【44】甘酸っぱい微笑み
小波に追い立てられたマリンブルーの風は、白い建物にぶつかって弾け飛ぶ。
日曜日の午後、日中の風もだいふ肌寒くなってコートやブルゾンを着込む姿が当たり前になった。
「ねえ、今度の連休何処か行きたいな」
ゆりかもめに乗ってお台場に来た省吾と澪は、比較的空いている船の科学館の白いカフェテラスで低い松林越しの海を眺める。
「連休って、来週末の?」
澪は風にたなびいて頬にかかる髪の毛を、指でそっと払い除けて頷いた。
「でも、土曜日挟むだろ?」
「いいよ、別に」
「別にって……」
「少しくらい大丈夫よ」
省吾は戸惑いを隠せなかった。今まで土曜日に出かけた事など無い。それは、彼女が土曜日に治療をする事の絶対的必要性を意味していると思っていた。
それなのに、澪の方から何処かへ行きたいなんて、何か不自然さを覚える。
「お泊りでさ、何処か行こう。そんなに遠くなくてもショウちゃんと一緒に夜を過ごしてみたい」
風に吹かれながら低い太陽に照らされた澪の頬が白く反射して、省吾はそれに自分が照らされているような錯覚を感じた。
「澪がいいなら、俺はいいけど……でも他の曜日に……」
「じゃあ、決まりだね。何処行こうか。帰りに紀伊国屋でるるぶとかみよう」
澪の明るい笑みは、白く陰って省吾の胸をくすぐる。何故そんな思いになるのか判らなかったが、きっと少しだけ澪の心が彼には見えたのかも知れない。
白く果てしない砂丘を漂うよな、さ迷える彼女の心が……
* * *
「どうしたの? 浮かない顔して」
病室のベッドで愛香が微笑んだ。
省吾は彼女の見舞いに来た。予定は無かったが、何となく足が自然にこの病院のこの病室へ向いた。
ニットキャップを被る彼女の笑顔にも、もう慣れた。
「まだ、暫くかかるのか?」
「うん、もう暫くね。経過は順調だって。でも転移がないかまだ様子を見ないといけないし」
「て、転移?」
「ほら、脇の下とかリンパ腺が近いから転移もし易いらしくて」
……転移してたら、どうなるんだ……省吾には訊けなかった。
「そうか……」
省吾は無理に笑顔を作ると、窓の外に視線を向ける。
夕映えに浮かぶ街並が、黄昏色の陽炎のように霞んで見えた。
「どうしたの、今日は?」
愛香は省吾の横顔を覗き込むように問いかける。
二人はまるで、患者と見舞いが逆の立場のような表情だった。
「澪が、土曜日に出かけようって言うんだ」
「治療は?」
愛香は土曜と聞いて直ぐにそう返した。
「解らない……平気だって……本人は」
「なら、平気なんじゃないの?」
「そうなのかな……」
「怖いの?」
省吾は愛香の言葉に振り返る。
「彼女が全てになるのが怖いんじゃないの?」
「全て?」
「省吾は、いろんな楽しい事のひとつとして彼女と付き合ってるかもしれないけど、彼女はあなたと付き合うことが全てかもしれないのよ」
愛香の言葉が、省吾の心に重く圧し掛かる。
今までそんな事は考えた事が無かった。
彼女が自分に対してどんな気持ちなのかは考えた事があっても、彼女自身が自分と付き合う事をどう考えているかなんて思っても見ない。
……自分と付き合うことが澪の全て?
彼女の気持ちをそんな重いものには感じたことが無かったし、普段の澪のはそんな素振りは全くと言っていいほどなかったから。
しかし、見た目が全てじゃない事ぐらい省吾にも判っている。
「出かければいいじゃん。彼女が行きたいって言うんでしょ」
愛香はそう言って、手元のみかんをひとつ剥くと、半分を省吾に渡した。
「何かが起こっても、澪ちゃんは覚悟してるんだわ」
「覚悟?」
愛香は、澪の事を全て話してしまおうか迷っていた。
しかし、自分の口から言うべきではないだろうと思った。言うべき時が来たら、きっと彼女が自分で言うだろう……
それは、真琴が愛香に対して気遣った気持ちと一緒だった。
そんな日は近いのかもしれない。
澪が全てを省吾に打ち明ける日は、そう遠くない日に訪れると愛香は思った。
そんな不安と困惑した気持ちを悟られないように、彼に優しく微笑んで、本当はあまり食べたくもないみかんの欠片を口へ入れた。