【42】3つの影
辛い事や嫌な事があっても、日常は何処までも続いてゆく。
愛香の姿を教室で見なくなっても、省吾と澪の日常はこれまで通りに流れるのだ。
お互いに口数少ない日が続いたが、愛香の手術が上手くいったと聞いてからの二人は、表向きは今まで通りに過ごして、映画を観たり、買い物をしたり、公園をぶらついたりした。
省吾は愛香に気を取られて、澪の僅かな心の変化には気付いていなかった。
愛香の存在が原因ではない。澪は予てから思う事があって、省吾と過ごすうちにその気持ちが心を満たしていった。
それは希望めいた明るいものではない。
いや、彼女にとっては、ある意味希望に繋がる新しい世界への旅立ちを意味するのかもしれない。
* * *
「おい、落ち着いてとにかくこっちへ来い」
省吾は僅かに足を踏み出して言った。
「こっち来るな。来たら飛び降りる」
……ふざけんなよ。てめえが落ちたって俺には本来関係ないから、そんなの知った事じゃねえんだよ。
「とにかく落ち着けって」
放課後、省吾と澪は東宝撮影所近くにある、大型ショッピングモールへ来ていた。
平日の夕方という事もあり、一階の食料品売り場以外は学生の徘徊がいるだけでフロア全体は意外と空いている。
二人は暇つぶしに屋上へ上がって、金網越しの風景を眺めた。
「学校の屋上からここが見えるんだ」
「へえ、あたしの学校からも見えるかな」
「どうだろう」
省吾は遠くに小さく白い校舎を見つける。
「あれ、ウチの学校かな」
「あれは小学校じゃない? ショウくんの学校はたぶんその向こうに見えるヤツだよ」
澪がさらに遠くを指差した。
けっきょく二人共イマイチ正確にはわからない。
屋上は誰もいなかった。そう思っていた。
ちょうどすれ違いに一組のカップルが身体を寄せ合いながら屋内に入って行った所だ。見渡す限り、人影は見えなかった。
しかし、少し離れた植木の並んだところで、不意にガサガサと音がして人の気配を感じた。
「向こうに誰かいるんだな」
「植木の影で何してんのかな」
「自殺とかじゃん?」
省吾はまったく冗談のつもりだった。
そんなヤツ間近で見たこともないし、まさかそんな場面に出会うはずもないと思っていた。
しかし再びガシャガシャンと激しい音がして、振り返る。
黒い学生服の人影が、転落防止の高いフェンスを乗り越えていたのだ。
「ショウくん、あれって……」
澪は思わず呆気にとられていた。
「おい、何やってんだよ。危ねえぞ」
省吾は何かの冗談だと思って足早に近づいた。澪もその後を小走りに追う。二人のいた場所から20メートルも離れていなかった。
「おい」
省吾は再び声をかけたが、足元に何かを見つけて思わず足を止める。
揃えて脱いだスニーカーの上には携帯電話が置いてあった。
よく見ると、男は靴を履いていない。
「ショウくん、これって……」
澪もそれを見て一瞬息を飲む。
夕方の風が、屋上を吹き抜けてゆく。
「来るな」
フェンスの向こう側へ降りた男は、省吾と澪の姿に気付いて叫んだ。
「お、おまえ、どうする気だよ」
「ここから飛ぶよ」
「何でだよ」
「あんたには関係ないだろ」
省吾は澪を見つめた。
その通り俺たちは関係ないんだから、行くか。省吾はそう思ったが、澪は省吾を見つめた後、再びフェンスを越えた男を見る。
そして、植木の間に置かれた靴と携帯を見下ろすと
「この携帯は、何か意味があるの?」
男に訊いた。
「その携帯に、俺をイジメた連中のリストが入ってる。それで、あいつらは捕まる」
「そんなの判んないだろ?」
省吾が言った。
「最近はイジメや恐喝が原因で自殺したら、罪に問われるじゃないか」
「それは稀なケースだぞ。それに、直接お前を殺したわけじゃないんだし、未成年なんだから直ぐに出てくるさ」
「う、う、う、う…うるさい」
男は泣きそうな顔で叫んだ。
平凡な黒髪が風で靡いている平凡な顔立ちは自分より幼く見えるが、おそらく彼も高校生だろうと省吾は思った。
……面倒なもん、見ちゃったなぁ。
「どうする?」
省吾は澪に小さく耳打ちした。
「とにかく、止めさせようよ」
「俺たちが?」
「だって、他にどうするのよ」
澪はそう言って男の方を向くと
「あなた、名前は?」
彼は狭い足場で向きを変えるので手がイッパイといった感じだった。
「おい、名前くらい教えろよ」
省吾が再び訊く。
「及川。及川幹久」
及川は完全に身体を外側へ向けると、首だけを二人に向けて言った。金網をがっちりと掴んだ手は、明らかに震えている。
「及川君は、何年生?」
「うるさいな」
「少しくらいお前のこと教えろよ。俺たちは高二だ。そんなにお前と変わんないだろ?」
省吾はヤケクソで及川に話しかける。
「全然違うよ」
「な、何が違うんだよ」
「俺、彼女なんていたことないし、女と歩いた事だってないよ。チャラチャラしたあんたに、俺の気持ちは判んないよ」
及川は身体を震わせて叫ぶ。
彼なりに主張はしたいのだろう、声が二人に届くように顔だけはこちらへ向けていた。
しかし、今からしようとしている行為の理由としては主旨がずれていた。
「イジメが原因で死のうとしてる割には、俺たちの事羨んでるぞ」
省吾は再び澪に耳打ちした。
低くなった西日に照らされた三人の影が、屋上に長く伸びていた。