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小学校の卒業式直後の出来事だった。
さんざん馬鹿にされた、とんびのコートを羽織ったまま自転車に乗り、浜野と対峙した場所があの川べりであり、サイクリングロードだった。
決着をつけた後、上総の耳には浜野の怪我および状況について途切れ途切れにしか入ってこなかった。あえて耳栓をしていただけともいえるだろう。母がそのあたりの面倒な事情をすべて片付けてくれたらしいと想像はつく。しかし、上総自身は一切品山の同級生たちと接点を持たずにきたので、何が起こったかどうかは青大附属を通じて入ってきた情報以外、知ることはなかった。
──サッカー部のホープだった浜野が、卒業式間際の取っ組み合いのけんか……若干意味は異なるにせよ……のとばっちりで足に怪我をし、その後後遺症が残った。
そんな大惨事だったとしたら、上総も全く知らぬ存ぜぬでは通せなかったはずだ。
母がどのように、浜野の家族と話し合ったのかはもう知る由もない。
ただ、毎日品山の道を自転車で走り抜ける際にまとわりつく、カッターでつけられたような切り傷の痛み。それだけが鬱陶しかった。
──嫌がらせをされたのはこちらの方だ。逃げ隠れなんてする必要なんてない。
──いや、向こうの「善意」を「悪意」と取ることしかできなかった自分が悪いんだ。
両極端を振り子のように揺れ動きつつ、あえて上総は静観することを選んでいた。
自分の持つ物事への「感じ方」が間違っているとあらゆる人々から指摘され続け、その声を遮断するには、口を閉ざすしかなかった。
そうなんだろう、あれは「いじめ」ではなかったのだろう。
浜野は、年少の頃から上総を、品山の子どもたちの仲間に入れようとして苦心惨憺していたのだから。その行為が誰の目から見ても当然の善意であることだとはみな理解していたはずだ。ただひとり、上総を除いては。
──理解できなかった自分が悪い。
その一言だけを飲み込んで、四年間上総は青潟大学附属中学へ身を隠していた。
ほころびが目立ちはじめ、すでに周囲からは本性がばれていることも気付いていたけれども、それでも最後まで白を切り通すつもりでいた。
──なのに、なぜなんだろう。
自分でも、今朝なぜあの時間帯、あの場所に向かったのか理解できなかった。
確かに先日の本条先輩とのボーリングをきっかけに、なまっていた身体を動かしたくなったのは本心としてあった。高校入学後降りかかった面倒な出来事を、まっさらにするには身体からすべて出してしまうのが一番だと、無意識のうちに感じ取っていたのかもしれない。
──けどそれならば、自転車で別方向へ走っていったって同じことだったんだ。
なぜ、あの時、あえて走りたかったのか。
なぜ、あの時、浜野が自転車で川べりを走っていることを知っていながら、その場所へ向かおうとしたのか。
──まるで、俺の方からあいつに会おうとしたかのように、だ。
こんなこと、貴史だったら「そんなこと気にすることねえよなあ」と笑い飛ばすに違いない。南雲だったら「りっちゃんは真面目だねえ」くらい言うかもしれない。本条先輩だったら「だからお前は女々しいっていうんだよ」とはたかれるだろう。
考えること、そのものがおかしいのだ。
何もなかったことにできない自分がいて、ほんのささいなことに激しい恨みを抱えてしまう、そのこと自体が「間違っている」と人はいう。「間違っている」と思うなら直しなさい、直せば周囲は受け止めてくれる、そう言いはる。
上総にわかっていることはひとつ、「そうしたくない」それだけだ。
どんなに四方から自分の価値観を押しつぶす壁が押し寄せてこようとも、上総は決して自らの感性を否定されたくはない。どんなに善意であっても、どんなに心優しい心の持ち主であったとしても、上総は決して、
──浜野を憎んだことを、後悔はしない。
のだ。
シャワーを浴びて学校に向かった。道すがらまた浜野をはじめとする連中に目をつけられるのではとひやひやしたが、取り越し苦労だったようだ。陽射しが首筋を焼き、もやもやしたままの頭が強引に後ろへひっぱられたような感じがする。青大附属へ向かう時は、足から一気に目覚めてきくるのが常だった。品山から青大附属までは目に見えない橋が掛かっていて、いわゆる「三途の川」に似た縁切りを、短い区切りで行ってくれるようだった。
とはいえ、
──古川さんにこれから顔合わせるんだよな。
さっきの浜野との一件もからみ、正直気が重い。
古川こずえにしても、上総がいつも思うのは、
──何が楽しくてこうも、人の世話ばかり焼きたがるんだろうか。
これにつきる。もちろんこずえも「下ネタ女王」の皮を被った善意の塊だというのは、三年間話をしてきた上総も理解している。そのくせ女子にしては珍しく、その「善意」にあとくされがない。先日、霧島にすっぱぬかれたエロ本の件にしても、さほど尾を引いているようなところはない。こずえではないけれど「もし美里に見られたらどうするの?」はまさに名言。こずえだから許されて、ネタを提供してもよいと諦められるなにかがある。
だがしかし。
──杉本と藤沖の面倒を見て、外部生の関崎をからかって、女子たちのことも目配り気配りして、俺にまで声をかけてくる。
そこまで手広く青大附属内で世話焼き姉さんを務める理由というのはどこにあるのだろう。
もちろん、人のことだから気にすることはないのだろうが、最近上総にはこずえの言動にどことなく疑問を感じつつあった。それがどこ、と問われると「なんとなく」としか答えられないのだが。
上総は自転車を置き場につけ、教室へと向かった。
まだ朝八時を回ったばかり。でもそれなりに誰かはA組にいるだろう。
「立村、ちょっとちょっと」
考えていればいつのまにか引き寄せられてくる。世話焼き大好き人間古川こずえは朝一番、
「昨日何人分の写真で、ストレス解消したかしらないけどさ、ずいぶん生気のない顔してるねえ」
「余計なお世話だ」
軽く流しておくつもりだった。こずえもそのあたり、男子の気持ちをわきまえているようで、
「例の件だけど、とりあえず私の方で話を進めておいていいね」
「了解した」
「あと、それとさ、藤沖の方にも」
いったん言葉を切った。
「あれ、なんか立村、納得いかなさそうな顔してるけど、言いたいことあったら早めに言っちまいな」
「そういうわけじゃないよ」
どうせ、こずえの裁量ですべて事が進むのだから、上総が口を出すべきことではないような気もした。
「またあとでぐたぐた言われても困るからね。まあいいか。とにかく、藤沖も電話でその話乗ったって言ってたから、あとは私が関崎に説明するだけ。立村が英語の勉強をしたいというのは自然なことだし、そのおこぼれを頂こうと関崎たちがくっついていくってのも自然な展開でしょ。まあね、麻生先生に疑われなければあとはいいんだけどね」
ひたすらぺらぺら喋りつづけているこずえを、上総はふと、遮った。
「古川さん、あのさ」
「はいはいなあに」
「試験勉強、してるの」
とっぴょうしもない質問だとはわかっている。ただ尋ねずにはいられなかった。
「まっさか、今回の期末は捨てたに決まってるっしょが。あんたも、関崎も、藤沖にも付き合わせるよ。いやとは言わないでしょうねえ」
「捨てる以前の問題だからいいけど、ひとつ確認したいんだ」
諸問題を通り越し、上総はこずえへ真正面に向き直った。
この体勢、非常にしんどい。
こずえは目を逸らしたりしないから。
「なんで、古川さん、そんなに人の面倒を見たがるのかな」
「はあ?」
言われている意味がわからないとばかりに、こずえが首をぐるっとまわした。
「私のことを言ってるわけ?」
「そういうこと」
じっと見据えてみた。下ネタ女王古川こずえ相手にはしづらいこと。
「杉本をはじめ俺たちにからんだ話なんて古川さんには全く関係ないのに、なぜわざわざ情報を集めてくれるのかなってさ。前から不思議に思っていたんだ」
言葉に出してみたことのない、じくじくした違和感の出所がどこなのか、上総にはわからなかった。見えない感情に色づけてみれば「なんとなく」としか言いようがない。
「ほお、ずいぶん生言うじゃん、我が弟よ」
からかい調子で答えるこずえ。大抵このパターンで遮られるのが常だった。
「今気付いたから」
「あんたたちがばたばたやってるからしかたなく、腕まくりしたくなるってだけなのにねえ。立村、私のやることになにかご不満でもあるわけ?」
「不満じゃないよ。ただなんとなくさ」
するっとところてん状態に言葉が滑り出した。
「古川さんって、家族の話とか基本的にしないだろ。弟のことはしょっちゅう俺に似てるとかなんとか言うけど、ものすごく抽象的な言い方しかしないなとか」
「美里と比較して言ってるんじゃないの? ばかくさいこと言いなさんな」
さらに流そうとするこずえ。普段だったらそこで引くのが上総の答え。
「比べているわけじゃないけどさ」
かちんときたのは確かのようだ。こずえの目つきが少しだけきつくなった。
「ただ古川さん、いつも自分のことには首つっこまれないように、用心しているような気がしたんだ。気のせいだったらいいけど」
朝の光は魔力だ。
ところてんがつるつるすべりだすように、今まで堅くこわばっていたものがこぼれてくる。 つい一分前には頭をよぎっていなかった言葉。こずえに感じていたひとつの疑問を、四年目にして濃縮して告げたようでもある。
喉仏に隠していたのかもしれない、溜めていた言葉。別に「溜まっている」はスケベなネタだけではないのだと思う。例えれば意識の中に隠し持ったカメラのフィルムが、ある時突然一気に現像されて差し出された、そんな感覚にも似ている。
「あんたも少し頭さっぱりさせたほういいんじゃないの? ったくばっかばかしい」
一瞬言葉が詰まったようだが、ほんのわずか口を閉ざしたに過ぎないこずえ。やはりこの話題は関係ないと流すつもりらしい。
「もともとあんたは弟分扱いされるのがさだめ。なんだからそりゃあね、お兄ちゃんお姉ちゃんにめんこめんこされるのがしんどいのはわかるけどねえ。八つ当たりじゃん、今の言い草ったらねえ。ほらほら、あんたの方こそ、人のことより自分の身の心配しなさいよ。そんなに構われるのがいやだったら、もっと大人になって、駄々こねないで、周りを安心させなさいよ。もうねえ、羽飛だってあんたのこと、心配してしょっちゅう私に電話かけてくるんだよ。美里だってそうだよ、みんなあんたのことをねえ、立村」
あえて上総は何も言い返さなかった。こずえの口の回りが速いことだけ頭の隅に留めた。
「わかった、俺が悪かった」
「わかりゃあいいのよ」
話が一段落ついて、こずえがさっさと校舎へ戻るのを見届けた。
──今朝から変だ。
浜野と鉢合わせしてしまったこともそうだし、あの下ネタ女王古川こずえに対してかなり生意気なことをぶつけてしまったのもまたひとつ。今までの自分なら決してしなかったような言動を、今朝、二回もやらかしてしまっている。
──でも、見えるんだ。
小声で呟いた。もともと人の言葉を深く受け止めすぎる傾向があるのは上総のくせと認識していた。考えすぎと片付けられるようなことだし、こずえに対しても今までは、単純ながらも面倒見のよいあねご肌タイプ女子としか認識していなかった。
なのに、今、この朝。始業チャイムが鳴る前の時。
──やはり、古川さんは、どこか変だ。
──どうして誰も気付いてないんだろう。
貴史へ永い片思いを続けていることを指しているのではない。むしろ、その恋心はまだ人前にさらけ出しているわずかな生の感情に思える。ほとばしったその気持ちを、青大附中時代の同級生たちは笑いつつ応援し、貴史に苦笑いさせたりもしていた。素直で、背中を押したくなる気にさせられるのは、あくまでもこずえの姿が自然に見えたからだった。
──でも、今の古川さんは違うだろ。
そう思わずにはいられない。
なぜこずえは、人の仲介役を買って出る時に、あれだけ目を輝かせているのだろう。
なぜこずえは、口、手、足、すべて使いこなして後輩たちや同級生たちの世話焼きを楽しんでいるのだろう。ふつうだったら避けたいことのはずなのに、思えば何か女子関連のトラブルやら恋愛関係の泥沼審議の際には必ず、こずえが絡んでいる。決して主役にはならないけれども要のポジションは死守している。
美里が修学旅行中、体調を崩した時もそうだった。
卒業式間際、美里と貴史とのトラブルで上総がE組へ逃げ込んでいた時も。
そして今回の後輩たちの事件についても同じく。
共通しているのは、どの居場所においてもこずえは傍観者のまま。
人の面倒を見つづけていれば、自分のことに首を突っ込まれずにすむ。
その一方で、上総を含めて誰も、こずえの家庭事情について語る奴はいない。
もちろん上総がこずえに話した通り、しょっちゅう弟との比較で下ネタトークをかましてくることはある。しかし、それだけだ。他の連中のように両親の話とか、話題としてよく出てくる勤め先の肩書とか、そういう話題が溢れる場所には決して入ろうとしなかった。
理由を突き詰めるべきか、正直、上総にはわからない。
単なる趣味の問題と片付ければそれまでだ。
ただ、こずえのあけっぴろげな態度の裏に透けたものを、上総は見つけてしまった。
まだそれは「もの」であって、どういった感情なのか、掴み取れないままだけど。
簡単な言葉でたとえるならば。
──古川さんも、ほんとうは。
続けて「淋しい人なんだ」そう続けようと思った。できなかった。
いつもの上総の考えすぎだ、神経が今朝の浜野の一件でささくれあっているだけだ。まさかあの、「下ネタ女王様」が、どこぞの弟分と同じように、見られたくない自分の傷を隠すために額から襟足いっぱいに白塗りしているなんてこと、あるわけがない。古川こずえに限って、裏表なんぞあるわけがない。
そろそろ裏表のはっきりしすぎた性格の霧島が、朝のご挨拶をしに現れる頃だ。英語科A組の教室に入ろう。
──あいつ、俺の言動が面白いとか言ってたな。冗談じゃない、今日は具体的にその理由を突き止めてやるからな
まず深呼吸し、上総は素早く自分の「仮面」を被り直した。
あいつにだけは言い負かされるわけにはいかない。
本条先輩から助言された通り、とことん「兄貴分」を演じてみせる。
もう「弟」とは呼ばせない。