11
天羽たちは霧島弟を放課後、捕獲しようとしている。
少なくとも意識の中では、そうしようとしている。
──中学校舎でかな。
別に関係ないことだと、上総は思うし、声をかけてどうするという気もする。なのにやたらとひっかかるのはなぜだろう。自分ひとりの想像で物事を決め付けるのはあまりよくないのではないかとか、迷ったりもする。
──難波が霧島さんのことを気にしてうろうろするのはいつものことだ。家に通いつめているんだって知っている。天羽はただ、それを応援するだけだろ。更科だって難波と親しいからそれを後押しするだけだろ。
たかがそれだけのことだ。天羽たちがひそかに「委員会最優先主義復活の烽火」を掲げているのを知っているからつい、気になってしまうだけのこと。いつもの上総の考え過ぎと割り切ればいいだけだろう。
──でも、やっぱり気になるよな。
六時間目の鐘が鳴った。みな、藤沖の号令で「起立・礼・着席」を行い一気にばらける。
帰りのホームルームが終われば今日は終わりだ。鞄に荷物をまとめ、上総は窓側から流れる生暖かい風を頬で感じた。
──まだ時間もあるし、今日は大学の講義もないし、杉本の顔を見るために中学校舎いったって、おかしくないだろ?
まあ、会える可能性は低いのだが。たぶん杉本は例の桜田さんとかいう不良少女とどこかに流れてしまうだろうが。捕まえられればそれはラッキーなことだ。それだけだ。
元・評議委員チームの行動パターンは決まっていた。
まず、生徒玄関あたりで目的の相手を捕まえ、二言三言声をかけた後、学生食堂に連れ込む。機密情報が含まれている場合はその限りにあらず。気心しれた連中ならば、天羽のアジトとも言うべき建物があるし、反対に敵相手ならば近所の神社、中途半端ならば大型スーパー「リーズン」の階段席か。
──霧島だったらどのあたりに位置するだろう?
少なくとも「味方」ではないだろう。
元・評議委員長だった天羽にとってはうっとおしい存在だっただろう。難波にとっては姉・霧島ゆいへの気持ちも消せないだろうし、更科についてはただつきあいだけ。
──難波を軽蔑するような発言をした、ということは天羽、どう出るだろう。
天羽の立場に立って考えてみる。
難波が屈辱的な扱いを二年後輩の霧島にされてしまい、同期の天羽としては黙っているわけにはいかない。がしかし、順調にいけば霧島は次期生徒会長に選出されるはず。学校内で異論はないだろうし、すでに陰の生徒会長として認識されている事実を認めぬわけにはいかない。となると、こいつを宥めすかして天羽一派につけておくのが得策、と考えても不思議はない。
──宥めるか、それとも脅すか。
上総には、はたして天羽がどちらの形で霧島に接するか読みきれなかった。
──いや、読んでどうする。
いったい自分が何しに行きたいのか、上総自身の心すら読みきれなかった。ただ、足が、身体が、動くだけ。
まず中学校舎の生徒玄関に回ってみた。杉本を最初に探したがやはり見当たらなかった。本日の目的は杉本ではないし、そのあたりはざっと眺めたにすぎない。
次に、自転車置き場をうろついてみたが、やはり見当たらない。そこからまっすぐ突き当たりの窓に向かうが、当然いる由もない。
──生徒会室に向かったのか?
それはまず、ありえないことだった。
基本としてよほどの理由がない限り、高校生は中学の委員会活動に顔を出すことはない。もちろん、学外で本条先輩と連絡を取り相談しあったりすることはあるけれども、完全に校内活動とは切り離されているはずだ。
ただし、生徒会は確認していないのでわからない。元・生徒会長の藤沖が中学の生徒会連中と連絡を取り合っているかどうかは謎だ。
はたして天羽たち三人が、因縁深い生徒会室に向かうとは、よほどのことがない限りありえないし、そんなことしたら他の生徒会役員たちから怪しまれるに違いない。
上総が暫く首をひねりつつ、校門へ歩いていくと、
「おーい、立村、どうした?」
背中から声をかけられた。駆け寄ってくる気配と同時に振り返ると、探していた三人衆がいるではないか。天羽が額にたっぷり汗をかき、髪の毛を振り乱して飛んでくる。
「お前すたすたひとりで行っちまうから、追っかけてたんだぞ」
「追っかけてた?」
問い返すと天羽が、隣の難波、後ろの更科にも頷きながら続けた。
「そうそう。お前も一緒にキリオ対談に付き合ってもらいたいんでさ」
難波と更科は黙っている。どうやらこの二人は納得していないらしい。
「立村、来るのか?」
ぼそりと難波が尋ねてきた。黒ぶちめがねの奥で、「来たらただじゃおかねえぞ」と言わんばかりの目つきに思わずひく。
「いや、そういうわけじゃないんだ」
天羽たちが霧島弟を捕まえる様子が気になってはいた。だがそれだけであってそれ以上のことはない。上総がしばらく口篭もると、更科が割って入った。
「今からさ、キリオにキリコ対策の術を授けようって天羽が話してたんだよ。ホームズだって先輩だし、あんなこと言われたら立場ないしね。けどホームズだけだったらキリオもまた馬鹿にした言い方するだろうし、それなら集団でじっくり話をしたほうがいいんじゃないかって」
──やはり天羽は、霧島取り込みを考えているんだな。
すぐに判断した。ただ難波の機嫌悪そうな様子からすると、「余計なお世話」という気持ちも強いのかもしれない。
「キリオは口が達者だからなあ。集団で勝負をかけたほうが俺はよいと思ってな。難波は納得いかんようだが、まあ、同期の俺に任せとけ」
明るく軽く交わす天羽だが、やっぱり難波は黙ったままだった。
さてどうするか。
天羽の考えはこれで把握した。元・評議チームで霧島弟を囲み、姉の事情を汲み取りつつも「もしなんとかしたいようだったら、俺たちがいくらでも力になるから仲間に入れ」とくどくつもりなのだろう。それから先、どうするのかは天羽の胸一寸。
「あのさ、天羽、ちょっといいか」
ひっかかるまま尋ねてみた。
「悪いけど、今日は俺は混じれないんだ」
「え? そのつもりで中学校舎に来たんじゃないの?」
更科がきょとんとした顔で聞いてきた。上総は頷いた。
「実はちょっと、用事があったんだけどさ、あまり人には言えないしさ」
歯切れ悪く時間稼ぎをした。難波が機嫌悪げに文句を言う。
「なんだよ立村、はっきり言え」
しばらく口篭もり、素早く案を練る。
──天羽たちより前に、霧島に話をしておいたほうがいいと思うんだよな。
何を、とは自分でも判断がつかないが、なぜか気が騒ぐ。霧島弟との接点をなぜか作っておきたい自分の本心が、上総にはまだつかめない。でも展開だけはたったか進んでいる以上、とにかく一歩踏み出すしかなかった。
「お前らだから言うんだけどさ、実は」
嘘をつくのにためらいはない。
上総は一呼吸置いて、まず始めた。
「俺、霧島さんの弟に、とんでもない弱み握られているんだ」
男子連中みな、一歩、また一歩と上総を囲み、顔をまじまじと見つめてきた。
「何やらかしたんだよ」
「さてはまた杉本がらみか」
「キリコのことでホームズみたいなこと言われたの?」
三人三様に問い掛けてくる。上総は首を振った。時間がない、言うしかない。
「ほんと情けないんだけどさ」
「前置きはいい、早く言え」
難波にぴしゃっと叩かれる。肩をすくめ、片方の手をポケットに突っ込み何度か指を弾いた。
「単刀直入に言うと、本を買っているところを、見られた」
「本? 本屋でか? 本屋では本を買わないでどうする」
天羽がきょとんとした顔でさらに続きを促した。
「それと弱みとどう関係あるんだ?」
「その本がまずかったんだ。いわゆる、その、あの、なんというか」
口篭もるふりをした。すぐに難波が切り込んでくる。読み通りだ。
「もしかしてお前、エロ本をか」
目と目で通じる何かがある。男子もそうだ。黙って顔を見る。反論しないことでイエスが通じる。天羽が上総の頭を軽く叩いた。からかい調子だった。
「いやまあ、お前も男だから、そりゃあな、ないとはいわんが、どこで見られたんだ」
「駅前の……」
ここで慌てて方向転換した。天羽たちももちろん本条先輩たちからいろいろと、エロ本入手の方法などをマスターしているはず。実際、あのピンクチラシいっぱいの書店で購入しているといっても違和感を感じることはない。しかし、話の展開上まずいところもある。
「ふつうの本屋で」
今度は難波が思いっきり上総の額をはたいた。
「ボケが! そういうのをなんで普通の、よりによって人目につくような場所で買うんだ!」
難波の言い分は正しい。上総も反対の立場ならそう思うに違いない。
「駅前奥の、地下の本屋だったらまずばれねえだろ? なんでよりによってなあ」
しかし信じてはくれたようだ。安心する。自分の恥をさらけ出しているようで実はそうではない。だから簡単に語ることができる。
「魔が差したんだ」
「万引きしたわけじゃあねえから別に悪いことじゃないよね」
更科が知った風に語る。
「で、その現場をキリオに押さえられたと」
上総は頷いた。
「よりによって、俺も体調が悪くてさ、あんまり見られたくないところも見られたわけで」
「なんだよそりゃ。まさか鼻血噴いたとか」
「そのまさか。情けないったらないよな」
天羽のつっこみが鋭すぎて、上総も余計な言い訳をする必要がなくなった。勝手に思いつくまま続けるだけでよい。嘘八百、実際あったことを、登場人物さかさまに語ることにする。
「選んだ本も、まずかった。いわゆるその、縛ったりなんなりするタイプの」
「ああ、立村そういうの好きだからな」
妙に納得している難波。完全に誤解されているがしかたない。目的に手段は選ばない。
「で、ティッシュで後始末したりなんかして、本屋を出たところで見咎められた」
「え? ちゃんと本を買ったんだろ? 万引きしてないのにそんなやましいことしてないのにか?」
「霧島さんの弟がそのあたりをチェックしていたようで、そういう本を未成年の俺が購入するのは間違っているのではないかと、あの口調で指摘してきた」
突然みな、黙った。納得している様子だ。
──なんとか嘘が通じそうか。
口がくるくる回る。
「退学になるような悪さをしたとは思わないが、やはり学校にばれたらろくなことはない。だからさっそく、こちらから何かできることはないかとお伺いを立てているところだ。幸い俺は今、委員会からも離れているし、もし何か脅されたり頭を下げたりすることがあったとしても、お前らに迷惑をかけることはないと思う。ただ、お前らが動く前に、俺のすべきことはきちんとけりをつけておくべきだと思ったんだ。だからまず、難波には悪いけど、霧島さんの弟とまず、最初に俺が話をしたいんだ」
「話をしてどうすんの」
天羽が不思議そうに尋ねる。どうも納得していないようすだ。
「俺が何をすればいいのか、霧島が要求してくるものをまず、確認しておきたいんだ。その上で天羽たちが一番いいやり方で話を進められるように、下地を作っておきたいだけなんだ」
自分でない奴が話をしているようで、どことなく気持ち悪いが、止まらないのだからしかたない。
「下地? もっとはっきりわかりやすく言えよ」
難波がびしりと割って入った。
「お前ら知ってる通り、中学時代にいろいろ生徒会とやりあった過去もあるし、俺に声をかけてきたということは、何か考えていることがあるんじゃないかと思うんだ。たとえば今の評議委員会を大人しくさせてほしいとか、その他いろいろ、高校生だからこそできる裏取引とか。まあそんなことがあるのかないのかを確認したい。その上で、俺だけが責任を取ればいいことだったらそれで片をつけるしさ」
はったりもいいとこだ。なんだか本当のことがばれたら、とんでもないことになりそうだ。それでも言わずにいられないのはなぜだろう。霧島弟にどうしてそんなに連絡をせねばとあせっているのだろう。自分で自分を捕獲することが、どうしてもできない。
──ばれてないよな。
ちらりと天羽の顔を覗き込む。特段、何かを言いたい顔ではなかった。ただ、首をひねっている。疑わしいのか。
「わかった。じゃあ、そんなに言うならお前が先に行け」
断を下したのは天羽だった。ひくりと喉もとをびくつかせた難波と、
「ええ? なんかよくわからないけどいいのかなあ」
鋭くとぼけた質問をする更科を片手で制して、
「まあな、男として気持ちはわかる。立村、運が悪かったよなあ」
「わかってくれるか」
「まあ、一応な」
へたなウインクの真似をする。顔をしかめてみせる。
「とにかく話をつけたら、俺たちに報告な。それと、もしお前の手に負えないようなら深追いするな。一緒に考えろ」
──天羽の奴、なんか変だな。
直感でぴんとくるものがあるのだが、それがどこから届くのかわからない。
わからないことだらけだ。
「とかなんとか噂しているうちに、来たぞ奴が」
気の抜けた声で、更科が指を指した。
「じゃあ今日は俺たちは用無しだな、あとは任せたぞ立村」
心なしか、難波の言葉が棒読みに聞こえた。
「じゃあ、俺たちは仕切り直しだな、学食に行くぞ難波、更科」
やはりリーダーの天羽らしく、片腕掲げ、一本指を立てたまま背を向けた。
天羽が心底上総の言葉に騙されたとは思えなかった。脳天気に見せておいて、実はしたたかに周囲を見渡しているのが天羽の性格と知っている以上、そのままのほほんと受け入れる気はない。ただ、どちらにしても、霧島と連絡を取ることができるのはありがたかった。
──あのままだと、絶対にあいつは本を取りにこないだろう。
構わないし、他の奴なら自然消滅にしても不思議ではないと思うのだが、どうもそれだとまずいような気がするだけのこと。
──まず、直接話をしてみて、こちらから取引を持ちかけてみよう。
上総なりに案として急いで考えたのは以下の通りだった。
・霧島にはエロ本で取り乱した姿を見られたという引け目があるはずだ。
また上総が他人にそのことをばらさないとも限らない。そんな不安があるはずだ。
だから、そんな心配する必要はないと繰り返し言い聞かせておく。
・ただし、それだけだと口約束で心配なのも当然のこと。
そのために、上総としては霧島から取引を持ちかけることが必要。
相手側から隠すための抵当みたいなものをもらい、口止めしたということにする。
霧島の噂に聞く性格から鑑みて、そのあたりでクールに取引した方が安心しそうな気もする。情よりも理で動かすほうがよさそうだ。
・その取引の内容として、可能ならば、例の一件……修学旅行のおねしょ事件に関する情報など……を聞きだせればベストだが、なにせ上総は元・評議委員長だ。天敵・生徒会役員たるものが弱みをそう簡単にさらけ出すとは思えない。話の内容によって選ぶことも必要だろう。杉本があれだけ冷静に交わしているのだから、上総が無理やり話を持ち出さなくてもよさそうな気もするし、これは流れで決める。
以下、三点。
頭のすみっこに置いて、上総は改めて霧島を迎える準備を始めた。
ちょうど生徒玄関から姿を現した霧島が、ふと立ち止まっているのが見えた。
さっき更科が指を指した時は気がついていなかったのだろうが、天羽たち三人が背を向け、上総一人で残っているのを見つけて驚いたのかもしれない。
──とりあえずは、天羽たちにばらしていないことを伝えてからにしよう。
上総は一歩、また一歩と近づいた。まだ陽射しの強い昼下がり。半そでシャツ、律儀にネクタイをぶらさげたままの霧島が動かずにいる。すれ違う生徒たちの殆どは、霧島を単なる「生徒会副会長」としか見ていないらしい。一礼して追い越すものもいれば、一瞥して噂話に花を咲かせている者もいる。側で誰か仲間と語らう姿はなかった。
動かないのは上総が原因だと、もちろんすぐに気がついた。
じっと上総を見据えている。その瞳に何が浮かんでいるのかも、すぐに上総は見て取った。
「悪いけど、少し時間もらえるか」
斜に立ち、上総は霧島に囁きかけた。
「決して脅迫しにきたわけじゃない。すぐに話は終わる。そこの体育館脇でいい」
「脅迫、っていったい」
言葉の選び方を間違えたらしい。上総はすぐに否定した。
「違う、この前の件のけりをつけにきただけなんだ」
「僕に、僕に、何をさせようっていうんですか!」
いきなり霧島が声を震わせた。いつもの甲高い声で、何かをわめき散らすつもりか。しかしその声は叫びではなかった。予想とは異なり、上総は戸惑った。
「違う、って言っているだろ。俺は誰にも話していない」
「僕、何もできませんよ! なんも、ほんとになんも!」
「何かをしてほしいって言っているわけじゃないんだ」
完全に霧島は誤解しているらしい。上総としては何一つ、誤解されそうな言を発したつもりなどないのだが、口で説明しても無駄とすぐに気がついた。どうやら霧島、いったん自分が思った受け取り方をされていると気付いたとたん、それしか見えなくなる性格のようだ。
「脅されたって、僕、何も、何もできません」
「落ち着け、まず話を聞いてくれ」
「なんで、なんであんなところで、なんで、なんで、どうして」
目が血走っている、身体が震えている。
──なんでこんなにおびえてる?
本当は一番それを尋ねたい。しかし答えが返ってくるとは思えない。
──俺、そんなに下級生をおびえさせるようなこと言ったか?
その反対のことはあったが。
扱いかねてしばらく様子を見ようと決めた、その時だった。
「だって、仕方ないんだ、だって、僕、だって仕方なくて」
その言葉を呟いたとたん、霧島がいきなり顔を覆った。また鼻血を出したのかと顔を覗きこんでみたが、どうやら違うらしい。
「霧島、言っている意味がわからないんだが」
問い返してみたが、まともな返事は返ってこなかった。
「だって、だって、だって」
顔を覆ったまま、霧島は上総の前で嗚咽をもらしはじめた。
二度目だった。
──俺の言い方が悪かったのか?
決して脅すつもりではなかったし、霧島のプライドを傷つけるつもりもさらさらなかった。
しこりが残っているなら取り去りたいと思っただけだった。
いい感情を持たれていない後輩ではあるけれども、叩きのめす気なんてなかったのに。
責めるように泣かれると、こちらとしても困る。女子ならある程度覚悟もないわけではないが、相手は男子、それも決してこんな反応を示すとは思えない奴なのだ。
二度目とはいえ、やはり困る。
上総はそっと前後、左右を見回した。
幸い、嗚咽の声はかすれていて、周囲に広がるほどではない。顔を覆っているから音が消えるのかもしれない。
──霧島は生徒会副会長だ。それも、次期生徒会長だ。
そんな奴が、よりによってこんなところで、しくしく泣きじゃくっているさまを見られたら。
──プライドこなごなだろうに。
それも、先輩としてとことん馬鹿にされている、立村上総の前で醜態露わにしている姿など、霧島ならば見られたくもないはずだ。
一度目は幸い誰にも気付かれなかった。しかし今はまずい。霧島だって自分の立場を忘れたわけではあるまいに、それでも動揺を押し隠せないのだ。とにかく人前から隠さなくてはなるまい。なによりも霧島の、想像を絶するほど高いはずの自尊心を、なんとしても守ってやらないとまずいだろう。つぶしてやるのもひとつの手かもしれないが、そんな精神的な殺人をしてよいとは、上総は決して思わない。
「霧島」
目立たぬように、指先で顎をつついた。
「こっちを向け。このままでいい」
鼻血こそ混じっていないが、せっかくの端正な王子顔がただの鼻たれ小僧に早替わり。
自然な汗と目立たないこめかみに見えるにきびが浮かぶ。
上総は黙って顔をあげさせた。真正面に回った。小声で囁いた。
「いいか、まっすぐ、これから裏の林に向かって歩け。頭はあげたままでいい」
まだべそをかいている霧島に、もう一度はっきり告げた。
「次期生徒会長の顔をして、歩けば誰も気付かないからさ」
こんなみっともない顔していじけている霧島を、決して青大附中の生徒たちの前にさらけ出させることはしない。男子ならば、プライドというものが命の次に大切なものだということを知っているはず。たとえ嫌われていたとしても、ずたずたにプライドを傷つけるような言動だけはどんなことがあってもしてはならない。エロ本を読み耽って鼻血出したことで動揺して、激しく泣きじゃくる男子だということを、決して他の奴らに見せてはならない。
後輩という時代を過ごした上総は、先輩になった今でもそのことを何よりも大切にしたかった。
──やはり、霧島さんの弟なんだ。血は争えない。
かつて姉のゆいは、青大附高進学を拒絶された時、担任の先生に人前はばからず土下座して、進学の許可を求めたという。それがたとえ、彼女のために行われた処置だったとしても、理解することはできず、ひたすら青大附属へ残りたいと涙ながらに訴えたという。
アマゾネスと呼ばれ、男子たちとは対等にぶつかり合い、大切な友だちのためには身体を張って守ろうとしたプライドの高い女子が、たったひとつの失敗によってプライドも何もかも失い、ぼろぼろに壊れていくさまを上総は見つめていた。
──どこがどう傷ついたのかはわからないけど、きっと俺は、霧島のアキレス腱を切ってしまうような何かをしてしまったんだろう。二回も。
「霧島、俺は自分がされたくないことは、しない。約束する」
聞こえていたかわからない。ただ霧島は涙顔を上げたまま、上総の引き寄せる方向へ引きずられていた。反抗すらしなかった。必死に、鼻だけすする音だけ聞こえた。
とりあえず霧島を「おちうど」に連れて行くしか、上総には答えが見つからなかった。




