【1】通学電車
庭木がバサバサと不気味な音をたて、空き缶は通りを激しく転げまわり、窓を叩く雨音があまりにうるさくて、なかなか寝つく事が出来なかった。
電線を抜ける風きり音が、恐竜の唸り声のように響きわたり、風圧で時折ボッと音を出して窓ガラスが歪む。
大型の台風が東京を直撃しているのだ。
どうにも落ち着いて眠りに入り込めないから、結局一度消したテレビを再び点けて布団に入る。夜通し流れるニュース番組も、外から聞こえる騒音よりはましだ。
それでも台風は、無事明け方には通過したようで、朝起きると湿った風が少々強かったが、空は青々と晴れ上がって庭木に鳥の囀りが聞こえていた。
台風一過は過ぎ去る夏の日々を、爽やかに、そして果敢なげに見送る。
北原省吾はベッドから起きてキッチンへ行くと、インスタントコーヒーを作ってトースターにパンを放り込み、窓を少し開けた。
一瞬、ビュウという音がして、心地よい風が舞い込んでくる。
通りを行く小学生の戯れる声が聞こえてきた。毎朝妙に早い時間にここを通る子供たちだ。
携帯電話を左手で開きメールをチェックすると、橋木裕也からメールが入っていた。それと、一昨日池袋のカラオケ館で知り合ったミナとケイコ。
どれもたいした用件ではない。暇な合間に送って来たのだろう。
だいたい、朝一にメールを送る気がしれない。起きがけでもう誰かに相手をしてもらいたいのか? 省吾はその辺の感覚は今時ではないのかもしれない。
冷めている。という訳でもない。ただ、母親と二人暮らしの長い彼は、小学校高学年頃から朝起きると一人で、学校へ行くまで誰とも言葉を交わさないのが普通だ。
そんな習慣の長かった省吾には、携帯を持った途端に朝一で誰かから声がかかっても、直ぐに返信する気力が生まれない。
だから、修学旅行などで友人達と一緒に迎える朝は、密かに苦痛でもあった。
まあ、メールは何時でも返信できるし言葉を発する必要も無いので、来る分には苦にはならないが。
トーストを齧ってコーヒーを飲んでひと息つくと、とりあえずメールに返信する。
左手で携帯のキーを操作する彼の仕草は、友人の裕也に言わせると『奇妙』なのだそうだが……
適当に言葉を打ち込んで送信ボタンを押す。何でもいいから返信しておけば、それで縁は繋がるのだ。
制服に着替えて鞄を肩に掛けた省吾は、玄関のドアを開けた瞬間それが強風で外に持っていかれ、一瞬「うわっ」と声を上げる。
何だか思っていた以上に風は強かった。
外に出た途端にキャラメルブラウンにカラーリングした髪の毛は、一方方向に煽られて頭皮が引っ張られる。
玄関を出てリビングとは反対側に位置する和室の縁側に目が留まった。そこに置いてあった赤いポリバケツが無くなっている。
昨日までは確かにあったから、おそらく台風の風で何処かへ飛んでいったのだろう。
自転車、大変そうだな……省吾はそう思いながら物置の陰からATBを取り出す。駅までの方角は、向かい風だった。
いくらペダルを踏み込んでもなかなか進まない自転車でようやく駅に着くと、階段を上がりながら髪の毛に何度も手グシを入れる。
ファイバーWAXを着けた髪の毛は、風に煽られた形状を維持しようとするのだ。
慌しい朝の喧騒の中を縫うように、足早に改札を抜けてホームに降りる為の階段を下る。すると、女子高生が何だか階段の途中でたむろしていた。
他の通行人には少々邪魔になるが、彼女達にはそんな事は関係ないのだろう。
何だか解らないが、その横を通ってホームに出ると、直ぐ目の前にいた娘のスカートが強風に煽られて大胆に捲れ上がった。慌てて押さえるが間に合わない。
その向こうでは二人組みの、同じく女子高生がスカートを押さえながら奇声を発していた。
……そうか。こうなるからさっきの連中は四方が囲われた階段の所に集まっていたのだ。
早起きはしていないが、なんだか三文ほど得した気分で省吾はそんな事を思った。
彼は何食わぬ顔でその場を通り過ぎると、いつもの立ち位置へ向う。三両目の一番前のドアと、毎朝乗り込む場所が決まっているのだ。
降りる駅で階段に近いからなのだが、二両目の一番後ろのドアが本来一番近くに当たる。ただ、混雑に巻き込まれるのが嫌で、少しだけずらしているのだが。
直ぐに電車がホームへ入って来て、目の前で開いたドアから省吾は車内へ乗り込んだ。
大河に流されるように毎日がなんとなく過ぎてゆく中で、ずいぶん前からその場所に乗るのがちょっぴり楽しい。
朝の登校という、一日でもっとも憂鬱なひと時が僅かに癒される。
省吾は朝の下り電車で学校へ向う為、車内は上りほど混み合っていない。
どこから乗ってくるかは知らないが、その娘は同じ車両のひとつ隣のドア近辺に何時も立つ。
省吾の高校は二駅目だが、彼女の学校はその先、隣駅にある女子高だという事は知っている。
夏服は水色のブラウスにグリーンのタータンチェックのスカートだが、冬服のキャメル色のブレザーはかなり目立つ。
黒い髪は三つ編みのお下げにしている所をみると、意外に校則が厳しいのだろうか。時折友達らしき娘と一緒だが、その娘も真っ黒な髪の毛を肩の上で揃えた地味な、というかやっぱり清楚な印象を受ける。
少し距離が在る為、彼女達の話し声はほとんど聞き取れない。
始業式の日に見た彼女の友達は少し日焼けしていたが、彼女自身は変わらず白い肌のままだった。
それは、残暑の陽差が差し込む車内で、微かに乱反射するほどの白だった。
本来省吾はもう一本遅いギリギリの電車で学校へ通っていたが、春の豪雨で電車が遅れていた時にたまたま一本早いはずの車両に乗った。
そこで彼女を見かけたのだ。
一目惚れ……そんなものが本当にあるとは思わなかった。
もう一度逢いたかった。
翌日、彼は確かめるように一本早い電車に乗ると、やっぱり彼女はその車両にいた。
夏休みに彼女の家を探索しようとも思ったが、なかなか帰りの電車で一緒になる事がない為、彼女がどの駅から乗ってくるのか判らない。この沿線に住んでいるとも限らないのだ。
そうこうしている内に試験休みに入ってしまい、この夏休み明け、彼女と再び会えるかどうかが不安でもあり楽しみでもあった。
しかし今週初めの始業式、彼女は夏休み前と同じ電車で同じドアの近くにいた。
彼は二駅だけの約十二分間、窓の外を眺めるように佇むその娘を見て過ごすと、何時もの駅を降りて学校へ向った。
「ショウ、ミナちゃんとかからメール来たか?」
教室へ入るなり橋木裕也が声をかけて来た。
親しい仲間は省吾の事をショウと呼ぶ。裕也は電車とバスを使って登校しているが、バスの時間の関係で省吾と同じ路線電車を利用するにも関わらず、彼よりも大分早い時間に学校へ着く。
登校時間だけ見れば、かなりの優等生だ。
「ああ、今朝来てたな」
省吾は一番後ろに在る自分の机に鞄を置いて椅子を引いた。
女子を挟んだ窓際の一番後ろの席に裕也はいる。椅子を後ろに傾けながら省吾に話しかけていた。
「おっしゃあ、今日当たりブクロで待ち合わせっての、どう」
「ええ、俺はいいよ」
「何でだよ」
「いや、別に。ていうか、めんどくせえ」
「何だよそれ」
裕也が落胆した顔を見せた時、教室の扉が開いて先生が入って来たので二人の話は一端区切られた。
省吾にしてみれば、電車で毎朝に会う彼女に何とか近づきたい。そう思うと、他の娘にわざわざ会いに出かける気が起きないのだ。
この前はたまたまカラオケ館の建物の中で知り合ったから裕也と一緒に声をかけたが、わざわざ出向くような事ではない。
「あんたたち、またナンパしてたの?」
省吾の前の席にいた神崎愛香が振り返って、小声で言った。
夏の旅行で焼けた肌は、まるでヒサロで焼いたようにほんのり小麦色でキレイだし、頬にかかったストレートの茶色い髪の毛は、他の誰よりも艶やかだ。
ホームルームは、どうでもいい連絡事項が担任教師の口から勝手に発せられて教室に流れている。
「また。って、なんだよ。率先して声をかけるのは裕也だぜ。俺は何時も巻き添えをくうんだ」
省吾も机に前のめりになって小声で返した。
「ハイハイ」
愛香は肩をすくめると長い睫毛を瞬きさせて小さく失笑して、前に向き直った。
昼休み、裕也は食い下がらなかった。
「なあ、行こうぜショウ」
「お前一人で行けよ。ミナとケイコのどっちかは決まってるんだろ」
「最初はやっぱ合同でさぁ。さっきメールで話したら、彼女らがそう言ってたんだよ」
「しょうがねえな。俺、適当なところでフケるからな」
押し負けた省吾が肩をすくめると、裕也は無言で笑みを浮かべ、ガッツポーズをとった。
「どうしたの、陽子」
「頭痛がさあ」
「あたし、クスリ持ってるからあげるよ。薬局のより強いから半分だけ飲みな」
愛香がそう言って陽子に粉薬を渡す。
二人のやり取りを遠目に見ていた省吾は
「何で愛香のやつ、市販じゃないクスリなんて持ってるんだ?」
「ああ、アイツの親父は大学病院の何とか部長でさ。その関連だろ」
省吾は以前から愛香とは知り合いだったが、親しくなったのは三年になってクラスが一緒になってからだ。それに比べ裕也は去年も同じクラスだった。
神崎愛香の父親は、彼が言うとおり都内の大学病院で外科部長をしている。
「でも、関係者だからってクスリ持ち出せるのか?」
「知らないよ。俺に聞くな」
省吾と裕也の話し声を聞いた愛香は二人に近づいて来ると
「あんた達にもクスリ分けてあげようか?」
そう言ってから、クスッと笑って「ああ、脳に効く薬はまだないんだった」
「うるせえな」
省吾はそう言って、窓の外に視線を向ける。
「裕也はエロいのが治るクスリ?」
「そんなのねえだろ」
「あ、でも欲情を抑えるのはあるらしいよ。アメリカで性犯罪者に使うんだって」
「誰が性犯罪者なんだよ。俺のは抑えなくていいんだよ」
裕也はポンッと省吾の机の上に飛び乗るように腰掛けた。
「でも、頭痛とかあったら言ってね。保健室のよりは効くからさ」
「そんなクスリ持ち出していいのか?」
省吾は自分の席から愛香を見上げた。
彼女は整った眉をピクリと動かして
「だって、ただの鎮痛剤よ。それにちゃんと処方せんとして手続きしてるから平気よ」
省吾と裕也は思わず顔を見合わせた。
その処方せん自体が違法なのでは? 何気にそう思った二人だが、口には出さなかった。