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【38】熱情の雫

「お母さん、ちょっと買い物行って来て」

 愛香が玄関まで歩いてくると、母親に言った。

 顔色もそんなに悪くは感じないし、いったい彼女は何の為に手術が必要なのだろうかと、省吾は愛香の顔を見つめていた。

 母親は省吾と愛香の二人を比べるように眺めると

「あ、ああ。そうね。じゃあ、ちょっと行って来るわ」

 そう言って一端リビングへ引っ込んで、再び玄関に現れる。

「上がって」

 愛香に促されて、省吾は黄色のニューバランスをいそいそと脱いだ。

 母親は省吾と入れ替わるように玄関のドアを開くと

「じゃあちょっと行って来るわね。……二、三時間くらいで戻ると思うから」

 そう言って、外へ出て行った。

「来て」

 愛香はゆっくりと廊下を歩いて階段を上る。

 省吾はその直ぐ後ろを歩きながら、彼女が着るザックリとした藍色のワンピースの揺れる裾口に視線を漂わせていた。

「どうしたの? 急に」

 愛香は階段をゆっくりと上りながら、振り向かずに言った。

「急にって、お前こそどうしたんだよ。急に」

 省吾は視線を上げて、左右に揺れる彼女の後ろ髪を見つめた。

「だって、あたしの場合は急だったんだもの」

「何がだよ」

 愛香は一瞬黙って、階段の最上段に足を乗せて止まる。

「もしかして、真琴に聞いた?」

「え? あ、ああ……ちょっとだけ。でも、何がなんだかさっぱりでさ。もっと寝込んだりしてるのかと思ったよ」

「うん。けっこう元気よ」

 愛香は止めた足を再び動かして部屋まで省吾を促すが、後は振り返らなかった。

 部屋のドアを開けた途端、ほんのりと甘い果実のような香りが省吾の嗅覚に届いた。

 澪の部屋ほどではないが、愛香の部屋も充分大きかった。白い壁にピンク色のベッドカバーがやたら目立つ。

 ただ、木目調の勉強机と黒いアップライトピアノが、何処かシックでエレガントなイメージを醸し出している。

 省吾は床に敷かれたグレーのカーペットの上に腰をおろす。カーペットは部屋の中央にだけ敷かれて、ピアノの下などはフローリングのままだ。

「何か飲む」

 愛香は省吾と視線を合わせようとせずに淡々と身体を動かす。

「あ、ああ」

 愛香の部屋には小さな冷蔵庫と食器棚が在る。彼女はそこから細長いグラスを二つ取り出して黒いローテーブルに並べると、冷蔵庫から出したアップルジュースをそれらに注いだ。

「はい」と愛香が省吾の前にグラスを差し出して、愛香も腰を落ち着かせた。

 省吾はそれを二口飲んでグラスを置いたが、愛香は俯いたり窓の外を眺めたりして省吾と視線を交わそうとはしなかった。

 省吾も、何だか気まずさを覚えて彼女の目を見れない。

 それから二人は黙ったまま、時間だけが勝手に流れてゆく。

 外の庭木から小鳥のさえずりが聞こえて、省吾は思わずそれに耳を傾けたりするが、こうしていても仕方がないと腹を括る。

「おまえ、手術するって……」

 沈黙の中、省吾は言葉を発した。

「うん……」

 愛香は省吾を見て、やけにサバサバ答えると僅かに微笑んだ。

 瞳がキラキラと輝いているのは潤んでいるのだと彼にも判った。視線を合わせようとしなかったのは、その瞳の奥を見られたくなかったのだろうか。

 省吾は少し彼女と視線を交わしただけで、直視する事が出来ない。

「何の……手術を?」

「何だと思う?」

 愛香はわざと大きな笑みを浮かべると、アゴをツンと突き出しておどけて見せる。

「そんなの判るわけないだろ」

 それを見て、省吾は少し苛立ちを感じた。

どうしてそんなに意地をはって笑顔を見せるのか……その裏側をどうして見せてはくれないのか……

 省吾は震えるような気持ちを隠せなかった。

 すると、愛香は着ていたワンピースの上から下着のホックを外すと、もぞもぞとブラを外してワンピースから抜き取った。

 淡いライラックのそれは、カーペットにパサリと落ちる。

「な、何してんだよお前」

 省吾は反射的に、後ろにたじろぐ。愛香の考えている事が読めないからだ。

 そして、愛香は膝立ちになると、ローテーブルを迂回して省吾に近づいた。

 省吾はどうしていいのか判らずにとりあえず後ずさりするが、暫く後ろへ下がると背中がベッドの縁に当った。

 大きな窓にかかる真っ白なレースのカーテンを抜けた陽差が、少し眩しく感じた。

「触ってみて」

 愛香は膝たちのまま省吾に近づくと、胸を突き出すでもなく直立したまま彼にそう言った。

 しかし省吾には、彼女が何処を触れと言っているのかは理解できた。

「でも……」

「いいから触って」

 愛香の真剣な表情に、彼女が冗談でこんな事をしているのでは無いと悟った省吾は、反射的に利き腕ではない右手を彼女の身体に伸ばす。

 何故か利き手を出す事に躊躇した。

「違う、逆」

「逆?」

「右を触って」

 愛香に言われて、省吾は彼女の右胸を触るために結局左手を差し出す。別に、右手のままでも触れるのだが、向かい合った状態ではそれが自然な行為だろう。

 後に着いた右手と寄りかかるベッドに自然と体重が乗って、気持ちは後ずさりを続けていた。

 澪よりは明らかにふくよかな彼女の胸を真直にして、差し出した手を寸前で止める。

 省吾は胸にあった視線を愛香の顔に向けた。彼女が何をしようとしているのか判らなかったから、何とかそれを読み取ろうとしたのだ。

 セックスを強請ねだっているようでもない。

 その時、愛香は省吾の左手を掴んで自分の胸に押し当てた。

 ワンピの生地越しに明らかな彼女の肌の感触と柔らかい胸の造形の細部が、そして暖かな体温が伝わった。

「もっとちゃんと触って」

「いや、一応触ってるけど……」

 省吾は思わず苦笑して見せた。あまりにも愛香の胸の感触がリアルで、何も考えられなかった。

 愛香はワンピースの裾を空いていた方の手で大きく捲り上げると、掴んだままの省吾の手をその中に素早く入れて直接胸に押し当てた。

「なっ、お前……」

「ちゃんと触って」

 再び愛香は真剣な表情で言った。その瞳からは、今にもガラス玉のような雫が零れ落ちそうだった。省吾は困惑するばかりだ。

「そんな事言ってもさ」

 彼女の胸は熱かった。しかし、愛香の胸の温度を直に感じながら、省吾は微かな違和感に気づく。

「お前……これ……て?」

 省吾はそれ以上言葉が出なかった。乳首の下に微かなシコリを感じたからだ。

 ほんの小さなものだろう。しかし、確かに何かが皮膚下に在る。

 彼は真剣な顔つきで、それを親指の腹で撫で回すと

「痛いのか? これ」

 愛香は小さく首を横に振った。

「これってさ……」

 省吾はその後の言葉が言えなかった。

「乳癌だって」

「に、乳癌? そんな……」

 自分の指先に感触があるにも関わらず、半分は愛香の言葉が冗談だと思った。いや、彼はそうであって欲しいと思ったのだ。

「知ってる? 今、二十五人程度に一人の女性は乳癌になる確率なのよ」

「そんなに?」

 省吾はやけに口の中が渇いているような気がした。

「でも、そんなの……周りでなった人いないぜ」

「だから、統計的確率よ」

「確率……?」

「そう、だからあたしがなっても別に不思議じゃないのよ」

 愛香は、穏やかな口調で言った。

 省吾は眉を潜めると「直るのか?」

「大丈夫みたい。早期発見ってやつかな……」

 愛香は小さく微笑んで「でも、この胸はなくなると思う」

 省吾が引き抜こうとした左手を、彼女は両手で包み込むようにしてその胸に抱いた。

「無くなる前に触って欲しいじゃん……」

 大粒の雫がその上に零れ落ちる。

 小さく震える生地に染み渡るその雫は、憂愁のパトスとなって省吾の手に届いた。





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