26
美里が放課後A組の教室に飛び込んできた時、こずえの口調が少し身構えたように聞こえた。ほんのわずかだが、朝から昼下がりまでたっぷりこずえの声を聞き流している上総には、その違和感がしくりと刺さる。
「こずえ、ねえねえ今日、一緒に図書館で勉強してかない?」
「ごめん、今日はさ、藤沖たちとちょっとクラスのことで打ち合わせあるんだ」
手を合わせてにっこり笑顔なのはいつものことだが、かすかな壁を感じる。
ちらっと上総にも目を向け、何か問いたげに首を傾げた。思わず上総も首を振りたくなる。
「えー、試験前なのに?」
「そうなのよ、面倒なクラスよねえ」
──もっともだ。本当に面倒なクラスだよな。
最近思うのだが、美里の髪型が少し上向きのふたつ分けなのは何か心境の変化でもあったのだろうか。あまり中学時代はそういう髪型にしてくることなどなかったのにだ。高校に上がってからやたらと目につく。女子の髪型なんてどうでもいいことだが、頬から下を全部見せる形で美里の顔を観察すると、どことなく幼く見える。中学卒業後たった三ヶ月で若返る……わけもないのに、不思議なものだ。
こずえが素早く荷物をまとめ、
「でさ、でさ、でさ」
何やら話題を替えようとしていた。これから例の視聴覚教室にて行われる話し合いを、美里に気付かれてはならないという一点でのみ、みな意見一致していた。おそらく美里の正義感強く一本気な性格をみな、承知していたからだろう。ただでさえ美里は杉本梨南のことをかねてより可愛がっている。もし、渋谷名美子とタイマン勝負させるなどと聞いたら最後、
「私も付き添うよ! 杉本さんひとりじゃ可哀想すぎる!」
とか言い出しかねない。こずえの判断は正しい。
「この前ねえ、すっごくかっこいい男子の水着写真みっけてさあ」
「やだ、何言ってるのよ、こずえ!」
話を逸らすにしても、まさか「男子の水着写真」で美里が乗って来ると思っているのだろうか。耳だけしっかりこずえ方向に固定し、上総は正面を見据えた。
「いかにもボディービルで鍛えてますって感じでさあ、かっこいいのよね。むきむきしてて、もっこりするところはしっかりしてて、サポーターきついだろうなあってね」
──何が楽しいんだ。
予想通り美里は、露骨に首を振るだけで興味を示さなかった。それはそうだろう。男子ならともかく、女子たちが男子の裸なんぞ見て興奮するなんて考えられない。
「ま、うちのクラスの男子たちには、ちょいと傷ついちゃう内容だからさ、美里もっと詳しく聞きたかったら、廊下行こうよね」
「なによ、そんなの聞きたくない!」
──ああ、清坂氏を追いやるための口実か。
立ち上がり、半ば強引に美里の腕をひっぱっていくこずえを見送った。まだ騒いでいる美里の声がはっきり聞こえる。
「ねえねえ、そんなことより今日、関崎くんも? 一緒に話、するの?」
──やはり関崎か。
上総もちらと関崎を覗き込む。ひとりだけではなく、数人がおもしろげににやにやしながら関崎へ視線を送っている。どうやら上総以外の男女ともに、美里の発言と関崎との接点を勘付いているらしい。こずえはさっさと切り上げるつもりらしい。
「そりゃ、規律だからね。ちょっといろいろとA組同士で準備があるのよ。またさ、帰ったら電話するよ」
「え、学校じゃあだめなの? 少しくらいなら私、待ってるよ」
「時間かかりそうだし、先生たちに見つかったら今度はいろいろと面倒なことになるしね。ほら、明日の期末試験ってことでいろいろ言われるよ。とにかくあとで電話するよ、じゃあね」
しつこく「あとで電話」を繰り返したのが効いたのか、美里は諦めたようだった。
「しょうがないよね。わかった。必ず電話してよ! ね!」
こずえはA組の教室に戻ってきた。大きな溜息をついた後、上総の席に近づいてきた。
「じゃあ、あんたは先に視聴覚教室。しつこいようだけど美里には気付かれないようにしなよ。まかりまちがっても中学校舎に杉本さんを迎えになんか、行くんじゃないよ。気付かれたら面倒だからね。杉本さんにも連絡してあるから、あんたが心配しなくてもいいよ」
言われなくてもそのつもりだった。上総は立ち上がった。後ろの席を確認すると関崎が無言で顔を見上げていた。大きく構えているようにも見える。藤沖が背を向けて椅子の背もたれに座っている。倒れない程度に力を抜いているようだ。器用な座り方するものだ。
言いたいことがないわけではない。しかし、内密にことを運ばねばならぬのも事実。
上総はこずえに目で了解の意を伝え、教室を出た。期末試験一日前。本当ならば即、自宅で机に向かい、数学1の問題集と格闘しなくてはならないはずだった。
──羽飛、ちゃんと清坂氏に何か話、してるのかな。
全く気にならないわけではない。特に自分と親しいふたりの女子が、よりによって視線通り越して関崎を見つめている現状に、まったく心が凪いだままというわけではない。
ただ、美里には貴史がいる。いるはずだ。
東堂とのいざこざがその後どうなったかはあえて聞いていないが、それでも貴史のことだ、いくらでもフォローの仕方を知っているだろう。親友と恋人のぎりぎりふくらんだラインの点にいる貴史と美里、おそらく自然に任せればなるようになるだろう。
そんなの確認しなくてもいいことだ。
廊下に出て、まず図書館に寄ることにする。こずえに厳命された通り、中学校舎まで杉本を迎えにいけない以上、時間つぶしはここがベストだ。
「立村くん、まだ帰らないの?」
入り口で呼び止められた。やはりいたようだ、美里の声だった。
かすかに何かの香りが漂う。ぴんときたのは、上総が今まで感じたことのないものだったから。果物系のにおいだとは思うのだが、どこか甘い。美里っぽくない。
「清坂氏、あのさ」
いきなり「何の香水使ってるの」などと確認するつもりもない。ただ香りの質がどこかひっかかる。上総の疑問符に気付くことなく美里は尋ねてきた。
「A組ってそんなに忙しいの? しょっちゅうなんか、話し合いしてるよね」
「そうか?」
「だって、この前だってこずえってば関崎くんと藤沖くんと三人で真面目な顔して話してたし」
事情を知るだけにこずえの腹づもりは想像できなくもない。
でも美里には言えない、それもわかる。
美里は首をかしげながら上総に問い掛けた。
「そりゃあ、評議委員だからクラスのことで一生懸命になるのはわかるけど、こずえってば忙しすぎるよね? そう思うよね、立村くん」
「確かにそうだよな」
いや、こずえの場合自分でわざと忙しくして、隙間を覗き込まれないように埋め込んでいるだけのようにも見える。美里の前ではあえて口には出さなかった。合わせるだけに留める。
「この前の日曜だって、本当は私のうちで遊ぶ予定だったのに、クラスの揉め事で仲裁に入るからキャンセルになっちゃったし。その前の土曜だってそうよ、彰子ちゃんへ暑中見舞い書こうって約束してたのに、やっぱりだめになっちゃったし」
──要するに、古川さんは清坂氏の相手をする暇ないってことだな。
あまり美里の日常については自分から触れないようにしてきたが、改めて気付く。美里の友だちは中学時代と比較して、激減しているのではないだろうか。附属上がりの友だちはたくさんいたように見えたけれども、実はこずえを中心とした仲間に交じり合っていただけ。美里のぶつかりあうような友だちは、
──まさか、あとは羽飛くらいしかいないのか?
くらりとめまいがする。一本道を走っていて透明なのれんにいきなり頭をつっこんだようだった。美里がさらに愚痴るのを聴いた。
「だから久しぶりに三年D組の同窓会、やりたいよねってこの前貴史とも話してたの。けどこずえと話をする暇ないから全然進まないの! 貴史は貴史でC組のみんなと盛り上がってるし。部活ふたつも掛け持ちしてるし。なんだか中学が懐かしくなっちゃうよね。どうしてこんなにみんな時間ないのかなって。規律委員会だって週番と服装検査くらいしかすることないし、退屈、ほんっと!」
「清坂氏」
話を遮ってみた。美里が慌てて口を押さえる。
「ごめん、立村くん、こういう話嫌いだったよね」
「そうじゃないよ、ただ」
そう思われるような発言はたぶん、中学時代していたはずだ。
「今日は俺も用事あるから時間取れないけど」
たった三ヶ月しか経っていないのに、美里の不満うっぷんすべて穏やかに受け流せる。
「聞くだけでよかったら、いつでも話、聞くよ」
また、甘く何かが薫った。美里のまとった香りだろうか。
美里はしばらく黒目を大きくしたままでいた。
「立村くんが」
「俺が?」
「そんなこと言うなんて、信じられないよ」
笑いでもない、嫌味でもない、素直な戸惑いだけが浮かんでいた。
「どうしちゃったの? びっくり」
「どうもしないけどさ」
すぐに美里はいつもの元気いっぱいな笑顔に切り替えた。明らかに作り物っぽく見えた。
「ありがとうね。でも、大丈夫。それより立村くん、杉本さんとは最近、会ってるの?」
いきなり杉本梨南の話を振ってくるのはやはりなにか、勘付いているからか。見破られるわけにはいかない。かぶりを振った。
「話はたまにするけど、試験前だしな」
「落ち込んでない?」
「杉本がか?」
こずえから得た情報によると、美里は例の修学旅行事件に巻き込まれた杉本を、男子らの前で懸命にかばったという。B組規律委員の相棒である東堂と険悪な仲となるきっかけもそのあたりと聞いている。だったら上総にも何か言ってくるかと思っていたが、そのことに触れたのは今が初めてだった。
あくまでも知らないという前提のもと、上総は言葉を選びつつ答えた。
「いろいろあるらしいとは聞いている」
「やはり?」
「でも今の杉本なら乗り越えられると思うんだ」
厳密に言うと違う。杉本梨南の、鎧に覆われたもろい瞳を上総は知っている。
「なんでそう思うの? だって立村くん、いつも杉本さんは本当は弱いんだって言ってたじゃない」
「杉本が、自分を強いと思って欲しがってるから」
たとえ弱くても、強いと思ってほしい。そう願っている杉本梨南の想いを見つめている自負はある。
「だから、そう思うことにしてる」
美里はしばらく、人差し指を唇に当てながら考え込んでいた。爪が陽射しで光っている。
「立村くんをそこまで変えられる杉本さんって、ほんと、すごいよね」
頷きながら独り言、その後で、
「ありがと。けど、大丈夫。今、聞いてもらってすっきりしたからもう平気。私のことよりも杉本さんの話をもっと聴いたほうがいいと思うもん。気、遣わせちゃって、ごめんね」
作りこんだ風に見える笑顔を貼り付けて、手を振った。
「じゃあね、試験終わったら貴史たちと一緒にどっか行こうね。こずえも混ぜて」
図書館には寄らずまっすぐ廊下を突き進んで行った。視聴覚教室の前を通り過ぎ、奥の階段を下りていくのが見えた。きっと視聴覚教室の中に関崎たちがいるなんて思ってもいないのだろう。これから上総もそこに向かうことも、おそらく気付いていない。
「うわあ、ぎりぎりセーフ! やばかったよね、美里にばれるとこだったあ!」
入れ違いだった。反対側の図書館側階段を駆け上がってきたのはやはり、古川こずえだった。さっきまで漂っていた甘い香りとは違う。単なる汗か。でも男子更衣室に漂うような脂くささは感じない。やはり女子っぽい。上総は廊下突き当たりの音楽室を指差した。
「あちら側から降りていったけど」
「あれ、あんた、見てたの」
「さっきまで話してたんだ」
「やっぱり杉本さんを職員玄関に置いてきて正解だったってことよね」
こずえは大袈裟に両手を組み合わせ、階段に向かい顎でしゃくった。
「さあさ、今度はあんたの出番だよ。お待ちかね。今さ、杉本さん、絶対生徒玄関から入らないって言い張っててさ」
「なんだそれって」
またわけのわからない理屈をこねているようだ。いつものことだが確認はしておきたい。図書館を出入りする生徒たちに聞こえぬよう、上総はこずえを階段の手摺りまで連れて行き、小声で尋ねた。
「『私は中学生ですから、高校を訪れるとすれば客として入ることになります。ですからきちんと規則を守って職員玄関から入ります』とか、もうがんとして私の言うこと聞かないのよ。しょうがないから、立村を迎えにいかせるってことで納得させたってわけ」
「なんで俺が迎えに行くと納得するんだ?」
「さあ、わかんないけど。杉本さんなりに納得する理由があるんだろうね。私も、立村が迎えに行った方が万が一美里に知られた時、言い訳できるしいいんじゃないのって思うしね。立村と高校校舎内でデートしているってことにできるし。まあ、藤沖たちは人気が少なくなった頃を見はからって、ふたりで現れる予定らしいけど」
中学校舎まで杉本を迎えに行くなと厳命したこずえの考えがようやく読めた。
「俺と鉢合わせしたらしゃれにならないという考えからだな」
「ようやくわかった? 当たり前じゃん。いわば藤沖と渋谷さんは、あんたと杉本さんに裁かれるわけよ。そんな二組のカップルが顔合わせたら、火花ばちばちじゃん」
だから別々に集合させたというわけだ。納得した。
「わかった。職員玄関だな」
こずえの返事を待たず、上総は階段を駆け下りた。二段飛びで下りられるところは下りた。鞄を置き忘れてきたことに気がついた。大丈夫だろう。こずえがちゃんと視聴覚教室へ運んでくれるだろう。
あわただしい生徒玄関と比べて、職員玄関は静かだった。遅刻で生徒玄関を閉められしかたなくこちらから入り……上総は幸いまだ、遅刻の経験はない……週番の規律委員たちに違反カードを切られる。そういう場面でしかあまりかかわりのない場所だった。
杉本梨南はすのこの前でスリッパだけ用意し、靴を履いたまま黙って立っていた。
こずえから聞いてどういう状況かは大体想像していたが、やはり読み通りだった。
事務室の男性が杉本に声をかけている。
「入校者名簿に名前を書いて」
「はい、ただいま」
相変わらずの堅い口調で杉本は、まず返事をし、手渡されたノートに書き込んでいた。すぐに戻し、改めて上総を見上げた。一礼した。
「失礼いたします」
「早く、行くぞ」
短く指示を出した。校則厳守は当たり前、たとえ生徒玄関からあっさり上履きを履き替えて入れば構わないとわかっていても決してしない。面倒な手続きが必要でも、やはり職員玄関から入ることを選ぶのが杉本梨南たるゆえん。一応、在校生がだれか一人迎えに来れば、難しいこと言われずに入ることができるのだが、大抵そんな面倒臭いことをしたがらず、みな生徒玄関からもぐりこんでいる。実際先生たちも見逃しているようだが、そんなことを決してしない杉本であることを、上総は一番よく知っている。
久しぶりだ。夏服に着替えた杉本は、襟元のリボンを綺麗なちょうちょ結びにし、頭てっぺんまでポニーテールの結び目を上げ、肩には白いショールを羽織っている。見るからに折り目正しい雰囲気を漂わせていた。もともとふわりとした顔立ちではあるのだが、いつもは目つきだけが強烈すぎて、一瞬のうちに崩壊してしまいそうに見えた。しかし今は、かち、かちときっちりした中にもどことなくやわらかいものが見え隠れしていた。いつもとは違う。
杉本はすぐに靴を脱ぎ、布の手提げを取り出し中に入れた。上靴に履き替え上総に付き従った。すれ違うのはほとんどが上級生だったが、評判芳しくない杉本のことはかなり知れ渡っているらしく、陰でこそこそ話をしている連中もいた。杉本は全く意に介せずすっすと歩いていく。
「杉本、いいか」
「はい」
音楽室側にあたる階段を昇りながら上総は話し掛けた。またすれ違ったのは二年生の女子たち。きちっと立ち止まり礼をする杉本へ、二年の女子先輩たちはどこかのやんごとなき方々のごとく片手を振って下りていった。
「言いたいこと、聞きたいこと、全部遠慮なく言えよ」
「そのつもりで参りました」
「忘れるな、今の杉本には、そこまでする権利がある」
「はい」
杉本は短く答えると、またすれ違いの三年女子ひとりに、九十度近い礼をした。その三年女子先輩もまた笑顔で会釈を返してきた。
「いざとなったら俺が助太刀する、けど」
「その必要はございません、私はひとりで大丈夫です」
予想していたその言葉を上総はすんなり受け入れた。
「わかってるさ」
──強いと、思われたがっている。本当は一瞬のうちに壊れそうなのに。
階段踊り場の陰に杉本の姿がくっきり映る。ポニーテールが小さく揺れる。
期末試験前の、比較的人気の少ない三階廊下。
音楽室にいつもなら集っている吹奏楽部の練習演奏も聞こえない。
反対側奥の図書室にもあまり出入りする気配はない。
「杉本、ここの奥の部屋だ。誰も来ないから安心しろよ」
「承知してます」
こずえもすでに杉本へ説明済みなのだろう。上総は視聴覚教室教卓側の扉を開いた。
鍵は開いていた。すでに客人がいた。
教卓のど真ん中、かつまん前。三人、なにやらお菓子を摘みながらげらげら笑っていた。
背中で杉本のこわばった吐息を感じる。何が起こったか最初わからなかった。
関崎が隣の女子と楽しげに肩を寄せ合ってしゃべっている。女子の後ろにもう一人いる。見るまでもない。外部三人組勢ぞろいだ。
──しまった!
すぐに勘付かなかった自分の鈍さを呪った。
杉本の顔を振り返って確認する勇気がなかった。
──先に古川さんに伝えておくべきだった。俺のミスだ。
認めざるを得ない。立ちすくむしかなかった。杉本が一歩、前に進み出た。改めて息を呑みそのまま動かなくなった。スイッチの切れた人形、そのものだった。
せめて三人が後ろの席で語り合っていたのならのなら、杉本も気付かずにすんだろうに。よりによってど真ん中で、しかも思いっきり関崎と目が合ってしまった。上総のまん前にいる杉本も当然、視線がかち合っているはずだ。
──杉本は絶対に会わないって決めてたじゃないか!
関崎を想う一方で、決して青大附属中学を卒業するまではどんなことがあっても顔を見ることはしない、そう誓っていた杉本梨南だった。
卒業して、自由になって、その時初めて関崎に想いをぶつけて受け入れてもらう、そう信じている。その日まではどんな偶然であろうとも、関崎の顔は見ない、会わない、そう誓っていた。中学の頃一度だけさりげなくすれ違うチャンスを作って会わせようとしたことがあったけれども、あの時たしか佐賀はるみに計画を見抜かれ阻止されたはずだ。杉本にもえらく怒られた。
あれから一年が経ち、上総も今では無理に関崎の顔を見せようなどとは思わなくなった。当たり前だ、興味を持ってもらえない男子の顔を無理に見たって不毛なだけだ。関崎が望まないのだからそれならさっさと忘れてもらうのが一番だ。
そんな時にいきなり、予告もなく目の前に、関崎が現れたとしたら。
想い焦がれてやまないであろう、関崎がいる。
──杉本、見てるんだろうな。
巨大なカーテンでくるむように、準備室まで連れて行きたい。冬場着ているシャーロック・ホームズばりのとんびのマントが欲しかった。なぜ、関崎がいることに気付かなかったのだろう。いや、それ以上に、なぜ。
──よりによって、静内さんと話している真っ最中に。
一番、笑顔たっぷりに語っている関崎を見られるのが、静内といる時のはず。
上総もそれは気づいていた。
だからこそ、見せたくなかった。関崎にも何度も念を押した。杉本の前では頼むから静内と語らないでほしいと願った。付き合う付き合わないは別として、見せたくなかっただけだった。なのに。
──俺のまわした手は、みな、意味なかったのかよ。
「杉本、入るぞ」
行くしかない。全身をマントにして、包めるだけ包みたい。でも包みきれない。
夏の風は必要以上にすべてをさらけ出していた。じっと見つめる関崎、そして静内ともう一人の男子。外部三人組は机に英語の辞書と教科書を広げたまま、黙って上総たちを目で追っていた。
──見るなよ、これ以上見るな。
その祈りすら無駄だった。
関崎ときたら、いきなり静内と密着するようにかがみこみ、なにやら囁いているではないか。もちろん笑うような非常識なことはしていないが、何かを噂しているのは事実だ。まさか、自分の追っかけ女子なのだと自慢するようなことはないだろう。しかし、この場で、いくらなんでも杉本の目の前で、
──付き合っているようなこと、するなよ。
杉本は人前で決して泣いたりしない。罵ったりしない。ただ、
──黙って、飲み込んで、壊れていくんだ、それが杉本なんだ。
くるみようのないすべて。これが現実だ。そう伝えるしかない。
杉本が関崎の座る席の前でいきなり立ち止まった。
「杉本?」
声をかけようとしたが無視された。じっと関崎だけを見据えた。九十度、頭を深く下げた。
じいっと見つめた。関崎が礼を返し、何かを言おうとするのを、杉本はそそくさと歩き去ろうとした。両手で頬を覆ったのは、照れなのだろうか。上総には読めなかった。考えている間もなかった。鞄を取り落とした音が響いた。上総の足元に落ちた。
くるめないのなら、囁くだけだ。
肩をぴたりと杉本に寄せた。
窓辺から聞こえる木々のざわめき、同じさざめきですべてを覆いたい。
「大丈夫だ、杉本」
もう一度囁いた。
「関崎にはまだ、付き合っている相手はいない」
目の前にはB組の静内がいる。美里と何かトラブルの多い人と聞いているがそんなのはどうでもよかった。ただ、上総の知っている事実だけを伝えればいい。
「あの人は、関係ない人だから」
静内とは付き合っていない、と関崎も何度も言い切っていたではないか。
──あいつの口から出た事実を、そのまま伝えてどこが悪い?
杉本は決して嘘を許さない。だから上総も関崎から出た事実を伝えよう。
例え目の前で、静内の表情が引きつったとしても。関崎が不可解に思ったとしても。
手から滑り落ちた杉本の鞄は、即座に上総が拾っていた。
杉本は頬から手を外した。自分の思わぬ仕種に初めて気がついたらしい。すぐにかちりと表情を冷たく戻した。上総をちらと見上げ、
「申し訳ございません」
鞄を受け取った。
そのまま何も言わず視聴覚準備室へ向かった。
隠されていた頬はすでに桃色のパウダーをはたいたかのようだった。上総の記憶に甦るものを思い起こし、繋がった。果物の名だった。
──桃か。
桜桃。やわらかな産毛で包まれたその色は、今の杉本の肌によく似ていた。
関崎の名だけで微笑ますことができ、その表情ひとつで見たことのないしぐさを引き出せる。今更気がついたことでないけれど、そのたび上総は心で呟く。同じ言葉を繰り返す。
──関崎だけか。
杉本を視聴覚準備室へ押し込んだ後、上総は後ろ手できつく戸を閉めた。




