった。上総は霧島の整った顔を思い出した。渋谷を罵倒している時のいきり立った表情と反して、年上お姉さんのグラビア写真を眺めている時は鼻血まで噴いている。そんな霧島を藤沖はどういう視点でとらえていたのだろうか。
「生徒会役員としてこれから普通に接してもらえるよう霧島には頼み込むつもりだ。佐賀ともその路線で話がついている。学校側もそれなりにフォローを考えているようだ。ただそのやり方が露骨すぎて杉本に迷惑を掛けてしまったことについては一言もない、申し訳ない」
再び手をついて頭を下げる藤沖を、杉本は冷たく高みから射た。
一切動じていないように見えた。
霧島ゆいに関する言葉が出てきた時だけだろう、揺れたのは。
可愛がってくれた女子の先輩たちには心から感謝を捧げる杉本の性格はよく知っている。
「藤沖先輩、それならばお伺いいたしますが」
言葉を切って、上総に向かいかすかに頷いた。何の意味かはわからなかった。
「私は濡れ衣を着せられたままでいろというのですか」
「違うよ、杉本さん」
慌ててこずえが止めに入ろうとした。上総は即座に手で制した。条件反射だった。腕を思いっきり払われた。
「私は、佐賀さんに修学旅行の後も疑われました。私ならば、そういうことがあっても不思議ではない、私ならば隠してしまう可能性だってある、そう堂々と言い切られました。今のお話ですと真実を佐賀さんは知っているとのことですが」
「事実だ」
短く、また藤沖が答えた。
「そうですか。ならば、佐賀さんからも、謝罪していただきたいのです」
「佐賀さんに?」
また顔を覆って泣き出す渋谷を杉本は無視した。
「唯一の条件です」
──唯一の、ってどういうことだ、杉本?
問い掛けたくて声を出しかけた。ここはとことん、罵倒し、叩きのめし、再起不能の荒技をかけて上等だ。もっとしつこく条件を重ね出ししても文句は言われまい。
「そうです。もちろん全校生徒の前でとは申しません。第三者の立ち会いのもと、きちんと謝罪していただきたければ、私はすべて水に流しますが、いかがでしょうか」
もう一度杉本は上総に視線を送った。横目で、細く流した。
「水に流す、ってことは、杉本、お前」
恐る恐る問い掛けると杉本は唇をきつく閉じたまま、目だけで頷いた。上総にしか分からないかすかな肯定の意だった。
「佐賀さんが私に頭を下げるなら、渋谷さんの真実については、何も言わずに通します。それが条件ですが、お答えくださいませ」
きっぱり言い放った。杉本の放った言葉には、誰もが言い返せなくなるような重たい響きが詰まっていた。小さな鉛の飛礫を投げつけたかのようだった。
「佐賀に謝罪させるということか」
杉本は頷いた。それ以外微動だにせず答えを待っていた。藤沖もまた、渋谷をじっと見つめた後、一呼吸置いてゆっくり答えた。
「わかった。俺が立ち会う。佐賀とは話をする」
「本当ですね、お約束していただけますか」
上総は椅子から立ち上がった。
「杉本、お前がされてきたことを、そんなことだけで片付けて、本当にいいのか!」
横から手首をひっぱるこずえを振り払った。パイプ椅子が斜めにずれたのは勢いだった。驚かず、右向け右の要領で杉本は向き直った。
「はい、その通りです」
「お前、してもいないことをしたことにされて、変な目で見られて、馬鹿にされて、なのになぜその程度のことで許せるんだよ!」
「立村先輩、仰る通り渋谷さんをはじめとした人々の、私に対する仕打ちはそう簡単に許せることではございません」
「なのになんで許してしまうんだよ! 杉本、今までさんざん酷い目遭わされてきたんだろ。殺してやりたいくらい憎いだろ。なのに、佐賀さんに謝ってもらうだけで、我慢できるのか。佐賀さんが土下座してくれれば、今までのことをすべてご破算にできるものなのか?」
「立村先輩、私は許したわけではないのです」
一歩、前に出て両足揃えて立った。「きょうつけ」の姿勢だった。
「これ以上話をしようとしても、渋谷さんには無駄なのだとよく理解しました。この人には何を尋ねても、ご自分の言葉で話そうとする意欲を感じません。修学旅行前まではさんざん私を佐賀さんたちと一緒に馬鹿にしていたくせに、いざ立場が逆転するとただ泣きじゃくってすべてを他の人たちに押し付けようとなさいます」
くい、と首を曲げて渋谷をねめつけた。視線を合わせてもらえなかったようだった。すでに渋谷と藤沖は顔を合わせて何か無言の会話をしているようだった。
次に杉本が身体を向けたのはこずえにだった。合わせてこずえも立ち上がり手を差し出そうとした。もっとも杉本は気付かなかったようだった。
「古川先輩、ご安心ください。私は人殺しなどするつもりはありません」
「杉本さん、あのね」
「霧島先輩や西月先輩のように辛い思いをさせたいとは思いません」
「そうか、そうなんだ」
肯定しつつもこずえの言い方には戸惑うような不安が混じっていた。
「藤沖先輩はまるで私が弱い者いじめをしているように思われたようですが、そんなことをするつもりはありません。愚かな男子たちや教師たちに疑われようが何しようが私には関係のないことです。私の絶対無実を信じてくれている人がいるのですから、そんなこと気にするつもりもありません」
「そうだよ、杉本さん、さっきからさあ立村がおろおろしちまってさあ」
こずえが余計なことを言うものだから、ぴっしゃりと叩きのめされてしまった。上総の顔をにらみつけ、首を一振り。
「いえ、立村先輩は私を百パーセント信頼していただけませんでした。最初に仰いました」
「立村、あんたほんと」
答えられない。事実だ。歯噛みしたいくらいだ。上総の顔をじっと見据え、
「立村先輩は、私がそういうことをしてしまう可能性を捨てきれないとはっきりおっしゃいました。現場にいたわけではないのですからしかたないそうです。ですから私を無条件で信じてただけたわけではないようです」
「杉本、違う、ちゃんと俺、あのあと言っただろ! 事実がどうであれ俺はお前の味方でいると話しただろ!」
言い返すが全くもって杉本、聞く耳を持たぬようだった。
「それはかまいません。立村先輩が信じなくとも、私を百パーセント信じてくださる方がいらっしゃることを、教えていただきましたから平気です」
「あいつのことかよ!」
名前は出せなかった。
視聴覚教室にてひたすら仲よしの女子と肩並べて英語のヒアリングに勤しんでいる奴の顔がちらつく。戸を開けばその脳天気な面がすぐに目に入ってくる。きっとここでの会話は聞かれていないだろう。しかし杉本もその相手のすぐ側で、名を聞いて頬を赤らめたくはないだろう。可能ならば、無理やり杉本を引きずり出してそいつの席に連れて行き、「本当に杉本のことを百パーセント信じているのか証明してみろ!」とどついてやりたいところだ。
──俺は、無条件で杉本の潔白を信じたわけじゃないさ。証拠がないんだ、当たり前だろ。
──けど、白黒関係なく、味方でいるって伝えたじゃないか!
──万が一、嘘をついていたとしても、嫌いにならないって言ったじゃないか。
──それでも、だめなのか? 奴でないと、意味がないのか?
──百パーセント信じているなんて、どうやって数値出したんだよ!
杉本はこっくり頷いた。
「あのお方が信じてくださるのならば、私は他の愚か者に何を言われようが生きてゆけます。私の真実を貫けます。そこでおどおどびくびくしている渋谷さんのように、誰に守られなくてもその、信頼だけで胸を張って歩いてゆけます」
そこまで言い切った後、杉本はさっと戸を手で示した。四本指を揃えて美しく指した。まだ地べたで這いつくばっている二人に言い放った。
「これ以上、おふたりに話すことはございません。藤沖先輩、佐賀さんの件はどうぞよろしくお願いいたします。では、お帰りなさいませ」
最後まで杉本の言葉ぶりは、かたくなすぎるほど感情が押さえられたままだった。
「杉本さん、私」
支えられて立ち上がった渋谷が、戸に手をかけようとしてそっと呼びかけた。
「ごめんなさい」
「お詫びの言葉は十分いただきました」
冷ややかに杉本が返す。次に藤沖が黙ったまま、ふかぶかと頭を下げた。
「約束を守ってくださいませ」
戸を開け、よろよろしながらふたりが出て行った。視聴覚教室の生ぬるい空気が忍び込んだ。椅子を畳んだのはこずえだった。立ちすくんだまま動けなかったのは上総だった。手伝い、ほうきをまた持ち出そうとしたのは杉本だった。
「なんで掃除したがるんだよ!」
「ここ、綿ぼこりがひどいので」
教師用机の下を指差した。上総は素早くほうきを取り上げた。
「こんなことするより、もっと話すことがあるだろ」
「お話したいことはすべて語らせていただきました」
パイプ椅子を片付け終えたこずえが近づいてきて、上総からほうきをひったくった。
「杉本さん、今日は、杉本さんが一番強かったよ」
「本当ですか」
「うん、かっこよかったよ。男前だったよ」
今まで封印してきた笑みを浮かべ、杉本のポニーテールに触れた。
「それにしてもさ、すっごく長くなったよねえ、杉本さんの髪。つやっつやしてる」
「ありがとうございます」
「杉本さんには辛い決断だったかもしれないけど、あのふたりは心底感謝しているよ。いい、杉本さん、もし何かこれから酷い目に遭ったら次回からは私たちが守るからね。風見さんのことは私も知らなかったから何も言えないけど、でもあれはひどいよ。佐賀さんだけじゃなくてさ、風見さんにも土下座させるべきじゃん?」
「いえ、いいのです。あんな人と話をすること自体、無駄です」
杉本はポニーテールをひとふりし、鞄をぶら下げた。
「それでは私も、これから期末試験の勉強がございます」
「待てよ!」
荒っぽく上総は前に立ちはだかった。
「話は終わってないだろ!」
「何を話せというのですか」
きりきりとまた気色ばむ杉本に、上総は言葉を飲み込んだ。そのわずかな隙間を縫ってこずえはいきなりスラックスのベルトに手をかけようとした。何考えているんだ、慌てて身をよけた。そういう趣味じゃない。
「杉本さん、立村ね、どうもジェラシーで頭がかあっとなっちゃったみたいなんだよね。ま、向こうには関崎たちもいるし、押し倒されたりはしないと思うから、せっかくだし少し立村と話してったほうがいいよ。杉本さんと違って立村の奴、明日の期末試験全部捨ててるからさ。そうだよね立村?」
「捨ててないよ」
「ったく、あんたさ、藤沖に童貞卒業されたからってそんな青ざめてるんじゃないよ。なんだろね、男子ってほんっと馬鹿ってか、アホだよね。言っとくけど杉本さんに変なことするんじゃないよ!」
「失礼なこと言うなよ」
すでにこずえはいつもの「下ネタ女王」の顔に戻っている。その奥で生真面目に行司軍配を振りかざしていたこずえの姿は消えていた。上総はその顔に何か、隠されていないかを読み取ろうとした。ずっと部屋の中で感じていた、こずえの見えない企みのようなものが浮かんでいないのかを探そうとした。杉本を、こずえの目的通り説得しきってしまったその技がどこからきたのかを確認したかった。杉本の、一番弱くてほしがっている部分をどうやって突いたのか、その理由はやはりこずえにあるような気がした。
「古川さん、それよりまだ聞きたいことがあるんだ」
「悪いけど私もお先!」
きっぱり断られた。ショートカットの髪をぼりぼりかきながら、スカートを膝上まで持ち上げ、ぱふぱふ仰いだ。中は見えない。観たくもない。
「明日の試験しくじりたくないからね。詳しい話はまた後で。それと立村、今日のことしつこいようだけど、美里にも誰にも話しちゃだめだよ。あ、それと本条先輩にもさ!」
──別に俺、清坂氏にも本条先輩にも話す気ないのに。
勢いよく戸を開け放したまま、こずえは視聴覚準備室を出て行った。楽しげに向こう側の関崎たちと「うわー、彰子ちゃんのクッキーって美味しいよね」などと語らっている声が聞こえた。やはり、こずえが企み人という上総の直感は間違っていたのかもしれない。
「杉本」
「はい」
「この前、言っただろう。お前には叩きのめす権利があるって。とことんやり返していいって言っただろ。どうしてそうしなかった?」
答えようとして、言葉に詰まったのか杉本は黙った。上総が続けた。
「関崎がお前のことを信じているからか」
「立村先輩がそう仰いました。古川先輩もです」
「俺は関崎が百パーセント杉本のことを信じている、とまでは言わなかった」
「でも、信じていただけているとは伺いました。立村先輩、先ほども申し上げましたように、私は平気です」
「本当に、いいのか? 何度も聞くが」
「私が真実しか述べていないことは、私が一番よく知っております。ですからあの頭の悪い男子たちや、話をゆがめようとする生徒会の女子たちが何を言おうが」
杉本梨南の顔が少し赤らんだ。
「私はまっすぐ真実を貫いて参ります」
上総をじっと、力いっぱい見据えた。
「先輩にこれ以上、ご心配いただかなくても結構です」
なぜ、杉本はあんなにあっさりと許してしまったのだろう。せっかく、強気で罵倒できるたった一度のチャンスだったのに、杉本はなぜ、佐賀はるみの謝罪のみで許せてしまったのだろう? そこまでして佐賀に認めてほしかったのだろうか? 自分をかつて裏切った佐賀に土下座させたいという願いが、渋谷たちに押し付けられた冤罪をも上回るものだったのだろうか。理解できなかった。
完璧な勝利を杉本にはおさめてほしかった。
願わくば全校生徒の前で、自らの潔白を証明させてやりたかった。
佐賀はるみに奪われた杉本梨南のプライドを少しでも取り戻させてやりたかった。
もしこのまま、事実が曖昧なまま幕を引くとなると、学校側はもとより、杉本を嫌う男子連中たちが都合よく解釈し、不利な方向へ物事を持っていかせようとするだろう。事実無根として言い返せるならばまだしも、今の話し合いでは一切何も事実を伝えない条約を結ばされてしまったようなものだ。さんざん泣いて泣いて同情をひこうとし、いちゃついた関係の藤沖には援護射撃をさせ、結局自分の身を守った渋谷名美子を、どうして許せるのだろう。
「これから周りが、誤解を煽り立てても杉本は言い返す権利がなくなるんだぞ、それを受け入れられるのかよ!」
「はい、かまいません。私は、あの方が信じてくださっていることを知ってます。それで十分です」
「高校の奴らが杉本を信じても、中学の奴らが嘘を信じたらどうするんだよ。だから俺が言った通りに」
──どうして、叩きのめさなかったんだよ!
言葉を遮られた。
「完璧な方に私の真実を認めていただけたのです。それ以上何も必要ございません」
杉本はくるりと回れ右をし、開いている戸から出て行った。二歩、歩いたところでいきなり足が留まっていた。
──関崎が、いたのか。
戸の向こうを眺めはしなかった。ちらっと覗き込んだ時に杉本が人形のような歩き方でもって関崎に近づこうとし果たせず、一礼した姿を目にはした。顔を覆って姿を消したところまでは見えていた。それがどうしたというのだろう。知ったことではない。
──完璧な奴の前では、杉本は杉本でなくなってしまうんだ。
椅子に腰掛けようとした。クーラーと外からの柔らかい空気とが交じり合い目眩を感じた。うまく座れず床に尻餅をついた。杉本が気にしていたのがなぜかよくわかる。灰色の綿ぼこりだらけだった。立ち上がれなかった。
──あんなの、杉本の判断じゃないだろう?
鞄を脇に置いた。膝を抱えた。膝のとがった部分に頭を落としこんだ。
──関崎も、佐賀さんも、ちっとも完璧じゃないだろ?
──けど、完璧な奴らが認めて、頭を下げてくれれば、それで間に合ってしまうくらい杉本は単純な人間だったのか?
杉本は佐賀に謝罪させることができると、舞い上がっているようだ。関崎が信じてくれていると思い込みはにかんでいる。欲しくてならなかったものが手に入る、そのためならば自分がおねしょ事件の犯人として疑われることなんか些細なことなのだろう。これから先、ずっと疑われて軽蔑されたとしても、平気なのだろう。
それに、
──佐賀さんもまさか、本気で謝るとは思えない。
杉本の求めるような形で、適当に頭を下げるかもしれない。そうやって機嫌をとっておけば丸く収まることを佐賀はきっと見抜いているに違いない。杉本が惜しいのは、自分を認めて、勝者として扱ってもらえることだろう。佐賀がそんなことをするとはどう考えても思えない。もちろん杉本の機嫌は取るだろう。しかし、その目的は渋谷のしくじりを隠すためのことであり、杉本梨南をかつての親友として受け入れるということではないはずだ。
──そんなことにも気付いてないのか、杉本は!
目先の利益に目がくらんだ。そうとしか思えない。これからのあと半年以上、「修学旅行の夜におねしょして、人に押し付けようとした犯人」としての色眼鏡を、本当に杉本はやり過ごしていけるのだろうか。
──関崎だって、しょせんあいつは静内さん相手だろう。
その事実に気付く日が遅れてくれればいいと今までは思っていた。しかし今は違う。早く現実を突きつけてやりたかった。「完璧」な男子は誰も、杉本本人に興味など持たないのだと、教えてやりたかった。藤沖が渋谷さんを守ろうとしたような行為は決して、ありえないのだと。ポニーテールの髪の毛を解いてやり、ブラウスのボタンが飛びそうな部分に手を触れたいとは、決して思わないのだと。
頭の中がぐちゃぐちゃだ。腹の底に埋もれた太陽が熱く、再び上総を焼く。
デリカシーなく踏み込んできた足音に、上総は首だけ動かした。
「立村、終わったか。話し合いは、できたか」
大股に上総の前へ立ちはだかったのは関崎だった。ずっとヒアリングの特訓をしていたとは思えない。静内たちといちゃついていたのだろう。その姿を杉本にも見せつけることができたのだろうか。入る時に静内についての説明をあえて「関係ない人」などと言ってしまったが、今なら別の形で説明する。「時間の問題」と。
適当に頷くと、関崎はほっとした風に肩を揺らした。
「ならよかった」
「よくない」
──こいつ何考えてるんだよ。
繰り返し感じる関崎ののんびりぶり。さっき杉本を見つめた時に気の利いた言葉でも口にできたのだろうか。できるわけない、とは思うが、どうだろう。
ぐっと喉が詰まってくる。咳き込みそうになる。声が低くなる。ひっかかる。
──何にも考えていないんだろうか。
これからどれだけしんどいことが続くか、杉本だってわかっているだろう。なのに、このとてつもなくポジティヴなこの男ひとりのために、
「嘘をつかせて、真綿で首を締めるような真似して、これが話し合いなのかよ!」
誰を責めているでもない。決して関崎相手ではない。ただ、誰かにぶつけないとこみ上げてくるもので醜態さらしそうだった。予感がする。
気付いていない関崎は、やはり不思議そうに尋ねてきた。
「お前さっき、終わったと言っただろ?」
「不平等条約を呑まされただけだ」
「不平等条約とは日本とアメリカのあの条約か」
──こんな奴と杉本は、あんなことこんなことしても、平気だと思えるのか?
──渋谷さんと藤沖みたいに。
叫びたい。でもできない。声を殺すしかなかった。
「そんなこと違うのはわかっているだろう! 関崎、お前はどうなんだ?」
確認してやりたかった。嘘か真か、本当に関崎乙彦は、杉本の味方であろうとしているのか。その証明をしてやりたい。言葉が溢れ出し、止まらない。
「お前だけは、杉本を信じてやってくれたか? 俺が知っている情報はすべて両サイドから提供した。その情報を比べてみて、やはり、杉本の言い分が正しいと判断したか?」
即座に、関崎は首を振った。とつとつと、上総のペースに飲まれぬようにゆっくりと答えた。
「俺は、信じるもなにも、事情を理解できていない。だから、彼女が思っているように、彼女の真実を信じているわけではない」
──やはりそうだよな、やはり、杉本の幻なんだ。
ほんの少しだけ頬の筋肉が動きそう、次の瞬間すぐこわばった。
関崎はじっと、上総に熱く、伝えた。
「立村、お前は信じていると伝えたんだろう。それで十分じゃないか」
身体がびくっと跳ねたようだった。いつのまにか立ち上がっていた。
──伝えたけど、伝わらなかったんだ! それが答えだ!
「十分なわけないだろう!」
綿ぼこりがスラックスの裾にまつわりついた。払う気などなかった。
──俺じゃ話にならないんだって、前からお前に言ってるだろ!
叫びたい、わめきたい。そこで身をもみながら泣きじゃくっていた渋谷のようにつっぷしたい。それができない、だから逃げる、それしかない。
あくまでも鈍感な関崎は、そっと上総の横顔を覗きこんだ。
「お前大丈夫か?」
「痛いだけだ」
すべてが痛い。頭からつま先までが熱く、破裂しそうだ。これ以上関崎と語っていると自分をコントロールできなくなりそうな予感がする。高校生にもなって赤んぼみたいに足をばたつかせて泣きじゃくるなんて、やらかしてしまいそうなほど全身に水分が詰まっている。風船を割った時のようにすべてが溢れ出しそうだった。
──家までは、見せるもんか。
杉本が「完璧」と信じる男の前でこれ以上情けない自分をさらけ出したくはない。
関崎はそれ以上上総に声をかけてこなかった。それだけは感謝した。