【28】土曜の朝
水面に映る蒼い空とそこに浮かぶ白い雲。水際から枝を伸ばして緑の葉を茂らせる樹木は、いったい何の木なのか。
小波が揺らす空は何処までも青く澄んで、まるで湖に広がるそこが本当の虚空のようだ。
揺れる雲が動いて消えると、再び違う雲が姿を現す。
二つの虚空を分けるように間に広がる黄緑色の世界は、眩い光に照らされて魂を喰らい、それを葉緑素に変えているのかもしれない。
満天の星空の舞う漆黒の世界が、時には樹海に浮かぶ二つの空に変わる。そして、紅い黄昏に染まる太陽と月が共存する幻想の世界。
そのどれもが、自分の鼓動さえ聞こえない静寂の中にある。
バンッ、と音を立てて景色が震えると、突然風の音が聞こえる。
それが、自分の発するブレスの音だと判ると途端に激しい喧騒に包まれる。
鼓膜の奥から響く激しい脈動は、蘇えった鼓動の波に煽られて全身に温度を分け与える。
凍えた魂は再び息吹を起こして、1分20秒間の生と死の小さな隙間に囚われた時間は終わりを告げる。
次の日の土曜日、省吾は朝の早い時間に澪の家の近くにいた。
……澪はいったいどんな治療をしているんだ。
自分の家の病院へ通うのだろうか。
省吾はそれを確かめたいとか、そんな確固たる思いがあったわけではないのだが、家にじっとしていられずここまで来てしまった。
彼女に会いたい思いはあるが、押しかけてまで会うつもりも無い。今まで土曜日は会えないのが当たり前で、それは澪と知り合って早い時期に知った事だし、自分の無理な要望が通るレベルの話で無い事も知っている。
しかし、昨日の行為が澪をより身近に感じさせて、もっと近くにいたいと思わせたのは確かだ。
朝の風景に見る大きな建物はまた違った雰囲気で、周囲の家並みに比べてもそのデカさは一目瞭然だった。
省吾は百メートルほど離れた通りの路地に佇んで彼女の家を眺めていた。
今それ以上近寄る事は、裸体を見る以上に彼女の聖域に立ち入るようで躊躇われた。
「行かないの?」
後から急に声がして、省吾は慌てて振り返る。
見慣れた顔だが見慣れない髪型。何時もはしない、まとめ髪にした為に露になった首筋は、日焼け跡も取れてもう大分白くなっている。
「あ、愛香」
後ろには愛香が佇んでいた。
「お前、何してんだ。こんな所で」
「た、たまたま通りかかってさ」
「たまたま?」
愛香は省吾の家の近くでうろうろしていた。何となく彼の気配を近くに感じたくてそんな行動をとったのは、今の省吾と同じ気持ちからかもしれない。
そんな時、思いがけない時間に家から出て来た彼の姿を見て、それを追って来たのだ。
しかし、そんな事を正直に言えるはずも無い。
「こ、この近くに昔の友達がいるのよ」
「へえ」
省吾は何だかよく判らなかったが、とりあえず頷いた。
「行かないの?」
再び言った愛香の言葉に、省吾は白を切る。
「行くって、何処に?」
「あそこ、澪ちゃんの家なんでしょ?」
「何で知ってんだよ」
「あんたがじっと見てるからよ。あんな大きな家、普通じゃないじゃん。いかにも医者の自宅って感じ」
「別に、家を訪ねようと思って来たわけじゃないよ。俺もこの辺に用事があってさ」
彼はあくまでも言を構えた。
「こんな午前中に?」
「いいだろ、別に」
省吾はそう言って、澪の家とは反対方向に歩き出す。
「ついでに寄ればいいじゃん。あんた、彼氏なんでしょ」
「だって、今日は治療の日だぜ」
省吾が駅に向かって歩く後を、愛香が足早に追いかけた。
「じゃあどうするの?」
「どうするって?」
「もう帰るの?」
愛香の言葉に、省吾は応えなかった。
彼女は不意に立ち止まると
「じゃあ、あたし彼女の家に顔出してくる」
そう言って踵を返し、ズンズンと澪の家に向って歩き出す。ローライズのタイトなジーンズは、彼女の長い脚を強調していた。
「えっ、ちょっと」
省吾が振り返ると、愛香はどんどん澪の家の方へ歩いて行くので、慌てて彼女を追いかけて肩に手をかけた。
「おい、やめろよ。何でお前が行くんだよ」
「だって、あたしだって友達だし。別にいいじゃん」
「今日は止めておけ」
省吾は真剣な顔で言った。
愛香も本気で彼を困らせるつもりは無い。
「……わかったわよ」
彼女はようやく身体の向きを変えると「じゃあさ、これから何処か行く?」
省吾に顔を突き出すように微笑んだ。
「何処かって、何処に」
「ううん、何処でも。どうせ一日暇なんでしょ」
愛香はそう言って、省吾の手を引いた。
本当は手のひらを掴みたかったが、勇気が出ずに彼の手首を掴んだ。
「ていうか、お前、パンツ見えてるぞ」
ローライズのベルトループには太いダブルホールのベルトが巻かれ、ミニ丈のトップスとの間には大分白くなった背中が露出している。
上に羽織った白いデニムジャケットもショート丈なので、あまり役には立っていない。
「ムラムラする?」
「いや、別に……」
「見せパンだよ。いいでしょ、学校では見れないんだし」
「つうか、背中寒くないのか?」
「べつにぃ」
愛香は省吾の手首を掴んだまま、歩き続ける。
省吾は少し諦めた表情で小さく肩をすくめて彼女の横顔を見つめると、愛香に引かれるまま駅への道を歩いた。
……どうせ、ここでもんもんとした時間を過ごしても仕方が無い。一人でいるよりかえって気も紛れるだろう。
そう思いながらも通りの角を曲がる時、省吾は名残惜しそうに澪の家を一度だけ振り返った。
その彼の頭越しに、愛香も澪の家を一瞬だけ見つめた。
沈黙した佇まいだけが午前中の陽の光に照らされて、大きなバルコニーの手すりが銀色に光っていた。