【13】顰める想い・2
朝あんなに晴れていた空は何時の間にか低い雲に覆われて、隙間から覗く僅かな蒼も、昼にはすっかり隠れてしまった。
校舎のベランダへ出ると妙に冷たい風が吹いていて、急に季節を飛び越えたようだ。
省吾は食事を終えると、なんとなくベランダの手すりに肘を着いて遠くの空を眺めた。
家並みの向こうには、東京ガスの丸い緑色のタンクが小さく見えて、今にも怪獣が現れて、その辺一帯で暴れまわりそうなこの風景が、密かに彼は気に入っていた。
「なに黄昏ちゃってんの?」
教室の窓から声を掛けて来た愛香は白いカーデガンを羽織っていた。
朝は着ていなかったが、おそらく鞄にでも押し込んできたのだろう。
「別に」
省吾は少しだけ振り返って応える。
「今朝の事気にしてる?」
「いや、別に」
今朝愛香から聞いた奇妙な噂話しは、あまりに突拍子も無い為、彼には今ひとつピンと来ないと言うのが本音だった。
わざと心停止させて再び蘇生させるなんて、素人が考えてもあまりにリスキーに思える。最近流行のナックル系雑誌にでも載りそうなネタだ。
「外、寒くない?」
「ああ、ちょっとな」
省吾はそう言って、身体を完全に愛香に向けると、ベランダの手すりに背を当てた。
彼女は窓から手を伸ばしてチョコレートの着いたクッキーを袋ごと差し出す。
「食べる?」
いつの間に何処で買ってくるのか、コンビニの100円コーナーによくあるお菓子だ。
省吾は左手を伸ばして一つ摘むと、それを口に放り込んだ。
その時、冷たい風がゴォッと吹き抜けた。
怪しい雲行きだった空は、あっという間に夕暮れのようなほの暗さに包まれると、突然バタバタと音が聞こえて、教室の中にいる連中も一斉に窓の外を振り返る。
「何? 雨?」
愛香も省吾の身体越しに空を見上げる。
あっという間に校庭の色がくすんだかと思うと冷たい飛沫を感じて省吾はベランダの手すりから身体を離す。
ベランダの少し離れた場所にいた数人の女子が「ぎゃー」と、奇声を発しながらドアから教室へなだれ込んだ。
省吾は愛香の乗り出していた窓から直接教室へ飛び込むと、急いで窓を閉める。とたんにその窓ガラスには激しく水滴が飛び散った。
外は一瞬で雨で煙っていたが、さらに雨脚は強まって風が吹き付けると、ザブザブとバケツで水をかけているように窓ガラスの景色は歪んだ。
「凄い雨」
教室の中にいる連中は、しばし呆然と外の景色を眺めていたが、見ていてもどうしようもない事に気付くと、再びそれぞれにお喋りを始める。
パッと省吾の頭に小さなタオルが飛んできた。
「頭拭きなよ」
愛香が放り投げた彼女のタオルだ。ミッフィーの絵が描いている可愛らしいものだった。
省吾はそれを両手に掴むと
「サンキュ」と言って、頭をゴシゴシと拭いた。
濡れたせいか、何時も愛香から香る甘いコロンの香りがタオルから染み出るように辺りに漂った。
午後の授業中には一端雨はあがり雲の切れ間から僅かに陽が注いだ空だったが、放課後には再び雨が地面を濡らしていた。
昇降口の電気は何時も半分しか灯っていない為、窓から光が入らない今日は妙に薄暗い。
その先にある体育館へ向うバスケ部の連中が通り過ぎる。
「省吾」
去年まで同じクラスだった、坂上圭介だ。
「あれ? 圭介はまだ部活?」
「ああ、今日は紅白戦の助っ人」
そう言って手を上げると、手に持ったバックを肩に掛け直して足早に歩き去る。
それに応えて省吾も手を上げて見せると、下駄箱の暗い影に挟まれながら靴を履き替えていた。
「たまには一緒に帰ろうよ」
昇降口で声を掛けて来たのは愛香だった。
「ああ、別にいいけど」
「駅までだけどね」
彼女が冗談っぽくそう言って笑うと
「今日は澪は来ないんだ」
省吾はナイキに自分の足を押し込むと、上履きを靴箱に戻した。
聞き覚えの無いその澪という名が、例の彼女だと言う事は愛香にも直ぐに判った。
「ああ、そうなの」
さり気なく帰す愛香の胸の鼓動は、いっぺんに高鳴っていた。
彼女が省吾と一緒に電車に乗ったのは、おそらく五月の終わり頃が最後だろうか。
その時は部活がたまたま休みで、帰り際に寄った駅前のコンビニで省吾と会ってそのまま一緒に帰ったのだ。
もちろんその時は澪の存在はなかった。確かに彼は既に毎朝澪を見つめながら登校していたのだが……
とにかくそれ以来愛香は部活が忙しくて、偶然を装うにも出来ない状態で省吾と一緒に帰る事なんて出来なかった。
愛香は何故省吾に心を惹かれたのか……
それは中学時代に遡る。
神崎愛香と北原省吾は当然のように中学校は一緒ではなかった。
彼女は小さい頃から楽器が好きでピアノ、バイオリンと齧ってきたが今ひとつピンと来なかった。
区立の中学に入って吹奏楽部に入部するとフルートの音色に魅了されて、直ぐに自分のフルートを購入し、特訓して6月の定期演奏会には既にレギュラーメンバー入りした。
今でこそ見た目は多少チャラチャラした愛香だが、意外と頑張り屋なのだ。
そんな彼女も中学三年の夏休みには、部活をサボって好奇心旺盛な仲間と渋谷に繰り出したりして夜中まで遊び歩くようになった。
この頃既に今の身長、160センチに達していた愛香はパッと見はもう高校生にも見える。
覚えたてのタバコや酒は、みんなよりもひと足早く大人の仲間入りをしたのだと、彼女に錯覚させた。
校則がうるさかったので髪は黒かったが、ちょっとマスカラを塗って淡い色のグロスを引けばいくらで高校生や大学生からナンパの声がかかった。
もちろん、元々睫毛の長い彼女はスッピンでも声はかかる。ただ、ロリ系の援交オヤジや怪しいプロダクションのスカウトも多いのが難点だ。
しかし、ウザい、キモイと言いながら、次々に声のかかるのは気持ちがいい。
愛香はそんなウソと欲情で固められた扉の向こうへ、僅かに足を踏み入れていた。