【31】地下室
日曜日、省吾は再び江古田の駅で降りて澪の家に向う。今度はちゃんと門扉を開けて彼女の家に入った。
みんな出かけてるし、勉強するといっても一日中するわけではないのでよかったら来ないかと、澪の方から誘って来たのだ。
玄関を入ると、毛むくじゃらの黒い物体が床を飛び跳ねるように足を滑らせながら走って来た。
澪の言っていたミニチュアダックスのヨッシーだ。
胴長のわりに足が短い為、身体の長い毛が床に着いてまるでモップのようだ。
省吾に対してもやたらシッポを振って、鼻面をひょいひょいと動かすので、何だか愛着が湧く。
「ずいぶん人懐っこいんだね」
「ヨッシーは座敷で飼っている割には、人見知りしないのよ」
澪はそう言って笑うと
「きっと泥棒が入ってもシッポを振ってるかも」
初対面の自分にこれだけシッポを振るのだから、ありえるだろうと省吾も笑って見せた。
澪の部屋で話をして、自分の教科書を広げる。
ついでだから試験勉強も少ししようと澪が言ったので、とりあえず持って来たのだ。
まあ、遅れを取り戻すにもいいかもしれないと、省吾もリーダーの教科書とノートは持って来た。
澪はとりあえず教科書を眺めると
「これ今やってるの?」
「あ、ああ。そうだけど。なんで?」
「う、ううん。ウチでは二年の時に使ったページがあるから」
そこまで授業に差があると思っていなかった省吾は、言葉が出なかった。
「じゃ、じゃあさ、これ訳が解んないんだけど書いてくれよ」
省吾は授業で聞いていなかった部分やノートを書かなかった部分を澪に訳させて、それを何度も復唱した。
一時間もしないうちに省吾は段々飽きてくる。まだ丸暗記できたのは3分の1ほども無い。
澪は省吾のノートに挟んであった英語の小テストの問題を見つけて、面白そうに眺めている。基本的に勉強の好きな彼女は、問題用紙などを眺めるのが好きなのだ。
「な、なあ」
二人はソファに寄りかかって床に直に座っていた。そして省吾は澪の腕を掴む。
澪は彼の行動の意味を察して
「ほら、まだぜんぜん覚えてないでしょ」
「大丈夫だよ。後は家で一夜漬けするから」
そう言って澪をラグの敷かれた床に押し倒す。
彼女も別に嫌な訳では無いので嫌悪は感じないが
「ダメよ。昨日治療したばっかりだから……激しい事はダメなのよ」
「そっとするから」
「ダメよ、息が荒くなっちゃうでしょ。心拍も上がるし」
「それは澪が感じ……」
澪は省吾の頬っぺたを両手で摘んで横に引っ張った。
「あいたたた……」
省吾は彼女の細い指で頬っぺたを引っ張られたまま発する言葉を変えた。
澪はそのまま素早く彼の唇に自分の口を着けると、フレンチなキスをして
「今日はこれだけ」
そう言って目を細めて微笑む。
省吾は、彼女が別に嫌がっているわけではないのだと思うと、無理に迫る事を止めた。病気の治療があったのだから仕方がない。
……て事は、これからも日曜日はダメなのか……
省吾はそう思いながら、テーブルの上に置かれたアイスティーのグラスを手にした。
暫くたった頃、省吾はトイレに行くといって部屋をでた。二階の突き当たりに在るといわれ、一階と二階にトイレが在る事を知る。
トイレの帰りに何かの気配を感じて階段の下を覗くと、ヨッシーがいた。
下から見上げる彼に、省吾は思わず階段を下りて触りに行く。
省吾が階段を下りてゆくと、犬は喜んで廊下をぐるぐると小さく回ったりして、彼に着いては離れを繰り返す。廊下の床が滑るらしく、時折転びそうになるのが見ていて愉快だった。
その時、省吾はふと階段の直ぐ横にあるドアに目が行った。澪が地下室と言っていた、真上を階段が通っているドアだ。
……地下室ってどんなだろう。ちゃんと部屋のようになっているのか、それとも物置みたいなものなのか? ワインセラーが並んでいたりするのだろうか?
彼は不意に異常な興味に駆られて、気づいた時にはドアのノブを左手で掴んでいた。
澪の家とは言え、赤の他人の家だ。勝手にドアを開けていいわけが無い事は省吾も十分に判っている。しかし、妙な好奇心は消えなかった。
……誰かの寝室ならともかく、地下室だ。ちょっと見るくらいどうと言う事はないだろう。
省吾は掴んだ左手に力を入れた。が、その時
「やあ、キミがいたのか」
声がして、省吾は慌ててドアノブから手を離すと、振り返ってヨッシーに向って屈んだ。彼と遊んでいるふりをしたのだ。
それから声のした方を見る。
「ヨッシーが一人で走り回ってるのかと思ったよ」
澪の兄である渉が廊下の奥で笑顔を覗かせていた。おそらく位置関係や雰囲気からダイニングだろうと思った。
「あ、今日は……」
省吾はとっさに笑みを返す。
ヨッシーは渉に呼ばれると、ツルツルの廊下を少し滑りながら駆けて行った。
「ケージに入っていたはずなのに、勝手に出たんだな」
犬を抱き上げながらそう言って、渉が省吾に近づいて来た。
「あ、すいません。勝手に。トイレに来たら犬がいたもので」
「いや、遠慮はいらないよ。澪は上?」
「あ、はい。じゃあ俺戻ります」
省吾は片言を交わして、階段を上がった。
渉は彼の影が見えなくなるまで、階段の上を見つめていた。