【27】残り香
テストが始まるともうまな板の上の鯉だ。翌日の必要科目を一夜漬けで頭に叩き込むしか方法は無い。
二日目の金曜日、テストが終わって軽く裕也と雑談を交わす。
彼は直ぐに時計を見ると
「じゃあ、俺急ぐから」
そう言って小走りに教室を出てゆく。
どうやら専門学校生とうまく言っているらしい。
省吾も帰ろうとして、他の連中と教室を出ようとした時、愛香が声をかけて来た。
「あ、先に行ってくれ。じゃあ」
彼は他の友人達に軽く手をあげる。
「明日、澪ちゃんの治療の日、だよね」
「あ、ああ」
「澪ちゃんには、何か訊いてみた?」
「いや、前に少し訊いて以来は、訊いてない」
愛香は妙に眉を曇らせるように笑うと
「訊いて見た方が……よくない?」
「何でお前がそんなに気にすんだよ」
「だって……ほら、この前の文化祭で仲良くなったしさ……」
愛香はそれだけ言うと、足早に教室を出て行った。
「今日はテスト、何だったの?」
「古典と数学。そっちは?」
「リーダーと世界史」
試験中の学生らしい会話が飛び交う。
試験が始まって二日目の金曜日。試験中は学校が早い為、それだけ考えれば嬉しいのだがテストという現実問題を考えると、思いは複雑だ。
それでもテスト前日から省吾は澪と毎日お昼を一緒に食べて、二人の時間を過ごしていた。
毎週金曜日は省吾にとって何度も心の中で質問を繰り返す日でもあった。しかし、それを澪に直接言う事は出来ない。
半分は彼女を困らせたくないという気持ち。残りの半分は恐怖だ。
真実を知る恐怖がそこにはある。
彼女が口に出したがらない土曜日の治療とはいったいどんなものなのか……省吾は毎週のように平静を保ちながら、心の奥で考える。
今日愛香に言われた事が無性に引っかかる。彼女は澪の事を何か知っているのだろうか……
省吾の心は揺れた。
「あ、明日は……また、治療の日だね」
省吾の言葉に澪は明るく「うん」
まるで、決まった習い事でもしていて、それに通うような素振りだ。
そんな彼女の表情が、一日会えない理由とあまりにもかけ離れているのだ。
「どんな治療なの?」
省吾は躊躇いながら訊いた。
澪はさり気なく視線を逸らして窓の外の風景を眺めた。
「そんなこと訊いてどうするの?」
「いや、どうするって……」
省吾は澪の応えに困惑した。
「知りたいだろ。澪がどんな病気なのか。どんな治療を受けているのか」
「知っても、ショウちゃんにはどうにもできないから」
「けど……」
その時、澪に手を引かれて彼は電車を降りた。省吾の降りる駅だった。
「今日は何か買って、ショウちゃん家でお昼食べようか」
水色の空に浮かぶ白い雲は、千切れた木綿のように薄く広がっていた。外の明るい光が入らないように窓のカーテンは締め切って、それでも薄っすらと陽光が部屋の中を照らし出す。
机の上で開いたままのラップトップやそこに伸びるアーム式のデスクライト、20インチのテレビや漫画ばっかりが入った本棚。それらが黒いオブジェとなって時間が止まったように佇んでいる。
「恥ずかしいから」そう言った彼女の要望を聞いて、省吾は部屋のカーテンを閉めた。
昼間なのにほの暗い部屋は、それだけでドキドキと鼓動が高鳴り、敏感になった嗅覚は、彼女の生きた香りだけを捉える。
澪の静かなブレスが省吾に届いた時、彼は彼女を抱きしめた。
二人きりのほの暗い部屋で、澪は省吾に抱かれるまま、黒い三つ編みを振り解いた。
省吾は澪と結ばれるのはもっとずっと先だと思っていた。冗談交じりのダメ元でヤリたい素振りなどを主張して見せても、それは本気ではなく、彼女がそう簡単にキスの先へ事を進めてくれるなんて思っていなかった。
もっと時間をかけるか、何か彼女の踏ん切りを見極めるしかないと思っていたから。
「なんで……?」
「わかんないよ。別にしたくないわけじゃなかったし」
「そ、そうか」
二人は薄いタオルケットに一緒に包まって肌を寄せ合っている。
「きっと勇気の出せる日を探してたんだよ」
澪はそう言って省吾の頬に唇を着けた。
薄っすらとカーテンを抜ける弱い明かりに照らされて、二人は再び唇を合わせた。
その夜、省吾は勉強が手に付かない。肝心のリーダーの訳を丸暗記する必要があったが、全然そんなものが頭に入る余地が無い。
心の中で何かが弾けた様に熱く輝いて、身体の内側から真夏の陽差のようにギラギラと全てを照らし出す。
鼻孔に残ったような澪の全身のあらゆる匂いが鮮明な記憶となって蘇えると、じっとしていられない思いが彼の身体を刺激して、月曜日分のテスト勉強をしようと机にへばり着く省吾を尽く妨害するのだ。
集中しようとするが、5分と立たないうちに午後のほの暗いこの部屋での出来事が、あまりにも鮮明に蘇えり、それを振り払うのに再び時間を要する。
今日はいくらやっても無駄だ……土、日があるさと諦めて、椅子から立ち上がりベッドに倒れ込む。
澪の残り香が省吾の鼻孔を再びくすぐって、脳裏に果てしなく甘い官能を蘇えらせた。