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 古川こずえが時間延長に出ている間、関崎はひたすら黒いバインダーに見入っていた。どうみても、選曲中としか思えない。その単純さというか、何も考えていないというか、やはり謎の男だと思う。上総はさりげなくからかってみることにした。

「関崎、音楽、いくつだった」

「もちろん五だ」

「だろうと思った」 

 けげんな顔をして関崎は上総を見据えた。

「関崎」

 ウーロン茶は半分減っていた。喉が渇いたのかかなり消費したんだろう。

 背を正し、関崎に向き直った。関崎も上総の意志を読み取ったのか、すぐに正面に向いた。

「なんだ」

「ひとつだけ頼みたい」

「何をだ」

「信じてやってほしい」

 ふたりきりの場所で、上総が言えることはひとつだけだった。

 ──杉本梨南の無実を、信じてほしい。 

 言葉をつむぎなおした。


「今日、ここに来たのは古川さんと不毛な言い合いをするためではないんだ。俺なりに、関崎に、真実と思われることを知ってもらいたい、そう考えたからなんだ」

「お前も真実だと思っているのだろう?」

「俺は、客観的にしか判断できない。現場にいない以上、どれが事実なのかわからない。その上で俺なりの判断で行動している。だが、噂だけが一方的に流れてきたらおそらく、多くの生徒は杉本を疑うだろう」

「俺も現場にはいなかった」

その通りだ。男子的発想、あっぱれだ。

「今から、俺は関崎にできる限りの説明をする。古川さんも言うことは言うが、根本的には杉本を信じていると思う。だから、関崎だけは、それを信じてもらえないか」

「なぜ……だ?」

「それは」

息を整えた。手元のウーロン茶で喉を潤さないと、痰がからまるようで声がでなかった。

「お前にだけは、信じてほしいと杉本が思っているからだ」


 古川こずえは元気にポテトチップスを抱えてきた。まずは手持ちぶたさなのでばりばりといただいた。なんというか関崎も腹がすいていたのだろう、まずは一枚噛み砕いた後、

「古川、今始めて知ったことを、もう一度確認したいがいいか」

「いいよ」

 さっそく事情聴取を開始した。こずえもそのあたりは了解済みらしい。さくさく答えた。

「藤沖がその、やらかした女子をかばっているというのはどういうことだ」

「ほら、あいつ元生徒会長だったでしょう。だからよ」

 わかりきった事実ではあるけれども、外部生の関崎には分かりづらいところもあるだろう。上総はただ、感想を挟み込むだけだった。

「そんなに仲が良かったとは思わなかったな」

 記憶する限り、藤沖は渋谷を代表とする生徒会女子のことを手厳しく評していた。

 だからこそ、いきなり百八十度の転換は想像できなかった。

「ごもっとも。はっきり言って、私も、驚いたわよ」

 内部生もやはり驚きを隠せない、その証拠。こずえはわざわざ一番大きいポテトチップスをつまみ、一気にごりごり噛み砕いた。

「関崎もわかっていると思うけどさ、藤沖は硬派野郎じゃん。秋にはなんとしても応援団を打ち立てようと燃えている熱血男。私の知る限り、女っ気も全然ないし、どこでストレス解消してるんだかってよく聞いたもんよ。だからさ、いきなり藤沖があの彼女と一緒に図書館で勉強しだしたりとかさ、一緒に帰り始めた時には驚いたわよ。とうとうあの藤沖にも春が来たのかって。でもよりによって嫌っていた渋谷さんに手を出すなんて、特に例の噂がある渋谷さんになんでって、みんな不思議がってたわけよ。基本としてうちらの学年女子は、杉本さんびいき。渋谷さんの話にみなざまみろって思ってたところあったみたいよ」

 ありがたいことだ。杉本を守ってくれているようだ。その点確認できただけでもほっとした。さっきの言い合いを許してもいいと、一瞬だけ思った。

「藤沖もまあ、なんというか、女子たるものはやまとなでしこであるべきと信じていたところあったみたいでね。気が強くてうるさい子は苦手だって前々から宣言してたよ。私みたいな男のパーツについて詳しい女子はおよびじゃないんだってさ。ま、友だちとしてはいいけど、彼女にはねえって感じ」

 返答に困っているのか、関崎が顔をしかめた。

「そんな奴がよ? なぜいきなり、渋谷さんといちゃついてるのかって不思議に思うじゃん。人様の恋愛沙汰には口出しなんてしたかないけど、まあ、状況チェックはしてたわけ。そしたら、ひょんなきっかけで渋谷さんの状況が判明しちゃって」

「状況?」

「手首切るのを繰り返してるって。それ心配で、見張ってるらしいって」

 初めて聞いた、具体的状況だった。

 ──手首を切るということは。やはりかみそりで、静脈を切って、そして。

 

 死にたいと思ったことはある。それこそ何度も、数限りなく。

 死ぬための手段を何度もシュミレーションしたこともある。

 薬がいいのか、刃物がいいのか、それともガスか、飛び降りか。

 そうしなかったのはただ、上総が今まで運よく生き延びてこれたからだった。

 

 喉の奥で、かちゃりと何か、外れたような感覚が残る。

 認めたくはない。その行為まで進む距離が、上総にはまだ遠すぎて、おそらく渋谷名美子には近かったということなのだろうか。

 完璧に対岸で眺めているような関崎の、脳天気な声が聞こえる。

「手首を切る、というのが、すなわち自殺未遂なのか? 単に夕食の準備で指を切ったとか」

 上総が口を挟む前にこずえがテーブル下で何かしている。ぼそっと音がしたので、たぶんけりを入れたに違いない。

「関崎、料理をする時手首に包丁、近づける? あんたアホなこと言ったら男のシンボル切り落とすよ。なことはどうでもよくてさ、とにかく、藤沖はひとりの女子の命を守るがために毎日寄り添っているらしいのよ」

 まくし立てながら、こずえは肩を竦めて首をぐるぐる回した。

「いったいどこでそんな殊勝な気持ちになったのかわからないけど、あのきんきんうるさかった渋谷さんが、とてつもない大失敗で一気にプライドも地に落ちてか弱くなったのを見て、感じるところあったんでないの」

 ──プライドがずたずたで、地に落ちて、か弱くなって。

 上総は天井のミラーボールを見つめた。天井のほの白い中でかすれたような影の破片が飛び散りまわっている。

 ──もし杉本だったら。

 そんな想われ方を望むだろうか。すぐに否、と答えが出た。

 ──想われたくなくても、周りからはそう見られている。せめてそう思わせないように守る方法はなかったんだろうか。

「さらに言うとさ、二年の霧島」

 いきなりこずえの発した言葉に、また上総は心ざわつくものを感じた。

 ──霧島のことなんて、関崎に話していいのか?

 すぐに疑問は解けた。

「ほら、この前会った子」

 ──この前会った? まさか関崎、霧島と会っていたのか?

 今朝も、「立村先輩、お待たせしました」などとちっともこちらは待っていないのに、待ち構えられて霧島家の事情を語られたわが身。てっきり霧島は、上総にだけ何かを訴えたくてそうしているのだと思っていたが、なんと関崎にも同じことをしていたというわけか。

 ──やっぱり何かあいつは企んでいたんだな。全く、騙されるところだった。

 何が騙される? 自分の思わぬ感情が浮かび上がり、あわてて消した。

「あいつにずっと渋谷さん恋焦がれていてしつこくアタックしていたみたいなのよ。けど霧島は最初からタイプじゃないって面しててさ、きつく無視。例の事件前からもともと渋谷さんのことなんか興味なかったのに、さらにばれちゃってからはそれプラス、『だらしない女子』の烙印まで押されちゃったみたい。まあね、霧島はね、女子に関しては好みがうるさい性格だしね。決して渋谷さんはブスだと思わないけど、霧島は女子のルックスなんて二の次って言い放ってるよ。姉貴で裏を見すぎたのかもね」

「よくわからないが、藤沖の言動は決して色恋沙汰ではないんじゃないのか」

 奥の席で上総があえて言葉を飲み込んでいる中、関崎は単純にわかりやすい質問をこずえにしていく。

「仮にも生徒会活動に参加していた仲間だ。もちろん色々ぶつかり合うことはあっただろう。だが、それ以上の強い同盟意識があり、そこから何かを感じたとするならば、それは恋愛感情とは別のはずだぞ。後輩への思いやりだけだ」

「だよねえ、私も最初、そう思ったんだ。まずは藤沖の話はそっち置いとくとして、次、杉本さんのことね。ああ、あのさ立村、言いたいことないの」

 すでに霧島関係の話題は本人から聞かせてもらったことばかりだ。

 ──どうせ関崎も霧島に直接聞けばいいことだ。懐かれているんだから。俺よりももっと、活用しがいのある先輩だろうしな。しかし霧島も、何を考えているんだろう。俺にしつこくまとわりついてくると思えば、今度は関崎か……。

 正直、面白くない。もう少し黙っていたい。

「古川さんが言い終わってから言う」

 上総はきっぱり告げた。すべて聞いてからにしよう。いや、頭の中を少し整理してからのほうがよさそうだ。杉本のこともそうだが、霧島も絡んでいるとあっては、下手なことを口に出せはしない。

 こずえの立て板に水状態の説明はまだまだ続いた。

「杉本さんはね、最初はそんなの知ったことかいって顔して無視してたわけよ。すごいよ彼女。修学旅行後、杉本さんの泊まっていた部屋からおねしょふとんが発見されたって噂が派手に流れてさ。やはり話にみな飛びつくわけよ。杉本さんを嫌っている男子たちにとっては都合いい情報だしね。でも、思い当たる節なんて全然ないのになあに考えてるんだかって顔しつづけていたのよね。ところがなんかあったらしいのよね、生徒会がらみで。霧島もそのあたりは聞いてなかったみたいだけど、立村なら詳しいんでないの」

 こずえがいったん言葉を区切りながら、上総を見やった。


 ──願わくば、この情報をもっと早く欲しかった。

 今後、古川こずえとの友好関係は守りつづけねばなるまい。

 こずえの発言を一通り聞く限り、完全に杉本梨南は渋谷名美子によっておねしょ事件の濡れ衣を着せられそうになった被害者である。

 まず犯人説が流布された理由のひとつとして、

・杉本梨南の泊まっていた部屋から、おねしょ仕立ての布団が発見された。

 という物的証拠が挙げられる。

 周囲としては……特に杉本をとことん嫌う男子連中からしたら、これは叩くきっかけになるだろうし、できれば杉本が犯人であってほしいと願っていただろう。

 しかし、さまざまな証拠が現れて結局、渋谷名美子が犯人だと判明した。

 生徒会役員を務め、しかもそんな失敗とは全く縁のなさそうな気の強い女子が、逃げ場のない大失敗をしてしまい、しかも誰かに押し付けようとする醜態までさらしてしまった。

 そこまでばれているのだから、杉本に罪をなすりつけること自体が不可能にも思えるのだが、学校側が渋谷の精神状態を考慮してなんとかせねばと動いたことも不思議はない。もともと青大附属という学校は社会の法とは別の観点で物事を動かす傾向が強い。知る人ぞ知る縁故入学もそうだし、西月小春の事件を学内で処理して無理やり転校させたりしたことも、これはひとつの答えだろう。

 ──学校側がもし、渋谷さんを死なせないようにしたいと考えたとすれば、来年この学校を出て行く杉本梨南を生贄にして、渋谷さんを無実にするという手も、取らないとは限らない。

 今までその恩恵を賜ってきた上総だが、今はその方針……もし事実とすればだが……に意地でも頷く気はない。杉本にも甘んじさせるつもりなんてさらさらない。

 しかし、ここで露骨に言い切るのは危険だ。用心深くいこう。

「別にそんなことはない。俺はただ、これ以上誤解されるようだったら、白黒つけに行ったほうがいいのではないか、と助言しただけだ」

「まあ、正論だわね。この際聞くけど、どうしてよ」

「お互い、きちんと話し合っておけば問題がないだろう。思い当たる節がない、と言い張っているのは杉本だし、イエスかノーかは直接顔を合わせればはっきりするだろう」

「じゃあ聞くけど、立村。あんたが杉本さんにそんな助言をしたばっかりに、かの生徒会長・佐賀さんまで顔を突っ込んでくるってのはどういうことよ」

 霧島が言うには「佐賀会長は藤沖先輩に丸め込まれている」らしいが、最初から上総はそんなこと信用していなかった。学校側の対応にしても、おそらくあの頭の切れる佐賀はるみのことだ。すべて計算済みだろう。きっぱり答えてやる。 

「佐賀さんは杉本を疑ったらしいからな。それはきっちりと白黒つけておいた方がいいだろう。もっとも、なかなか相手が逃げ回って話にならないらしい。佐賀さんがかばって、かえって杉本が疑われるはめになっているはずだ」

「まあねえ、佐賀さんは生徒会仲間の渋谷さんの方が大事だろうしねえ。で、かつての親友に罪をなすりつけると、それは失礼よねえ」

 ──最初から親友じゃなかったんだからそれはしょうがない。

 上総なりの結論は持っているが、今それを話す場ではない。

 こずえも話が逸れると引き戻すのに時間がかかる。流しておく。

 しかし外部生関崎の奴、上総の計算を一切読み取ろうとしない。 

「罪をなすりつけたわけじゃないだろう。どちらが正しいか、情報が少なすぎて判断できなかっただけじゃないのか?」

「関崎、あんた、面食いかい?」

 ずいぶんあっさり茶化すものだ。こずえにあしらわれている。

「とにかく、佐賀さんは渋谷さんをかばい、それが噂で流れ流れて、とうとう杉本さんの分が悪くなっちゃったわけよ。渋谷さんの精神ぼろぼろ状態も、周囲からはありもしないおねしょの噂でショックを受けたからだって解釈になりつつあるし。一部、霧島のように判断している奴もいるけど、結局みな、自分たちに都合のよい結論を求めるわけだから、もう八割方、杉本さんは不利」

 真実は様々、入り乱れている。こずえの分析お見事だ。

 腑に落ちない顔をしている関崎に、こずえは残りのポテトチップスをすべて指で掬い取った。三枚、口もとまで持っていったまま言い切った。

「学校側も、グレーゾーンのまま、なんとか人の噂も七十五日で片がつくよう祈ってるようね。杉本さん側の噂も消さず、かといって渋谷さんが犯人だというのも証明せず。生殺しのまま、みな卒業してもらえることを祈ってるというわけ」

 ──完璧だ。

 鋭い読みを披露した後は、ただひたすら食い気に走っている古川こずえ。一気に三枚食いきった。


 関崎はしばらく頷きながら聞いていた。おもむろに一言切り出した。

「古川、ひとつ聞きたい」

「なによ」

「その、杉本、さんはなんと言ってるんだ」

 杉本梨南の苗字に、「さん」をつけて呼んだ。上総の耳にはどことなくひっかかる音に聞こえた。

「私が正しいことはわかる人にはみな、わかっているし、無理に騒ぐ必要なんてない、ってね」

上総にも同じことを話していたようだ。どうやらこずえも杉本と直接話をしたらしい。考えられないことではないのだが、やはり出し抜かれたようで臍を噛む。

「でも、佐賀さんに何か言われた時にはかっとなっちゃたらしいけどね」

 やはり一戦交えたのだろう。きっと、丸め込まれたのは杉本の方だろう。なんとかしてやりたいが、できない一学年の差だ。こずえと関崎、ふたりが全く別のルートで杉本のことを語っているのが、妙にいらだつ。言葉にも、出さないようにしているのに、ぎざぎざしたものが浮き出てしまう。

「つまり、わかる人にわかってもらえれば、いいのか」

「立村、そう言ってたってことだよね」

 思わぬ切り返しに戸惑ってしまった。杉本梨南のことをよく知っているのは上総なのか、それとも他の連中なのか。もちろん上総以上に杉本を見ている奴はいないと断言したいところだが、女子たちにはどうしてもかなわない瞬間もある。女々しいが、それも悔しい。

 もちろんそんなことを言うわけにもいかない。

 かわりに関崎がどんどん突っ込んでいってくれた。

「じゃあ、古川は結論としてどうもって行きたいわけなんだ?」

「結論ねえ」 

 とつとつと、クラシック音楽のテンポで語る関崎。

「事情は今の説明でだいたい把握した。つまり、古川としては、現状の噂をそのまま流しておいて、七十五日の噂消滅まで何もしないでおこう、そう言いたいんだな」

「露骨だねえ。でもそうさ、その通りだよ。渋谷さんがこれ以上手首をかみそりで切らなくなるまでは、とにかく杉本さんにがまんしてもらうしかない、そう判断したわけよ」

 ──やっぱり流れは杉本に罪を押し付けるってことか!

 黙っているわけにはいかず、上総も参戦した。

「杉本はそうしたらひとりだけ惨めな思いをしろってわけか!」

 なだめるようにこずえが上総に首を振った。永年の付き合い、お守りされているのがなんともいえず居心地悪い。関崎に気付かれてなければいいのだが。

「違う違う。だから、誰か杉本さんをかばってあげられるような場所をこしらえてやるのよ。斬り込み隊長はあんた、立村ね。今、私が聞いている限り、杉本さんには新しい友だちがいるって東堂から聞いてるよ。はたからは危なっかしいらしく見えるけど、けっこう楽しそうだって。あの子たちは少なくとも杉本さんのことを嫌ったりしないし、こんなくだらないおねしょ騒ぎになんて耳傾けたりしないよ。だから、それでいいじゃないってこと。立村が杉本さんのためにやってあげてたことと一緒よ」

 つい一週間ちょっと前、霧島から何も聞いていなければ、こずえの言葉も頷けただろう。藤沖の事情を知らないままでいれば杉本に、「風の噂も七十五日」と言い聞かせ続けただろう。しかし、陰謀説をここまで聞かされてしまい、かつ杉本梨南のあまりにも酷い扱い予定計画には、何があっても頷くわけにはいかなかった。

「俺が杉本の同級生だったらまだなんとかできるさ。だが今はどうしようもないだろ? 今の杉本の友だちも、俺の知る限り、かなりとんでもない女子らしいと聞いている。もちろん東堂が気に入っているくらいだからそれはそれでいい人だとは思うが」

 不良娘・桜田についてももう少し情報を仕入れておいたほうがよさそうだ。

「しょうがないよ。立村、あんたはこういう顔しててもついてるものついてるからしょうがないけどさ」

 言われた後で下ネタだと気がついた。もちろん反応なんてするものか。

「女子っていうのはね、本当に信じてくれる人がひとりだけでもいれば、ちょっとくらいの辛い思いはがまんできるもんなんだよ」

 こずえはゆっくりと、上総に語りかけるように続けた。

 こういうのりって苦手だ。どことなく、お姉さん気分で語られるとなんだか上総自身が、できそこないの弟に格下げされているような気がしてならない。しかも目の前には関崎が興味深げに観察しているのだ。こっぱずかしいったらない。知らん振りをした。

「こういったら変だけどさ、あれだけ杉本さんがいじめられて来て、先生たちにも無視されて、たったひとりで戦ってきて、それでめげずに青大附中へ通って来てるのはね、たったひとり、はっきりした味方がいたからなんだよ。立村、あんたはそれ、わかってるよね」

「だからといって、ありもしないことを叩かれて噂を七十五日待てというのは、人間としておかしいだろう? 七十五日ったら、何ヶ月だ?」

 即、関崎が答えを出してくれた。暗算だろう。

「二ヶ月程度だ」

 悪いがこれも無視させてもらう。

「学校側は、夏休みもあるしすぐに話は立ち消えになるだろうと思っているからそんな流暢なことが言えるんだ。だが、杉本はもともといろいろ不利な立場に立たされる女子だってこと、古川さんも知っているだろう? 佐賀さんが生徒会長に立ってからはなおさらだ。青大附属に高校以降もずっといる渋谷さんを大切に守って、どうせ公立に出て行く杉本なんかどうだっていい、って思ってるのか? 杉本のプライドもなにも、ずたずたにしてもたいして問題ないと考えているのか?」

「杉本さんはそんなに弱くない、だからあえてそう私は提案してるんだよ。立村は杉本さんのことをか弱いと思い込んでるけどさ、そんなくだらないことで壊れないよ。女子の方が強いんだよ。こういう時はさ」

「古川さん、それは間違っている、杉本は」

「何もあんた、そうやって女子を下に見たがるのやめなさいや」

「そういうわけじゃない! もし杉本がそのことで反対にスーパーの屋上から飛び降りたらどうするんだよ。その時、責任取れるのか? 絶対に杉本は死ぬような子じゃないから、罪を擦り付けました、予想外でしたって開き直るつもりなのか? 今、たった今、杉本がどう感じているか、古川さん、百パーセントわかるわけもないのにさ」

「そんなに弱くない子だってあんたのほうがいつも理解してるはずだよね。そんな弱虫だと思われていると知ったら杉本さんきっと、立村の顔面ひっぱたいてついでに大事なとこもぶったぎってとんずらしちゃうよ、それくらい想像つくでしょうが」

「違うんだ、古川さん、最初から話を聞いてくれ、つまり」

──古川さんはわかっていないんだ。佐賀生徒会長が本気で杉本を叩きのめしたら、今度こそ杉本はもう立ち直れないかもしれないくらい、傷を負うってことを。

 いきなりルーム内に強烈な砂嵐音が響いた。鈍いものを叩きつけるような音、と同時にキーンとハウリングも。

 関崎がこつん、とガラスのテーブルをマイクで叩いていた。

 真顔で上総とこずえにマイクを向けた。

「直接、杉本さんにどうしてほしいかをどうして聞かないんだ?」


 完全に外部の人間として無視してきたのだが、やはり入ってこられるとどうしようもない。関崎にはかなわない。このまま相手にしなかったら、こいつはまた何をしでかすかわからない。今度は演歌にこぶしきかせて歌われるかもしれない。想像つかないのでまずは黙った。

 そんなこと思われているとも知らずに関崎は続けた。

「だいたい話はつかんだ。立村、古川。お前たち二人の言い分はよくわかった。だが、結局一番ないがしろにされているのは、杉本さんじゃないのか?」


 同じハウリングのような音が、身体中に響き渡った。

 突きつけられているマイクは、ナイフのように見える。

 みぞおちをぐっと突かれたらこんな衝撃を受けるのかもしれない。かろうじて答えた。

「関崎、それは俺に対して言ってるのか?」

 上総にしっかり真正面に向いて、関崎は頷いた。

「そうだ」


 ──ふざけるな! 関崎、お前にそんなこと言われる筋合いなんてない!

 叫びたい、マイクを引ったくって思いっきり殴ってやりたい。

 でもできない。身体がこわばりすぎて、動けない。


「第三者の目から見ると立村、お前は杉本さんの立場を代弁しているように見えるが結局は古川の言う通り、藤沖へしっぺ返しを食らわせているように思える。女子たちの件はおいといても、藤沖に対してはもっと、話を聞いてやるべきだと俺は考える。それと古川、お前も杉本さんからいろいろ話を聞いてるというが、結局何を彼女が求めているのかが、正直はっきりしない。周りはいろいろ取りざたするが、学校なり周囲なりの意志ばかりが働いて、本来杉本さんがお前らにどうしてほしいのかがさっぱりわからない。まずは、それを確認するべきじゃないのか」

 交互に上総とこずえの顔を見やりつつ、とつとつと関崎は語った。

「でもさ、そんなのわかりきってることじゃないのさ。女子からしたら、恥ずかしい噂なんてさっさと忘れてほしいに決まってるじゃん。杉本さんだって本当は白黒つけたいじゃん。でもそうしたら」

 言いかけたこずえに、関崎は反論できぬほどきっぱり断言した。

「それはお前らの思い込みだぞ。もしそれが外れていたらどうするんだ」

 こずえだけではない、上総にも。

「俺ならまず、杉本さんの要望を聞く。その上で、俺がどうしてほしいかを訴える」

 そんなことは、上総自身が何度もやっていることだ。何も知らない癖に、正論ばかりだ。

 上総は関崎に問うた。答えによっては許す気などない。

「関崎なら、どうしてほしいと、あいつに言うんだ」

 ためらうことなく関崎は答えた。

「人も死なせずにすんで、プライドも守られる方法を、一緒に考えてほしい、とだ」


 ──そんな方法、あるのかよ。

 平然と言い放つ関崎に、どう伝えればいいのだろう。

 この正論を、当然のごとく目の前に差し出そうとする関崎に。

 杉本梨南は本当に、関崎のことを。

 ──関崎のことを、杉本は今でも、この瞬間においても想っているのに。

 杉本の欲しいものを持っていない相手なのに、どうして。

 上総の耳にはただ、具体的提案がずらずらと流れていくだけだった。関崎乙彦の提案は、きっと菱本先生や貴史、美里なら納得するに違いない。目の前のこずえもきっと乗り気だ。 上総が受け入れられないだけだった。そういうもののほとんどは杉本だって嫌いははずだ。自分を思われていなくとも、感じる感覚だけは同じだという自負があった。でも、関崎の言葉なら。たったひとり、杉本梨南の支えであるこの男の言葉なら。

 

 ──どんなに合わない感覚であっても、杉本は関崎の言うことなら、受け入れるのだろうか。

 辿り付いたひとつの結論。天井に回りつづけるミラーボールの破片を見上げた。一瞬だけ曇った。

  

「ただ、彼女にも、すべての事情は伝える必要がある。藤沖が毎日見張りをしないといけないほど渋谷という女子が追い詰められていることなどは必ずだ。その上で、これから先ベストな方法を取りたいのだが、いかがだろうか、と持っていく」

「ベストな方法ねえ」

「もちろん、その方法でも渋谷という女子が傷つくのならしょうがないだろう。だが、人間、誰だってあったかい気持ちはあるはずだ。人前で寝小便の布団をさらすような真似はしないだろう。立村、そんな女子じゃ、ないんだろう?」

 かつて、杉本梨南から葉牡丹を差し出されて想いを打ち明けられた、たったひとりの男子。

 そいつを目の前にして、答える言葉などなかった。

「方法だったら、たとえばだ。俺ならまず、藤沖、立村が立ち会う中で女子同士の対面をさせて、その上で話し合いをさせる。もし必要だったら彼女たちの友だちを同席させてもいい。とにかく、とことん話し合わせる」

「どつぼにはまるよそんなことしたら」

「人間同士、心があるはずだ。そんなことで壊れたりなんかしない。その場所をあえて、学校の外なり、人目につかないたとえばこういうカラオケボックスとか、そういうところに設定する。そこでばれないように話をすれば、まずこれ以上酷い噂は広がらない。その上で互いに納得した声明文を発表するなり、そのまま七十五日を待つなり、それぞれの価値観で判断すればいい。あとは、女子同士で決めることだ」

 裏のないまっすぐな表情で、関崎は止めを刺した。

「本来信頼するとは、そういうことじゃないのか、立村」

 

 隣で古川こずえが心配そうに覗き込む。気付かれたくはなかった。

「信頼、ねえ。立村、あんたどう思う」

 かろうじて返すのがやっとだった。

「杉本自身の、判断か」

 もし杉本が他の男子に言われたとしたら、即つっぱねることを確信している。

 何も知らない無責任な発言として無視するだろう。

 それが杉本梨南の矜持だ。

 でも、たったひとり、そのプライドを翻させることができる奴が、目の前にいる。

 本人は特に杉本に対して何かを感じるでもなく、一応人称に「さん」はつけてくれるけれども、ただの下級生としか思わずに案を提示しようとする。  

 杉本にとっては、たったひとりの「救い」であるというのを、本当にこいつは気がついているのだろうか。

 上総は俯いた。目を閉じた。何かが激しく渦を巻いていた。振り上げるところがわからないこぶしを膝に置いた。こずえが話し掛けてくるが、それすら耳に入らない。

「私は、関崎の案、なるほどなって思うけどさ。話せばわかってくれる子だとは、思うよ」

「筋は通すからな」

 ──理不尽でも約束は守る、それが杉本梨南なのだ。

「私ら先輩たちがわたわたするよか、直接杉本さんにどうしてほしいかを聞くのは、確かに早道だよね。あの子、学年トップ今だに守ってるしさ。賢い子だからどうしてほしいかは答えてくれると思うよ」

 ──佐賀さんや新井林のような友だちに本当は囲まれたくて、でもそれは決して許されない。そして今は関崎のことばかり考えて、それすら受け入れてもらえない。誰も、気付かないんだろう。どうして俺しかその答えが見えないんだろう。どうして、関崎は、気付こうとしないんだろう。杉本が欲しがっているのはそんな、奇麗事の正論なんかじゃないというのに。

 

 マイクに目が留まった。きっと関崎には人並み以上の音感が備わっている。一生杉本梨南と一緒に歌う機会なんてないだろう。本人すら意識していない音程の外れ方を、憧れの関崎に聞かせる必要なんてない。関崎はひとりで、いや誰かと一緒に仲良く、「砂のマレイ」を熱唱していればいいのだ。

 上総はそっと財布を取り出した。あとで割り勘にするのも面倒だ。千円あればこずえがうまくなんとかしてくれるだろう。

 千円札を一枚、ガラスのテーブルに置いた。関崎に告げた。

「時間、まだあるだろう。関崎、もう少し歌っていけ」

 こずえと一緒に関崎が、はっとした表情で上総を見返した。何かを言いたそうだった。心配そうなその表情が、なお重たかった。こずえがすぐに返事した。

「ああわかったよ。あとでもっかい電話で連絡するよ」

 

 戸を閉める際、上総は思い出した。杉本梨南がこよなく愛したオペラの題名だった。

 ──ローエングリンか。

 ローエングリン関崎の言葉なら、いくさおとめ杉本梨南は素直に矛を収めるだろう。

 どんなに理不尽な言葉であったとしても。

 それに気づいているのは、今のところ上総と、佐賀はるみだけのはずだった。

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