【2】人助け
放課後、省吾は裕也に付き合って池袋まで足を伸ばさなければならない。何となく気乗りしない彼の足取りは重かった。
「なんだよショウ。二人共まあまあ可愛かったろ」
「そうだけど……」
別に女の子と遊びたくないわけじゃない。
ただ何となく、電車に乗って自分の家を通り越してまで、そう親しくも無い娘に会いに行くのが面倒なのだ。
ホームに入って来た電車に乗り込む省吾の足が、途中で止まった。
車内に彼女がいる。毎朝会うお下げのあの娘だ。
彼女の視線が一瞬省吾を捉えた。
そのコンマ何秒かの中で、彼は彼女に笑いかけるか迷い、彼女の視線の意味を探った。
しかし、再び彼女の視線は窓の外に向けられて、省吾と裕也は反対側のドアの前に立つ。
帰りはほとんど彼女を見かける事は無く、久しぶりに一緒の電車に乗り合わせた。
「なんだよ、どうした? ショウ」
落ち着かない省吾を裕也が察した。
「あ? ああ、なんでもない」
省吾はそう言って、彼女を視界に捕らえておく為に立ち位置をさり気なく変えた。
……ちょうどいい、これで彼女の降りる駅が判るってもんだ。
「でもって、この前一樹がよ……」
省吾は止め処ない裕也の話に、適度に笑って適当に相づちを打つ。視界の隅で捕らえた彼女が気になった。
降りる駅を見逃してなるものかと、半ば必死だった。
左側に立っているという事は、おそらく上り電車で左に降りる駅なのだろうと察しはつく。
午後の上り電車というのもたいして混んではいないが、各駅で降りる学生と同じ分量の学生が再び乗り込んで来るので、車内の人的密度は何時まで立っても変わらない。
やたら大声で喋る女子高生が乗り込んで来たかと思うと、次の駅で降りていった。
練馬を過ぎた所で、省吾は多少の不安を感じた。
……彼女はこのまま池袋まで行くのでは……同じ沿線に住んでいないかもしれないと思うと、彼女の姿がやけに遠くに感じる。
江古田の駅に電車が着いた時、彼女の体が動いた。
停車の振動に身体が振られたわけではない。足を半歩踏み出したのを省吾は確かに捕らえていた。
しかしその瞬間、ふっと彼女の身体は不安定に揺らいで、そのまま崩れ落ちた。
「あっ」
何も気付いていない裕也を横目に省吾は思わず彼女に駆け寄った。
「おい、ショウ。なんだ?」
裕也は突然慌てて動き出した省吾の姿を目で追う。
周囲にも人はいたが、一瞬何が起こったのか判らずただ呆然と見ている人がほとんどで、振り返ってその状況を見た裕也もまた、その中の一人だったのだ。
「お、おい。大丈夫か?」
抱き起こす省吾の腕をたどたどしく、何かにすがりつくように彼女は力なく掴んだ。抱えた肩が思いの外細くて、力を入れたら壊れてしまいそうに思えた。
彼女は目を強く閉じて何かを堪えている感じだ。
貧血だろうか……こんな感じで倒れた女子の姿を、以前学校で見た事がある。
「とにかく一端降りよう」
発車合図のメロディーを聞いた省吾は、足腰に力を入れると思い切って彼女を両手で抱き上げて江古田のホームへ降りた。
「すみません、女の子が倒れたんですけど」
一緒に降りた裕也が、近くにいた駅員に駆け寄り声をかける。
足取りに揺れる彼女の顔を省吾がチラリと見た時、微かに開いた睫毛の奥で潤んだ瞳が一瞬見えたが、それは何かを捉える間も無く再び閉じる睫毛の中に消えた。
苦しそうな吐息が、僅かに聞こえる。
とりあえず駅員室へ運んで、長椅子に彼女を横たわらせた。
「救急車呼んだ方がいいのかな?」
「意識はあるみたいだよな」
若い駅員が不安げに小声でそんな話をしている。
「おい、お前知ってる娘なのか?」
裕也は省吾の行動を不審に思って彼の身体をつついた。真っ先に彼女に駆け寄って、躊躇することなく抱き上げたからだ。
「いや、ああ……見た事はある。朝の電車でよく会うんだ」
「何処に住んでるんだ?」
「そこまでは知らない」
「なんだよ。役にたたないなぁ」
「だから、朝に電車で会うだけで、話した事は無いんだよ」
省吾と裕也は、どうしたものかと息をついて、長椅子に横たわる彼女を見下ろした。
とりあえず濡れタオルを額に乗せたのは、最初に声をかけた若い駅員だ。
「あれ、彼女。また倒れちゃったの?」
後から年配の駅員が現れた。真っ黒な太い眉毛とぎょろりとした大きな目が印象的で、太っているほどではないが、何故か制服の腹の部分が異常に張り出てボタンがキツそうだ。
「加治木さん、この娘知ってるんですか?」
若い駅員が訊く。
「ああ。彼女、南澤病院の娘だよ。前にも何度か倒れた事があるんだ」
「そんなにしょっちゅう倒れるんですか?」
省吾は思わず口を挟んだ。
「いや、そんなに頻繁ではないが……ん? キミらは?」
省吾と裕也の二人を見た加治木が、怪訝な笑みを浮かべて太い眉を動かした。
「あっ、彼らがこの娘を運ぶのを手伝ってくれたんです」
若い駅員が言った。
本当は運んだのは省吾で、それを手伝ったのが、若い駅員なのだが……
「病院は、近いんですか?」省吾が続けて訊く。
「ああ、住宅街を抜けた大通り沿いだし、自宅はこの先の住宅街にある。とにかく連絡しよう」
加治木は電話を手に取ると、とりあえず南澤病院へ電話をした。
省吾と裕也はその様子を見ながら、初めて入った駅員室を見回す。
事務机が並び、壁際の戸棚にはビッシリとファイルが入っている。時間に厳格な職場のせいか、あちこちに時計が置いてあった。
「彼女は知り合いかい?」
電話を切った加治木が省吾に訊いた。
「あ、いえ。電車でたまに見かける程度でよくは」
省吾は曖昧にぼかして答えた。何時も見ている娘だとは言えない。彼女の事は何も知らないのだ。
「じゃあ、後は我々が責任をもってご両親に引き渡すから、キミらは帰っていいよ。ご苦労さんだったね。協力を感謝しますよ」
加治木は目じりにシワをよせると大きな目を細めて笑顔を振り撒いた。
「彼女、何か病気なんですか?」
省吾は駅員室を出る間際に振り返って、加治木に訊いた。
「私もよくは判らないんだ。とりあえず今の状態は命に別状はないらしい。直ぐにお兄さんが迎えに来るそうだ」
省吾はなんだか後ろ髪を引かれる思いで駅員室を出ると、名残惜しそうにドアの窓から奥で横たわる少女を見たが、裕也に促されてゆっくりとホームへ戻った。
「ヤバイ、約束の時間過ぎてるぞ」
裕也がホームの時計に目をやって呟いた。
二人はさっきバイブレーションしていた携帯を取り出して、ほぼ同時に開く。
『他に遊ぶ奴見つけたから。Bye』
素っ気無いメールが二人の携帯に入っていた。