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その日の放課後、上総は古川こずえと関崎乙彦に待ち伏せられた。
大学の英文科講義に出席し、担当の大鳩教授と少しだけ話をし、全く関係ない霧島のことを考えていた時だった。完全に頭の中はお留守だった。
──「グレート・ギャツビー」において「僕」に対してどうしてギャツビーはあんなに執着し「僕の親友よ」とかいって呼びかけたんだろう? ただ二言、三言パーティーで話をしただけなのにだ。もちろん利害関係として親戚筋のデイジーとのコネ作りもあったのかもしれないけれども、どうしてあんなに「僕」に対ししがみつく必要があったんだろう。少なくともギャツビーが殺されて葬式が行われるまでは、彼の友情というものははっきり伝わるものではなかっただろうし。
そんなことを何気なく教授に尋ねた。別に何か意味があるわけでもなかった。たまたま講義の合間にフィッシジェラルドの「グレート・ギャツビー」を取り上げられていたからだ。中学時代からこの作品は上総にとって特別な意味を持つ物語だったけれども、どうして「僕」にギャツビーが拘るのか、どうしてひとりでいられなかったのか、そこだけがどうしてもわからくてひっかかっていた。なぜ、「僕」はそこまで好かれたのか?
「立村くん、人を好きになることには同性異性関係なく、理由はないのですよ」
上総の質問を穏やかに聞いていた大鳩教授は、短く、しっかり答えてくれた。
「会った瞬間に自分と引き合うものがあれば、その瞬間『オールド・スポート』となるのですよ」
ということは、今朝もしつこく通い詰めてきた霧島の言動も、上総のことを「オールド・スポート」として認識したからなのだろうか? 何か意図的に近づいてきて、藤沖や渋谷を陥れるためだけにしては、ずいぶんまとわりつきすぎる。彼の恥ずかしい過去……キャリアOLの写真集で鼻血を噴いたこと……を隠してもらうにしても、上総のほうからそんな必要はないとしっかり説明したにも関わらず、こうしてくるのだから、なんらかの意味があるのではと勘繰らずにはいられない。しかも、霧島家の事情まで頼みもしないのに語り出すとは、ますますわからない。すでに上総は、霧島ゆいのその後の痛々しい高校生活から、現在の親友の名前、およびどれだけ霧島と母親が姉の愚行によって迷惑を被ってきたかまで知っている。しかもまだ、彼には話すべきことがあるらしい。
全くもって、理解ができない。
──俺がなんらかの形で、霧島にお膳立てしてやる必要があるんだろうか。
「グレート・ギャツビー」の一場面で、「僕」がギャツビーとデイジーを再会させるため場所を提供したようなものを、だろうか。
理屈っぽく考えてみても頭が痛くなるだけ、わからない。また明日も来るだろう。黙って話を聞いて頷くのが一番なのかもしれない。思えばギャツビーの語りを「僕」は作中、ただ黙って聞いているだけだった。それが今の上総のしてやれることなのかもしれない。
とりとめなくも考えつつ上総は大学の校舎から出た。まだ空は明るかった。学生食堂で何か食べて帰ろうか、それとも体育館で羽飛のバスケ稽古風景でも眺めてようか。誰か友だちがいればその場で一緒にどこか街を彷徨ってもいい。どうせ期末試験の勉強なんて、英語しかする気がない。
薄い夏用のジャケットを羽織ったまま外に出ると、自然とじんわり汗が滲んでくる。寒がりの上総であっても、さすがに初夏の気配は身体に繋がってくる。
校舎内と外との温度差に目眩を感じたとたん、校門から誰かが走りよってくるのが見えた。
青大附属高校の制服で、二人組。
──羽飛と清坂氏か?
立ちすくんだままじっと見据えてみる。違った。美里とは違い髪の毛の短い女子だった。貴史とは違い、男子はもっとがっちりした体型だった。
近づいて来たのを見て、まず女子が古川こずえであることを確認した。
上総の片腕に飛びついてきた。相手を間違っているんじゃないかとつっこんでやりたいが、そんな軽口叩くような目つきではなかった。
「古川さん?」
「黙ってな。あんたに少し話があるんだから。それと」
こずえは顎でもうひとりの男子を呼ぶように合図を送った。
「関崎、か?」
「そうだよ。何の話か、わかってるよね、立村」
──藤沖の話が流れてきたのか。
予測していなかった自分が甘かった。単なる下ネタ女王ではない古川こずえ。現在一年A組の女子評議。かつ藤沖の相棒役。ともなれば例の修学旅行事件についても小耳に挟んでいるのは当然。
さらに関崎が絡んでくるのも、全く想像できないことではない。
──藤沖と関崎とは親しい間柄だ。気付かないわけがない。
つまり、上総はいつのまにかこずえと関崎を敵に回した可能性があるということだ。
藤沖ひとりを相手にするだけならば、一対一の勝負でけりがつく。
しかし、このふたりがからんできては……。
──落ち着け、まずひとつひとつ片付けていけ。
上総は自分に言い聞かせた。片手で抱えた英英辞典がどっしり重く感じた。
黙って関崎乙彦に目を向けた。
関崎は上総を、いつもの生真面目な表情でもって見返した。まず息を整え、「立村」と呼びかけてきた。
「言っとくが俺は事情がよくわからん。だが、話を聞いた上でお前が正しいと判断したら、すぐに味方につく。それだけは信じろ」
──どこまで事情を知っているんだろうか。
天羽たちが杉本におけるねじまがった噂を聞き知っていたことを考えると、外部生であっても関崎が知らないとは考えづらい。もしかしたらこずえから情報を得ているのかもしれない。このあたりの事情は正直まだわからない。
「味方、か」
皮肉っぽく呟いた。気付いていないらしい。
「たとえ古川相手でもだ」
ふくれっつらでこずえが関崎をにらみつける。すぐにその視線を受け止め、関崎はすぐに質問を投げかけた。
「古川、事情をまず聞かせてくれ。その上で俺は、どちらの考えに与するかを判断する」
「あんた、私に協力してくれるんじゃあなかったわけ?」
「俺は結局、お前からも立村からも、それと藤沖からも事実を聞かせてもらっていない。判断材料が少なすぎる」
──どこまで情報を集めたんだかわからないな。
ふたりの会話を注意深く聴きつつ思案した。関崎がなぜ、こずえと一緒に現れたのかその理由がまず判然としない。共通項は藤沖とよき繋がりがあるということくらいだ。上総の行動をこずえが鋭いアンテナで拾い上げて、すぐに手を打とうとしたのだろうか。いや、その前に関崎はどこまで事情を知っているのだろうか。それによっては下手なことを口にできない。用心せねば。
目と目が合ったが、無視した。
こずえがぴしりと言い放った。
「じゃあ、立村。言いたいことあるなら、とことん聞くよ。その代わり、デスマッチだから、その辺覚悟しときな」
デスマッチと来た。こずえもかなり本気のようだ。逃げるよりも、これは受けた方が勝ちかもしれない。上総のアンテナもぴんときた。
「どこで話すんだ」
「ベストなのはホテルだけどさ、誤解されたくないよね。関崎もいるし、この面子で3Pってのもね」
──ホテル、ってなんだよこの人。
どんな時でも下ネタを忘れない古川こずえ。それでいて顔は本気だから言い返せない。
「だからカラオケボックス行こう。歌い放題のとこ、見つけたからさ」
「了解」
人に気付かれない場所で話せるに越したことはない。覚悟した。
上総が頷くと、不意に関崎が戸惑い顔で首を振った。何を言い出すかと思いきや。
「ちょっと待て。カラオケボックスだと金が掛かるだろう」
──ああそうだな、関崎は苦学生なんだ。
即、頭の働くこずえが解決した。
「安心しな。学生は一時間九百円で歌い放題。三人でボックスに入るから三百円もらえれば終わるよ。ま、それ以上になったら誘った私が払うからさ」
こずえが提案したカラオケボックスは、上総の自宅すぐ近くだった。自転車で学校から漕いでいくと二十分から三十分くらいかかるのだが近道を通ればもう少し早く着く。
「悪いけどあんた真中で走りなよ」
肩に手を乗せられ、囁かれた。近道分かるのだろうか。
「逃げる気ないと思うけどさ」
──誰がそんな戦前逃亡みたいなことするかよ。
男子相手だったら平手でぱしんとはたいてやるところだが、女子相手に大人気ない。
後ろには関崎がしっかりハンドルを向けている。挟み込まれた感じだ。いつだったか誰かが長距離走の際、最初の一、二周くらいまでぴたっと牽制しあい走っている様子をみるようだった。
それでもやはり、時間がかかるのは心配だった。車道を走ろうとしたこずえに慌てて声をかけた。
「古川さん、次、右曲がってから、そのくねくね道を辿って」
その後も途中何度か上総は、こずえの背中に声をかけた。そんな大きな声でなくてもきちんと聞こえたらしく、こずえは上総のナビゲート通り、しっかり近道を通って品山のカラオケボックスまで辿り付いた。まだ日は暮れていなかった。さすが早い。
いわゆる「カラオケボックス」とは、単に自己陶酔しつつカラオケを歌い上げるために存在するものではなかった。上総たちにとっては誰にも邪魔されないために集合するための溜まり場であり、大人たちには決して気付かれないようにしなくてはならない場所だった。
たとえば中学時代など、評議委員会の集まりでどうしても学校内では離せない話題が出てきた時などは、みなでお金を出し合って一時間くらい部屋を借りる。なんとなくだが原則として、二時間近く語り合う必要のある場合、最低三人以上で集まる場合に限られていた。
今までは特段、トラブルも起こらなかった。校則違反かどうかは微妙な部分もある。ある先生は「別に歌う程度だったら喫茶店と同じようなもんだ」といい、またある先生は「密室なのだから何かあったら責任取れない」ともいい、意見は分かれている。今のところは正式に「校則違反」という判断は出ていないので、上総たちは安心して利用している。
もっとも、死んだって歌うつもりはない。
周りで音程の外れた声が響きまくろうが、年がら年中ミラーボールが回っていようが、それはどうでもいいことだった。かえってそれらの雑音が、秘密を保持してくれる貴重な守り神でもあった。
特に、品山の元パチンコ屋の跡とされている空き地に出来たばかりのカラオケボックスは、貨物列車のコンテナを大量に並べて一部屋一部屋を完全に分けてあるものだった。もしレールがひいてあれば、すぐに出発してしまいそうな状態で並べられている。その中に入るとだいたい五人くらいは座れるスペースが広がっている。
「ここだったらあんたも安心して、語れるでしょ」
こずえはまず上総にはコンテナを指差した。その後、関崎に振り返り説明した。
「あの中がカラオケボックスになってるのよ。完全個室だからさ」
「いいのか完全個室なんて、法律に違反しないのか」
「大丈夫よ、少なくとも今のところ、校則違反にはならないと思うよ」
こずえはすばやく受付で手続きを済ませた。5番の札を持ってきた。上総にちらと見せ、そのまま関崎に話し掛けた。
「とりあえず入ろうよ。暑いね。それにしてもクーラー効いてないじゃん」
「暑いなあ」
確かに暑かった。上総たちが足を踏み入れると、ようやく一気に扇風機の風に似たものが部屋の中をぐるぐるし始めた。同時にミラーボールも激しく回り出す。
スカートをふわっと軽く持ち上げ、風を足の間に通すような仕種をし、こずえが尋ねた。
「面倒だから、とりあえずなんか一曲、歌ってみる?」
冗談じゃない。もちろん丁重にお断りすべく首を振った。まずは腰をクッション椅子に下ろした。吹き出しながらこずえは、次に関崎へお勧めしだした。
「あんたに歌えなんて誰も言ってないよ。関崎、とりあえず景気付けに、どう?」
「俺が歌うのか? 何をだ」
──こいつ、本気なのか?
次の行動に上総は目を丸くした。
関崎はまずこずえに、黒いカバーのバインダーがなんなのかを尋ね、すぐに広げ出した。中には歌詞カードが入っている。もちろん歌うための場所だから当然歌ってもいいのだが、こういう言動を見るたびに上総は「お前何しにきたのか自覚しているのか」と問い詰めたくなる。こずえがおもしろがるように、カラオケ初心者らしい関崎に対して説明している。
「ここね、まだレーザーカラオケ、入ってないんだよね。でもまあいっか。歌い放題だしさ。関崎も歌いたくなったら勝手に機械を操作してくれればいいよ」
「あとで考える。やり方は本を読めば分かるな」
ひとりごちた関崎の顔に、上総はやはり本気の色を読み取った。
──関崎……やはり、カラオケ興味あるのか?
日常のささいな言動を見つけるにつけ、関崎乙彦という男にはやはり驚かされる。
五人くらい座れそうなスペースだが、まだクーラーが効いてないせいか息苦しさを感じた。てきぱきとこずえが飲み物の注文を取ったりいろいろ指示を出している。まずは上総が最奥に、隣にこずえが、入り口側に関崎が座った。
古川がまず口を切った。
「時間がもったいないから、さっさと話すよ立村」
同時に店員のノックする音が聞こえた。飲み物が届けられた合図だ。
並べられるウーロン茶を見つめ、店員がいなくなるのを待った。いきなり氷が溶け出し揺れていた。かなり室内が暑いのか、それとも飲み物がぬるいのか。
「あんた、藤沖の言い分を聞かないで逃げるのはいいかげんやめなよ」
くい、と眼差し鋭くこずえはさらに問い詰めた。
「あの藤沖がプライドかなぐり捨てて、あんたに頭下げてるんだよ。少しそれ、考えてやりなよ」
同時に派手にものが落ちる音がした。関崎がバインダーをテーブルの下に落っことしたのだ。わかりやすい動揺場面だった。立ち上がり、いきなり怒鳴った。
「藤沖が、頭下げてるってどういうことだ!」
「関崎、あんたにも説明するから、まずは私の話を聞きなさいよ」
夏のいらつく男子たちの扱いには慣れているこずえ。冷静に交わした。
「関崎にあえてついてきてもらったってのはね、単に立村、あんたを囲い込むためじゃないってことは、わかっているよね」
ようやく本題に入ってきたようだった。上総は黙ったままこずえの次の言葉を待った。
「この問題が、杉本さんに絡んでいるからってことだってこと」
──やはりそうなのか!
薄々予想はしていたのだが先を読み切れなかったのは、こずえが杉本梨南と藤沖と、どちらの味方でいてくれるのかを判断できなかったからだった。
以前からこずえは杉本のことを可愛がっていたし、おそらく何事もなければすぐに杉本の味方について戦ってくれただろう。藤沖と繋がりさえなければ。しかし、現在は一年A組の評議委員仲間。評議委員同士のコンビというのは、上総も経験あるのだが恋愛感情うんぬんはともかくとして、友情とも恋人ともいえない不思議な繋がりがある。美里相手に経験したことのある感情を、たまたま上総は「おつきあい」という形でまとめてしまったけれども、それ以外の形もあるのではないかと今は思っている。こずえと藤沖、またかつての難波と轟コンビ、というのもまた別の意味でベストコンビだったのではとも感じている。更科もいろいろ文句いいつつも、霧島ゆいの卒業間際の事件の際は奴なりに心配りをしていた。
それが、コンビの繋がりというものだ。
果たして後輩とその繋がりとどちらが優先されるのだろうか。
判断がつかなかった。
まずは、こちらから探りを入れてみよう。
上総なりの一言をまずはぶつけてみた。
「だったら俺が話すことは何もない。俺なりに、自分なりの考えで行動していることを、古川さんに責められる筋合いはない」
さて、どうなるか。デスマッチというだけあり、こずえはしっかり上総に向き直った。口が物凄い勢いで回り出した。上総はとことん聞き役に徹することにした。
「立村、あんたが杉本さんを守ってやりたい、ってのはよくわかるよ。あんないいかげんな噂に巻き込まれて傷ついているであろう、杉本さんの味方でありたいってのはね。私もこの前杉本さんに会ってきたけど、あの子は強いね。本当に可愛いよ。それに、言っちゃなんだけどあの渋谷って子、今までの話を聞く限り自業自得だって気がするね。おねしょしちゃったことはとにかくとして、よりによってなぜ、自分のやらかしたことをごまかそうとしてパニックになるかってね。悪いけど私があんたの立場だったらきっと、杉本さんの味方になったと思うよ。冗談じゃない。美里も言ってたけど、当然ぶちぎれてあたりまえ」
──やはりそうか、古川さんは杉本の味方か!
それなら話は早い。古川こずえ、下ネタ女王様を味方につけられれば、あとは怖いものなしだ。男子で手の回らないところをこずえによってフォローしてもらえればこれこそありがたいことだ。単純に喜びたいところだが、やはりどこかブレーキが心の奥で掛かっている。
「だろう? 古川さん、そう思うだろ? 俺の言い分は間違っていない」
「そうだよ、立村。正論だったら当然そうだよ」
嫌な予感がした。こずえは上総の発言をすでに読んでいるかのようだった。
「けど、それでもさ」
言葉をとぎらせ、一度くいと唇を一文字にした。
「それでも私は、あんたに言わなくちゃいけないと思ってるんだ」
真面目な顔を見せられて、思わず戸惑い言葉を飲み込む。心臓がいきなり不規則に動き出す。
「立村、あんたが杉本さんをかばって、事実関係を中学の生徒全員に報せた場合、人がひとり死ぬかもしれないんだよ」
「死ぬ?」
大袈裟な言葉を呟いたように聞こえた。しかし、針のようにちくりと刺さる感触が残る。
古川こずえの言葉に「死ぬ」なんてマイナスな言葉は、ありえなかった。
「あの藤沖がプライドかなぐり捨ててあんたに頼み込みにきたのはね、あの渋谷さんって生徒会書記の子を救いたいから、それだけなんだよ」
上総が考えを留める前に、関崎がふたたびテーブルを叩いた。もちろんバインダーは滑り落ちた。
「ちょっと待て! 藤沖が、例の女子を、救いたいからということか!」
こずえはいったん黙った。振り返り関崎をちらっと見つめたが、すぐに上総へ向き直った。ゆっくり正面から上総の瞳を覗き込んだ。この表情は誰かに似ていた。美里かそれとも、また別の誰なのか。わからないが、そうされると上総は動けなかった。
「何度も言うけど、私は渋谷さんという子の味方になりたいから言ってるわけじゃない。なんで杉本さんの部屋におねしょふとんが持ち込まれていたのかとか、そういうわけのわかんないトリックが仕掛けられてたりしたもんだから、最初みな混乱してたらしいよね。もっとも心あたりなんて全然ない杉本さんからしたら、そんな濡れ衣、知ったことじゃなかったようだしさ。堂々としていたとこもあるだろうし。でも、どっちにしても真実はひとつ。立村だってそれは信じていたでしょう。もし、渋谷さんが杉本さんみたいに強い根性持っている子だったら、たぶん立ち直れるんじゃないかって私も思う。自分で自分のしでかしたことを責任取るって大切だよ。けど、渋谷さんは、それができなかったんだよ。それ、わかるでしょう。もちろん、私が聞いた内容は本当だかどうだかわからないよ。けど、少なくとも杉本さんは、同じ立場に置かれた時、決して死のうとは思わないよ。きちんと、責任を取ることができる子だよ。女子同士、可愛い後輩として、そう信じるよ。渋谷さんが自殺未遂をしでかしているとか、それでも学校には通おうとしていて、精神的にぼろぼろになっていて。そういう状態を学校側でほっとくわけ、いかないじゃないのさ」
──そんなことで、杉本に濡れ衣かけろって言うわけか!
藤沖の行動を知った時と似た黒い闇が目の前に広がった。
古川こずえの瞳の奥の闇と一緒に見えた。
──杉本は、強い根性を持っているように見えるのか。
──学校中の連中から叩きのめされて平気でいられる女子だと思っていたのか。
上総の目の前で震えていた、つめの引っ込め方を知らない子猫。それが杉本梨南の本質。
女子たちすらも、知っているようで知らないらしい。
瞳の闇を上総はじっと、押さえつけようとした。
「杉本さんを知っている人たちは、あの子がそんなことしでかすわけがないってわかっているよ。そう信じてくれている子がたくさんいる。あんただってそのひとりでしょう、立村。だから杉本さんならきっと、強く生きてくれる。噂なんてばかばかしいって無視してくれる。絶対に死のうなんて思ったりしない。杉本さんなら、絶対に大丈夫。だけど、あの渋谷さんは耐えられそうにないし、今この瞬間にも、藤沖が見張っていない限り、かみそりで手首を切ってしまうかもしれない、そんな状態なんだよ」
──その言葉は、杉本にも当てはまるんじゃないか。
同意なんかしない。
──杉本がいつ、あの学校の中で手首を切るか、包丁持って学校で振り回すか、そうしない保証なんてないんだ。どんなに強くあろうとしても、杉本の中の限界点を勝手に定めることなんてできない。誰も助けようとしないあの中で、ひとりぼっちの杉本の方が、渋谷とかいう女子の立場よりもずっと息苦しいものだってこと、古川さんだって知っているはずだろ!
ぎりぎりまで言うつもりはなかった。でも、言わずにはいられなかった。
「古川さんは言っただろう。それは自業自得だってさ。それに、どうして杉本が、噂に負けないで自殺未遂なんてやらかさない強い女子だってこと、決め付けられる?」
「あんた、杉本さんのこと、信頼できないわけ? あれだけ可愛がってたら、それだけあの子の強さ、わかるでしょうが」
わかってない、やはり誰もわかっていない。杉本梨南が一瞬のうちに壊れてしまいそうな、あやうい陶器の人形のようだということを。
「強いなら、ほっといてもいいってことか!」
上総は杉本梨南の強さを知っている。
誰よりも精一杯努力して、認められたくて、背伸びして、そしてその姿が滑稽に見えてしまう現実の姿も。同時に誰よりも一途に大好きな人たちに認められたくて、限界まで努力を繰り返す哀しさも。
憧れても、届かない哀しさに悔し涙を流したいのに、流せない。
理想の自分に届かず、醜い自分で妥協しろと駄目出しされる絶望感に打ちのめされている姿。
杉本はそれを耐えることができる。それは認める。
だからといって、当然必要のない重荷まで背負わせるというのは間違っている。
強いから、我慢できるから、もう少し背負ってね、と身に覚えのない罪を背負わせようとする藤沖たち、そして古川こずえ、さらに言うなら学校関係者たち。
限界まで背負わせて、つぶれてラッキーとでも思っているのか。
もしそうなら、上総は戦う。いくさおとめ杉本梨南の正義によって、すべての疑惑を明るみにし、正々堂々と戦わせよう。相手から奪うのではない、正当な権利を我が手に納めるために。
古川こずえは、「渋谷さんは手首を切った、死ぬかもしれない」と理由を述べる。
なら、杉本梨南がビルから飛び降りない保証なんてあるのか。
霧島ゆいと西月小春が、未遂にせよ自殺を図ったことを、こずえはどう捉えているのか?
忘れかけていた炎が身体の最奥、そして一番熱い場所から甦ってくるのが分かる。
──戦うのは、俺からだ。
一瞬にして敵と変貌した古川こずえに、まずは刃を向けた。
「最初に俺も言っておく。俺もその話を一番最初に聞かされた時、杉本にはっきり言ってある。現場の状況を確認できない以上、俺はその噂を否定はできない。イエスかノーか、その事実がどちらであっても、俺は杉本に対しての態度を変える気はない」
「あんた、それって女子の心を逆撫でしまくる内容じゃないのさ!」
こずえの後ろ側で関崎が頷いている。どちらの味方なのかわからないが、まずは置いておく。
「だから修学旅行で何が起こったかなんか、俺はそんなの関わる気なんてさらさらない。ただ、その噂を黙って耐え忍べと命令する奴らには、堂々と立ち向かえ、とだけ伝えてある。杉本の正義に基づいて、それは当然のことだろう」
「悪いけど立村、あんたの言ってること、全然わからないよ」
「古川さん、杉本が去年、どれだけ惨めな思いをさせられたか、話は聞いているだろう」
「もちろん、あんたからも美里からも」
「もしあの時、杉本が手首を切っていたら、同じようにみな、同情したか?」
「杉本さんは決して弱い子じゃない。そんなことするわけない。私はあの子を信じている」
「いいかげんにしろ!」
腹の底から怒鳴った。女子相手に怒鳴ったのは、杉本に対して一度きりだけ。留まらない。押さえられない。自然と立ち上がっていた。ぐいと古川こずえを見下ろした。まったく動じる気配のないこずえに、自分自身が仁王様へ変化しそうだ。
「話は簡単だろう。杉本が何もしてないのに、濡れ衣着せられたから、どちらが白か黒かはっきりさせたいと思っている。そこでもうひとりの噂の張本人と一度さしで話をしたい。それできちんとけりをつけて、終わらせたい。それのどこがまずいんだ? 相手が逃げ回っていて、それで曖昧なまま噂だけが飛び交っている。その間の杉本の、いわゆる精神的苦痛ってどうなるんだ? 学校側は杉本が青大附属から来年いなくなるとわかっているから、多少のことはがまんしてもらえばいいとでも思ってるんだろう。けどさ、杉本を勝手に強い女子扱いして、もし壊れたらどうする? 古川さん、杉本が百パーセント、自殺しないと言い切れるその根拠ってなんだよ。ありもしない噂に耐えられるだけのずぶとい神経を持っているって、そう断言できるのはなんでだ? 信じているからって言ったよな。信じているってその根拠はどこにある? 見た目が強そうだから、たかがこの程度の悪口では傷つかないって決め付けてるのか? 自分でもない相手を、勝手にそう決め付けられる、その根拠ってなんだよ。俺には全く理解できない」
言いたいことはすべて言い切った。
──俺の方が正しいはずだ。後ろの関崎も頷いている。
男女関係なく、古川こずえの方が間違っていると言い切ってもらえるはずだ。
嘘をつけ、と罵る連中よりも、真実を訴える杉本の方が断然正しいはず。
渋谷が死ぬかもしれないのなら、なぜ一年前杉本のことをそう心配しようとしなかったのだろう? なぜ、杉本だけ軽く見られるのか。杉本梨南なら、ちょっとくらいの濡れ衣は笑って流せるというのか。流せるならば、さらに重ねてやろうとでもいうのか。
悔しいくらい古川こずえは動じなかった。黙って上総の怒鳴り声を聞いていた。
弟の八つ当たりを受け流すなんてお手のものなんだろう。
「立村、あんた、自分で今、何言ったかよく、覚えておきな。それともうひとつ。」
ゆっくりと間を置き、片手でウーロン茶を一口飲み、
「藤沖と渋谷さんの関係、一年前の立村と杉本さんにそっくりだよ」
急所を突かれた。
何を言われたのか、一瞬わからなかった。
──俺と、藤沖と?
混乱して言葉が出てこない。かろうじて、
「どういうことだよ!」
立ち尽くしたまま、自分がやはり古川こずえの弟分だということに気付き、悔しさのあまり腰が抜けそうになる。
「話は簡単だってこと。あんたが一年前、必死になって杉本さんを守るため駆けずり回っているその姿が、今の藤沖とそっくりだってこと。藤沖はね、生徒会の後輩だった渋谷さんを守るため、他の後輩たちの軽蔑も覚悟の上で、あんたに土下座したんだよ。いい、わかる? あんたが藤沖の話を聞こうとしないのは、立村、あんたの逃げであり、みっともない復讐でしかないよ。立村と杉本さんを傷つけた奴らに対して、やっとざまあみろって言い放つチャンスを手放すもんかって意固地になってる、そっちの方がずっと醜いよ」
──復讐? それのどこが悪い!
「醜い? 復讐? 俺はただ」
どこがそんな発想になるなろう。頭を振った。地震に近い足元の揺れを感じた。
こずえは宥めるように話を続けた。
「復讐したい気持ちはわかるよ。けど、全く理由も聞かないで一方的に藤沖を無視することはないじゃないって言いたいの。藤沖が必死になってあんたと和解したい、あんたの気持ちをようやくわかったって、そう言いたいってこと、どうして想像できないわけ? あんたと藤沖との間になにがあったかは聞かないけど、あいつが渋谷さんのことを通して、ようやく立村の気持ちを理解したと感じたんだったら、また新しい関係が作れるんじゃないの? 私は女子だしさ、男子の気持ちなんて全然わからないよ。けどね、立村のように、やっといばれる立場になったから、藤沖の気持ちを蹴飛ばしたままでいるっていうんだったら、私は悪いけどあんたを軽蔑するよ」
──あいつが俺の気持ちを、理解しただと?
「そんなのは向こうの都合だろう。俺はただ、杉本に濡れ衣きせる権利なんてないと訴えているだけであって、どう考えたってそっちの方が正論だろうといっているだけだ!」
「私はね、自分が有利に立ったとたん、大喜びで叩きのめそうとするあんたの根性がどうかしてるって言いたいのよ。なによ、さっき昼休みに杉本さんの前で変なこと言い放ったんだってね。みんなが渋谷さんのおねしょのこと隠そうとしている中で、正々堂々戦って来いなんて言ってみなさいよ。もう、二度と渋谷さん家から出てこれなくなるんだよ。杉本さんのことだからきっと、戦うつもりでいるとは思うけどね。杉本さんだって、もし渋谷さんにまさかのことがあったらきっと、自分を責めちゃうよ。立村、杉本さんは強いよ、でもね、人のことを純粋に思ってあげられる子でもあると思う。そんなやさしい子に、復讐させて、かえってずたずたに傷つけて、どうするのさ! 復讐したってなんも始まらないんだよ!」
「人を殺したい復讐したいと思ったことが一度でもあれば、そんな白々しい答えなんて出せるもんか! 古川さん、人を殺したいと思ったこと、一度でもあるか? ないなら仮定で杉本の気持ちを語るのはやめてくれ。復讐することで、救われることだって確かにあるんだ!」
自分でも訳のわからない言葉を叫んでいるのは理解している。でも止まらなかった。
復讐することでしか救われない、そんな人間たちをこずえは理解しようとしない。
上総は決して藤沖に意趣返ししようなんて思ってはいなかったけれども、やられたことはやりかえすことだって、決して間違っているとは思わない。杉本の純粋な憎しみも殺意も、上総はすべて受け止めたい。奇麗事で「そんなこと感じない」なんて誰にも言わせるものか。
こずえが何かを言いかえそうとした時だった。
「悪い、一曲、歌わせてくれ」
いきなり関崎が立ち上がった。
カラオケ装置の電源を入れ、カードファイルを拾い上げた。
さっきから黙りこくったまま、時折上総の言葉に頷いているようすを勘付いてはいた。
しかし、次の行動は想像できなかった。
素早くマイクの調子を整え、ファイルのページをめくった。片手でマイクを握り締め、選曲ボタンを注意深く押した。
「とりあえず、聞いてくれ、頭が冷えるだろう」
確かに、頭は完全に冷えた。古川こずえがぽかんとしたまま、上総への言葉の攻撃を中止した。腰を浮かせてファイルのページを覗き込んだ。
上総の側に戻って来て、いつものクラスメート口調で囁いた。
「砂のマレイの主題歌、歌うみたいだよ」
「羽飛たちの好きなアニメ番組か」
「あ、まじで歌ってる」
ギターと電子音の入り混じった、少し昔のハードメタル音曲が流れ出した。
きりりと関崎は、腰に手を当て、真上にマイクを支えるようなポーズを取り出した。
それから……。
──関崎……こいつ、何考えてるんだろう?
毒気を抜かれるとはこのことだ。
目の前でわざわざ両手をあげるポーズやら、指先でマイクをくるくる回してみせたり、最後は反対側の手にマイクを飛ばすという芸までやってのける、この関崎乙彦という男。しかも全部、リズムが合っている。
「関崎うまいね、歌」
「本当だ」
音程が外れていないというレベルの問題ではない。完璧、鍛えぬかれた響きあるボイスが響き渡った。関崎のくそまじめな性格上、カラオケボックスにひとりで入り浸ったとは考えられないが、音楽の授業や、校歌斉唱だけで磨かれたとは思えない。持ち前の音楽感性なのか、よくわからない。まさかとは思うがこいつが青大附属に合格したポイントは、目に見えないこういう部分なのかもしれない。
──杉本はこの姿を見たとしても、関崎を追いかけつづけるんだろうか。
サビののびある部分をしつこく歌いつづける関崎を眺め、上総は思った。
「オペラはうたわせないようにしないとまずいね。杉本さん、もうめろめろになっちゃって、ローエングリンさまどころの騒ぎじゃなくなるね」
「冗談じゃない」
完全に険悪な空気は溶け去った中、上総はこずえと関崎の美声について感想を交し合った。これはある意味、才能だと思う。
「秋の合唱コンクールは、関崎に独唱パート与えてもいいかもな」
「私もそれ、考えてた。そうだね、そうしたら優勝できちゃうかもね」
アップテンポの強烈なハードメタルが終わり、礼儀以上の心からなる拍手を関崎に与えた。そうしたかった
「関崎、お世辞でなくて、本当に上手だ」
「私も同感。あんたってさあ、やっぱり」
。
その様子に関崎もかなりご満悦の様子だった。あれだけ派手に振り付けしながら踊るんだから、息も切れるだろう。そのまますっと、古川を押しのけるようにして上総の前に割り込んだ。
「古川、今の話を聞く限り、俺は立村の味方になるわけだが」
「あんた、せっかくいい歌歌ってくれたくせに、いきなり現実に戻すってことないっしょうが」
ここでクールダウンさせたかったのだが、どうやら中身の関崎乙彦は硬派のままのようだった。ほっとするのか、少し残念なのか自分でもわからなかった。真正面から見つけ返そうとする。
「だが、事情は大体把握した。俺も一年A組の規律委員として、一言言わせていただくが、すべてを丸く収める方法はあるんじゃないかと思う。あくまでも俺は立村の味方だが、藤沖にも並々ならぬ恩がある。だから、俺なりの案をひとつ、聞いてもらえないか」
真面目な顔して、話し掛けてくる。
答えを迷っているうちに、いきなり関崎は大きく深呼吸して満面の笑顔を見せた。
「あ、もしよければまた、あとで歌っていいか? 腹から声を出すってのは、本当に気持ちいいな。部屋でパズルするよりも面白い」
──部屋でパズル?
爆笑した古川こずえが、しなくてもいいのにわざわざ上総の耳元にて解説してくれた。
「関崎、晩生だねえ。あいつまだ3P知らないんだよ。さっき私が言ったでしょ。ホテルで3Pって。あれ、あいつ、ホテルでジグソーパズル三人でやるもんだと思ってるみたいだよ」
──やっぱり下ネタかよ。
こちらには笑う気になれなかった。勘違いしている関崎には、今のところ訂正する必要はなさそうだった。真面目な顔で、それでも上総の味方に立ちたい……すなわち杉本の味方でもあるはずだが……と訴える関崎の話を、まずは聞こう、そう思った。




