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【43】揺らぐ心

「お、及川君。あなただって、これから彼女くらいできるよ。今そこから飛んだら、それこそそれっきりなのよ」

 澪は何とか及川の気持ちを落ち着かせようと、声をかける。

 及川は何も応えなかった。ただ、屋上の風が彼の学生服の背中をたなびかせている。

 不安が過ったのか、彼はフェンスにピタリと背を当てた。

 西の空に夕陽が落ち始めると、空が緋色に輝き始めて辺りは暗くなってきた。

「及川。お前、病気になった事あるか?」

「どうしてそんな事訊くんだよ」

「お前、病気で死にそうになった事なんてないだろ。今までに、死にそうになった事なんてないだろ?」

「そんなのないよ。普通無いのが当たり前だ」

 話している間にも、どんどん周囲は暮色に変わって、植木が黒い影の塊になっていた。

「病気で生きる為に、身体の一部を切り離さないといけない人だっているんだぞ」

 省吾の言葉が、愛香の事だと澪はすぐに気づいた。

「そ、そんなの俺に関係ない」

「お前、何でも人の事は関係なくて、羨ましいだけなのか? 誰かを羨むくせに、誰かの苦悩は関係ないのか?」

「どうしてそんな事言うんだよ。俺だって本当は死にたくなんてないさ。でもしょうがないんだ。あいつらに思い知らせる為には、仕方ないんだ」

 及川はそう言って、身体の向いている外側に顔を向けた。

 陽は落ちかけて、辺りは暗くなっていた。ちょうど街路灯の光が三人を照らしている。

「お前、友達いないだろ」

 省吾は息をつくと、少し低い声で言った。

 及川は何故かそれに反応して、再び二人を振り返る。

「お前、自分の事ばっかりだから、友達出来ないんだよ。だから、イジメの標的になるんだ。もっと他人に興味を持てよ。羨ましいとかじゃなくて、アイツは大変だとか、あの人は可哀想だとか、お前の周囲にお前より大変な人は本当にいないのか? お前より苦悩している人はいないのか?」

 省吾は言葉を発しながらフェンスに近づいていた。

「うるさい、そんな事はどうでもいいんだよ」

 及川は省吾が目の前に来ていることに気付いていないのか、興奮してどうでもよくなったのか、そのまま話し続けた。

「俺は疲れたんだ」

「そんなんで、そこから飛ぶ勇気はあるのか?」

「勇気なんていらないよ。絶望感だけで自殺はできるんだ」

「じゃあ、どうしてそんなに震えてるんだ?」

「うるさい、うるさい、うるさい!」

 そう叫ぶと、及川がフェンスを掴んでいた手を離す。が、省吾はフェンスの隙間から左手を出して、彼の制服を掴んだ。急いでもう片方の手も添える。

 上下に分かれて張られた金網は、真ん中に手を通せるほどの隙間があいているのだ。

 服をガッチリ掴むと、彼は少しも前に踏み出せなかった。

 及川は逆情したように

「離せぇぇ」と叫んで、制服のボタンを外そうとしたが、今度は澪が手を差し出してズボンのウエストを掴む。

「お前、ズボンも脱いで飛び降りる根性あんのか? 最悪のカッコウだぞ? 滅茶苦茶格好悪い死に様だぞ」

 省吾の言葉で及川は3つ目まで外した制服のボタンから手を放し、身体の力が抜けると、急に肩を震わして涙を流し始めた。

 一度気を落ち着かせれば、死ぬのが怖くなるのが人間だ。

「とにかく一回こっち来いよ。とりあえずコーヒーでも飲もうぜ。死ぬのなんて、何時だってできるだろ」

 省吾は彼の制服を掴んだまま言った。

「ね、そうしようよ、ね」

 澪の言葉で及川はゆっくりと身体の向きを変えると、フェンスをよじ登ってこちらに降りてきた。

 金網の隙間に慌てて突っ込んだ省吾の左手の甲が、浅く擦りむけて血が滲んでいた。

 省吾が何気なく見た屋上の出入り口には、警備員が駆けつけている。

 三人は気付かなかったが、屋上に顔を出した誰かがその光景を見て、警備を呼んだらしい。





「あたし、自殺しようとする人って、初めて見た」

 駅まで歩く帰り道、暫くの沈黙の後澪が言った。

 事情を警備に聞かれて少しの間拘束された後二人は解放されたが、及川は保護者を呼ばれている様子だった。

「俺だって初めて見たさ」

「びっくりしたね。あんな元気なのに、死にたいんだね」

 澪の言葉に省吾はどう応えていいのか判らない。それでも、何か言わなければいけないような気がした。

「理由は、人それぞれって事だろ。ああいうのは心の問題だからな……」

 省吾はそう言って、何となく澪の手を掴んだ。

 冷たい手は、小さく握り返して来た。



 * * *



 澪にとっての1週間は思いの外早くめぐって来る。

 もっとゆっくり時間が流れればいいのにと、金曜の夜は何時も思う。

 彼女は土曜日の朝起きるのが怖い。

 それでも省吾にはそんな気持ちを悟られないように、ずっと明るく過ごしている。



「お兄ちゃん、あたし……このまま眠ったらダメなのかな」

 診療ベッドに横たわった澪は、機器の電源を入れる兄に向って言った。

「何を言ってるんだ、澪」

「あたし、何だか疲れちゃって……」

「生きたくても、生きられない人が五萬といるんだぞ。生きるチャンスがあるなら、それを精一杯試みる義務があるだろう」

「義務……じゃあ、あたしは義務で生きてるんだ」

 澪がそんな事を言うのは初めてだった。

 渉はそんな澪の精神状態を察した。

「そうじゃない。努力する義務があるって事さ。生きられるうちはね」

「その義務は何時まで続けなくちゃいけないの……」

「どうしたんだ……省吾くんと喧嘩でもしたのか?」

 渉は澪に優しく問い掛けた。

 彼女は小さく首を横に振る。

「あたしは、ただ生きるだけで精一杯で、彼を満足させてあげているか判らない。でもショウちゃんはいっつも優しくしてくれる」

「好きな女に優しくするのは当たり前だろ」

「でも……」

 澪は最近思う事があった。自分は本当に誰かと付き合う資格があるのだろうか。毎週土曜日は自宅療養で彼氏に会う事も出来ない。臨死と蘇生を繰り返す事で、魂が薄っぺらなものになっている気さえする。

 誰かを支えたり支えられたり、そんな対等な付き合いが出来るのだろうか……

 自分と付き合い続ける限り、省吾はきっと幸せになれないのではないだろうか。

 しかし、澪は今日もそのまま意識が薄れて、1分20秒間の幻想へと旅立つ。






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