22
情報伝達係の古川こずえから、話し合いの場を用意した旨連絡が入っても、上総はすでに驚かなかった。
「さっきさあ、色ボケした関崎からいきなり電話がかかってきたのよ。なんでもさ、外部三人組のヒアリング訓練を、視聴覚教室でやりたいから、そのために教室を取っておいてほしいって」
「視聴覚教室を借りるということか?」
青大附中時代はよくあることだった。こずえの首がおそらく電話の向こうでぶんぶん振られているだろう。
「それはそうだけどね、たださ、視聴覚教室って広いじゃんよ。広いから、たった三人のために教室一室借りるなんてできないじゃん。うちら内部生だったらそのあたりいろいろ考えるけどね、相手があの」
「関崎ならな」
妙に納得してしまった。
つまり、関崎は外部三人組……静内さんと名倉を含む……同士で、来る期末試験英語対策として、ヒアリングの大特訓を行いたいと思い立ったらしい。そのあたりの情緒的な事情は聞きたくないので飛ばすとして、とにかく関崎は例のごとく麻生先生の元へ、
「視聴覚教室を試験前日貸してください、って頼み込んだらしいのよね。無理じゃんそんなの。あっさり断られたわけよ。そしたら次の瞬間、頭のシナプスが別の方向に繋がったみたいで、いきなり私のとこへ電話をかけてきたのよ」
転んでもただでは起きない関崎乙彦。決して誰も驚かない。
「麻生先生から、教室を貸してもらう条件として『十人以上の面子を揃えて、再申請しろ』って言われたらしいのよ」
「十人というと、だいたい委員会の一学年分の人数か」
単位としてはそう計算したくなる。上総でもそのくらいの暗算はできる。
「そう、だったら委員会用に借りるという荒業だって使えるじゃん」
「委員会に入っていればの話だけどな」
上総からしたらこういう場合どうするか。まずは誰か、評議委員会か規律委員会かそのあたりで話の分かる奴を集める。名前をずらっと書いてもらい、その場で申請する。
「関崎は規律委員だろ。そこから考えなかったのか?」
「美里がいるじゃん、南雲もいるじゃん、どうすんの。無理。それに何よりもあいつの本音は、静内さんにいいかっこしたいだけだってわかってるじゃんねえ」
──やはり、あいつは静内さんをか。
こずえが男女間のことに敏感なのは承知しているが、即答で上総と同じ判断を出すとは思わなかった。やはり関崎の心で生きているのは静内菜種しかいないらしい。同じ外部生同士の繋がりは附属生には想像のつかない何かがあるんだろう。
「とにかくよ、静内さんに男前なところ見せたい関崎としてはいかなる手段を使っても、視聴覚教室を借りたいと、そういうわけ。それも他の奴の手助けで、じゃなくて、自分の考えたやり方にみんなが賛同してくれて、俺ってすごいだろ、って自慢したいのよ」
「ああ、わかるわかる」
上総もそのあたりはわからなくもない。ひとつ訂正するならば、その「俺ってすごい」自慢は関崎だけのものではない、男子一同かならず腹からぶら下がっているものだ。ただそれが皮を被っているか引っ込んでいるかどうかは人それぞれだが。
「関崎曰く、この機会に残りの七名を集めて、合同ヒアリング大会を行ったらどうって提案をしてきたんだよね。つまり、関崎たち外部チームがヘッドホンつけて愛のABCDを勉強している間、視聴覚準備室の中で修学旅行おねしょ事件チームが集結して、話し合いをするのよ。ほら、準備室って視聴覚教室にいったん入ってからでないと、もぐりこめないじゃない? つまり関崎たちが三人、門番になってもらえば、他の人たちに気付かれないようにして心行くまで話し合えるわけよ。放送禁止用語、ばしばし、ピー音なしでOKよ」
放送禁止用語とはいかなるものか。こずえの語彙についてはこれ以上突っ込みを行わないことにした方がよさそうだ。
「つまり、どういうことなんだろう」
「密室会議が可能だと、そう言いたいわけよ。関崎は」
こずえは素早く話をまとめた。
「自分は気心知れた外部生トリオ組んで遊んでられるし、立村たちは話し合いを他の人たちに気付かれないようにできるし、密室ですべて片付けばあとは一件落着。どうこの名案、ナイスじゃない」
しばらく考え、上総も同意した。
「そうだな、俺は賛成だ」
あっさり答えるのが、正直口惜しくもあるのだが、しかたない。
人間関係の微妙なやりとりは、やはりこずえに任せておけば間違いない。
「悪いけど、これから他の連中に同じこと伝えておくからね。また明日の朝、関崎と打ち合わせしようよ。それと、藤沖も」
「わかった」
一言だけ重たい名前が頭に残った。藤沖、まだ真正面からぶつかっていない、事件の関係者。
こういう時はさっさと寝るに限る。試験勉強なんて考えずにベッドへもぐりこんだ。
本条先輩と話をもししていなければ悶々と頭のモーターを回しっぱなしだったかもしれないが、自分の考えたくない出来事が間近な時は、そんなことないことに決め付けてしまえばいい。恋人が病気になりばたばたした時も、部活動で挫折しても、本条先輩は結局あっさり復活している。それもこれもみな、「都合の悪いことはすべて忘れる」ゆえの強さなのだろう。
すぐに目が覚めた。青大附属に籍を置くようになりはや四年目。上総の体内時計は完全なる朝型にセットされている。目覚めるのは大抵五時か五時半くらい。六時半には自転車を漕いでいる。別にラジオ体操をするわけでもないけれど、突然走りたくなった。
──まるで関崎じゃないか。
よりによって宿泊研修の朝に、担任をたたき起こして朝のジョギングに誘うようなことをしたいとは思えない。ただ、今朝部屋の中に滑り込んできた風のやわらかさで、どこか目覚めてない感覚が息吹いたような感じがした。
午前様の父はまだ部屋の中。
上総は素早く水色半そでのパーカーに着替えた。首にひっかかるフード部分をひっぱって整え、髪の毛を指先でぬらした。靴を履くのも用心しつつ、水を一杯飲み干し外へ出た。
まだ夏休みまで間があるはずなのに、どこからか不思議な音楽が流れて来ている。
ラジオだろうか。腕時計を覗き込んでみたが、まだラジオ体操には早い。
音の聞こえる方へまず駆け出してみた。
自転車の音が響くのはおそらく新聞か牛乳配達かのどちらかだろう。
上総の家の周りには、それなりに建物が連なっている。ほとんどが似たような二階建てであり、また平屋建てでもある。ただ似過ぎていて初めて来る人は迷うらしい。
──天羽が思いっきり迷って、轟さんに引っ張ってこられたことあったな。
今は昔の物語である。
早朝散歩するような物好きは幸いいなかった。
だから、少し、欲が出た。
──川べり、走ってみようか。
軽く足首を片方ずつ回してみた。準備体操までするつもりはない。
スニーカーの紐を締め直し、上総は歩いて川のサイクリングロードまで坂を登った。綺麗にオレンジ色の道が舗装されている。四年前と殆ど変わらないこの道は、そのまままっすぐ走っていくと大きな橋にたどり着く。渡ってしまうと全く青潟市とは別の方向に進んでしまい、奥に見えるはすべて山、山、山。たぬきやきつねが飛び出す危険性あり。
橋を渡るつもりはなかった。まずはそこまで、ゆっくり走ってみようと思う。
決して足が遅いわけではない。中学三年秋の体育祭ではクラス対抗リレーの選手に選ばれたこともあるのだ。もっともその選抜理由としては、「本来出るはずだった陸上部の男子が、地元の中体連大会に参加してしまい自動的に次点の上総が繰り上がった」だけのこと。
本気で一位を狙いたがる貴史と、同じくらい早いのにやる気が薄かった南雲が中心のメンバーだった。一年、二年と同じ面子で、毎年一位を獲っていた。そんな中に上総が紛れ込んだわけだから、ちんたら走るわけにはいかなかった。
貴史には、
「立村、お前もっと本気出せよ! 手、抜いてるんじゃねえよ、怪獣に襲われた気持ちでぶっとばせよ!」
喝を入れられるし、お気楽な南雲も、
「りっちゃん、もう少し、足を動かしたほうがいいと思うよ。たぶん、スタートから問題あると思うんだ」
とおっとりした助言をいただくし。ありがたいことなのだが、やはりしんどい。
どちらにしてもリレーで一位を獲りたいのだ、という本音を知り、諦めて上総は最後の手段に出た。元陸上部の、当時水鳥中学生徒会副会長の関崎に電話をかけ、三日間徹底的にトレーニングしてもらった。単に五キロマラソンを毎日させられただけではある。それでもなせばなるもの、とりあえずは自分の役目を果たすことができた。
関崎が青大附高を受けたがっていることに気がついたのもこの頃だった。
委員会とは別の場所での接点が出来て、上総なりに一息ついた秋の日。
予想通り関崎とは同級生と相成ったけれども、今、こんなに悩まされる存在になるとは思わなかった。
──高校の体育祭もやはり、やるのかなリレー。
義務は果たしても、参加したくはない。
一キロ走ったところでまず一息ついた。
やはり、長距離ランナーには向いていない。もともと朝一番、むしょうに身体を動かしたくなっただけなのだから、無理に橋までかける必要はないのだ。誰に命令されたわけでもない。
──このまま、歩いて戻ろう。
少しだけしゃがみ、水面を眺め、背中をすりぬけていく自転車の音を聴いた。
甦っていくいくつかの記憶が、角張った石ころのように転がり出し、傷をつけてゆく。
目の前の光景は、これ以上思い出したくない物語を自動的に紡ぎ出すだけのこと。
まだ雪の残る道端と、分厚いコートと、そして自転車。
指先で温度調節できるボタンを押すことができれば、その段階で一気に引き戻されるあの日の光景。
本条先輩と同じ、「見なかったこと」にして背を向けるつもりだった。
離れるつもりだった。
時計の針が六時を回ろうとしていることに、気がつかないふりをするつもりだった。
橋の向こうから自転車の軋みが再び響き渡る。
──この時間は、浜野が自転車を漕いでくるはずだ。
突然突き当たった、角張った石ころのような記憶。
「浜野」という名すら、この数ヶ月忘れていた。去年の秋、藤沖といざこざを起こした際の発端となったのも、「浜野」という名から生まれたものだった。
風見百合子が上総を、他の生徒たちの面前で罵倒し、言い返すことなく項垂れたきっかけも、やはり「浜野」の名からだった。
ずっと忘れていたはずだった。
忘れようとしていたはずだった。
意識の奥に追い込んで埋め立てたはずだった。
なのになぜ。こんなところへ来てしまったのだろう?
橋の向こうに住む浜野は、小学生の頃からこの道をつっきって通っていたはずだった。その際に上総も無理やり連れられて、このサイクリングロード脇の坂から転げ落ちるように命令されたことがあった。たったひとり、できないと泣くと、無理やり腕をひっぱられて転がされた。誰一人、周りの奴らは止めなかった。怪我はしなかったけれども怖くて泣きじゃくると、浜野は坂を降り、近づいて来て、
「立村、立てよ、甘ったれるんじゃねえ!」
遊び仲間たちの前で、言い放ったものだった。
浜野と決して顔を合わせないように、上総は極力登校時間をずらすよう心がけてきた。
逃げているわけではない。ただ、顔を見たくないだけだった。
今までは最低限のすれ違いですんだ。浜野という奴がガキ大将にしては几帳面で、決まった時間に新聞配達のバイトをしていることを、上総は親経由のうわさで耳にしていた。新聞配達ならば必ず自転車を使うはず。そして、このサイクリングロードを使うはず。
──俺はなんで忘れてたんだろう?
こんな時間に、川の見えるサイクリングロードになんか、来てはいけない。
朝六時。
どんなことがあっても、近づいてはいけない時間帯。
どうしてそれを忘れていたのだろうか。
家に戻ろう。三十分あれば朝飯も平らげられる、急げばシャワーも浴びることができる。
ここで滞っていてはいけない。
身震いし、全力で逃げ出した。
──逃げられるだろうか。
上総が気がつくのは、遅かった。
軋む音、再び。すっと止まった。
自分の足も、動かなかった。
脇に、すすと、人の気配がする。
一歩も動けなかった。すべての感情を消し、能面のまま上総は横を向いた。
逃げようとしていたことだけは気付かれたくなかった。
「立村か」
こんなに接近されたのは、小学校以来だった。振り返るとそこには、完全スポーツ刈りの浜野が硬い表情で上総を見下ろしていた。もちろん自転車にまたがったまま、籠と後部座席に新聞をくくりつけていた。
答えられない。ぴくりともできない。
「久しぶりだな」
ああ、くらいは言い返したい。それすら喉が動かない。ただ乾いていく。
しばらく無言のまま見返していた。浜野は自転車のハンドルを握ったまま、じっと上総をねめまわしている。普段着なのが意外なのだろうか。それとも何か、また因縁をつけにきたのだろうか。それこそ風見百合子の言う通り、「サッカーでオリンピックに出られるはずの逸材に傷をつけた」故の恨みを抱えているのだろうか。何よりも、まだ杉浦加奈子と付き合っているのだろうか。奴本人への疑問や状況への問いは溢れかえっているのだが、それを口に出して尋ねる気には全くならない。それこそ本条先輩と同じく、一瞬のうちに瞼でシャットアウトしたい。でもできない。動こうとしない。
──何か、言えよ、答えろよ。
自分を叱り飛ばしてみても、金縛りは解けない。ふつう金縛りとは寝ている時になるものだが、すっかり目の覚めているこんな時に同じ状態になった場合、なんと呼べばいいのだろうか。
「連絡は行ったか」
全く思ってもみない言葉を、浜野は口にした。声変わりの終わったがりがりした声だった。
「この夏、同窓会がある。今度こそはお前も来い」
首を振りたい。なのに動かない。舌も、足も、頭も、何もかも凍りついたままだ。
そんな上総の様子を浜野はもう一度観察するように、腰をかがめた。もちろん自転車に乗ったままだ。目と目が近づき、その後昔ならば一発ひっぱたかれるようなアングルに自分がいる。
「美子先生が会いたがってる。お前、一度も、小学校の同窓会に来てないだろう」
上総は目の玉だけ動かすように、浜野の姿を見返した。白いTシャツの胸には小さなスポーツブランドのマークが刺繍されている。半そでシャツにジーンズ。仕事をするための格好だとよくわかる。
「また、連絡する」
ここまでの会話はほぼ十秒にも満たなかった。その間、上総は瞬間接着剤を両足に塗られたような状態で立ちすくむだけだった。そのまますりぬけていく自転車とインクの残り香でむせそうだった。まだ向こう側からは誰も来ない。サイクリングロードにはまだ、誰も走ってこない。
口の中から妙なかちかち音が聞こえた。足首から上が奇妙な震え方をしている。一歩、足を踏み出そうとした瞬間何かに躓いた。草の生えている場所だったので転んでも痛みはあまり残らなかった。ただ目の前の視界が、高さ低くなり全く見知らぬゴミや草木が飛び込んできた。また立ち上がろうとするが、足が歩き方を忘れたようだ。また転んだ。今度は両膝からがくんと落ちた。また別の自転車が猛スピードで上総の背を走り抜けていった。浜野ではなかった。
──同窓会なんて出る気ない。
少なくとも小学校の同窓会なんて。いじめられて、嫌われて、仲間意識の強い連中に囲まれて息苦しかったあの時代、しかも最後は傷害事件まで起こしてしまったあのクラスメンバーと顔をあわせたいと、一瞬だって思ったことはない。
同窓会の案内も毎回、送られてくるけれども返事も出さずに捨てていた。たまたま知らなかっただけと言い訳ができるからだった。
──なんで俺は、あんなところに。
上総は繰り返し呟いた。ゆっくり、足に動き方を思い出させるため、足首をもんでみた。そこからゆっくり、後ろ手を付いて立ち上がった。もとにすぐもどった。不意を突かれただけ、少し驚いただけ、そう決め付けたい。頭ではそう思う。でも、
──なんで、また俺の前に現れるんだ。
──あれだけ、接点を持たないようにしてきたのに。
はっと気がつく。走った後の汗が冷たくはりつき、震えが止まらない。