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【46】足跡

『この跡形は私が生き続ける限り、この胸に留めておこう。いつ見上げても、私の中にお前の跡形がはっきりと見えるはずだ』

 月はそう言って、優しい輝きを見せた……


 ムーンストーンに刻まれた跡形は永遠だ。

 月面に残された足跡は、何十年、何百年経っても消える事は無いのだという……





 澪は原因不明の血液の病気に侵されていた。血中成分濃度のバランスが異常になるのだ。

 現代医療では打つ手は無かった。

 かろうじでクスリを使って誤魔化す事しか出来ない。毒素ではないので透析をしても意味はない。本人の自覚症状はないが、倒れたら一気に昏睡状態に陥るだろう。

 綱渡り的な生活を始めて半年、澪が中学一年生の夏の出来事だった。

 彼女はムリを言って連れて行ってもらった千葉の海で溺れる事故に会う。救助された時は一時的に心肺停止を起こしており、兄の渉が持っていた携帯用の除細動器で危うく命を取りとめた。

 しかし、それから澪の身体に異変が起こった。

 心停止した翌日には血中成分の異常がほぼ消えたのだ。それからしばらく澪の身体は完全な正常状態を保った。

 しかし、2週間すると再び血中成分に異常が起き始めた。白血球も赤血球も異常に増え、その代わりに血小板の数が減る。増えすぎた白血球は善玉細胞を食べようとする。体内のバランスが瞬く間に取れなくなる。

 仕方なく以前投与していた薬を使うが効き目が少なかった。

 このままでは澪が昏睡状態になる。

 まだ医大を出たばかりだった兄の渉は非常手段を取った。確信はあったが医院長である父親が許可を出すはずも無い。科学的検証による根拠が足りないのだ。

 ある深夜、こっそりと病院の手術室へ澪を運んだ。

 そして、電気ショックで心停止させると、再び蘇生処置を施す。二分以内に蘇生させれば問題ないだろう。

 彼女は蘇えり、血中成分は再び安定した。

 しかし、2週間もすると再び血液成分の異常が出始めた。

 そしてまた、渉は澪を臨死させる。

 デッドラインを超えた治療が、彼女にどんな影響を及ぼすのかは定かではない。

 そのサイクルは次第に短くなって、現状では一週間しか持たないのだ。





 木の葉を揺らす秋風の音が、木々に木霊する。

 サラサラと落ち葉を揺らして小波のような微かな音が夜の闇に響き渡り、まるでその音を妨げないように澪は息を殺すような官能の吐息を吐き続ける。

 旧家のような黒い梁と柱で出来た部屋の内装でも、暖房設備は完璧だった。

 二人は入浴の後、そのままの姿で時を過ごした。

 夜も更け、星影にフクロウの囁きが聞こえる頃、省吾の腕に澪は頭を擡げる。

 何処かウトウトしているようにも見えるが、省吾には彼女の微かな変化を読み取る事が出来た。

 ほぼ確実に起こる事を覚悟していたその症状は、渉に聞いて認識していた。

 それがとうとう始まったのだ。

 自分にはそれを防ぐ事は出来ない。今の省吾には、澪を救う事は出来ないのだ。

「大丈夫か?」

「うん、何だか頭の奥の方で眠気が広がるの」

 昏睡に落ちそうになっているのだと、省吾は気づいていた。

 それでも澪は幸せそうな笑みを浮かべていた。

 うつろいだ彼女の瞳が閉じたのを見て、省吾は起き上がって澪を膝に抱えるように抱く。

 すると、彼女は再び目を開けた。

 とても弱く、その中に輝く光は今にも消え入りそうだ。

「澪?」

 省吾の声に澪は反応して、声を出した。

「あたし、知ってたんだ。ショウちゃんと出逢う事」

「えっ? どういう事?」

「臨死を繰り返しているうちに、あたし時々予知夢を見るの」

「予知夢?」

「そう……ショウちゃんの姿ははっきり判らなかったけど、あたしを助ける誰かが現れるのは知ってた」

「でも、俺は結局澪を救えない。助けられないよ」

 澪は首を横に振ると「充分救ってくれたわ」

 澪の瞳が薄っすらと陰りを見せた。

 知らない人が見たら、ただ眠そうにウトウトしているように見える。

 しかし、そのうつつな仕草は、明らかに世界を隔てた眠りへの予兆なのだ。

 それでも省吾は、自分が思いの外冷静でいる事に驚いていた。

 来たるべき時が来る事は知っていた。しかし、これほど冷静に彼女を受け入れられるとは思っていなかった。

 自分に出来る事は、彼女の願いを叶えるだけ……省吾はそう割り切っていたのかもしれない。

「俺も、知ってたよ。澪の治療の事」

「そう……」

 澪は、省吾がそれを何時何処で、誰に聞いたかは訊かなかった。

 思考力が低下しているのかもしれない。

 彼女は天井から吊るされた照明に視線を移す。

「人はこの世に生きた足跡を何処かに残したいと思うものなんだって」

「足跡?」

「それが、仕事だったり自分の子供だったり……芸術だったり……」

 澪はひとつ息をついて省吾を真っ直ぐ見上げると

「あたしはショウちゃんの心に足跡を残したから、もういいよね」

「そんな……そんな事無い。ちっともよくないよ」

「あたしは中学の時に海で溺れて一度死んでるわ。いいえ、今まで何度死んだかもう自分でも判らない。誰かの心に足跡を刻めるなんて思わなかった」

 部屋の床の間に置かれた時計の刻む微かな音が、静寂の中に沁みるように響いていた。

「あたし、もう臨死にたくない。ゆっくり眠らせて」

 澪はそう言って、最後の力を振り絞るように顔を近づけて省吾にキスをした。それは触れるだけの柔らかな、甘い口づけ。

「ショウちゃんを追いかける女の子がいるわ。追いつけないけどずっと追いかけている娘がいるの。たまには振り返ってあげて」

 澪はそう言って省吾の腕に頭を着けた。

「あたしは、もういいから……」

 彼の腕に頭を擡げると眠るように瞳を閉じて、澪は

「星が綺麗だね」

 微笑みの中に、静かなブレスをひとつ。

 省吾が振り返った窓の外には、満天の星が輝いて森を照らしていた。

『ありがとう…』省吾には確かに聞こえた。

 しかし次の瞬間、彼女の呼吸はもう聞こえない。

 星屑さえも息を潜める静寂の中で、省吾の心の中に消える事の無い彼女の足跡だけがくっきりと残っていた。





次回最終話予定です。

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