25
関崎が上総に、きわめて菱本先生ばりに声をかけてきたのは、昼休みすぐだった。
C組で貴史や天羽たちとまた花札でもやろうかと腰をあげ、教室を出て行こうとする間際だった。わざわざ背中から
「立村、古川から聞いたと思うが」
そう呼びかけられたら立ち止まらないわけにはいかない。
上総は振り返り、まず関崎の瞳奥を探ってみた。何かが見えるわけでもない。隠し事ができない奴なのだとは伝わってくるがそれだけだ。
「わかっている」
聞かれるまでもなく、例の一件ということは知っている。短く済ませたい。
「そういうことだ。とにかく、場所は整えた。あとは関知しない」
わざわざ視聴覚教室使用の名目をこしらえてくれたのはありがたいことだが、できればそっと気付かぬように応援してもらいたかった。とは口が避けても言えない。
「とことん藤沖と話せ」
全く裏表のないシンプルな表情。悪意もなければ作り笑顔もない。上総には意識してこしらえないとできない顔に思えた。
「関崎、お前」
──だから何を言いたい?
半分口から出かかった言葉を遮られた。やはり例の中学時代担任にそっくりだ。進化している。鬱陶しいほど暑苦しく語るのも、やはり原本たる菱本先生に近いものがある。
「話し合えば半分は片付くことだと俺は思う。いいか、立村、お前たちが本音をぶつけ合っている間、俺は一切他の連中を準備室に近づけたりしない。いわば門番だ。俺と一緒にヒアリングをやってる連中にも事情は一切説明していない。だから、もし声が聞こえてもその事情がどういうところから来ているのかはわからないはずだ」
まくし立てる関崎に、上総はかろうじて切り込んだ。
「俺が言いたいのはそういうことじゃない」
「どういうことだ?」
──そういうことじゃなくて、なんだ。
具体的に何が、と問われると答えられない。上総の弱さだ。
男子同士とのぶつかり合いでは、ここで説得力ある答えが返せないと、負けとなる。
矛先を変えるしかない。
「関崎、お前は、誰の味方なんだ?」
言葉に詰まる関崎に畳みかけた。
「杉本の立場が悪化するかもしれないのに、そんなこともわからないほど、関崎、お前馬鹿じゃないだろ?」
全くもって勘違いもいいところだ。関崎はきわめてシンプルに、「語り合って殴り合って抱き合ってハッピーエンド」といった答えを引き出そうとしている。ある程度事情を知っているはずであり、互いの遺恨をそう簡単になくすことなんてできやしないと少しは把握しているはずなのに、だ。
──布団に地図事件の濡れ衣を着せられた杉本が、そう簡単に犯人を許せると思うのか? お前なら許せるのか?
悪いが上総は絶対に、許せない。
あとでしっぺ返しを喰うのを承知の上で、憎み続けることを選ぶ。
本当はそんなことじゃなかった。
杉本のことを持ち出せば、時間稼ぎができる、そう読んだだけ。
とっくに上総は、関崎の気持ちに杉本が存在しないことを知っている。
それでもなぜか、関崎が目の前にいる時は蒸し返したくなる。
葉牡丹を押し付けられて辟易している関崎の、みじめったらしい顔を覗き込んでやりたかった。裏表なんてない、一年A組英語科の新たなるヒーロー候補、関崎乙彦から裏を引っ張り出してやりたかっただけのこと。さぞ迷惑しているであろう、杉本梨南からの純粋な想い。はたして露骨にしっしと追っ払えるものなのだろうか。
上総の泥ついた感情を読み取ったのかはわからない。全く表情を変えずに関崎は、一呼吸置いて、芯の通った深い声で囁いた。小声で周囲には聞き取れない。しかし、上総の鼓膜には分厚く広がるその声音。
「立村、一度しか言わないから聞け」
一歩近づき、
「お前が大切にしている相手を奪うつもりは一切ない。俺が今後関わりたいのは立村、お前自身であって、側にいる他の女子たちには関心がない」
関崎はやっぱり好漢だった。
やはり、崩れなかった。
裏表のありすぎる上総には、太刀打ちできなかった。
──関崎はこんな奴だったんだろうか?
目の前で真摯に訴える関崎に、上総は心の中問い掛ける。
──もっと口下手で周囲からはシーラカンスだとか、融通利かない堅物だとか、いろいろ言われてきた奴だったのに、なんで今は。
よっぽど青大附属の水が合ったのか。いや、それだけでは結論が出ない。
上総の知っている関崎はこんな奴じゃなかったのだ。
どう考えたところで、水鳥中学時代の関崎はこんなに女子たちから好かれ惚れられ追いかけられるような性格ではなかった。まっすぐ過ぎて、他人とぶつかり合ういわば杉本梨南にそっくりな気性が、上総には付き合いやすいところでもあった。そんな奴だったのに今では、
──外部生同士とかたまっていろいろやってるしな。
すでに周囲では、公認されつつある関崎と静内との交際。
どう考えても上総の知っている関崎乙彦とはほど遠い。純情一途な関崎が、こんなに受けのよい軽い言動を繰り返しているこの現実に、上総はまだ慣れることができなかった。
──杉本は、関崎がこんな奴だと気付いた時、どんな反応するだろう。
まだ、杉本梨南の中では、完璧な王子様なのに。
──たったひとりの、ローエングリンなんだよな。
幻なんかぶっこわしてくれればいい。
その一方で、幻霧散のあと、取り残された杉本梨南を思う。
青大附属から追い出される自分を支えているのは、今のところ関崎の存在のみ。上総の力はまだ及ばない。だからまだ、壊れないですんでいる。でも関崎がもし、静内との交際をおおっぴらに公開しだしたらどうなるのだろう。
それ以前に、関崎は、B組の静内と本気で付き合うつもりがあるのだろうか。
どうしても確認したかった。
「B組の人とのことも、そうなのか」
──付き合っていないんだろう?
そう問い掛けるつもりだった。声が上ずり、うまく発音できないのは上総の重苦しい想いが喉にきたからか。言い直す前に関崎が即、答えた。
「その通りだ」
ということは、まだ付き合っていないということだろう。
──だったら。
杉本梨南の後姿がふっと浮かんだ。ポニーテールが静かに揺れるだけだった。
「わかった、ただ、関崎、ひとつだけ約束してくれないか」
上総は顔をあげた。喉がまた震える気配がする。
言葉が、うまく排出されない。やっとこぼれた。
「B組の女子とは、彼女の前では、まだ付き合わないでほしいんだ」
「彼女」とは、杉本梨南のこと。杉本のことを「She」で呼んだのは初めてだった。
杉本の叶わない恋を応援する気はない。関崎にも選ぶ権利があるのだ。葉牡丹の花を好きになれないのが関崎たるゆえんなのだからしかたない。
だが、たかが恋愛沙汰で、杉本の未来を壊すこともしたくはなかった。
今、青大附属から来春追い出されようとしている杉本がたったひとり支えにしている存在が関崎なのだ。その関崎へ向けた想いでもって、必死に歩いていこうとしている。不条理な濡れ衣にもめげず、関崎が信頼してくれるというよりどころによって懸命に青大附属生活を続けている。
そのよりどころがいつぽっきり折れるか、わからない。
折れても知ったことじゃない、そうみな、割り切っているように見える。
杉本のしがみつく細い柱が、実は割り箸レベルの脆いものであることを、上総はひとり、気付いている。
杉本梨南にほしいものを何一つ与えられない上総だからこそ、わかること。
──せめて杉本が、この学校から出ていく日までは、どんなことがあっても気付かせてはならない。
関崎がどう思おうと、上総は決めた。
──杉本が卒業し、青潟東に入学し、解放されるその日までは、全力で隠す。
そのためには何をすればいいのだろう。どう関崎に伝えればいいのだろう。
上総は関崎の答えを待った。関崎も、首を傾げることなくただ黙って頷いていたが、
「いや、俺は清坂にも全く興味がない。話すこともない」
全くピントのずれた言葉を返してきた。戻ってくるはずの道筋ではなく、明らかにずれた脳のどこか一部分を刺激され、上総は言葉を失った。
──清坂氏と?
想像してなかった、わけではない。
気付いてなかった、わけでもない。
ただ、不意をつかれた。杉本梨南ではないもうひとりの女子の名に、上総はバランスを失った。
──関崎、お前、やはりそうか。
失言とは全く思っていないような関崎の様子、それに上総はどう答えるべきかわからなかった。裏を探ることすらできないその性格に、上総は何か激しいものが燃え盛るのを感じた。
──清坂氏のこと、やはり気付いていたのか。
ずっと杉本梨南の濡れ衣問題にかまけていて、もうひとつ片付けなくてはならないことを忘れていた。現在の一年B組において、静内菜種と対決姿勢を取っていて、しかも男子の一部まで敵に回してしまった清坂美里の支えも、もしかしたら関崎相手なのかもしれない。
煮詰まった東堂がらみの問題については、すべて貴史に任せてある。だから、心配はしていなかった。その件は放っておいてもいいだろう。しかし、貴史に頼めないこともある。決してあいつは気付いていないだろう。
──関崎は清坂氏の好意を、杉本のものと同じく、迷惑がっている。
その真実を、どう伝えればいいのだろう。
しかも、関崎の気持ちは美里のライバルである、静内菜種に注がれている。本人たちがどう定義しようが関係ない。はっきりしているのは上総と縁のあったふたりの女子が、同じ男子を想い、ふたり一緒に振られようとしている事実である。同時に、一番辛い時期に、誰よりも支えてほしい人から相手にしてもらえない現実を受け入れなくてはならない。
──清坂氏には、羽飛がいる。
少なくとも杉本梨南よりは救いがある。そう信じたかった。
関崎の後ろにまわって「だーれだ!」などとわけのわからないことをしているのは古川こずえだった。本当は何か文句のひとつでも付けたかったのだが、そうもいかない。
その光景に改めて、関崎乙彦堕落の兆しを感じずにはいられない。これから先、関崎がこずえの打ち出す下ネタに乗ってくるようなことでもあれば、完全に上総は見切るだろう。面倒くさそうに首を振って払っているところみると、まだそこまではおちていないようだ。
こずえは上総と関崎を交互に見ながら、すばやく言い放った。
「関崎、悪いけどねえ、例の件、期末試験前日にお願いするよ。立村、あんたもね」
「期末前日?」
「あんたたち、今回の期末は悪いけど捨てて。期末試験前日しか視聴覚教室が空いてないのよ。表の理由が理由だから、試験前日でも構わないだろうってことになっちゃったけど、その点、許して」
とっくに決まったことなので驚きはなかった。関崎だけが初耳だったようで、真剣な顔して「期末前日?」と問い返している。たまたま言葉が重なっただけなのに、上総の顔を見て頷くのはなぜだろうか。
答えるのも面倒でこずえに質問しようとすると、肩越しに突っ立っている藤沖と目と目が合った。この日の早朝、霧島に屈辱を浴びせ掛けられた後遺症がありありと残っているようだった。傷といえるものが、無言の空気に溶けてまとわりついている。風が吹きぬけたのに、なぜか通りが悪く感じる。
気付いているのかいないのか、こずえの口がまわる、まわる。
「期末試験前日の放課後、たぶん部活動の連中もいなくなるだろうし、いたとしても上の学年の人だけだからさほど噂にはならないよ。あんたたちが視聴覚教室に篭ってABCDやっている間に、私と立村、藤沖が彼女たちを伴って準備室に入る。話し合いが終わるまで悪いけどあんた、静内さんといちゃついててOKよ。誰も来ないように見張ってもらえればいいからさ。あと、ひとつだけ。美里にだけは、絶対に、言うんじゃないよ。ややこしいことになるからね」
──古川さんも、清坂氏の気持ちを、気付いているな。
主に関崎に向けた話題だったはず。その後、こずえは上総の耳元に囁いた。
「あんたも一緒だよ。美里にはもらすんじゃないよ。美里が口を出したらまとまるものもまとまらなくなるし。それと、羽飛にもだよ。あのふたり、悔しいけど運命共同体だからさ」
「言うわけないだろ」
こずえに頷いて、秘密を守ることを誓った。
美里には貴史とこずえという強い味方がいる。たとえ関崎がばっさり振ったとしても、自分のライバルとくっついたとしてもとことん崩れていくなんてことはないだろう。
──けど、今すぐ、知らせる必要はない。
かつて美里の想われ人だった、上総の判断だった。