【40】秋の陽差の下
省吾の日常は愛香のそれとは関係無しに、今までとなんら変わらない。
今頃手術なのか……省吾はちょっぴり冷たい朝の風を頬に感じながら駅のホームで空を見上げた。
乾いた喧騒の中で、頭上に広がる虚空だけは何事も無く優美に広がりを見せる。
省吾は視線を落として愛香の胸を感じた左手を見た。熱い温もりがその掌に蘇える。
……自分にしてやれる事はない。今は。
近くの踏み切りの音が響き渡ると、省吾は顔を上げて乗降位置へ歩み寄った。同時にアナウンスが流れて電車が進入して来る。
扉が開いて澪の顔を見ると、心の中に暖かい火が灯る気がした。
しかし、その日は二人共口数の少ないまま、省吾は何時もの駅で降りる。
省吾は、愛香が南澤病院……つまり、澪の家の病院に入院し手術を受ける事を知っている。そして澪も、愛香が自分の病院へ入院した事や、今日彼女が手術をする事を知っていた。
ただ、省吾も澪もそれをお互いに言うべきか言わないべきか迷うあまり、つい口数が少なくなる。
おそらく知っているだろう。それは二人共感じていた。
しかし、その話題を二人で話していいのか、迷っていたのだ。それでも、お互いに彼女を思う不安が話題の提示を急き立てて、それを呑み込む事の繰り返しだった。
何かを言いたげに電車を降りる省吾の笑顔を、澪は同じ類の笑顔で見送った。
「澪ちゃん」
愛香は、早朝に病室を訪れた澪の姿に、ベッドで身体を起こした。
「通院の日?」
愛香はそう言って笑う。
「ううん。あたしはほとんど病院へは来ないから」
澪も笑顔を投げかける。
「様子が気になって……あ、ごめん。お兄ちゃんに訊いて……」
「そう」
「手術、頑張ってね」
「うん。でも、頑張るのはお兄さんでしょ」
執刀医は南澤渉。澪の兄だ。
「それもそうだね」
澪は思わず声を出して笑った。
「元気そうでよかった」
「ありがとう」
愛香は澪を見つめて言った。臨死と蘇生を繰り返す彼女を前に、弱音は吐けないと思った。どちらが幸福なのかなんて、今は考えられない。
ただ、これから手術を目前に控えた愛香にも、澪の白い笑顔は相変わらず果敢なげに映ったのは確かだ。
澪はベッドサイドの小さな丸椅子にそっと腰掛ける。
「あたしの治療の事、知ってるんでしょ」
澪の言葉に、愛香はどう応えていいのか判らなかった。ただ、何故澪がそんな事を知っているのかが、不思議だった。
「どうしてそれを?」
澪は、窓の外に広がる朝の眩しさに染まる街並を眺めると
「死の淵をさ迷うとね、普段は見えないものが見えて、普通は聞こえるはずの無い事が聞こえたりするの」
澪は外に向けた視線を愛香に向けて微笑む。
「いいよ。ショウちゃんに言っても。あたしの事」
「そんな事……どうしてあたしに言うの?」
「ショウちゃんが好きなんでしょ」
澪は何でも知っている。
尋常ではない治療を繰り返す彼女の言葉は、ひたすら信憑性に包まれて、愛香の心の中へ入ってきた。
「言わないよ……ショウに隠すのが辛いなら、自分で言いなよ」
愛香の言葉に、澪はクスッと笑って俯いた。
「そうなのよね。別に悪いことしてるわけでも無いのに、隠すのは辛いよね」
それは愛香の心に小さな針を刺したような、チクリとした微かな痛みをもたらした。
自分は省吾に身体を預けようとした。彼が澪と付き合っていると知りながら、彼が澪を好きだと知りながら、自分の哀れな姿を楯に省吾に抱かれようとしたのだ。
「澪ちゃん、あたし……」
「でもさ」
澪は、愛香の言葉を遮るように口を開いた。
「ウソも大事だよね。ていうかさ、それを口に出さない事で誰も傷つかないなら、それもいいのかなって」
彼女はそう言って椅子から立ち上がると
「じゃあ、あたし行くね。お兄ちゃんは、アレでもお父さんも認める名医だから安心してね」
「うん。大丈夫、ウチのお父さんのお墨付きだもん」
愛香は、病室のドアを開ける澪に向って微笑んだ。
それと入れ替わりに、看護師が入って来た。