序の破①
序の破 邂逅
足は走っているが、これは脳からの命令では無い様な気がした。
今、脳は目の前で起こっている状況を、必死に整理するのでいっぱいだからだ。
それでも、体は正直で身の危険を感じてとにかく逃げている。
「なんなんだよぉ、なんなんだよ、あれはぁ!」
明巳は維の手をしっかりと握りながらも、ただひたすらに走っていた。他の九人もそれに続いて走っているのだが、『化物』はあろう事かそれを追って来た。
一体どうやっているのか分からないが、自分より狭い廊下へと侵入して来て、かなりの速さで追って来る、本気で走らないと追いつかれそうだった。
「あっ、その部屋開いてます!」
明巳に引っ張られていた維が指を差した。そこには両開きの扉があって、右のドアが微かに開いている。
なんでもいい、どこかへ逃げなくてはこのままでは追いつかれてしまう。
明巳は一か八かでその扉を開けて、中へと潜り込んだ。それに続いて残りの九人も入る。
「早く閉めやがれぇ!」
三番目に部屋に入った高松が叫んだ。最後に入って来た赤西と石崎が扉を閉めて、閂を掛けた。そして更に扉を押さえた。
「ううっ入るなぁ、入るなぁ!」
赤西が祈る様に叫んでいるのだが、刹那大きく扉が叩かれた。
まるで丸太でもぶち当てられている様な、そんな衝撃が扉を伝って二人へと伸し掛かる。
更に色野も扉を押さえる、閂が大きく歪んで、今にも壊れてしまいそうだった。
皆祈る様にその光景を見ていると、徐々に衝撃が弱まって止んだ。
「はぁ……はぁ……はぁ」
ただ一一人分の呼吸をするだけの音がする。それだけしかしない。
『化物』が立ち去る音も、扉が壊れる音もない――ただ息を吸って吐く音だけがする。
「みっ……皆さん……ぶっ無事ですか?」
意外にも真っ先に言葉を発したのは維だった。辺りを見渡して、皆が無事かどうか確認している。
「えっええ……どっどうにか無事みたいですね」
ひとしきり息を吸って呼吸を整えた石崎がその様に答えた。
「だっ……大丈夫か? 維、どこも怪我してないか?」
「…………はっはい」
維はきょとんとした様子でそう答えた。どこも怪我をしていない事に安堵する明巳だが、自分が今彼女の手を握っている事にようやく気が付いた。
「あっごっごめん……」
「いっいえ……私こそすいません」
急いで手を放すが、あのか細くて包んであげたくなる手の温もりが残っていて、なんだか恥ずかしくなった。
「……そんな事より、ここは安全なの!」「そうよ、あの変な奴がここに入って来るんじゃないの!」「あんなドア、すぐに壊しちゃうわよぉ」「もう何なのよぉ」
今にも泣きそうなハイキング部の面々、そんな彼女達を教師である色野が優しく励ましている。
だが、彼女達の言う通りだろう、確かに少し頑丈そうだが閂をしただけのただの扉だ、いつあの『化物』が来るのか分からない。
「なんで入ってこなかったんだ……」
明巳はそう呟きながらも、ここが一体どこなのか、ふと見渡してみた。
大きな長テーブルは、一〇人は余裕で座れそうで、見るからに高そうな装飾が施されており、同じ装飾の椅子が置かれ、真っ白な染み一つないテーブルクロスが掛けられていた。
更に部屋の奥には暖炉があり、その上には銀色の燭台と、見るからに高そうな細工がされた時計があった。まさに館に相応しい装いだった。
「食堂、でしょうか……」
「そうみたいだなぁ」
維の言う通りここは食堂だろう、ずいぶん広いのでここは何らかのパーティなどで使う所かもしれない。
「ここがどこだかなんてどうでもいい、あのへんちくりんな奴は何なんだよ!」
「知らないよ、誰も答えられるわけないじゃないか」
高松の問いに赤西が答えるが、その通りである。あの『化物』が一体何なのか、そんな事答えられる者などいないだろう。
「あの『化物』っていうの……あいつの正体が分かる人なんていないだろう……今僕達が第一に考えないといけないのは、この部屋の安全だ」
「そっそうだ、この部屋は安全なのか!」
「それを今から確認しないといけませんねぇ」
そう言って、赤西と雁仁志と石崎は辺りを見渡し、他に何か侵入出来る場所はないか探し始めた。
「あっ、僕も手伝いますよ」
色野もそれを手伝い始めた。カーテンをめくってみたり、絨毯をめくったりしている。それを見て明巳も周辺を探してみる。
「…………」
維も壺の蓋を開けて手伝っているのだが、まずそこから入っては来ないだろう。
「こっちは無いよ……そっちにはある?」
「いいえ」「異常なしだ」「ありませんね」「ああ、何もなかったぜ」「……ありません」
人が通る所どころか、猫一匹出入りできないだろう。暖炉も使われていない様で、蓋がされていた。
「とりあえず、安全は確保できたようですね」
「他に行く所なんてないですし……ありがたい事です」
だが出入りできる場所が他にないという事は、ここから外へ出る事も出来ないという事だ。こんな所早く脱出したいのだが、今この状況で打つ手などなかった。
「これからあたし達どうなるんですか……先生ぁ」
「ん……大丈夫さ、きっと何とかなるよ、だから泣かないで」
そう言って泣きそうな中島にハンカチを渡して慰める色野。到底明巳には真似できない、漫画や小説の主人公の様な立ち振る舞いだった。
「はっ、何とかなる訳ねぇだろう、何とかするんだったらてめぇが出口を探しに行けよ」
「いっいえ、そういう訳では……」
色野の言動が気に食わないのか、高松は無茶苦茶な事を言って来た。
「人にそうやって言うんだったら、君が外に出て出口を探してきなよ」
「なんだてめぇ」
皮肉屋の赤西の言葉に高松は怒る、今すぐにでも殴りかかりそうな、一触即発の雰囲気の時だった――。
ぐるるるるっ。
何とも気の抜けた音が響いた。
突然の音に皆戸惑っている時だった。
「……あ~~、すいません俺です」
明巳が恥ずかしそうに挙手した。あまり空腹で腹の虫がいう事を聞かなかった。
「あんたなぁ……、こんな時に!」
「いっいやぁ、その昼飯まだだったもんで……あははっ」
「まだそんな時間でもないでしょうに……」
そう言って石崎が腕時計を見ている。だが明巳の記憶ではバス亭に居た時に、一一時すぎだったはずだ。その後山中を歩いて、この館に来て全力疾走。
健全健康青年の明巳には空腹の限界だった。
「なら……何か食べ物でも探しますか?」
意外にもそう言ったのは維だった。弱弱しい声でそう意見してくれた。
「維も腹減ったよなぁ! やっぱり米食べたいよな、米!」
「何馬鹿な事言っているのだ! 食べ物なんてこの部屋にある訳ないだろう……それに外にはあの化物が……」
雁仁志が扉を見ながらそう言った。今の所あの化物が居そうな気配はないが、また何時襲ってくるかも分からない。非常に危険だった。
「でも水とか、食べられる物は必要だよ、これから先何が起こるか分からないし」
「何よそれ! ずっとここに居るみたいじゃない!」
「嫌っ、そんなのぉ!」
赤西の言葉にハイキング部が泣きそうになっている。こんな所早く出る事に越したことはないのだが、やはりそれ相応の準備は必要だろう。
「じゃあ俺が行くよ、今はあの化物もいないだろうし、俺の腹の問題だし」
「良いんですか? 危険ですよ」
「うん、むしろこのままじゃ腹が減って死ぬし、腹が減って死ぬのは俺絶対嫌だし」
よく分からない明巳の持論に、色野は乾いた笑みで返した。
「鷹宮さん、私も一緒に……」
「えっ維も行くのか?」
「女の子がこんな危険な事しちゃいけない、貴方が行かなくても僕が一緒に行きますよ」
そう色野がまるでドラマや映画の主人公の様な事を言って、維を庇う。男ながら明巳もイケメンだと思ってしまった。
「嫌よ、色野せんせいちゃダメ!」「私達を置いて行かないでよ!」
しかしハイキング部の山崎と中島が、色野の両腕を押さえた。彼が居なくなって心細いのは分からなくないが、こんな状況でこれは迷惑以外の何物でもない。
「困ったな……」
「良いよ、俺が行くから、水と適当な食べ物持ってくるぐらいなら出来るよ」
「あっあのっ、わっ私も……」
維がまたそう自分から志願して来た。いまいち積極的なのか消極的なのか分からない。
「でも良いのか? すっご~~~く危ないかもしれないんだぞ」
「はっはい……でも私、食品の良し悪しなら分かります……絶対に足手まといにならないので、私も一緒に……」
確かにそれなら是が非でもついて来てもらいたい。明巳には食品に良いと悪いがあるのかさえ分からないのだから。
「じゃあ、危なくなったらすぐに逃げるんだからな」
「はい、鷹宮さん」
そう頷く維。だが自分から名乗りを上げた色野は、酷く悪く思っているのか困り顔だ。
「じゃあせめてこれを」
そう言って色野がポケットから取り出したのは、十徳ナイフだった。
少し使い古された感じはするが、手入れされた良い物だと言うのは素人目でも分かる。
「武器にはなりませんけど、何かの役には立つと思うんです」
「サンキュー、貸してもらうよ」
主人公風の色野のお蔭で、武器にはならないが便利な道具は手に入れた。
明巳は十徳ナイフをズボンのポケットに入れると、維を見下ろす。
「俺の側を離れるなよ、維」
「……はい、鷹宮さん」
維は小さく頷いた。明巳はそれを確認すると、慎重にドアノブに手を掛けた。
「…………」
明巳はドアノブに手を掛けたまま、ふと後ろに居る維へと目を向けた。
「……開けるぞ」
「……はい」
「……開けるからな」
「……はい」
「……本当に開けるぞ」
「良いから早く開けなよ」
赤西にそう言われて、明巳はようやく扉を開けた。
鈍い音を立てて、扉は開いた。少し開けた扉から顔を出して周囲の様子を伺うと、明巳はゆっくりと廊下へと足を踏み出した。
「……大丈夫だ、何もいない」
維もやはり怖いのか、きょろきょろと周囲を見ながら、ゆっくりと廊下へと出て来た。
そんな彼女を見ながら、明巳は維に出来る限りの笑顔で言った。
「行こうか、維」
「……はい」
館の中はかなり広かった。
ホテルです、と言われても信じられるくらいの広さで、台所一つ見つけるのさえ難しい。
「……すごい家だなぁ」
先ほどは全速力で逃げていて気が付かなかったが、廊下には芸術の素晴らしさが欠片も分からない明巳でも、きっと高額な物なのだろうと思える絵画が、いくつも飾ってあった。
それ以外にも、等間隔で壺やら、欠片も理解できない彫刻が置いてあった。
(これ一つでどれくらいするんだろう……)
明巳は、まるで埴輪の様な全裸の女性が両手を上げている彫刻を見つめていた。
「…………」
明巳が彫刻に夢中になっている間に、維は近くの部屋をかたっぱしから開けようとしていた。だがそれら全てに鍵がかかっていた。
「……開かないか?」
「はい……どこも鍵がかかっています」
やはり鍵と言う鍵は全て掛けられているのだろうか、維は少し残念そうにノブから手を離した。
「今はとりあえず、食べ物を探そう」
「……はい」
二人は更に歩き始めた。
窓があるのだがどれも鍵がかかっていて、やはりなぜか開かない。
錆びている訳ではないのだが、扉が開かない。
この館は普通ではないのだろう。
「……あっ、あそこ」
維が指を差したのは、館の突き当りの一角だった。
ドアが無い扉から、薄らと明かりが見えた。
明巳が恐る恐る中を覗いてみると、そこには大きな調理用のテーブルと飲食店で見かける業務用の巨大冷蔵庫が置いてあった。
奥には、やはりどこかの飲食店で置いて居そうなコンロと、七面鳥の丸焼きでも作れそうな大きなオーブンがあった。
台所と言うよりは、どこかの厨房だった。
「うわー、なんかすげぇ……」
明巳は驚きながら、辺りの物を眺める。
大きな食器棚の中には、見るからに高価そうな食器類が所狭しと並んでいる。
「これだけ広けりゃ、なんか食えるものあるよな」
「はい……」
明巳と維は、何か食べ物を探す為に周囲を物色し始めた。
明巳はつい目立っていた冷蔵庫を開けた。
中には大きな牛ステーキ肉の塊が置いてあった。それも霜降りで、どこぞの高級料理店でしかお目にかかれない様な逸品がそこにあった。
(……美味そう)
思わず唾を飲み込んでしまった。
人肌で溶けてしまいそうな霜降りが、これでもかと言うほどはいった牛肉。
腹が減って死んでしまいそうな明巳に、この光景はあまりにも酷だ。今すぐにでも食べたい、速攻で食べたい。
だが欲望丸出しの明巳の耳に、金属がぶつかり合う音が聞こえた。
振り返ると、維が幾つもの缶詰を手に持っていた。
「あ……すいません」
維は小さく頭を下げると、床に落ちた幾つかの缶詰を拾い上げてテーブルの上に置いた。
魚やら肉やらの缶詰で、中にはパンやご飯の缶詰もあった。
「これ……」
「……日持ちする方が良いと思いまして」
流石は女の子、男よりもずっと現実的で大人である。
ステーキ肉で唾を飲み込んでいた自分が恥ずかしい。
(……でも一回は喰いたいよなぁ)
あの霜降りを見せられては、健全な貧乏男子としては是非食べてみたい代物だった。
だが、現実的な大人女子の維は、明巳とは違って更に必要な物を物色していた。
「今度は何を探してるんだ?」
「……はい、ミネラルウオーターがあれば持っていこうと思って、水があれば人間は何日か生きられると、前に本で読みました」
確か個人差はあるが、二ヵ月近くは生きられると聞いた事が明巳もあった、ただそれはかなり好条件での事だし、人により死亡と筋肉量に差があるので、そんなに生きる事は出来ないだろう。
しかし水が重要なものである事には変わらない。明巳も探すのを手伝う事にした。
「しかし維は偉いな、俺一人だったらこんな風に気が回らなかったよ」
「いえ……そんな事無いです」
「いや凄いよ、ホント維と一緒に来て良かったよ、俺一人じゃきっとみんなに怒られてただろうからさ、ありがとな維」
そう明巳が素直にお礼を言うと、維は少し驚いた表情をした後、ほんの少し哀しそうな顔をして、ぼそりと呟いた。
「……私には、どうしても必要だったから……」
「えっ? 何か言ったか維?」
明巳が聞き返したのだが、維は答えようとはしなかった。
「……あっ、これ」
維が木箱を見つけたのだが、蓋がしっかりと固定されているので開かない。
引き剥がそうと、維がその細い手に力を込めるのだが、木箱が開くよりも先に維の指が折れてしまいそうだった。
「駄目だって維、俺がやるよ」
釘を使っている訳ではなさそうだったので、十徳ナイフを取り出すとナイフで蓋のふちに沿って切れ目を入れる。
ぐるりと一周すると、簡単に蓋が取れて、中からフランスの国旗が掛れたミネラルウオーターが出て来た。
「やったな維!」
明巳は子供の様にはしゃいでいるのだが、既に維は別の棚を漁っていた。
何やら高そうな洋酒が並べられた棚で、維はそこからウイスキーを取り出した。
「維……まさか飲むのか?」
そんな非行少女には見えないのだが、まさか維に限ってそんな事。
「いえ……消毒に使えるかもと思って」
「あっ……そうだよなぁ、飲むわけないよなぁ、あははっ」
確かに良くブランデーなどで、傷口を消毒するシーンが映画である。
本来消毒用のアルコールと度数が違い、完全な殺菌効果は望めないのだが、それでも消毒用アルコールが見当たらない今は、これを代用するしかない。
本当に維はよくできた子で、明巳などただ冷蔵庫の肉に見とれていただけだ。どっちがお荷物かは明白だった。
(俺、維より年上なのに何やってんだろう……)
「あれ……」
明巳が己の無力さに呆れていた時だ、維が業務用よりも二回りほど小さい、小ぶりの冷蔵庫を開けて首を傾げていた。
「どうしたんだ?」
「ここに、干し肉があったので貰って行こうと思ったんですが……紐だけでお肉が無いんです」
確かにずらりと吊られている干し肉があるのだが、その内の幾つかは肉が無く紐だけがぶら下がっていた。
まさか紐だけをぶら下げている訳がないので、ここにも肉はあったのだろうが、それは一体どこへ行ってしまったのだろうか――。
「ほんとだ……まさかあの『化物』が食べたんじゃないよなぁ?」
あの大きな手では、こんな小さな冷蔵庫を開けられる訳がない、そうなるとなぜ肉が無いのか、全く想像がつかない。
「まぁ考えてもしょうがないさ、食料も水も手に入ったし、とりあえず食堂に戻ろうぜ」
「はい……」
明巳は缶詰を入れた袋と、ミネラルウオーターの木箱を持つと、食堂に向かって歩き始めた。
「…………」
だが維はしばらく冷蔵庫を見つめていた。