【20】暗闇の真実
恵比寿にある高級イタリアレストランに、愛香の姿はあった。
彼女はフランス料理よりイタリアンが好きだった。
クリーム色の壁には、シチリア島の大きな風景画が間接照明に照らされている。
「ありがとう、かなり参考になったわ」
彼女は目の前にいる箕輪忠典に言った。
蘇生して治療するという噂の、新しい情報があるからといって、彼に呼び出されたのだ。
「いや、たまたま看護師にそう言う事に詳しい娘がいて……でも、どうしてそんな噂にこだわるんだい?」
箕輪は白ワインを口にする。
彼は、以前南澤病院で働いていたという看護師から聞いた話をひと通り愛香に話して聞かせた。
「うん。だって面白そうじゃん」
愛香はいかにも好奇心旺盛な高校生らしさを強調するかのように、悪戯っぽい笑みで彼をみると、普段よりも長きてくっきりした睫毛を瞬きさせた。
「女子高生の考えは解んないな」
箕輪はそう言って肩をすくめると
「また、食事に誘ってもいいかい?」
愛香は無言で瞳を細めると、口角を上げてみせる。返事はしなかった。
箕輪はまだ二十九歳と外科医としてはまだまだ若い方だが、愛香の父親である外科部長にも認められるほどの腕前で、執刀する数は現在院内一と言ってもいい。
高級外車も乗っているし、顔もまあまあ。白衣を脱げば、実年齢よりも三つは若く見える。
それでも愛香には今ひとつ興味の湧かない存在だった。父親の近くにいる為、彼とは自然に親しくなったが、今回のような頼み事でもなければ二人きりで食事などしないだろうと思った。
まだ、渋谷で知り合うヒップポップ崩れのノリノリの連中とジャンクフードを齧る方が楽しいだろう。
愛香は軽く頬杖を着いて、久しぶり着たミニ丈のワンピースから長く出た細い脚を、そっと組み直す。
ガラス張りのビルは互いに光を映し出して夜の街を煌々と照らしている。
黄色いポルシェボクスターのサイドシートに、愛香は脚を揃えて座ると、屋根の無い景色に光の粒を見上げた。
「何処か寄ってくかい?」
箕輪はチラリと横目で愛香を見た。僅かに巻き込む風が、彼女の柔らかな髪をたなびかせている。
「えつ? いいよ。明日も学校あるから」
「前は平日でも遊び歩ってたんだろ」
「前はね。最近はそんな元気ないよ」
愛香は箕輪を見ずに、フロントガラスの先にある眠らない街の灯だけを見つめていた。
新宿を抜けて甲州街道を走ると高層ビル群は消え、中央には首都高速、歩道には街路灯が連なって街路樹と共に流れる景色に次々と消えてゆく。
環七通りの三車線道路を加速して、オーバーパスを何個か越えると青梅街道に入った。
右手に少し古いタイプのラブホが在る。モーテルという看板が掲げられて、通り沿いの入り口に大きなスダレの下がっている造りだ。
愛香の視界にもそれは入っていたが、全く無関係な景色として捉えていた。
しかし、箕輪は素早く車を減速させるとそのスダレを潜った。
「ちょっと、何やってんの?」
次第に落ち着いた暗がりに変わって行く景色の流れを、ただ何となく見ていた愛香は、驚いて声を上げる。
「いいだろ、少しぐらい付き合ってくれても」
「なんで、噂話聞いたくらいでこんな所に付き合わなきゃいけないわけ」
「昔はどうせ遊びまくってたんだろ」
箕輪は愛香の身体を強く引き寄せて抱き着くと、彼女のシートベルトのバックルを外した。
「ちょっと、止めてよ」
彼が無理やりキスをしようとして、愛香は慌ててそれから逃れようと身体をくねらせた。
「ほんとムリだから」
そう言って両手で箕輪の顔を掴んで押しのける。
「あの噂は本当だよ」
「えっ」
愛香の身体が停まった。
「裏をとったよ。あの病院の娘は臨死と蘇生を繰り返す事で生き延びてる。生きる為に死んでいるんだ……それがキミとどういう関わりなのかは知らないけどね」
箕輪の顔を、愛香は唇を震わせながら見つめていた。
「だけど、あそこの医院長は学会にも顔を出すほどの医者だから下手な詮索はできない。おそらく真相を知っている連中は他にもいるかもしれないよ」
愛香は後ずさりするようにボクスターの小さなドアを開けると、後ろ向きのまま降りた。
「家まで送るよ」
箕輪は立ち上がった彼女を見上げた。
「いいよ。ここまでで」
「家までまだ大分あるよ」
「いいったら、いいよ」
愛香は駆け出して、ゴムラバーで出来た大きなスダレを払いのけながら街道の歩道へ飛び出ると、しばらく夢中で走った。
100メートルほど走ってから早稲田通りへ抜ける路地を入って再び走る。
閑静な闇にアスファルトを叩くローヒールのパンプスの音だけが染み込むように、何処までも響き渡る。
大きく肩で息を着きながら住宅街の真ん中で突然立ち止まると、その静寂の中で溢れ出る涙が何故だか止まらなくなった。
善人と思っていた箕輪に突然迫られたショックなのか、人間の裏側を久しぶりに垣間見た恐怖なのか……それともまだ面識さえない澪を哀れに思う雫なのだろうか。
しかし、そんな澪を思う省吾の気持ちを考えるとそれが何処か不憫で、冷たい杭を胸に深く突き刺さされたような痛みを感じたのは確かかもしれない……
「ショウ……どうして彼女を好きになっちゃったの……」
走った為に乱れる呼吸に混ざって嗚咽が漏れるのを必死でこらえながら、街路灯の照らす電柱に手を着いて、愛香はひとり肩を震わせた。