【37】訪問
月曜日の朝、一度学校へ来た愛香だったが、授業は受けずに早退していった。
省吾は得体の知れない不安を抱えたまま、廊下で見た彼女の後姿を黙って見送る。
クラスの中には、愛香が妊娠したのではないかと囁く者もいたが、省吾にはとても信じられなかった。
もちろんそれがありえる経験を彼女自身がしていないとも思えないが、そんなヘマをするようには思えないのだ。
そう言った情報はクラスの中では親しい陽子や美紀にも半ば謎だそうで、愛香自身は雑談の中でも決定的な発言はしないのだと言う。
もちろん、陽子も美紀も愛香が今更処女だとは思っていないだろう。
昼休みに、省吾の携帯が引っ切り無しにバイブレーションした。
相手先は非通知。非通知からこれだけコールが何度も掛かるなんてそうそう無い事だ。1分以上コールし続けるのが三回。省吾は四回目にかかった電話をトイレの中で受けた。
「ああ、やっと繋がったわ」
何となく聞き覚えのある声。いや、声よりもその関西弁だ。
「ま、真琴?」
「いやぁ、覚えててくれたん?」
関西弁の知り合いなんて、他にはいない……
「もう大変だったで。あんたの番号調べて家に電話してな」
「家に電話したのか?」
「そうや。いいやんか別に。若い声のお母さんやな。そんであんたの携帯番号教えてもらってな……」
「いや、そんな事より何? 学校は携帯で話すのは禁止なんだよ」
今日は、母親は休みだと言って朝から買い物に行ったみたいだが直ぐに帰ってきたのだろうと一瞬思った省吾だったが、今はそんな事はどうでもいいのだ。
トイレで携帯を使うのも、メールならまだしも直接話すのは限界がある。
「そうは思ったんやけどな、ちょっと愛香の事でさ」
「愛香?」
省吾は電話を強く握りなおして
「愛香は、どうしたんだ? 何で今日は直ぐに帰ったんだ? お前、何か知ってるのか?」
矢継ぎ早に問いかけの言葉を繰り出す。
「ああ、やっぱり今日も授業は受けんかったんや。明日から入院やで」
「入院って? どうして」
「それは、彼女が話す気になったら直接訊くとええよ。あたしから言うのは失礼やしな」
「妊娠……なのか?」
省吾は躊躇いながら言った。
人に言えない入院の理由といえば、真っ先に思いつくのはやはりそれだ。
「そうならよかったのにな……」
彼女の明るい声が一瞬くぐもった。
「なら何だ?」
省吾は苛立った。
「だから、それは本人に訊くしかないて。あたしにはここまでしかやってあげられへん。たぶん愛香は手術の前にあんたに会いたいはずや」
「手術? 愛香、手術するのか?」
「あとは、あんたが自分の判断で行動しいや。ほなな」
真琴は省吾の質問に応えないまま、電話を切った。
……愛香は病気なのか? でも何の? どうして手術をするんだ?
疑問だけが省吾の頭を埋め尽くす。
彼はトイレを出ると、足早に教室へ戻って鞄を掴んだ。
「おい、ショウ、バックレか?」
裕也がそれを見て声をかける。
「ああ、腹痛くなったって言っといてくれ」
省吾は途中で駆け足になって駅へ向い、来た電車に飛び乗ると愛香の家に向かった。
駅を降りて改札を抜けると、省吾は再び小走りになって彼女の家を目指す。商店街の真ん中辺りで路地を入って住宅街を抜ける。
主婦の乗った買い物途中の自転車に危うくぶつかりそうになるが、向こうは素知らぬ顔で行ってしまう事に一瞬唖然として立ち止まり、再び小走りになる。
住宅街に入って路地を曲がると愛香の家が在る。深く息をひとつつくと、省吾は白い門扉の支柱にあるインターホンのボタンを押した。
間を置くと臆する気持ちが膨らんで、行動できなくなるような気がしたのだ。
機械の中で奏でるチャイムの音が、遠く小さく聞こえる。
「はい」
微かなノイズの後に聞こえた初めて聞く声は、愛香の母親のものだろうか。
「あの……愛香さんのクラスの者で北原と言いますが、愛香さんはいますか」
緊張する中で、省吾は出来るだけ丁寧な言葉を選んで発する。
「あ……ちょ、ちょっとお待ち下さい」
インターホンの向こう側で微かに慌てる素振りが覗えた。数分、いや一分ほどだったかもしれないが、門柱の前で佇む時間はやけに長く感じた。
インターホンがプツッと音を立て
「あの、どうぞ中へ」
その言葉を聞いて、省吾はゆっくりと門扉を開いて玄関のドアまで歩いた。
ちょうど測ったように、彼が玄関の前に立つとドアが内側からゆっくりと開いて髪の長い女性が顔を覗かせる。
「ど、どうも……こんにちは」
省吾がギクシャクと小さく頭を下げると、彼女は笑顔になって
「あ、いいえ。始めまして愛香の母です」
細っそりとして少し背の高い黒髪の姿は、派手さは微塵も感じない。
彼女は省吾を促すと
「さ、上がってください」
「あ、いえ、ここで。愛香さんは?」
その時愛香が階段を下りて来て、廊下に顔を見せた。
二人は無言で見つめ合うが、省吾も愛香も最初の言葉が出なかった。
「よお」たまらず省吾が声をだして、軽く左手を上げる。
「うん……」
愛香も肘の所まで小さく手を上げた。