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しかし、委員会に入っていないとなると、なかなか身動きとりづらいものだ。
東堂を捕まえて約束を取り付けることすら、しんどい。
「東堂、悪い、少し時間もらえるか」
次の日から何度も上総は、B組の教室から離れたところ……体育前の更衣室や技術の授業中など……で声をかけてみるのだが、なんせ人がたくさんいる。
「立村、ごめんごめん、ちょいと忙しいんだよね。また南雲経由で声かけてよ」
かえって具体的な話のできない場所だからこそ、上総もそれ以上追えない。逃げられる。
──なんとかできないものかな。
かつて評議委員だった頃は、気軽に声をかけあえて、用事があればかならず捕まえられた。そんなごくごく簡単なことがかなり難しい。
「どうしたよ、立村」
休み時間、C組を訪れると、扉の脇で貴史が待ち受けていた。
どうやら、上総に東堂との首尾を確認したいらしい。
心が重い、なんてったって何もないのだから。
貴史は軽く肩を叩きながら、それでも小声で尋ねた。
「なにその、あやまらねばって顔」
「悪い、その通り」
上目遣いで貴史に呟く。
「野郎に色目遣われてもうれしかねえよ、で、どうした」
「まだ話ができていないんだ。例の件」
「美里のことか」
わずかに声が硬くなったように聞こえたが、すぐに指先でぽんぽん叩きつつ。
「あ、それじゃ俺から言っとく。どっちにせよ、俺は清坂家と羽飛家の両方から頼まれてるもんでな」
なんなんだろう、その「家」とは。繋がりの濃さよ。
「いや、東堂と時間がなかなか合わなくてさ」
大嘘だ。実際逢ったのに美里の話を持ち出す間がなかっただけだ。謝らねば。慌てる上総に、貴史はあっさり笑った。
「俺もあとでちょこっと思ったんだ。立村より俺の方が適任だろ」
「なんで?」
少し刺があるように聞こえ、顔を眺めなおしたが、貴史に悪意の欠片は見当たらない。気のせいだろう。何にも考えていないように見える。
「曲がりなりにもお前、美里と付き合ってたことあるしさ。まあ、いろいろと向こうさんも誤解曲解しまくる可能性あるよなあ。お前の方にそんなスケベ心なくても、なんせあの南雲から吹き込まれている可能性大だし」
「南雲は別に」
言いかけた。貴史と南雲が天敵というのは中学時代から重々承知していたのだが、やはり関係氷解はしていないらしい。上総に首を小さく振りながら、貴史はC組の教室へ押しやった。中では天羽たちが花札に興じている。
「立村、お前も混じれや」
手招きする天羽に誘われて適当に椅子を引っ張り出し座った。貴史は上総と入れ違いに廊下へ出て行ったようだ。南雲相手ほどではないが、実は天羽たちとも不協和音があるのかもしれないとふと感じた。
──ぶつかりあっているんだろうな。
リーダーが二人以上いるのはやはり、やりづらいだろう。特に貴史は高校からいきなり評議委員をまかされ、しかもしっかりこなしてしまっている。直接聞いたわけではないが、教師たちの受けもよいという。元・評議委員チームが干からびているのとは対照的でもある。さらに規律委員の南雲もいるとあってはこれは、大変だろう。できれば顔も合わせたくないだろう。
「あれ、難波はどこ行った」
長方形のいろっぽい札を配られ、指先で整える。いつもの面子が足りないのに気付き尋ねると、更科が子犬の笑顔でまた答えた。
「中学校舎。なんかキリオ君に用事があるみたいだよ」
「霧島さんの弟か」
どうも口に出してみると、エロ本見つめておろおろしおていた霧島弟と重ならない。もちろん誰にもそんなことは言えないが。難波がなぜ霧島弟に声をかけたのか、その理由はわからなくもないので、お互い問わずにおいた。
──難波と霧島さんは、やはり繋がっているんだろうか。
天羽や更科は詳しい事情を知っているだろうが、上総はあえて知らないふりをすることにしていた。中学三年の秋から冬にかけて起こった評議委員会内部の動乱と終息、そのひとつの事件に難波が深く関わり、最後の最後まで霧島ゆいを守ろうとしていたことを、上総は轟さんを通じて聞いていた。
上総が花札を選びはじめたタイミングで、難波が戻ってきた。随分早かった。中学校舎から高校校舎までかなり距離があるはずなのに、走ったのだろうか。
「どうだった難波」
どうした、でないところに事情通の天羽の顔が浮かび上がる。難波はめがねを外し指で拭きながら、
「ちくしょう」
小声で罵った。
「キリオくんになんかされたの?」
更科の座る椅子を半分尻でぶんどるようにして、腰を下ろした。かなり無理のある態勢だ。上総の顔を見て、「来てたか」とだけ尋ねた。
「あの野郎、生徒会役員だからって威張りやがって」
「今に始まったことじゃあねえだろ」
天羽がいなす。元評議委員グループの中では難波のお守を預かるのが主に更科、つっこむのが轟さん、最後に止めを刺すのが天羽と役割が決まっている。
「やっぱり姉ちゃんとうまく行ってねえようだな、弟も」
「あの女が性悪なのはわかるが、何も俺まであんな言い方することねえだろうが!」
花札に混じる気があまりなさそうだ。しかたないので天羽も花札を並べる手を休めた。
「上級生に対する言動ではなさそうだな」
「なんだよあいつ! 仮にも先輩だぞ、それも評議だぞ」
難波は拳固を何度も手のひらにぶつけた。
「『僕はあの女に味方する人間を先輩とは思っておりません。お引き上げください』だとさ」
「ひえー、それってもう、先輩と思われてねえだろ、虫けら同然?」
手を打って大笑いする天羽。これは笑い事ではないと思うのだが、上総も霧島弟の顔が思い浮かぶだけに黙っていた。
「なんでだ? 俺は別に味方しているわけじゃあねえだろ! むしろあいつの助けになればって近づいただけだ。それをだなんで、いきなりあんなこと言われねばなんねえんだ! 弟だからあんな馬鹿に振り回されるのは面倒だろうってことで、俺が少しなんか言っておくかって、聞いただけだってのにだ!」
上総は理解できていないことを、ひとつ尋ねた。
「申し訳ない、ひとつ確認してよいか」
「なんだ」
ぶっきらぼうに、難波が鼻をかきつつ答える。
「霧島さんに何を言っておこうと思ったんだ?」
言った後で、失言を思い知る。
──俺以外の奴、みな知ってるわけだな、これは。
更科も天羽も、気まずそうに顔を見合わせている。難波だけが口を尖らせたまま、手元の花札をいじくっていた。襟元をみな、ネクタイ緩めてだらだらさせている中、難波はいきなりそれを締め直し始めた。
難波が、霧島ゆいに過剰なほど執着していたのは知っていた。
中学三年の冬、上総が自分のことで手一杯だった時期、彼女が自殺未遂事件を起こしたことも、またそのきっかけとなった西月小春が「転校」という形で学校を追い出されたことも。ついでに言うなら現在西月は、上総の英語科同級生である片岡司の実家に居候しているということも。
あれは事件だった。一歩間違えば傷害事件。
西月小春の担任だった狩野先生が、あえて転校という、ほぼ退学すれすれの決断を下したのもそのあたりの事情があるのだろう。卒業間際、しかも縁故入学クラス。もみ消しがお得意の青大附中でありながら、最後の最後で大鉈をふるったその理由とはなんだろうか。被害者が狩野先生の義妹である、近江紡であったのもまた理由なのだろうか。
正直、上総は人のことより杉本梨南のことで何も考える余裕がなく、それ以上の事情を聞くことはなかった。だが、その際に、難波が必死に霧島ゆいを止めようとし、向こうが求めていないのに見張り役を引き受け、現在にいたるまで目を光らせているということは知っている。そこに恋情があるのかどうか、判断はできないが。
「身の程を知って、キリオをもっと敬って頭を下げろって、言えば終わりだろうが」
吐き出すように難波は呟いた。
「受け入れると思うか?」
上総が尋ね返すと、
「それ以前の問題だ」
きっぱり答えた。
「俺の顔なんか、あいつ、見やしねえ」
それってどういうことなんだ?と本当なら聞きたい。しかし仮にも一年C組の教室内、花札に興じるのは四人だが、ギャラリーだってそれなりにいる。聞き耳立てている奴もいるかもしれない。尋ねるのに迷う。天羽が助け舟を出してくれた。
「学校ではうまくやってるって話だがなあ」
「頭のレベルはとんとんかもしれないが、青大附属で知恵をつけてしまったあいつに、自分の位置水準がわかるかっての」
とにかく霧島ゆいの現状が、決して明るいものでないことだけは確認した。
人一倍努力家で、おそらく青大附属中学生の中で一番勉強していたはずなのに、最後まで学年最下位の成績しか取れなかった霧島ゆい。周知の事実として、金が動く形で入学を許され三年間青大附中に通っていった。
もちろん、裏金の問題なのだから、家族が許せばそのまま高校へも進学は可能だっただろう。本人もそのつもりだったに違いない。もっとも霧島ゆい自身は一瞬たりとも自分が裏金入学者だということに気づいていなかったらしい。奇跡的に試験当日頭が冴え、その力で合格できたことを疑っていなかった。三年間、「不思議の国のアリス」に登場するアリスのような愛らしさと相反する気の強さ、その一方で見せるきっぷのよさなども相まって、かなり人気を博した人だった。
しかし、現実は厳しい。
教師たちの間でどのようなやり取りが行われたのかはわからないが、当時担任だった都築先生が、霧島ゆいの家族を説得し、青潟市内の私立高校では底辺ともいえる可南女子高校への進学を勧めた。このままでは、学業についていけないあまり自分自身を肯定できなくなってしまい、後々の人格形成に支障をきたすこと、そして霧島ゆいにとっての幸せは、決して学業のみではないということを知ってほしいというゆえのことと聞いている。
霧島ゆいはその事実を受け入れることができず、近所のスーパー屋上から親友の西月小春と一緒に飛び降り自殺を図ろうと決意する。その前段階で、西月小春は何を考えたのか学校に顔を出し、同じ評議委員だった近江紡に対し、傘を振り回して追い掛け回したという。彼女たちの事情はまた別にあり、別の形で処理をされた。轟さんの推理によれば、西月がそういう狂気を振りかざしたのには、おそらく霧島ゆいを止めてもらうための魂胆があったのではという話だったが、本当のところはわからない。
その間を縫う形で、難波が登場する。
難波が霧島ゆいの状況を知り、西月に成り代わりスーパー屋上に駆け込んだという話も後日耳にした。何事もなく、霧島ゆいはそれ以降学校を休み卒業式まで家に閉じこもった。それでもしつこく通いつめたのが難波ということも、上総は知っている。
どうしてそこまで拘れるのか。
あえて何も聞かないのが、友情の証。
「あのさあのさ、難波。つまり、キリオの機嫌をうまくとって、できれば姉弟仲良く過ごしてほしいってのが本音だろ?」
「人のことなんか知ったことか!」
更科は難波の怒鳴り口調を全く意に介さず続けた。
「だってさ、俺たちの代ってキリコファンが多いから、もしキリオがこのまんま高校に入学して来たら総すかんだよ。女子は顔がいい奴に弱いからまだいいけど、男子は怖いだろうな。キリオきっと、陰でリンチされちまうと思うよ」
あどけない口調で、結構すごいことを言う。天羽が後を引き取った。
「更科の言う通りだ。まあな。俺も霧島姐御には世話になったしな。だがまあ、キリオの態度に関してはあのまんまじゃあ、高校で餌食になるなというのは容易に想像がつくってことよ。それを難波は何とかしてやりたいってわけだな、ええ?」
いきなりの方向転換に、上総はついていくのに苦労した。
──難波は霧島さんの弟の機嫌を取って、霧島さん本人の居場所を作ってやりたいんだろう。なのに、なんで天羽の奴、霧島さんの弟が餌食になるとかわけのわからないこと言ってるんだ?
悔しいことに、評議C組集団、ちっとも訳のわからぬ顔をしていない。理解している。取り残されたのは上総のみだった。
「だったら、お前ひとりじゃねえ、更科と、ついでに俺もくっついてキリオくんにアドバイスしてやるってのはどうだ? お前の姉貴がアホなのはわかるが、それ以上にこのままだとお前の方がやばいぞってな。今はまだ中学だからさほど問題はないにしても、お前の姉ちゃんは美人だから、ファンも上の代にはたくさんいる。できるだけ姉弟仲良くしているイメージを知らしめた方が、今後生徒会役員を高校で狙うに当たっては有利だぞ、とな」
「なーるほど、天羽、賢い!」
お上手なのはやはり更科だ。
「善は急げだ。難波、さっそく放課後、キリオを待ち伏せて話し合いだ。やるぞ」
「わかった」
一言呟き、難波は指先で机の真中に積んだ花札をひっくり返した。同時にチャイムが鳴った。C組の人間だったらもう少し時間もあるのかもしれないが、A組に戻らねばならない上総にこれ以上情報を集めるのは無理だった。
現役の青大附中生徒会役員である霧島弟に対し、難波が懸命に訴えていることは理解した。決して仲良しではない姉弟であることも重々承知している。さまざまな場面で、やたらととんがって人を見下す態度を取っているのも上総は見てきた。自分から好んで交流を取りたいタイプの後輩ではない。
──けどなんでだろう。
どうもひっかかる。天羽がなぜ、難波の不器用な行動を支持するのかがだ。
難波が霧島ゆいへの想いをうまく表現できず、ただ陰で守ろうとする行為に出ているのは、恋愛に疎い上総もわからなくはない。どうしようもないのだ。何かをしないと自分が壊れそうになる瞬間、それは上総も何度も経験している。
だけど、それは難波本人の問題であって天羽が割り込むべき話でないような気もする。
第一、天羽は西月小春にからむいくつかの問題の当事者だ。当然、霧島ゆいもからんでいて、その傷はまだ癒えていない。西月がその事件以来言葉を発することができなくなるくらいの衝撃を受けたことも、上総は知っている。
──なら、天羽は控えるべきじゃないのか。
百歩譲って、難波と親しい更科……霧島ゆいとは同じクラスで三年間評議コンビを組んできた……を連れていくならわかるが、天羽までというのは何か違うような気がする。いや、天羽はさらに深いことを考えているのではないだろうか。
──そういえば天羽の奴、この前も関崎がらみの件で気炎を揚げていたな。
細かく考えすぎなのかもしれないが、どうも天羽の言動に関しては気に掛かるものがある。まさかとは思うが、「外部生ばかりを評価する学校側へのアンチテーゼ」として霧島弟を早いうちに手懐けたいのではないだろうか。
現役生徒会副会長で、おそらく次期生徒会長に推されるのは決定している。
現在の生徒会長である佐賀はるみの腹心とも言われ、実質動かしているのは霧島とも聞く。
もっとも佐賀はるみに関しては、現在評議委員長である新井林健吾の彼女なわけだから、中学時代バトルを繰り返してきた天羽が手出しをすることはできない。しかし、霧島弟だったら? 一年、間を空けているのと、頭の悪い姉貴との関係もあって繋がりをこしらえることはできる。姉、ゆいに迷惑をかけられた先輩たちの顔をして、共感させ、同時に天羽たちの陣地に早い段階で取り込むというのが奴らの魂胆としたら。
──俺の考えすぎかもしれないけどさ。
どうも本条先輩に仕込まれた、勘繰り専用思考回路が勝手に動いているようだった。
──別にそれはそれでもかまわないんだけどな。ただ。
英語の授業はほとんど聞かなくてもなんとかなる。上総はノートに要点だけ写した後、数回シャープの芯を押し出した。長く、書きづらくなった。
──天羽たちの気持ちはわかる。なんとか自分らの居場所を作りたいのもわかる。だが、今から後輩たちを取り込む必要があるんだろうか。
仮に相手が、例の佐賀はるみ生徒会長だとしたら上総は何も思わない。相性が合わないからというのではなくて、速攻で佐賀本人から断りの返事がくるだろうと予想されるからだ。何を言ったとて、佐賀はるみにとってはたいしたことではない。か弱そうな演技をしているが、結局のところ周囲には惑わされない女子だ。過去二回ほど、上総が杉本梨南のことでねじ込んだ時ですら、余裕で交わされ結局いなされてしまった。こちらとしては佐川雅弘の件でしっかり弱みを握っていたにも関わらず、要求を呑ませることができなかった。天羽ができないとは思わないが、少なくともこちら側の「外部生との対決」をモットーとした提案を一瞬のうちに見抜くに違いない。勝ち目はない。むしろ手玉に取られるだろう。
しかし、霧島弟は。
──あいつは何か違う匂いがする。
これも上総の直感に過ぎない。だから誰にも言うつもりはない。
もちろん優等生で、青大附中の王子様イメージの美少年であることは認める。姉以上の頭脳明晰さをひけらかす態度が鼻につくものの、それなりの力はあるだろう。
しかし、例の一件……「キャリアOLの禁じられた遊び」……で発見した霧島弟の、生々しい一面に何かを感じたのも事実だ。
男子の本能として、もちろんもやもやするものを解消したい気持ちはよくわかる。それが霧島弟以外の男子であっても当然だとは思う。上総が驚いたのはむしろ、その後、鼻血を噴いただけでおろおろしてしまうような言動の幼さだった。あの時無視して帰ってもよかったのに、なぜか余計なお世話をしてしまった上総自身、理解できないところもあるのだが。もし普段の性格がしっかり根付いているとすれば、彼も冷静に鼻の穴をティッシュで拭き取り、礼のひとつと「先輩もこういうのがお好きなんですね」と皮肉のひとつでも言って終わらせただろう。男子同士ならば、性欲の存在を受け入れることは恥でもなんでもないのだから。
──周りで思われているほど、霧島さんの弟は、強くないんじゃないだろうか。
上総が直感したのはそこだった。
うまく言えないのだが、霧島弟は姉のゆいにそっくりだ。頭の能力については別にしても、外見の美貌も、また妙につっかかって高圧的に喋りたがるところも、そのくせ自分のプライドがずたずたにされたとたん空気が抜けたように小さくいじけてしまうところも。
大きな風船の中に隠れた小さなねずみに近い、そんな存在に見える。
たまたま上総は「エロ本」というモチーフから偶然、霧島弟のそういった一面を見出してしまったわけだが、それはイコール自分にも繋がる。中学一年から二年にかけて、本条先輩にさんざんおちょくられつつ、少しずつ自分の中の「性」を受け入れる道を辿った記憶が、恥ずかしながら今だに残っている。
──しかし、自分は通り過ぎたからまだいいとしても、第三者から見るとこれって、間抜けだな。本当に。
本条先輩から見て、わざとらしく興味のない振りしつつ勝手に体が反応しているのに動揺している自分とか、鼻血を出す寸前で慌てつつ、「この人たち怪我しないんですか」なんて冷めた振りをしてエロビデオを一緒に見たりしていた自分は、どう映っていたのだろう。笑うしかない。
それでも本条先輩は露骨に馬鹿にしたりはしなかった。何かかしらきっかけを与えては、
「いいか立村、いきなりおったちまうってのは、恥ずかしいことでもなんでもねえんだから、堂々としろよったく! まったくなあ、もう少し評議連中相手にスケベ話とか自分の持ち物のレベルとか自慢してみろ。この前ちらと見たけどな、お前も人並みのもん持ってるんだからな。ったく、お前をこのまんま中学に置いていっちまうと考えると、兄貴は頭が痛てえよ」
今ならよく理解できる。本条先輩は近いうち学校を離れるゆえに、なんとか弟分の上総を余計な悩みから解放してやりたいという兄心から、懸命に策を練っていたことを。はたしてそれは成功したのかどうかわからないが、少なくともそのあたりで余計な悩みを抱えることはなくなった。過去、本条先輩がしでかした派手な恋愛沙汰話を素直に聞き、感じることができるようになったのも、思えばつい最近のことだ。ちょうど半年前。
──霧島弟を笑える立場じゃないんだけどな、俺も。
そこではたと気がつく。
──あいつには、そういう先輩がいるのか?
知ったことではない。だが気になった。
──ああいうエロ本売り場で、いきなり鼻血出して動揺するような奴とは、誰も思ってないだろうし、持ち帰ることすらできないお坊ちゃんだということすら、たぶん誰も気付いていないんだろう。誰か、ああいう時にどういう行動をしたりいいかとか、教えてやる友だちとかいなかったのか? それとも。
シャープの芯をノートに押し付けすぎて、ぽきんと折れた。
──あいつには、本条先輩のような人がいないんだな。
一瞬、上総の目の前でいきなりしゃくりあげて泣きだした霧島弟がフラッシュバックした。
上総はさすがに、ああいう場面で泣き出すことはなかった。戸惑った時には求めなくても本条先輩が側にいて指図してくれた。
霧島弟には、そういう人がいない。たぶん求めてもいないだろう。
──俺には、本条先輩がいてくれた。
突然、息苦しくなった。訳もわからず泣きたくなった。もちろん泣かなかった。ただシャープの芯をひたすら押し付け、息を詰めるだけだった。
──もし本条先輩だったら、こういう時、どうしてくれただろう?