【3】思案
「ちきしょう、昨日は惜しい事したよ」
翌朝一番で顔を合わせた裕也が未練がましく呟いた。
「仕方ないだろう。人命救助だ」
「そんな事言って、お前彼女の事ずっと見てたろ」
「そんな事ねぇよ」
「彼女狙ってるのか? あれって確か南高の制服だよな」
「いや、狙うとか、そんなんじゃねえけど」
「ウソつけ。お前、ああいう清楚な娘タイプだろ」
図星だった。高校に入って直ぐから付き合いのある裕也には、省吾の好みは判るのだ。
「でもよ、確かに可愛かったな。何だか夏も全然遊んでないってくらい白かったよ。彼女」
裕也はそう言って教室の窓に寄りかかった。
「誰が全然遊んでないの?」
ほんのり小麦色の肌をした愛香が声をかけて来た。
「いや、愛香には関係ないよ。男同士の話さ」
裕也はわざと彼女を突き放すような言い方をして、意地悪そうに笑った。
「そう言えば、彼女の家開業医だって言ってたな」
「だれだれ、開業医って。お金持ちじゃん」
裕也がポツリと言った言葉に、愛香は益々食いついてきた。
「お前ん所だって医者だろ」
省吾が言った。
「ダメよ。うちのお父さんは所詮月給取りだもん。開業医には及ばないわ」
「へえ、そうなの?」
裕也が逆に興味を示す。
「だって開業医って言えば自営業よ。保険適用分が国からガッポリ入るじゃない」
愛香は裕也の隣の窓に寄りかかると
「まあ、何かあったら潰れるのもあっという間だけど」
そう言って悪戯っぽく笑う。
裕也は省吾を見て逆玉狙いか? と言わんばかりの意味深な笑みを見せた。省吾はそれを受けて、無言で否定の視線を返す。
愛香はそんな二人を交互に見ると
「で、誰の家が開業医なの?」
省吾はあの娘の事が気になっていたが、あえて江古田へ出向くような事はしなかった。
きっと大きな家だろうから見つける事は可能かもしれないが、いざとなると何だかストーカーまがいで気が引ける。
あれから二日が過ぎたが、あの娘はまだ朝の電車で見かけない。
そう言えば、以前にも何度か彼女を見かけなかった事があるが、その時が倒れた時なのだろうか……
省吾は電車を待つ駅のホームでそんな事をぼんやりと考えていた。
裕也はリーダーの補習を夏休みにサボったので、今日から一週間居残りらしい。
愛香はあれでも吹奏楽部でフルートなどを吹いている。三年生は夏で終わる部活もあるが、吹奏楽部は秋のコンクールまで三年生も参加するのだ。
ホームに入って来た電車を呆然と見ていた省吾は、窓から覗く車内の情景に鼓動が高鳴る。
……彼女だ。朝はいなかったのに。
彼女も省吾を見てハッと顔を強張らせた。
彼女は自分を知っているのだろうか……思わず抱き上げてしまった自分を……
グンッと音を立てて車両のドアが一斉に開いた。
省吾はゆっくりと車内に足を踏み入れる。
心臓の鼓動が早鐘のように打っていた。気を失いかけていた彼女を抱き上げたのだ。
考えればそれはあまりにも大胆な行為。今思えば彼女の顔が至近距離にあった。
彼女の身体の重さを思い出した。初めて抱き上げた女性の身体は骨格が細く予想以上に軽くて、全身に力を込めた自分は拍子抜けした。
「あ、あの……」
気がつくと彼女は省吾のすぐ傍まで来て、上目使いに彼を見上げている。
「えっ、はい?」
省吾は慌てて言葉を返す。
「あの……この前、江古田の駅で……」
その先の言葉は消えていたが、それだけで彼女が自分を認識していたのだと充分に判った。
「あっ、うん。俺だって、判ってた?」
「ええ、薄っすらと顔と制服が……」
彼女は少々俯いた顔を上げると
「それに、何時も朝会いますよね」
そう言って小さく微笑んだ。
どうやらほとんど毎朝会う省吾を彼女も認識していたようだが、それを意識していたかどうかは解らない。
逆玉……開業医イコール金持ちの娘……何故だかそんな余計な事ばかりが頭を過って、省吾は思わず頭を振った。
「あ、あたし、南澤澪」
「あ、俺……北原省吾」
自分で自分のフルネームを言うのは妙にくすぐったい気がした。
おそらく彼女もそうだったのだろうか。お互いにちょっぴり頬を紅潮させて、笑顔を交わした。
「この間はありがとう。ちゃんとお礼言わなくちゃって思って……」
「いや、いいよ。お礼だなんて」
何となくギクシャクした会話が飛び交う。
その後、簡単な雑談だけで、すぐに省吾が降りる駅に着いてしまった。
「俺、厚揚げが好きなんだよね」……どうしてそんなくだらない事を言ったのか、省吾は電車を降りてから、車内から小さく手を振る澪の白い笑顔を見ながら酷く後悔した。
もっと気のきいたカッコイイセリフがどうして出てこないのか……
そんな省吾のくだらない話題にも彼女は「なんか渋すぎ」と笑った。
「あ、でもあたし、どら焼き好き。コンビニとかでもよく買っちゃうから、友達に『澪は未来の国から来たんだろ』って笑われるの」
彼女は省吾につられる様にそんな事を話した。
会話自体は楽しかった。しかし……他に訊く事があるだろう。話すことがあるだろう……省吾は自分の口下手加減に呆れた。
彼女は何処か身体が悪いのだろうか。
時々倒れるなんて、何だか心の中に灰色の不安が過る。
しかし省吾はこうも考えた。
下手に身体の具合の事を訊いたりして、滅茶苦茶ヘビーな病気だったらシャレにならない。そう言う事は訊かなくて良かったのかもしれない。
そうだ、今度会った時も、体調の話はしない方がいいだろう。
もっと親しくなれたとしたら、それは自然に判る事かもしれない。
省吾は自分なりの答を胸の中で呟くと、駐輪場から取り出したATBに乗って軽やかにペダルを踏んだ。
僅かな不安とは裏腹に、何だか妙にペダルが軽くてギヤを2段あげた。