【25】戯れ
低く立ち込めた鉛色の厚い雲は完全に太陽光を遮り、まるで地上全体を押し潰しそうなほどに重く広がっていた。
「何時まで続ける」
南澤病院の医院長室で、大きな漆塗りの机の向こう側に腰掛けた南澤正蔵が、ザラついた声で言った。
身なりはそう大きくないが、個人病院をここまで大きくして来た自信と貫禄が、全身から湧き出ている。
未だに自身も執刀を受け持つ彼には、外科医としても一流の誇りが在るに違いない。
それは、額や目尻の小さなシワにさえ感じる。
「俺は、澪が生きるなら何度でも、何時まででもやります」
この病院の外科と内科の両方を受け持つ南澤渉は、大きな机を前に言い放つ。
磨かれた漆の光沢に、彼の姿が映り込んでいた。
「しかし、妙な噂が流布しているそうじゃないか」
「医院長は……いや、今は父さんと呼ぶべきでしょう。澪の命よりも、この病院の体裁や保身の方が大切なんですか?」
正蔵は何も応えずに、大きな椅子の背にもたれ掛ると、息子の姿を見上げた。
「ひとり娘が可愛くない親がいるものか」
「それじゃあ、放っておいて下さい。何かあれば、俺が全ての責任を取ります。医院長には迷惑はかけません」
「週に一度の臨死治療で何時までもつ……リセットされた症状が安定しているのは僅か一週間だぞ。その度に殺される澪の身にもなってみろ」
「死んだ方が、楽だと……?」
渉は唇を噛み締めるように言った。
「繰り返す臨死体験が、他にどんな影響を及ぼすかも知れん」
「それでも俺は、澪に生きていて欲しいんです。澪の血中成分の異常は、身体の異常ではなく、おそらく脳に問題があるんです。臨死する事によって、一時的にそれがリセットされます」
渉は漆塗りの艶やかな卓上に両手を着いた。
「それを薬効で押さえられる手段が見つかれば、彼女を臨死させなくとも治療する事が出来るはずなんです」
「それを解明できるのか?」
正蔵は前かがみになった息子の真剣な眼差しに問い質した。
「判りません……」
渉は一瞬視線を下に向けて机に映る自分の姿を見たが、また直ぐに顔を上げると
「それでもきっと解明します。妹の命を救うために、全力で。アメリカのミシガンに一人同じような症状をもった患者を見つけました。今症例の情報交換をしている段階です」
「それも、治療法は模索段階なのだろう」
「しかし、手掛かりは在るかもしれない」
正蔵は小さく溜息をつくと、前屈みになって机に乗せた両手を組み合わせた。
優秀な外科医の手にしては、あまりにもありふれた指先だ。
「まあ、お前がそこまで言うなら、私は止めん」
落ち着きなく、彼は再び椅子に背を任せて、胸元で両腕を組む。
「しかし、もし澪が望んだら、その時は永遠に眠らせてあげなさい」
非情な言葉に思えるが、それは澪自身も考えている事かもしれない。臨死を繰り返す精神的負担は、誰にも判らないのだ。
しかし、今度は渉が返事を返さなかった。
沈黙した視線を父親に送ると、机に乗せた両の手を離して直立する。
「それじゃあ、オペの予定が入っているので失礼します」
そう言って踵を返し、彼は大またに歩いて部屋のドアを開けた。
重いドアが閉まってから、正蔵は再び溜息をついた。それは、さっきとは比べ物にならない、地の底へ届きそうなほど深いものだった。
学校帰りの何時もの駅に電車が滑り込んで来ると、チェックのスカートからスラリと伸びた足が、車両とホームの間の小さな隙間を跨いだ。
ドアを抜けて直ぐに見えた澪に、愛香は愛想よく微笑む。
「久しぶり」
「あ、うん、久しぶりね」
澪は少し驚いた笑顔で、慌てて返す。
今日は省吾が風邪で学校を休んでいる。例によって裕也にメールを送った省吾だったが、彼は最近年上の専門学校生の女の子と付き合いだしたらしく、時折学校をサボる。
『俺も休む』
そう返信された省吾は、仕方なく愛香に連絡を頼んだ。
肩をすくめながら二人の病欠を、もちろん裕也は仮病だが……報告した彼女は、一人で澪に会って話すチャンスだと思っていた。
さり気なくチェックを入れていた二人の待ち合わせる電車の時間。それが今日こんな場面で役に立つ。
「ショウは風邪だってね」
愛香が会話を切り出す。
「うん。そんなに酷くも無いみたいだけど、だるいから。だって」
当然の事だが、澪も省吾の事は知っている。しかも、より詳しい容態を。
愛香はその言葉を複雑な気持ちで聞き入れて、早々に頭の隅へ追いやった。
「最近ショウとはどう?」
「相変わらずよ」
さり気ない問いに、澪もさり気なく応えて笑う。
「澪ちゃんのお父さんて、お医者さんだって?」
「うん、ウチが病院だから。だから兄もそこで働いてるの」
「へぇ、お兄さんも医者なんだ」
愛香は笑顔を絶やさずに
「あたしのお父さんも病院に勤めているのよ」
「ああ、そうだってね。大学病院の外科部長とか。凄いよね」
澪はそう言って、少しだけ高い位置にある愛香の顔に視線を向けて笑う。
「どうして知ってるの?」
「ショウちゃんが前に言ってた」
「ああ、そうか」
車内アナウンスが流れて電車の揺れが減速力に変換されると、愛香の降りる駅に着いた。
しかし、彼女は降りない。せめて澪が降りる駅まで彼女と話をしようと心に決めてきた。
「愛香さんはどの駅?」
「う、うん。家は石神井だけど、今日はちょっと」
愛香はそう言って落ち着かない素振りで再び電車が走り出すのを待った。
「ね、ねえ」
ドアが閉まって再び電車が走り出す。
愛香は少ない時間を有効に使わなければという決意みたいなものに後押しされて切り出した。
「澪ちゃんは、病気……大変なの?」
「どうして?」
「え? どうしてって……何となく」
再び車内アナウンスが流れて、喧騒と慌しさが広がる。
「週に一度、あたし…りん…をして………しているの、………るんでしょ」
澪が言った言葉は、愛香には飛び飛びにしか聞き取れなかった。
「えっ?」
愛香は再び同じ言葉を聞きたくて澪に訊き返すが、彼女は黙って微笑むだけだった。
「愛香さんは、ショウちゃんの事好き?」
やっぱり……彼女の問いに、愛香はそう思った。
「な、なんで? そんな事訊くの?」
「うん。何となく」
澪は再び笑顔を返す。決定的な事を言っては、何となくはぐらかす感じだ。
愛香は窓の外に視線を向けて、遠くの家並みを見つめると
「好きって言ったら、どうする?」
一瞬沈黙があった。
愛香は微かな緊張の中で澪の姿を横目で盗み見る。彼女も窓の外を眺めていた。
「別に。どうもしないよ」
澪は視線を変えずに言った。
愛香は思わず彼女の方に顔を向けて「あたしが横取りしたら?」
「その方が、ショウちゃんの為かもね」
車両のノイズに包まれながら、澪は外の景色に視線を向けたまま小さく呟いた。
愛香はその横顔にドキリとする。
果敢なく愁いな澪の横顔は、愛香の胸を一瞬キュッと締め付けた。
……ショウは何時もこの横顔を見ているのだろうか。いや、きっと見ているに違いない。
ふっと振り返った澪は、瞳を細めて歯を見せずに口角を上げた。
……無理だ。何不自由なく、きわめて健康な今の自分に彼女以上に省吾を惹き付ける魅力はない。澪は確かに綺麗な顔をしているが、美貌や可愛さとは違う何かが彼を惹き付けているのだ。
愛香は思わず見入ってしまった澪に向って、笑みを作ると
「澪ちゃんは、駅どこ?」
「あたしは江古田」
「そう。あ、もう次だね」
そう言っている間に、再び車内アナウンスが流れて減速する慣性に二人の体が同時に揺れた。
「それじゃあ」
「うん。またね」
ドアを抜ける澪が手を振ると、愛香もそれに応えて微笑んで手を振り返す。
階段の雑踏に消えてゆく澪の小さな背中を、愛香は完全に見失うまで目で追いかけていた。