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 机に向かい、引出しから取り出したる手帳。

 ページをめくればすべてがドイツ語で綴られている。

 誰にも読まれないよう、万が一見られてもすぐには内容が理解できないように。

 上総は机の上にそれを開き、ボールペンを握り締めた。

 一瞬、ボールペンの先を紙の上に留め、黒い点をこしらえた。

 書き始めたらあとは、時が止まった。。


 ──自殺未遂をした女子のためになぜ、杉本が犠牲にならねばならないのか。僕には理解ができない。もちろん不幸な事故だったのだろうし、一番辛い思いをしているのは当事者の彼女だろう。しかし、だからといって全く関係のない杉本がなぜ巻き込まれなくてはならないのか。もっと別に、彼女を守るために方法があるはずだ。

 たとえば学校側で、誰か友だちに頼んで彼女を守るように指示をするなど少し考えるだけでもいろいろあるはずだ。すでに藤沖がなんらかの形で絡んでいるわけだから、他の女子たちに指示をして、決していじめないように守るという手もあるはずだ。

 生徒会役員同士のごたごたについては霧島の言い分もわからなくはない。相当霧島も彼女に責められたり嫌がらせされたりしたのだろう。女子の考えていることは殆どわからないが、霧島ももう少しやんわりと縁を切る方法はなかったのだろうか。露骨に彼女の失敗をあげつらい罵倒する以外にまだ、要領よく遠ざけることはできたはずだ。

 たとえば、佐賀さんに頼み込んで他に交際相手がいるなどと説明するのも一つの手だろう。霧島が女子に人気のあることは、僕も聞き知っている。ひとりかふたり、誰かと付き合ってしまえば既成事実が出来上がるわけだから、彼女も納得したのではないだろうか。

 僕の視点からすると、この出来事で彼女を守る方法はいくらでもあるはずだ。

 なのになぜ、杉本にだけ、罪をかぶせようとするのかが何度考えても納得いかない。

 学校サイドもおそらく、将来いなくなるであろう杉本のしでかしたことと決め付けておけば、犯人探しも収まるしもともとなかったことにもできると考えたのだろう。

 だが、このままでいいとは思えない。

 杉本はここできちんと、真実を学校内できちんと表明し、そういう事実はなかったのだと言い切る必要がある。このまま杉本が恥をかかせられる格好で卒業させられるのだけはなんとしても避けねばなるまい。

 同時に、彼女の度重なる自殺未遂も防がねばならない。

 古川さんは杉本が濡れ衣きせられっぱなしを受け入れない限り、彼女の精神状態が落ち着くことはないと話していたけれども、僕はそう思わない。両立させる方法はあるはずだ。かならずあるはずだ。いくらでもあるはずなのになぜ、誰も気付こうとしないのだろうか。


 ──


 限りなく英語にそっくりで、でも前置詞や動詞の置き場所は後回しになるドイツ語。

 一気にここまで書いて、一本の糸を吐くように息をついた。

 ──そうだ、ふたりとも助かる方法、いくらでもあるのにさ。

 関崎の脳天気な歌声が今だに耳に残る中、上総はボールペンを置いた。窓は網戸のみで十分風が入ってくる。目の上がなんとなく熱くなるのを感じ、目じりを押した。

 ──やはり事実関係をすべて洗い出さないといけないのかな。

 本当のことを言えば、杉本さえ守られれば事情を突きつめて知る必要はないと思っていた。しかし、これだけ話が大きくなるとそんな流暢なことも言ってられないだろう。杉本が潔白である以上は、誰が犯人でどのようにして杉本の泊まり部屋に例の布団を持ちこんだのかまで調べ尽くさないと納得できないに違いない。杉本梨南だけではなく、上総自身もそれは強く主張したいことのひとつである。

 ──さもないと、ほんのほころびひとつから。

 佐賀はるみが知恵をつけて藤沖たちが立ち上がる。いろいろ藤沖にも思うところはあったらしいが、それこそ上総にはどうでもいいことだ。もし藤沖が渋谷名美子をかばいたいのならば、その出来事が実際にあったことと認めた上で、彼女を守る方法を考えるべきではないだろうか。全く関係のない杉本から引き離す形で問題を処理することは、いくらでもできるはずだ。それをさせないで、一番安易な方法……杉本梨南に罪をかぶせる……のを選ぶのは、思慮不足としか思えない。 

 ──もちろん、それが一番わかりやすくて丸く収まる方法であることは認める。

 杉本がしでかしたこと、と決め付けられれば周囲の対応も楽になるだろう。

 嫌われ者がやらかした失敗なのだから、多少軽蔑されてもかまわない。

 ひとつやふたつの失敗じゃないのだから、嫌ってもかまわない。

 どうせいなくなるのだから、無視しても構わない。

 そういった空気が杉本の周囲を囲んでいるのは感じている。

 ──でも、そうはさせない。

 安易な発想ですべてを片付けさせはしない。


 上総が手帳を閉じ、読み返さずに引き出しへしまい込んだ時、居間の電話が鳴った。

 受話器を取ると、つい数時間前まで剣呑なやり取りを繰り返していた女子の声。

 ──立村? 本人?

「何か、あったのか」 

 まさかとは思うが、密室で関崎が熱唱しすぎて酸素が足りなくなったとかそういうことでも起こったのだろうか。もちろん電話の向こうはこずえである。やけに重たい声なのは、何か異変の予感が漂うのだが。

「あるよ。悪いけど立村、明日なんだけどさ、朝六時半に学校まで来ることできる?」

 いきなりわけのわからないことを言う。

「行けるわけないだろう、何時に出ろって言うんだ」

 ──杉本さんがね、六時半から学校始まるまでの間に話をしたいって言ってるのよ」

「なんでいきなりそんな話になるんだ?」

 どうやら関崎とは関係がなさそうだ。上総も予想が外れて言葉が揺らぐ。

 電話の向こうでは、疲れきった声がさらに重たく語りかけてくる。

 ──さっきさ、関崎のオンステージを堪能してからあいつを追い払って、それから杉本さんに電話をかけたのよ。いたよ。話つけたのよ。

「話をつけるってどういうことだよ」 

 文字で綴った後だけに、杉本への対応に関してのみ、きっちりと答えが出ている。揺らがない。

 ──私たち外野がああだこうだ言ってても話は進まないでしょうが。一度きっちりと杉本さんに、その提案をまず持っていけばどうかなって思ったのよ。

「悪いが古川さん」

 上総はきっぱり断った。

「俺はそんな話し合い、出る気なんてさらさらないよ」

 ──杉本さんがいるっていうのに?

「あたりまえだろ、そんな朝早く誰が行ける」

 ──関崎が朝五時半からバイトしてるの知らないの?

 言葉に詰まる。まさに事実。苦学生の生活を知らぬわけがない。

「関崎と俺を一緒にするのはまずいと思うよ」

 ──まあね、持久力、肺活量の差ははっきりしてるよね。でも一刻も早く面倒なことは片付けたほうがいいよね。あんたさ、期末試験の準備してるの。英語はともかく、理数課目。

「関係ないだろ、そんなこと」

 ──数学なんて、中学の時の狩野先生みたいに手取り足取り腰取りしてくれるわけじゃあないんだからね。私だってできたら期末試験前に終わらせたいよこんなこと。みんな同じこと、思ってるんじゃないの?

 関係ないだろ、舌打ちしてしまう。おそらく次回数学が平均点以下だったら即、赤点決定だろう。父はともかく母がうるさいのは目に見えている。

 上総がしばらく黙り込むと、こずえは勢いを取り戻しいつものパワーで畳み掛けてきた。声が少し低めなのもあって、聞き取りやすくはある。

 ──それ、杉本さんも同じこと考えてるよ。私たちは高校生だから中学の状況がわからないけど、どっちの道を選ぶにしてもすっきりしないと勉強に専念できないじゃん。男子だったらすっきりするためにエロ本があるし、夜の一発抜けば爽やかな朝が迎えられるかもしれないけど、女子にはねえ、そんないい方法ないんだから。

「早い話、杉本にそのことをすべて伝えたのか。つまり、その、すべて濡れ衣を着たままでいてくれって。杉本はそんなこと了解するわけないだろ!」

 電話をがっちゃり切りたかった。

 ──時と場合による、って言ってたよ。

 切ることができなかった。聞くしかなかった。結局上総はいつも、姉さん役のこずえに頭があがらないのだ。


 ──杉本さんはね、自分が納得したいだけなのよ。

 こずえの言葉が低く響く。

 ──自分が何も悪いことしているわけがないって自信があるし、それは自分が気付いていればいいことだからって思ってるよ。ただあんたがさ、とことん戦えって命令してからどうもその考えが変わったみたいね。

「俺が悪いのか? 正論伝えただけだろうが」

 ──まあね、正論だよ。ただクラスの女子たちの前で、堂々と「それをした人は他にいるとみなわかってるんでしょう」とか言われたら、もう二度と渋谷さん、外に出られなくなるよ。そうだ、あんたに言い忘れてたけど、もしもさ、杉本さんが渋谷さんをずったずたに傷つけて再起不能にしたとしたら、次の瞬間藤沖がどう出るかわからないよ。

「藤沖がか」

 ──そう。明日、藤沖をとっつかまえて取り調べするつもりだけど、やっぱりあいつは本気だよ。さっきも言ったよね。あんたが卒業間際に杉本さんのために、スケベなチンピラ顔してとことん女子を罵った話。理由がわからないわけじゃないし裁く気なんてないけど、もし同じことを杉本さんにされたら、あんた理性飛ばずにすむわけ?

 どういうことだろうか。最後の評議委員会で佐賀はるみに対し、佐川の存在を臭わせるような発言で動揺を誘った時のことだろうか。こずえはあの現場にいなかったはずだから、おそらく美里か貴史から聞いたのだろう。

 ──それにさ、立村、あんたは今、なんの役つきでもないじゃん。

 次の言葉に、ぴりりと鼻の奥が痺れた。

 こずえの言葉は全く驚くところなし。

 ──藤沖は評議だし、元生徒会長だよ。あんたもよく知ってるよね。附属生にとって、一番のステータスは過去の委員会経験だって。関崎はわけわかんない顔してたけど。もし藤沖が本気で怒って、杉本さんを粛清しようなんて思ったらどうする? 生徒会役員、そうだね、佐賀さんを筆頭にいろいろいるからね、ほら、あんたの天敵・風見さんって子もいるじゃん。その他よくわからないけどいろいろいるからさ。最近霧島があんたに近づいてきてるのだって、もしかしたらそのあたりが理由かもよ。

 

 ちん、と響いた鈴の音のようなもの。ちょうどてっぺんで響いたように聞こえた。

 ──やはり、霧島は、生徒会からの刺客か。

 想像はしていたし、期待もしていなかった。なのになぜ、目の奥がまたちりちりと痛くなるのだろう。



 ──恋する男は一番やっかいだってのは、私もうちの父ちゃん通じてよおくわかってるからね。驚きやしないけどそれで周囲に大迷惑かけられるのは、悪いけどごめん。藤沖は今、彼女を守りたくてなんないのよ。守ることに目覚めちゃってるから、もう一般常識が通じないのよ。あんただって自覚なかったでしょ。あ、いまもか。

「俺と藤沖を比べるのはやめてくれ」

 ──だって、似すぎてるじゃん。あ、電話切っても私はハブだからとことん掛け直すから覚悟しな。とにかくね、これ以上ごたごたを長引かせることは、杉本さんにとってもちっともプラスになんないと私としては判断したわけ。

「だから俺をあんなところに呼び出して」

 続く言葉は上総も同感だった。

 ──関崎おとひっちゃんのオンステージを堪能したってわけよ。

 ふと、「おとひっちゃん」との呼び名に顔が半分緩みそうになる。

 佐川がよく、関崎のことを「おとひっちゃん」と呼びかけていた。

 青大附属でそのあだ名を使ったことは、今までなかった。


「関崎を二学期の合唱コンクールで活躍させるべきだというのは俺も理解した。けど、今の話とは別だろう? 関崎をなんで古川さん、呼び出す必要があったんだ?」

 上総の疑問はやはりそこに留まる。

 杉本の想い人だからか。

 ──あいつ、藤沖の様子が変だってことに気付いてたのよ。それがきっかけ。

「関崎がか?」

 ──そ。意外でしょ。関崎ね、藤沖が千代紙細工の修学旅行土産グッズを持ち歩いているのにまず驚いててさ。

 右手を握り締めた。手相の三角州に一度埋まった千代紙のリングの感触が甦る。

 ──次に、立村と藤沖との間を心配してたね。余計なお世話だとは思うけどさ、どうも関崎の奴、あんたにもう少しクラスに馴染んでいただきたいと思ってるみたい。それとできれば、藤沖ともう少し、人間らしい会話を交わしてほしいってね。

 しつこいようだが、余計なお世話だと思う。

 藤沖にも、また今は上総にも、無視をしあうちゃんとした理由があるのだから。

 ──まあ私も、妙だとは思ってたよ。藤沖がしょっちゅう、評議委員会さぼって中学校舎に行くからね。さらに中学校舎であの、いがみあってた渋谷さんと帰ってるんだよ。おかしいと思うよね、普通はさ。


 関崎の心情を汲み取れないわけではない。外部生ゆえに、附属生同士の人間関係のゆがみがやはり、醜く思えるのだろう。だが、それはそれで自分たちが納得済みのことだ。口を出される筋合いはない。

 ──しかし、関崎が気がついていたとは思わなかったな。

 何にも考えていなさそうな関崎が、藤沖のかすかな変調を読み取ったとはまず信じられなかった。単細胞のシーラカンスと呼ばれていた関崎だが意外な一面だ。

 

 古川こずえはゆっくりと、上総の内面に語りかける。

 ──いったん杉本さんにも話を聞いて、それから次に、霧島捕まえて生徒会事情について聞いたわけ。関崎をひっつれてね。関崎もあまり人の色恋沙汰に首突っ込みたくなかったようだけど、あんたのためだよ、立村のために、ってね。その男気はわかってやんな。ほらほら、余計なお世話だって言いたいんでしょ。わかってるよ。けどあんたもいいかげん元服式終えたお年頃なんだからそのあたりも、黙っててやんな。

「知らなければいくらでも黙っていられたさ」

 ぶつける。受け止めるこずえは懐が広い。

 一方の上総は、再び出てきた霧島の名に、息を止めてしまっている。自分でも気がつかないうちに、息を呑んでいるのが情けない。

 ──ゆいちゃんのこともあって、私もさ、霧島にはしょっちゅう連絡取り合ってたわけ。なんかあいつって、立村ほどじゃあないけど、うちの弟に似てる箇所が結構あってさ。

「弟だらけだな」

 皮肉を言うが全く介しない。

 ──だから、生徒会事情とか結構聞いてたわけよ。将来、関崎とも顔を合わせる機会あるだろうし、杉本さんの件であまり関係なくても、顔合わせはしといたほういいと判断したのよ。

 先読みが早い。確かに、もしも上総が評議委員の座についていれば、関崎を後輩たちに紹介しておいただろう。こずえにアドバイスしたことあっただろうか。覚えていない。

 ──霧島はねえ、佐賀さんにべたぼれだから、渋谷さんのことなんて眼中にないわけ。だから相手にしなかったけど女子にとってはそんなことであきらめられるわけないよね。

「古川さん、妙に実感篭ってる」

 ──でしょでしょ。とにかく、霧島から生徒会事情と、杉本さんがシロだってことをはっきりさせて、関崎に本当のことをすべて話して。

「ちょっと待てよ。本当のこととはどういうことなんだよ」

 ──つまり、修学旅行のおねしょ事件で流れた、杉本さんに関するデマは全くの嘘ってこと。それと、藤沖の彼女がしちゃったってことと、だから藤沖が懸命にナイトになろうとしてるってこと。関崎はちゃんと、理解してくれたよ。

 こずえは繰り返した。

 ──関崎は、杉本さんが潔白だってこと、確信してくれてるんだよ。

 上総にはその言葉が、すべてだった。

 声が出なかった。


 ──ちょっと、立村どうしたの。


 何十回、何百回杉本梨南に伝えても、上総の言葉では信じてもらえない。

 関崎ならば、一度ささやくだけですぐに通る、その現実。

 

「つまり、そういうことか、古川さん」

 ──ちょっとお、泣いてるのあんた!

 泣いてるものか。片目だけをこすり、あえて平静を保ちつつ上総は確認した。

「関崎が信じているならば、杉本は喜んで罪を被るとでも言いたいのかよ!」

 ──何怒ってるの、あんた少し落ち着きな。私はただね、杉本さんが何をしてほしいのかを考えてるだけよ。立村が言うようにどんどん叩きのめすのもひとつ、だけどそうしたら杉本さんは、また嫌われてしまうんだよ。また別の形で噂が流れるんだよ。杉本さんは一度失敗した人を許さずに叩きのめす、人間としてしてはならないことをした人だって。そういう噂が流れたら、関崎が今度どう思う? 関崎の性格はあんたもよくわかってるでしょうよ。

「あいつは、まっすぐな性格だからな」

 ──汚いやり方やいじめのようなことをする女子は、あいつ大嫌いだよきっと。


 上総は居間に下がったシャンデリアを眺めた。

 母の好みで無理やりとりつけられ、一度上総の家を訪れる客人はみな、唖然とする代物だ。震度五以上の地震がきたらその段階でガラスの破片と水銀が部屋一面広がりそうなほどのどでかさだった。

 受話器を握り締め、そのシャンデリアを見据える。

 どこかから来る未知の世界の宇宙船のようなものに見えてきた。

 耳に響くこずえの言葉と一緒にシャンデリアの光がところどころ揺らぐようだった。

 ──だからさ、一刻も早くだよ!

 力をこめて古川こずえが訴える。

 ──これ以上誰も傷つかないですむようにするため、先輩の私たちが一肌脱ぐのよ。杉本さんもプライドを傷つけられず、渋谷さんも死なずにすんで、藤沖が評議委員会の仕事をちゃんとやってくれて、立村、あんたも。

 もし言葉が続いていたら「いいかげんに俺にかまうな!」と怒鳴っていただろう。

 ぱたと、言葉を留めた。

 ──とにかく、明日、六時。高校の校門で待ち合わせ。さあ、さっさとあんた風呂場でいい女の子のエロ本で一発抜いて、すっきりして寝なさいよ。早起きしてもらわないと、ほんと困るんだからね!

 答えを待たずにこずえの受話器を置く音が、こちり、と聞こえた。


 ──俺だっていくらでも、人を傷つけないですむ方法くらい考えられるさ!

 不覚にもまた、口篭もってしまった自分が情けない。泣き虫だった自分がまだまだ居座っている。涙のつぼをいったいどこで押されてしまったのだろうか。上総は左手でもう一度目を拭った。泣いてしまうなんて男らしくないと、もちろん育てられてきたのに、自分の意志とは別のところで潤んでしまうのが止められない。

 天井のシャンデリアをにらみつけ、部屋に戻った。開け放った窓からカーテンがかすかに揺れている程度の風。引きちぎれそうな勢いでカーテンを閉めた。

 本棚に立てたままの本を一冊、取り出した。

 「キャリアOL」の、霧島から預かったグラビア写真集だった。

 ──悪いが俺の好みじゃない。

 ページをめくらず、そのままカバーを裏返しにし、もう一度袋に戻した。

 ──もう、話すことはなくなるだろう。早めに返したほうがいい。

 やたらと甲高い声で、「女子なんかと付き合うのは、時間の浪費ですが、能力のある女子ならば話は別です。たとえば……」などと一方的に演説しまくる霧島の話は、黙って聞いている分にはいやではなかった。しかし、そこに別の目的があるのならば、もうこちらから願い下げたほうがいい。杉本の敵になるであろう相手ならば、今だけ先輩としていい顔をしていたとしてもあとで叩きのめすはめになる。勝ち目はなくとも、ざらつきは残る。

 ──いずれ、敵になるんだったら、早いうちに離れたほうがいい。

 鞄にしまい込んだとたん、また勝手に瞳がうるんだ。

 ──最近霧島があんたに近づいてきてるのだって、もしかしたらそのあたりが理由かもよ。

 こずえの鋭い答えを、どうして上総は今まで気付かずにきたのだろう。

 机の引出しからもう一度手帳を開き、ドイツ語で殴り書きした。

   

 ──懐かれたことをそのまま受け入れた僕が、愚かだった。


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