【30】夢
【第30話】は澪の一人称でお送りいたします。
私は時々夢を観ます。
それは限りなく鮮明なわけでもなく、朧気でも無い、きわめて曖昧でしかもリアルな夢なのです。
何時からそんな夢を見るようになったのか……きっとあの頃からに違いない。
海で溺れたのが始まり……いえ、私にはこの方法でしか今を生きれないのです。
何度も死んで、何度も蘇える。
あの幻想的な死の淵に佇むと、見えてはいけないものが見えるのかもしれません。
眩しい太陽か謎めくオーロラの光か、いえ、もしかしたあの秘密めいた大きな月の輝きが、私の中の何かを呼び起こさせるのかもしれません。
白い靄の中で電車に揺られていた私は、学校の友人と話し込んでいました。
しかし、気がつくと隣には誰もいません。
友達だけじゃない……下校時間のはずだというのに、電車の中は閑散として靄の中で吊革がゆらゆらと静かな振動に揺れていました。他には誰の姿も見えません。
私は急に景色が歪むのを感じました。
電車内の靄は急激に濃度を増して私を包み込みました。
目の前は真っ白になって、自分の立ち位置を見失った私は、平衡感覚までも失って倒れました。
バタンッと大きな音が聞こえました。
それは、私が床に倒れた音です。
意識が遠のいてゆく中で、誰かの気配を感じました。
靄に包まれて姿はよく見えません。
少し大きな温かい手が、私の身体に触れました。
「大丈夫?」
優しい声……その記憶はあっても、声自体は覚えていません。
浮遊感を感じて、私は移動していました。
誰かが私の身体を持ち上げて抱きかかかえているのは解りましたが、やはり靄が濃くて腕の辺りが僅かに見えるだけでした。
私は自分が目を開けているのか瞑っているのか解りません。
さっき意識が遠のいたのだから、気絶しているのでしょうか……
それとも、とっくに目が覚めて、抱きかかかえる誰かを見つめているのでしょうか。
自分の身体の陰になって見えないはずの、誰かの腕時計が見えました。
男物の時計を右手首にかけているのが見えて、私を抱える誰かは男の人なのだと解りました。
どうして、最初の声で気付かなかったのでしょう……
事務室のような、スチール用品を沢山置いた独特の匂いを感じて目を静かに開けると、人の気配が数人感じられました。
でも、そこが何処なのか私には解りません。
少しだけ視線を動かすと、彼の身体が胸から下だけ見えました。
靄は晴れているのに、なぜかソフトフィルターでもかけたように霞んで、彼の右手の時計だけがハッキリと見えました。
何故か、周りの景色は灰色で、何も見えません。
彼の話し声が聞こえました。
確かに私を抱き上げた彼の声だと判るのに、その声の記憶がありません。
再び目を閉じた私は、カーテン越しに陽の光を感じて夢から目覚めるのです。
私には北原省吾という彼がいます。
彼と初めてのキスをした夜、私は再び夢を見ました。
灰色の空の下で、誰かがショウくんを追いかけていました。
背景もショウくんも白黒なのに、彼を追いかける誰かの髪の毛だけはダージリンティーのような綺麗な色を靡かせていました。
女性だと言う事がわかります。
ショウくんは歩いているだけなのに、走っている彼女は彼に追いつく事はできません。
灰色の景色には、木が生い茂っていました。
よく見ると、足元はドライアイスを敷いたように煙ってよくみえません。
それに、ショウくんを追いかける彼女の顔が何故か見えないのです。
ショウくんの顔は見えて、彼女の顔もこちらを向いているのに、目鼻がみえません。
本当にこんな人がいたら怖いはずなのに、私は平然と彼女を見つめていました。
「ショウ!」
彼女はショウくんをそう呼びました。
親しい誰かなのでしょうか。どうしてショウくんを追いかけるのか、その時の私には解りませんでした。
ショウくんはちょっとだけ後ろを振り向いて、再び歩き出します。
私が一番気になったのは、彼女はショウくんに追いつけないかわりに、決して離れない事でした。
一生懸命追いかける彼女とショウくんの距離は一定でした。
紅茶色の綺麗な長い髪が、頬に纏わり着きながら後にはためいていました。
その時ショウくんは私に気づいて
「よう、元気なのか?」
そう言いました。
後にいた彼女の姿は、消えていました。
白黒の木が生い茂る灰色の木洩れ日の中で、私がショウくんと手を繋いだ時、目覚ましの音が聞こえました。
私は時々夢を見ます。
鮮明ではないけれど、朧気でもない……そして、夢の中の誰かとは、後に必ず出会うのです。
死の淵をさ迷う自分には、それまで見えなかったものが見えるのです。