【12】顰める想い・1
見慣れた朝の喧騒に包まれて、省吾は自動改札へ定期を差し込む。
目の前を歩くOLのタイトスカートの、後ろみごろの合わせ目が少し右にズレているのを見つけて妙に気になったが、わざわざ声を掛けて教えるほどでもない。
あまりそこに視線を向けるのもおかしいので、まあいいかと、ひと事として片付けて視線を上げる。
周囲には同じ学校の連中も大勢いるが、顔見知りでもよほど親しい仲でなければいちいち声は掛けない。それが朝の仕来たりと言うか、それだけみんな学校へ向う事で頭がイッパイなのだ。
「おはよう」
省吾が駅の階段を下りた所で、後から肩を掴まれた。
華奢でしなやかなその手が男のものでない事は、掛けられた声と同時に感じた。
「あれ、愛香。今日も朝練なし?」
後から声を掛けてきたのは神崎愛香だった。
「なに言ってるの、昨日のコンクールで三年は終わりよ」
「ああ、そう言えばそうか」
愛香の艶のあるキャメルブラウンの髪の毛が、秋風にサラサラと舞う。
「彼女、元気そうじゃない」
今朝も電車では澪と一緒だった。同じ電車の愛香は、気を利かせて駅を降りるまでは省吾に声を掛けなかったのだろう。
「ああ、普段はね」
「週一回の治療って、まだやってるの?」
「ああ、そうらしい。あと、時々精密検査で学校を早退したり、遅れて行ったりね」
「見た目はあんなに元気なのにね」
愛香がそう言って怪訝そうに微笑むと
「でも、ちょっと色白かな」
そう言う愛香も夏の日焼けがだいぶ収まって、白い指先で髪の毛先を玩ぶ。
「ねえ、お父さんから変な噂を聞いたんだけど……」
愛香は遠慮がちに言った。
「この前ショウさ、彼女は死ぬほど辛い治療をしているって言ってたよね」
「ああ」
「なんかさ……」
愛香はそこで躊躇して言葉を飲み込む。
「なんだよ」
省吾は視線を愛香に固定したまま歩き続けた。別に必死で前を見ていなくても、この歩道は真っ直ぐな一本道だし、もう二年以上も通っている道だ。
「なんか……臨死させる治療があるって、医師の間でも噂があるらしいの」
「臨死?」
普段あまりにも聞き慣れないその言葉に、省吾は眉を潜めた。
「一端死なせて……正確には心停止させて、直ぐに蘇生処置を施すんだって」
「それがいったい何の治療になるんだ?」
「判んないよ。何か、そうすると病状の進行がリセットされるんだって」
「リセットされる?」
後から自転車が来た事に気付いて、省吾は愛香の肩に手を添えると歩道の内側に押して、自分も同じ方向に動いた。
愛香は一瞬その仕草に胸の高鳴りを覚えるが、それを覚られないようにグッと平静を保って彼の横を過ぎる自転車を目で追った。
「そんなに何度もやれるのか?」
省吾はそんな愛香の心の動きなどは全く気づかずに、言葉を続ける。
「判んないよ。でも噂では、原因不明の血液の病気で、症状はよく知らないけど……その病気の進行は心停止させる事によって正常な状態に戻せるって」
呆然とその話に聞き入る省吾の腕を掴んだ愛香は
「でも、噂だよ。そんな噂が医師の間にあるって。お父さんも人伝に聞いただけでよくは知らないらしいから」
しかし省吾はそれがどうして澪と繋がるのか、直ぐには判らなかった。
ふと視線を上げると、高高度を飛ぶ旅客機の引く飛行機雲の白い線が、虚空に一本見えた。
「死ぬほど辛い治療じゃなくて、実は本当に死んでる……とか」
愛香は再び遠慮がちに呟くように声に出すと、それに反応した省吾は思わず立ち止まる。
「……まさか」
冗談を受け流すような、脅えるような複雑な笑みを彼は浮かべた。
教室に入って自分の席に着いた省吾は、何か物足りなさに気付き辺りを見回す。
「あれ、裕也がいないじゃん」
「本当だ、珍しい」
前の席に腰掛けた愛香も窓際の彼の席を見て呟いた。省吾は真ん中の列の一番後ろ。裕也は窓際の一番後ろの席にいた。
省吾はふと携帯を取り出すと、着信ランプが点いている事に気付いた。裕也が学校を休むなら、何か連絡があってもいいのでは。そう思ったのだが、やっぱり彼からメールが入っていた。おそらく電車内で着信したのだろう。
『風邪で休む。報告頼む』
メッセージはそれだけだった。
ちょうどチャイムが鳴って、品疎な風貌の男性教師の担任が教室へ入って来る。
「ああ、今日は休みはいるかな」
担任の荻野勤は、出席簿を一瞥した後、教室の中を見渡す。
いちいち全員の出席は取らない。休みは誰か探すだけで、それで終わるのが何時もの事だ。
省吾は仕方なく担任に声を掛けると、裕也が風邪で休む事を伝えた。
もちろん、職員室に電話を入れるのが本来の義務なのだろうが、最近は友達にメールで連絡を頼む連中も多い。
だいたいそれで無断欠席は免れるのだ。もちろん、厳しい学校ならそれは通用しないのだろうが……
省吾はちょっぴり空虚な気持ちに浸って、空いた裕也の席を眺めた。