【34】優しさのあり方
その日の夕方は久しぶりに新宿まで出て、省吾は澪と一緒に映画を見に行った。
帰りはファーストフードでお茶をして、ブラブラと駅へ向う。
陽は完全に暮れて、行き交う人の波が街の明かりに照らされていた。
その時省吾の目に前に、以前一度だけ見た女性の姿が目に留まる。スーツを着た茶髪の優男と腕を組んで楽しげに歩くその女性は、間違いなく裕也の彼女だ。
……どういう事だ? 一緒にいるあの男は誰だ。
「澪、ちょっとここで待っててくれ」
省吾は駅の出口付近に澪を待たせて、裕也の彼女、友恵を追った。
スーツの男とべたべたと寄り添う友恵が、その男とどういう関係なのかは察しがついたが、省吾は信じたくは無かった。
「あれ、どうした。高校生の下僕を作ったって言ってたろ」
「うん、まあまあ頑張ってるよ」
「いいのか、高校生は感受性が強いぞ」
「あたしだって変わんないよ。だってしょうがないじゃん」
友恵は男の肩に顎を乗せるようにして
「でも、たかが知れた金額だもん。楽しんだ代金だと思えばいいでしょ」
「どうせ、そいつがダメでも、他に何人も同じ事させてるんだろ」
「あたしは別に強要してないもん」
「そんな事じゃあ、結婚できないぜ」
「今が楽しければいいよ」
そんな話し声が聞こえてくる。
省吾は二人に駆け寄っていた。自分で自分を抑える事は出来なかった。
友恵の肩を後から徐に掴んで振り向かせる。
左手の拳を思わず振りかぶっていた。
友恵も一緒に振り返った男も何事が起こったのか判らずに、ただ驚いて後に身を仰け反らせたが、省吾に掴まれた友恵は上手く動けなかった。
二人はこの界隈の賊にでも襲われたと思ったのかもしれない。
省吾は振りかざした左手に力を込めたが、ひとつ息を飲むと、震えるそれをダラリと力無く下におろした。
「な、何よあんた。警察呼ぶわよ」
友恵は省吾を覚えていないようだった。強気で彼を睨む。
「呼べるもんなら呼んでみろ。お前、ふざけんな」
「何よいきなり、頭おかしいんじゃないの?」
「こんど裕也に近づいてみろ。拉致って荒川に放り投げるぞ!」
省吾は彼女の肩を掴んだ右手を力任せに激しく揺すって、大きく怒鳴った。久しぶりに出した自分の大声に、自分の身体が震えた。
裕也の名前を聞いて、友恵の顔色が変わった。
「な、なんだ。お前」
スーツの男が、友恵の肩を掴んでいる省吾の右腕に触れた。
反射的に怒りの矛先は、あまりにも自然にそちらへ飛ぶ。
男は省吾が左利きだとは知らずに右手を制するつもりだったのかもしれない。彼の手首を強く掴んだのだ。
「手を離せよ、このガキ」
しかし、省吾の利き腕は反射的に男の顔面を捉えた。
ゴキッと鈍い音がした。鼻が潰れたかもしれない。
「うっ」と、だらしなく呻いて、男は大げさとも思える感じで歩道に転げる。
その光景を見た友恵は、初めて身体を震わせた。
「判ったのか? もう裕也には近づくな。絶対だぞ!」
省吾は再び彼女の肩を大きく揺すった「判ったのか!」
薄でのカーデガンの衿がビリッと音を立てる。
「は、はい」
友恵の震える唇が微かに動いた。
「電話もするなよ。もしアイツに近づいたら、いくらでも仲間集めるからな。警察に言わない代わりに東京で暮らせないようにしてやるぞ」
ハッタリだ。集まる数なんてたかが知れているし、女を拉致る度胸なんて在るわけが無い。本当にやるとしたら……裕也くらいだと省吾は思った。
スーツの優男は、いいかげん立ち上がれるはずなのに起きて来ない。ひっくり返ったまま事が終わるのをこっそりと待っているのだろう。
怒りの収まらない省吾は再び左手の拳を振り上げる。が、殴るつもりはない。
友恵は肩をすくませて一瞬目を強く瞑った。
ふと周囲の通行人の目が自分に、しかもかなりの数が注がれている事に省吾は気づいて友恵の身体から乱暴に手を離す。
直ぐ横に在った東京電力の制御ボックスを思い切り蹴飛した。
友恵は再びビクリと身をすくませて、涙を零してしゃくり上げる。
「くそっ。女は得だぜ」
省吾はそう言って踵を返し、澪の待つ場所へ足早に戻った。
* * *
翌日の昼休み、裕也は学校へ来ると落ち込んだ様子で席に着いた。
「よう、昨日もバイト頑張ってたのか」
省吾が近づいて話しかけた。
「ああ、でももういいみたいだ」
「なんだよ。何かあったのか」
省吾はもちろん、昨晩の事は言わないつもりだ。
「昨日の夜遅くに友恵のアパートに行ったらいなくてさ、携帯にかけたらもう会いたくないって言われたんだよ」
「なんだよ、また振られたのか?」
「訳わかんねぇよ。今日また電話してみたら、携帯解約されたらしい」
裕也は困惑した顔で、虚ろに窓の外を見上げた。
「ま、いいじゃねえか。金も必要なくなったんだろ。結局女ってのは解んねえんだよ」
省吾はわざと残念そうに彼の肩を叩いた。
裕也はふうっと息を着くと
「今日、焼肉でも行くか?」
「ああ、オゴリか?」
「澪ちゃん呼ぶか。彼女には俺がおごってやるよ」
省吾は肩をすくめる素振りを見せて、一緒に窓の外を眺めた。
青い空には、薄っすらとウロコ雲が高く連なっていた。