【19】噂
裕也は学校帰り、阿佐ヶ谷のバス停で中学時代の女友達に会った。
「なんだ由奈、久しぶりじゃん」
相田由奈。小学校から知っている彼女は中学の時からカッコも行動も派手だった。
とりあえず高校には入ったが、願書と金を出せば入れるような学校で、それは彼女にとっては女子高生という肩書きの付いた楽園の切符のようなものでしかない。
「ああ、裕也。あんたまだシャバにいたんだ」
冗談でも彼女にそんな事を言われる彼は、素行のいい中学生でなかったのは確かで、それでも、ちょっと自己主張が強い為に時折いざこざを起こす以外は、いたって普通の中学生だった。相田由奈に比べれば。
商店街のファーストフードに入って久しぶりの会話に盛り上がる。
「あんた北高行ったんだっけ」
由奈は黒く縁取った目をクリクリさせて笑った。
「ああ、俺にしちゃ勉強頑張ったぜ」
「今は?」
「それがさ、下には下がいるもんだから、何とかドンジリにはならずに済んでるよ」
「マジで?」
由奈はげらげらと大きな口で笑うと、ジャラジャラと沢山の腕輪を着けた手をテーブルに出して頬杖を着いた。
「そう言えばさ、この前ウチのオネエチャから変な話聞いたんだ」
「なんだよ」
「なんかあ、原因不明の病気を治す為に、一度殺してまた蘇えらせるんだって」
「なんだよ、それ」
裕也はアイスコーヒーを飲みながらバジルポテトを摘んだ。
「ほんとだって。ウチのオネエチャ、病院で看護婦やってんだもん」
「お前の姉貴、看護婦なの?」
この女の姉は昔、小学校の頃に見た事がある。彼女と六歳違いで、やけに大人に見えたものがやたら派手好きで、その流れから考えると今の由奈の容姿は至極当然だ。
「なんかぁ、その病院の娘が治療不可能な病気で、一度死ぬと病状が無くなるんだって」
「死んで蘇えらせるなんて、出来るのか?」
「ほら、心臓停まった時によくドラマとかでバチンッてやるじゃん。電気みたいなの」
「電気ショックか?」
「そうそう、アレで停まった心臓をまた動かせばいいらしいよ」
「動かなかったどうすんだよ」
「そんんの知らないよ。動くようになってるんでしょ」
由奈は面倒くさそうにそう言って、携帯電話を開いた。
「何処の病院で、そんな事してんだよ」
「そこまではしらないよ。ただの噂だもん」
由奈は再び大きな口で笑うと、次の楽しい話題に移った。
* * *
箕輪忠典は大学病院の最上階に在るレストランで相田美智子と食事をしていた。
一階の奥に従業員食堂もあるが、お昼時間を大幅に過ぎた場合はレストランの一区画で食事をする事ができる。
「で、ミッチャンがいた時は、かなり深刻な状態だったんだね」
「うん。その娘、かなり酷い様子で、入院はしないけど、毎日病院に来てたのよ」
美智子はそう言いながらカルボラーナをホークに巻く。
彼女はこの病院の内科に勤務する看護師で、外科の箕輪とは飲み会などでしか親しい面識は無かったが、看護師伝に彼女が以前働いていた病院での事を耳にしたのだ。
「で、今はその娘、全然病院に来てないのかい?」
「そうらしいよ。この前久しぶりにそこに勤務する友達とご飯食べたら、最近はめっきり見かけないって」
「亡くなったとかじゃないのかい」
スパゲティーを頬張る彼女を前に、箕輪はカツサンドを齧る。
「だって医院長の娘さんよ。亡くなったら判るでしょ」
「そりゃそだな……」
箕輪はそう言ってコーヒーを啜る。
美智子はこの大学病院に来る以前、個人医院で働いていた。彼女がいた病院の医院長の娘は血液に関する難病に掛かっていた。
治療に携わっていない彼女にはその詳細は判らないが、治療方の無い珍しい病気と言う事は伝わっていた。
美智子がその病院に勤務していたのは、医院長の娘が小学校の時で、ほとんど毎日病院に顔を出しては薬の投与と検査を繰り返していたらしい。
その少し後に美智子は今の大学病院へ転職した為、その後の少女の事は判らなかった。
しかし、数日前に以前の同僚と久しぶりに夕食を共にして、何気ない会話の中からその少女の話を久しぶりに聞いた。
「なんかね、最近あの娘、元気みたいよ」
以前の同僚である清美は、食事の後で入った居酒屋でぬる缶のぐい呑みを片手に言った。
「あの娘って?」
「医院長の娘さんよ」
「ああ……」
職業意識の強い彼女は、看護師としての評判は上々だが、自分に関係ない患者の事はあまり気にならないタイプだ。
「でも、おかしいのよね」
「何が?」
「だって、完全な治療法も無いまま、一時は昏睡になったら終わりとまで言われて毎日血液検査をしてたのに、急によ」
「何か、いい薬剤が見つかったんじゃないの? 医者の伝で、未認可の海外医薬とか?」
「それにしてもね……最近はほとんど病院にも来ないのよ」
美智子の元同僚はマユを潜めると、小声になってテーブル越に身を乗り出した。
「なんか、自宅で治療してるらしいのよね」
「自宅で?」
「ほら、機器メーカーの薗辺さんていたでしょ。彼のところで、医院長の自宅に心拍計や除細動器やら何やらをこっそり納入したって」
美智子は清美との会話をそのまま箕輪に話して聞かせた。
その時、箕輪が彼女の話に口を挟む。
「医療機器を自宅に?」
「ええ、そうらしいよ」
美智子も彼の問いに頷く。
「何のために?」
「だから、自宅治療でしょ」
「心電図や除細動器まで? だって薬剤とかはどうする?」
「だって、医者の家よ。何考えてるかなんて解らないわ」
箕輪は再びコーヒーを飲んで息をつく。ほんの少しの間思案を巡らせていたかと思うと、伝票を掴んで徐に立ち上がった。
「その病院って、確かに南澤医院なんだね」
確認する彼に向かって、コーヒーを啜りながら美智子は頷いた。
「自分が働いていた病院だもの、間違えないわ」
「有難う、今度呑みにでも行こう」
そう言った箕輪は足早にレストランを出た。