【35】返らないメール
午後の陽差は教室中をうつろいだ風景へと変えていた。
省吾は、机の上にとりあえず開いた教科書に自分のヨダレが落ちるのを感じて目を開けた。
六時間目、ふと顔を起すと珍しく愛香が机に突っ伏している。
省吾は何となく心配に思ったが、彼女も寝不足なのかと思い、とにかく声はかけずにそっとしておいた。
授業は物理の大柴だから、何も言わずにひたすら一人で授業を進めている。
ざっと教室を見渡しても、十人は机に突っ伏しているか頬杖をついて居眠りをしている。
「神崎は珍しくお疲れだな」
省吾の斜め前、つまり愛香の左隣の席に位置する山本が声を潜めて言った。
隣といっても全ての机は接していないので、山本の机も愛香からは人一人分離れてはいる。
「それともアレか?」
山本は続けて言った。
「違うよ。何だかだるいんだよ」
愛香は顔を伏せたまま首を回すと、山本の方に向って小さく声を出した。
どうやら彼女は眠っていたわけではないようだが、その気だるい仕草は何時もの彼女らしくないのは確かだった。
帰りのホームルームでも、愛香はほとんど顔を上げない。
チャイムが鳴って、掃除の当番でないものは次々に席を立って教室を出てゆく。
「愛香、大丈夫?」
陽子が寄って来て、虚ろ気な彼女に声をかける。
「うん……もう帰る……」
愛香はそう言って顔を上げると、大きく髪の毛をかき上げた。
「おい、大丈夫なのか?」
省吾の声に振り返った愛香の顔は、妙に白っぽくて弱々しい笑みだけが彼を見据えていた。
「あ……まだいたんだ」
「いや、今ホームルーム終わったばっかりだから。そんなマッハで帰らねえよ」
省吾は思わず陽子を見上げて
「大丈夫か。保健室に寄ってった方がいいんじゃないか?」
「愛香、保健室寄ってく?」
陽子も彼女にそれを勧めた。
「うん、いいや。帰って寝る」
鞄を掴んで立ち上がる彼女の姿は、何処か力なくて省吾は思わずふらつく彼女に手を差し出した。
「大丈夫か?」
「なんだ愛香、体調悪いのか?」
裕也が近づいて来た。グッスリと居眠りしていた彼は、今目覚めたらしい。
陽子は駅からバスなので、省吾と裕也が一緒に帰る事にした。もちろん、駅までは陽子も一緒だが。
「愛香具合悪いの?」
安倍川美紀が声をかけてくる。
彼女は掃除当番の割り当てなので、一緒に帰る事は出来ない。
「メールするね」
「うん」
美紀の声に、愛香は小さく返事を返した。
省吾は途中で澪にメールを入れる。
愛香に付いて行くからとは書き込まなかったが、急用で先に帰ると伝えた。彼女からはOKの返事が直ぐに届いた。
「なんだよ、じゃあ焼肉は明日だな」
駅のホームで思い出したように裕也が言った。
「そうだな。ていうか、愛香がよくなってからでいいだろ」
「それまで俺の懐に金があればな」
二人の会話に、愛香は弱々しく笑った。
電車に乗り込んで直ぐ
「澪ちゃん待っててもよかったのに」
愛香は言った。
「別にいいさ。何時でも会えるし」
省吾と裕也は愛香と一緒に駅を降りて、とりあえず彼女の家まで付き添って歩いた。閑静な住宅街に入ると、愛香の家は周囲の民家を嘲笑うかのように大きな白い外壁を堂々と見せ付けていた。
周囲の民家も、比較的大柄な建物が多いが、愛香の家は完全にそれらを上回っている。
「デカイ家だな」
裕也が門扉の前で見上げた。
省吾は澪の家で免疫がついたのか、さほど驚きはしないが、とりあえず想像していた通り、洋風造りの瀟洒な建物だった。
「明日休む時はメールしろよ。学校に伝えてやるから」
「うん。ありがとう」
愛香が玄関ドアを入るのを確認してから、省吾は裕也を促して駅へ戻った。
「大丈夫か、アイツ」
「大丈夫だろ。風邪じゃねえの」
心配する省吾に対して、裕也は楽観的だった。
西日が眩しく二人を照らし出して、長い影がアスファルトに伸びていた。
次の日は、やはり愛香は学校を休んだ。
直接担任に連絡がいったらしく、省吾も裕也も彼女からは何の連絡も無かった。
何となく心配になった省吾は、昼休みに愛香宛のメールを送るが、返信は無かった。