【45】温泉宿
病院の出口で省吾は後ろから呼び止められた。
もちろんここは南澤医院。呼び止めた声の主が、聞き覚えのある男性だと省吾はすぐに気づいた。
「あ、渉さん」
「よかった、ちらっとキミの姿を見かけて……神崎さんのお見舞いかい?」
「え、ええ」
「彼女は順調だから、安心して」
「有難うございます……」
省吾はそう言っていいのか判らないまま、言葉を発した。
「ちょっと時間あるかい? コーヒーでもどう?」
省吾は渉に促されるまま、自販機のあるロビーへ歩いた。渉は缶コーヒーを二本買うと、ひとつを省吾に手渡す。
「喫茶店はもう終わってるから、こんなので悪いけど」
「いいえ、有難う御座います……」
省吾はそう言ってコーヒーを受け取る。
小さなベンチに二人は腰掛けた。
「週末澪と出かけるって?」
「いや、あの……」
「隠さなくていいよ。一応アイツの主治医として治療日の行動は把握しておかないと」
渉はそう言って、穏やかに微笑む。
「どうなんでしょうか……? 土曜を挟んで連れて歩いて大丈夫なんでしょうか?」
省吾は不安な表情を隠すことが出来なかった。
それは、相手が澪の兄というよりも、彼女の主治医だからだろう。
渉は沈黙したまま静かにコーヒーを口にして、軽く息をつく。
「結論からいえば、NOだね」
彼はキッパリと言った。いかにも責任のこもった言い方で。
省吾は心の中で「やっぱり」と呟いた。
その声が聞こえたかのように、渉は続けた。
「今は週1の治療がギリギリなんだ。もう少ししたら、もっと間隔を詰める必要があるだろう……ただ、アイツが今の現状から抜け出したがっているのも事実だ。無理も無い……もう5年も治療を続けている。
「澪は、いったいどんな治療を受けているんですか?」
渉は再び沈黙した。
通路の奥で、エレベーターの動く音が静かに響いていた。
「週末に泊まる所が決まったら、連絡くれるかい?」
彼は手に持ったコーヒーを飲み干すと
「それが、澪の秘密を教える条件だ」
困惑する省吾の耳には、ストレッチャーを押して歩く音が、通路の何処かから聞こえていた。
その週末、省吾は澪と一緒に箱根から伊豆を回る旅行へ出かけた。
紅のトンネンルを抜けると、木洩れ日から飛び出た光の喝采が待ち受ける広場に、小さな東屋がポツリと在った。
光に溶けた枯葉の匂いは、風に揺られながら再び森の中へ消える。
茜色に染まった山間の景色は完全に紅葉まっただ中で、それを観に来た観光客で何処も混み合っている。
省吾と澪はその群れから離れるように小さな小道を抜けた。
東屋から見渡す木々の間から芦ノ湖が微かに見えて、何処かで小川の流れる音が聞こえていた。
落ち葉の絨毯を踏みしめて再び小さな小道を下ると、芦ノ湖半に降りる。
誰にも会わないような道を通って二人は歩いた。落ち葉を踏む二人の足音と呼吸だけが、森の静寂に染み渡る。
省吾は澪の手をずっと握っていた。
彼女が何処かへ行ってしまわないように。
伊豆のバナナ園の近くにある風流な旅館に、省吾と澪の二人は泊まる事にしていた。
宿帳に記入する時、澪はさりげなく苗字に北原と書いた。
省吾はそれを見て、胸の中に熱い小石が注がれたような気持ちになる。
「なんでだよ」
小さく澪に耳打ちする。
「いいじゃん」
澪はそう言って悪戯な笑みを浮かべてボールペンを置くと、帳面をカウンターに戻す。
小奇麗な着物を着た受付係りの娘は、特にその帳面を眺めるでもなく閉じると
「夕方、お荷物が届いていますよ」
「ああ、後で部屋に」
省吾はそう言ってさりげなく笑みを返す。
「かしこまりました。それではお部屋にご案内いたします」
そう言って、受付の女性は案内係りの女中を呼んだ。
木々の生い茂る大きな敷地に小さな建物が幾つも散りばめられたその旅館は、受付が済むと一たん建物を出る。
「ねえ、何の荷物?」
外に出た時、澪が訊いた。
「ああ、面倒だから着替え送った」
省吾はさらりと言って歩き出す。
じゃあ省吾のカバンには何が入っているのだろうと思いながらも、澪もそれ以上訊きはしなかった。
木立の中を少し歩いて
「ここが露天風呂の入り口になります」
女中がそう言って歩みを緩めると、再び歩き出す。
少し行って黒い日本家屋の建物が在る。建物に入ると、その中には上下あわせて6つの部屋が在った。
「こちらです」
女中について暗い階段を上がる。
少し傾斜のキツイ板の間の階段と白熱灯で照らされたそこは、いかにも昭和の匂いがした。
階段を上りきって再び「こちらです」
女中がそう言って戸を開けた部屋には『天女の間』と記されていた。
隣の部屋は『仙人の間』
省吾は何だか判らないが、隣の方がよかったなと思った。
澪が天女のように空へ上がって消えてしまいそうな気がして、胸の内に僅かな不安というか、嫌な予感が湧き出て来たから。
浴衣の場所などの説明をして、女中は部屋を出て行った。
窓の外には、紅の木々と茜色の空が見えた。緋色に変わり始めた頭上にはもう星の輝きが見える。
「露天風呂って、入ったことある?」
澪が窓から身を乗り出して、風呂の在る方角を見て言った。
「いや、ないよ」
「混浴かな?」
「どうかな、そう言えば何も言ってなかったから、別じゃない」
「なあんだ、そうか。混浴とかって、入ってみたかったな」
「でもさ、他の男連中にも見られるんだぜ」
省吾は窓に近づいて澪に並ぶと、一緒に外を眺めた。
「そうか、そうだね」
澪はそう言って笑うと「そしたらショウちゃんどうする?」
「どうするって?」
「あたしを隠す?」
「隠すって、何処にだよ」
「別に、何でもない」
澪は自分の中だけで話しを終わらせると、部屋の中を歩き回る。
「じゃあ、ここで一緒に入ろうか」
澪が風呂場の入り口を開けて笑った。
大きなガラス張りの天井がついた小さな個室の温泉が各部屋に付いているのだ。
「いや……どうするかな」
省吾は何時もより積極的な彼女にちょっとテレながら、どう返していいのか判らず苦笑した。