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 視聴覚準備室はほこりが溜まったままだった。

「毎日掃除してないのでしょうか」

 入って戸を閉めたとたん、暑苦しさでむせそうになった上総を横目で見つつ、杉本梨南は掃除道具の収まっている場所を探し当て、素早くほうきを抜き取った。

「今から掃除しますが換気のために戸を開けてはいけませんか」

「いいよ」

 ──関崎の声が聞こえても平気ならな。

 上総は入り口の冷房スイッチを探し、適当に押した。一気に涼しくなったから、たぶん効いているのだと思う。ちらっと杉本と、同じ背丈ほどある長ぼうきを眺めた。

「掃除なんかしなくてもいいのに」

「いえ、礼儀です」

 戸を開けるかどうか迷っていたようだが、結局締め切ったまま杉本は綿ぼこりを集め、ちりとりですくい取った。そのごみをどこに捨てるか考えているうちに、次の客人が到着した。

「杉本さん、立村に迎えに来てもらったの? ふたりきりで、襲われたりしなかった?」

「失礼なこと言うなよ」

 言い返しても無駄。軽口叩くような場ではない。上総は杉本からちりとりを引ったくり、

「これ、どこに捨てればいいんだ?」

 尋ねた。

「ご苦労だねえ、掃除なんかしてるんだねえ」

「この辺のごみ箱か」

「いいよ、その辺にほっときな。それよかこの部屋、パイプ椅子って何脚くらいある?」

 奥の机に収まっているのが一脚、その他放置されているのが一脚。合計二脚。こずえは返事を待たずに指差して数え、

「ちょいと待ってな」

 素早く三脚分、視聴覚教室から運んできた。最後の一脚は藤沖が静々と押してきた。

 もうひとり、渋谷名美子を一緒に連れてきた。


「立村、悪いけど椅子を並べてよ。まず、一対一で相撲の取組みみたいにして、行司が私、その両隣にあんたらが座りな」

 すでにこずえは準備を整えていたようで、ひとりちゃっちゃと席を整えていく。てっきり円座で話をするのかと思っていたのだが。藤沖もいつものでしゃばりを控えているのか、渋谷の後ろでただでくの棒状態で突っ立っている。杉本だけがいそいそとこずえの手伝いをしているのが面白い。相変わらず感情のない声で、

「古川先輩を挟む形ですね。相撲というより将棋や碁の対局のようにですね」

 などと確認している。確かに取組みというよりも対局と言った方が、これからの会話には繋がるような気がする。

「全く、こういう時って男子、全然つかいもんになんないよね。ほらよく言うじゃん、立会い出産の時、付き添った旦那がショックのあまりそれ以降立たなくなるってさ。それに近いよね」 

「全く話が繋がってないだろ」

 こずえは意に介せず、杉本をまず戸口側に座らせた。

「藤沖、あんたは私の左隣、立村は右隣に来な、それと渋谷さん、あんたは」

 言葉を切り、きっぱりと告げた。

「杉本さんの真正面に座りなさい。今日はどういうことか、わかるよね」

 絶句しているのか、身動きできず身体をこわばらせているようだ。藤沖が異議を唱えた。

「一対一はないだろう。俺が隣に入るとかそういう風にしろ」

「ばっかだねえ藤沖、今日なぜわざわざ、大嘘ついて視聴覚教室借りたっていうのよ。関崎たちのヒアリング訓練のためじゃあないんだよ。こういう時しか杉本さんと渋谷さんが本気で話できないじゃん。外で、誰かが聞いてるかもしんないとこでさ、修学旅行でおねしょしちゃた話とかそんなこと口に出せないでしょうが。いい、ここはね、今から事実だけを全部ぶつけていく場にするからね」

 こずえの意図するものが見えなかった。

「古川さん、その、事実だけぶつけるって意味がわからない」

 思いっきりはたかれた。蹴りでなくて助かった。

「あのさ立村、何度も話し合ったでしょが。杉本さんも渋谷さんも、双方納得する形でこの問題にピリオドを打つ、そのためでしょうが! 私と、ふたりの保護者たる立村と藤沖」

「私は立村先輩に保護者になってもらいたくありません。反対です」 

 即、杉本が反論した。もっとこずえに対しては噛みつきはしない。こずえはあれでも女子だからだろう。すぐに機嫌を取るような口調でこずえは受け答えしている。。

「ごめんごめん、言葉の綾よ。こう言うのもなんだけど、一番口の堅い先輩ふたりってとこかな。つまりさ、ばれちゃまずい話をするわけでしょう。そのためには絶対口外しない相手でないと証人になんないじゃん。立村ならさ、杉本さんの不利になるようなことばらしたりしないよ、そうだよね、あんた」

 失礼だが、全くもってその通り。上総は梨南に向かって頷いた。言葉は発しない。こずえは次に、藤沖へ投げかけた。

「あんたもそうだよね。わかってる?」

「当たり前だ」

 藤沖はこずえに向かって言い返した。席にそれぞれ着いてから、なぜか藤沖と渋谷、ふたりとも顔を合わせようとしなかった。渋谷がトレードマークの黄色いヘアバンドを前髪にかぶせ、ぴたりと押さえていた。眉も目の半分も隠れ、覗き見ている感じに見える。

「だが、並び方に難はないか」

 やはり同じ疑問を感じたらしい。藤沖が食い下がる。

「せめて俺が隣にいくとかだな」

「藤沖、うるさい。これ以上しつこいこと言ったら、殴るよ」

 明らかに差別だ。上総にははたいてきたこずえだが、藤沖には口頭のみだ。

「私を含めて高校生三人組は、立会人であってそれ以上の何者でもないんだからさ」

 全員曲がりなりにも席に着いた後、こずえから再度の申し渡しがあった。

「今から杉本さん、渋谷さん、私が言った通り言いたいこと腹かちわって全部しゃべっちゃいなさいよ。けどここで話したことは全部、この場限りで終わらせること。それは約束できるよね」

 杉本が直角に向きを替え、「はい」ときっぱり返事した。

 渋谷は項垂れたまま、肩を震わせている。手首にハンカチを当てるような仕種をしているのがやけに目立つ。

「それともうひとつ、立村と藤沖。これから彼女たちが語り合っている間、口出ししたくとも絶対に割りこまないでちょうだい。今回はあんたたちでなくて、杉本さんと渋谷さん、ふたりのための話し合いなんだからさ。ただ聴くだけに徹しな」

「だが、誰かが舵を取る必要があるだろう」

「それを私がやるのさ、行司軍配」

 珍しくこずえは笑わずに言い放った。

「あくまでも男子ふたりは立会人だからね。それは守りなよ」

 反論一切許さぬ態度だった。男子二人も、女子二人も、黙らざるを得なかった。


 ──けどさ、時と場合によるだろう?

 上総は杉本の、きちんと背を伸ばして正面を見据えている姿を見やった。

 ちょうど上総から見て直角の位置に椅子がくる。

 立会人というよりも弁護人の意識をもって本日来たわけだが、こずえの認識とは若干異なるらしい。いつもならば気兼ねなく「それは違うだろう?」そう反論したくなるのだが、こずえのかなり生真面目……めったに見かけない……な口調には待ったをかけられてしまう。

 ──もっとも、今回に限っては、杉本が有利だしな。

 今までは杉本梨南イコール悪者扱いをされてきて、その陰で上総が懸命にかばい、そのかいなく敗れ去るケースがほとんどだった。もちろん今回も全くその可能性がないわけではないのだが、正真正銘無実であり本来の白黒はついているはずだ。話し合うべきはその白と黒をはっきりさせた上で、今後の展開を協議する、それだけだろう。物言いをつけるというよりも、どのように観客へ説明するかへの相談、行き着くところはつまりそこだ。

 ならば杉本へできる限り有利な展開を引き出せるように努力するのみだ。

「杉本さんさあ、まず、何を聞きたいか教えてよ」

 男子連中に呼びかける声とは違いざっくばらんにこずえが問い掛けた。

「はい、よろしいですか」

 白い羽織りのショールを滑らせて畳み、膝に置いた。背筋を伸ばしてこずえに頷いた。上総の方は見なかった。すぐに真正面から渋谷を見据えた。

「修学旅行の四日目夜に何が起きたかを、渋谷さんの口から一部始終聞かせていただきたいのです」

 杉本の言葉には迷いがなかった。肩をひくつかせて渋谷が顔を上げ、前髪を透かす格好で何かを言おうとしている。あえて渋谷の方を見るつもりはなかったのだが、それでも自然と彼女の身動きにひきつけられてしまう。上総も凝視した。一緒に藤沖の顔も覗き込む格好となった。

 ──動揺、するよな。

「ごめんなさい」

 一言、発した。こずえも、杉本も、藤沖もみな、渋谷名美子の口許へ注目している。

 両手で顔を覆いつつ、それでもかすかに目だけは覗いているのが上総にはわかる。

 ──様子見してるのか。

「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」

 三回繰り返し、渋谷は噴き上がるような声でうめき、自分の腕で身体を抱きしめた。

「許して、お願い、許してください、私、私」

 そのまま椅子から滑り落ちると同時に、両手を床につけ、激しく背中を震わせた。四つんばいの格好で、腹から泣き声をあげる渋谷の姿を、上総はまた冷静に観察していた。

 ──こうやって、許してもらおうとしているのか。杉本へ濡れ衣を着せたことを。

 ──杉本は、許すのか?

「もう、いいだろう、だから」

 口を挟もうとする藤沖をこずえは再び遮った。

「あんた、さっき私が言ったこと忘れたの? 立会人は口を出すべからずって」

「だが、そんなしゃべることのできる状態じゃないだろう!」

 言葉荒く言い返す藤沖にこずえは屈しない。無視して杉本に問うた。

「杉本さん、今の要求はさ、ちょっと可哀想かなって気はするけどね。ほら、女子だけならいいけど、ここには思春期性欲野獣ばりばりな男子がふたりもいるじゃん。こいつとこいつ」

 無視した。なんで上総も野獣扱いされるのか納得いかない。

「そんな奴らの前で、いくらなんでもさあちょっと、まずいんじゃないかって思うんだよね」

「古川先輩のご心配は理解してます」

 杉本も身動きせず、首だけこずえに向けて答えた。動じていない。

「さっき古川先輩が仰った通り、ここで話したことを他の人たちに暴露するつもりはございません。また、その秘密を守ってくださる方々が集まっていることも承知してます。ただ、この場だからこそ確認したいこともあるのです。私は事情が全く飲み込めぬまま巻き込まれたわけですので、実際にどのようなことが起きたのかを、当事者である渋谷さんから聞きたいのです。事実を聞いた上で、私は今後の判断を考えたいと思います」

「事実って単純じゃん、渋谷さんが布団に地図描いちゃったってことだけじゃん」

 ──古川さん露骨だな。

 事情が事情でなければとりなしもするのだが、今回上総は黙っているつもりだった。当たり前だ、行司役古川こずえの厳命に逆らう気などない。ましてや杉本の有利な展開に運ぶためならば、当然のことだ。

 杉本は落ち着いた口調のまま、こずえを見返した。

「私が知りたいのはその後の事実です。渋谷さんがどのような夢を見て失敗されたのかとか、なぜ前もって保健の先生にその有無を報告して夜中起こしてもらうよう手はずを整えなかったのかとか、そういうことはどうでもよいのです」

「まあ、そりゃあ、そうだよね」

 合いの手を受け流し杉本は続けた。

「私の個人的調査によりますと、まず四日目夜に同室だったのは佐賀さんと風見さん。そのうち佐賀さんはその失敗の事実を噂になるまで知らなかったと言い張っております。また、私が粗相をしたという噂はどうやらC組の女子たちから流されてきたようです。そう考えるとどうも風見さんが何かを企んだのではと思われます」

「私、それは、わかんなくて、ただ」

 はいつくばったまま、渋谷がうめく。霧島の前でぼろぼろになり壊れていく姿を知るだけに本来ならば、もっと同情とか哀れみを感じてもいいはず。少なくとも今までの上総だったら杉本に、もう少し手加減しろくらい言うだろう。

 ──俺は口出しする権限がない、立会人なんだから。

 杉本の言いたいことがすべて流れるのを待つ。

 改めて杉本は、渋谷に向き直った。

「事が起こった際、なぜ渋谷さんは、保健の先生の所へ報告に行かなかったのですか? まずあの場でシーツを私の部屋のものと取り替えるなんてそんな小細工で、ばれないと思ったのですか?」

「ごめんなさい、ごめんなさい、許してください!」

 何一つ具体的な返事をせず、ただ土下座するだけの渋谷がいる。

「許す許さないはこれから決めることです。私は真実を知りたいのです」

 クーラーの送風が弱まったのか、少し汗ばむ。ハンカチで首を拭きたいのを我慢する。

「私はただ、なぜあなたが、風見さんから噂を流すよう指示をしたのか、その理由を伺いたいのです。ですが明朗な理由などを説明することは今のあなたには難しいでしょうし、ならばなぜ風見さんがすべてを取り仕切って私の濡れ衣計画を立てたのか、その舞台裏を知りたいのです」

 ──話し言葉じゃないだろう、今の言い方。

 杉本にとっては日常的口調も、他の連中には違和感ありありだろう。藤沖も四角い顔を引きつらせている。さぞ、黙っているのはしんどいことだろう。ふたたびこずえが一呼吸つかせようとする。

「うん、うん、わかるよ。納得いくところまで話してもらわないとどうしようもないってのはよくね。けど、それを今の渋谷さんに求めるのは辛いよ。思い出したくないことをさあ、いきなり単刀直入に尋問したりしてもさ」

「そうしない限り、私は要求を呑めません」

 ぱちり、と一気に撥ね返した。

「私に学校側が要求してきていることは、渋谷さんの不始末を私がしたことにして、今まで通りの日常に戻らせてほしいという話です。正式な申し入れはございませんが明らかな大嘘を誰一人否定しようとしないところ見るとそうでしょう」

 ここまで一気にまくし立て、きつい眼差しで藤沖をにらんだ。

「学校側、および生徒会側がなんらかの事情で渋谷さんを守ろうとし、生贄に嫌われ者の私が差し出される展開を望んでいるのはわかっています。先日も佐賀さんに、まるで私がそういうことをしてしまったかのように説得されました」

「佐賀さんが?」

 謝罪以外の言葉を渋谷が発した。両頬がてかてかひかっている。声も詰まる。

 ──やはり、生徒会長にやられたか。

 予想はしていたし驚くべきことではない。霧島から得た情報を通じて覚悟はしていた。上総はただ黙って聞き入るのみだった。黙ってられないのはこずえひとり、藤沖も顔をしかめたまま口を閉ざしている。

「あの佐賀さんがあ? 失礼なことするよね」

「はい。まるで私が今までそういう癖を持っていて隠していたかのように決めつけました。それこそどうして前もって申告しておかなかったのかとか、私なら可能性としてありうるとか、聞くに堪えない酷い言葉を投げつけられました。幸い、桜田さんがその場におりましたので私の代わりに追い払ってくださいましたが」

 ここまで一切杉本は上総の顔を見ようとしなかった。

 ──杉本の新しい親友なら当然のことか。

 しかし、いつなのだろう。

「杉本、それはいつなんだ」

 こずえのにらむ目を無視して上総は尋ねた。やっとこっちを見てくれた。

「修学旅行終了の一週間あとです」

「俺にあれをくれる前か」

 言ってしまった後で「あれ」はないだろうと舌打ちする。「あれ」は現在、自宅の机引出しに収まっている。千代紙細工の小さな指輪。杉本に会って修学旅行の様子について確認した段階で気付くべきところを見逃していた自分が情けない。

「はい」

「なんで俺にそれ、報告しなかったんだよ」

「私個人の問題をなぜ、立村先輩にお話しなくてはならないのですか」

 直角に、少し後ろ目に杉本は首を回しきっぱり答えた。

「もっと早くわかればもっといい方法取れただろ、こんな大事になるまえにさ」

 まだ言い募りたいことはあったのだが、隣のこずえににらみつけられしかたなく飲み込んだ。

「あーあ、立村も痴話げんかしたいんだったら終わってからにしてよ。話戻すよ」

 ──真面目な話、してるだろう?

 非常に密接な状況確認のはずなのだが。

 だんだん部屋の空気がぱさついてきたようだった。喉の奥がちりちりしてきた。上総は小さく咳払いし、怖いこずえの指示に従った。


「今の立村の話にも関係するんだけど、佐賀さんが杉本さんに言いがかりをつけてきたってことはどういうことなんだろうね。杉本さんがまるっきり犯人と決め付けてきたのか、それとも渋谷さんの事情を知ってその上で濡れ衣を着せようとしたのか、か。そのあたりについてはどうなの、渋谷さん」

「……ごめんなさい」

 また、同じ謝り文句を繰り返すようだ。渋谷の直角側で見守っている藤沖も、かすかに頷いている。まさかとは思うがふたりで口裏合わせて「とにかく謝り倒して逃げ出そう」とでも思っているのか。その辺は上総も読みきれない。杉本が理路整然と話の要求をしてくるのと比較して、とにかく頭を下げるだけ、実のある言葉を殆ど発しようとしないのは不思議だ。

「謝るんじゃなくてさ、つまり、佐賀さんはあんたのおねしょのこと知ってたの?」

 いらだったのかこずえの口調もも詰問調だった。

「ごめんなさい、私」

「ごめんは聞き飽きたの。イエスかノーか!」

「悪い、古川、俺が答える」

 四つんばいで何度も腕立て伏せのように頭を下げる渋谷を見かねたのか、藤沖が割って入った。クーラーが入っている部屋とは思えないほどの赤い顔が重苦しいほどだ。上総は横目で様子を伺うだけに留めた。見たくもない。

「あんたに答えられたってねえ」

「まず、例の質問だが」

 ちらと、渋谷に視線を走らせ藤沖は断言した。

「佐賀は騒ぎになるまで何も知らなかった」

「なんでそう言いきれるわけ?」

「生徒会室で直接佐賀に聞いた。全く気付かず当日の夜は寝入っていた」

「なんかさそれ、直接部屋にもぐりこんで観察でもしてないとわかんないよね。誰かさんと違って」

 こずえの視線がほんの少しだけ笑って上総を観たようだった。

 ──勝手に言えよ。

 ちょうど一年前、似たような事件をやらかした盟友なのだから、しかたない。


 上総には「黙ってろ」と一方的に制止したこずえだが、藤沖に対しては基準を甘くしているらしい。しばらく話を続けさせていた。不公平である。

「じゃあ杉本さんの言う通り、おねしょシーツとふとんをすり替えたのは風見さんということよね、どうなの、渋谷さん?」

 質問は渋谷に向けられているのだが、返ってくる言葉は「ごめんなさい」だけだ。代わりに藤沖が口を出してくる。

「つまり、小学校時代から知り合いの風見が面倒を見たと、そういうことだ」

「ああそうなの、風見さんって渋谷さんと同じ小学校なんだ?」

 ──五年までは品山小学校らしいけどな。

 思い出すのもきつい記憶が、藤沖の声と風見の名前で呼び起こされる。なぜか先日顔を合わせた浜野の自転車姿までひっぱり出されてくる。

「そうだ。いろいろ事情は知っていたらしい。それで修学旅行の時もできるだけ同じ部屋になるように手配してもらっていたようだ」

「私、おねしょには詳しくないんだけどさ、修学旅行の時ってきちんと先生に申告して、真夜中起こしてもらうという約束事があったような記憶あるんだけど。さっき杉本さんが言ってたようにさ」

 どうもこずえも、渋谷に直接話をさせることには消極的らしい。

 自殺未遂を繰り返しているという不安定さを考えると仕方のないことなのだろうか。

 渋谷の這いつくばる姿を杉本は静かに見下ろしている。

「古川、平気でそれできるか。俺ならできない」

「まあねえ、中学になっておねしょが直らないってのは、口に出せないことかもね。けどさ、あえて誰とは言わないけどさ、うちのクラスでいたよね立村。おねしょが直らなくて宿泊研修に行かないとか言い出してさ、結局参加したって奴」

「ああ、いたな」

 さすがに武士の情けで名前までは出さなかった。医師になるため専門の高校へ進学した水口は元気だろうか。奈良岡彰子と仲良く過ごしているだろうか。夏休みどんな顔して青潟に帰ってくるだろうか。少しだけ心がほころんだ。

「じゃあ報告しないで参加して、失敗しちゃったってことかあ。で、風見さんが全部始末してくれたってことかあ」

 考え込みながら整理していたこずえの様子が、はたと変わった。

 横顔の頬骨が斜めに上がっていく。

「ちょっと待ってよ、つまりこういうこと? 渋谷さんが盛大な地図を描いてしまった後で、風見さんが後片付けして、その後で部屋のシーツとふとんを入れ替えたってわけ? ってか、そんな余裕、朝、あったの? どう考えたってそんな時間ないよねえ。立村、私らの時、早朝六時にロビー集合でなかったっけ」

 えらいことになった修学旅行五日目朝のことはよく覚えている。急いでしゃわーを浴び身支度をしたところ笑顔の南雲にお迎えされたあの日のことを。仕方なく頷いた。

「そうだよね、ってことはよ、みんなが部屋を出た後、風見さんが大慌てで戻って入れ替えしたということ?」

 渋谷がかすかに頷いた。

「ちょっとちょっと、それって何? じゃあ最初から、あんたたち杉本さんにおねしょっ子の濡れ衣着せようと企んでたってこと? 私、てっきりなんかの誤解がもとでそういう噂が流れちゃったと思ってたけど、それってそれって」

 慌てているこずえが、何度も渋谷に問い掛ける。

「悪いけどそれが事実だったら、私は公平な判断できないよ! あたりまえじゃん! それで風見さんが杉本さんのしでかしたってことにしようと噂を流したんだよね。学校側とか生徒会側とかそういう問題以前に、裁かれるのは風見さんとあんた、渋谷さんじゃん!」

 声のトーンが上がる。こぶしを作っているのが隣で見ていてわかる。

「それで自殺未遂をしたりして同情引いて、最終的には杉本さんに罪をかぶってもらおうとこうやって集まらせたってことなわけ? 藤沖、悪いけど私、これ以上乗れないよ。立村の味方に立つわけじゃないけど、話が違いすぎるよ」

「古川、違う、話を聞いてくれ」

 どすの利いた声で、藤沖がいきなりこずえの椅子を無理やり直角に向けた。その腕力に上総は密かに驚いた。

「たくましいねえっていつもなら褒めるけど、聞く耳持たないよ」

「違うんだ、今回の件、本当はあいつも」

 言葉を切り、じっと渋谷に目をやった。その視線は杉本にまで届いていないようだった。

「風見の、被害者なんだ」


 上総はすべてを冷静に見通していた。だから身体を動かさずにいられた。

 様子だけは伺うけれども、それ以上追うつもりはなかった。

 ──なんで今ごろ気付いているんだろうな。

 最初から誰かの企みだと気付いていなかったのだろうか。それ自体信じられないが、嘘をつかないこずえのことだからたぶん本当なのだろう。純粋に、自殺しそうな渋谷を救おうと考えていたのだろう。あえて杉本に不利な条件を呑んでもらおうとしたのもそのあたりが理由だろう。しかし、風見が一枚絡んでいると言う話にここまで激昂するとは思わなかった。

 ──どちらに転ぼうが、形勢は杉本有利だ。

 今まで一度も、絶対的多数を味方につけて戦ったことのない杉本。 

 もしかしたら生まれて初めて、正々堂々と勝利をおさめられるのかもしれない。

 ルール違反ももちろんしていない。誰から見ても間違いなし。

 ──杉本、まっすぐ、そのまま行け。 

 言い合いが続く中、上総は机の引出しに埋もれた小さな千代紙細工の感触を、手の平に甦らせていた。



 


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