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観察  作者: 文屋カノン
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交わってはみたものの

 いよいよ芦沢小春とデートです。これまではスローな展開だったのに、このデートで二人の仲は一気に進展します。

 デパート前の路上にチャリを停めると、オレは自動ドアを通り抜けて、デパートの中に入って行った。北風の感触を心地好く思っていたはずだったのに、暖房の効いた店内の空気はやはりホッとする。芦沢小春に居場所を尋ねようとオレはケイタイに手をかけたが、電話をかける前に、彼女の姿を見つけることが出来た。

 今日の芦沢小春は白い比翼仕立てのコートの下に、ベージュのパンツを履き、黒い尖ったブーツを覗かせ、首元にはピンクのストールを巻き、白革のショルダーバックを小脇に抱えており何だかOLみたいだった。けれど年の頃は二十歳そこそこの、つまりは短大出のOL一年生が、会社帰りにブラブラと、ウィンドーショッピングをしているみたいに見えた。

 遠目に芦沢小春を眺めながらオレは、一昨日彼女に対し、若く見られたくないのならなぜカジュアルな服装をしていたんだろうと、考えたことを思い出した。どうやら芦沢小春に対しそれは酷な疑問だったようだ。こんなコンサバな服装をしていても、結局は五つ近く年下に見えてしまうのなら、何を着てもある意味同じだ。だったらその日の気分で着たい物を着たいだろうという気がした。

 オレがデパートに入って来たことに気付かないらしい彼女は、通りすがりのショップの、スプリングコートを手に取ると、近くの姿見の前でそっと体に合わせ始めた。

「いいじゃん。似合うじゃん」

 そう言って芦沢小春に近付こうとしたオレの先を越して、年の頃二十二、三の女店員が

「いいじゃん、似合うじゃん」

 と彼女に話しかけた。芦沢小春の瞳に戸惑いと苛立ちの入り混じったような色が浮かんだ。彼女の

「若く見られたって、いいことばっかじゃないよ」

 というセリフをオレは改めて思い出した。

 明らかに自分より年下の店員に、タメ口をきかれてはさすがに面白くないだろう。多分彼女は、このような種類の苛立ちを幾つも知っているのだ。それでいて世間の人々には

「若く見えて、得だね」

 などととんちんかんなことを言われてまずますストレスを溜めているのだ。そしてこのオレも、一昨日芦沢小春にストレスを与えた一人だったのだ。

 それにも関わらず、オレを誘い出してくれるなんて、彼女は何て優しい女なんだろう。オレは感動に胸を震わせながら「小春ちゃん」と呼びかけた。その声にこちらを振り向いた彼女は、パッと顔を輝かせると、持っていたコートを戻し、ショップを飛び出して来た。

 余ほど先ほどの店員が気に入らなかったのだろう。早足で飛び出して来た芦沢小春の肩で、緩く巻かれた髪がフワリと揺れた。彼女の完全なダウンヘアを見たのは、これが初めてだった。オレはその髪型を素直に可愛いと思った。

「急に、ごめんね」

「いや全然いいよ。どこに行く?」

「毛利君は、何時まで大丈夫?」

 オレは明日の夕方まで大丈夫なのだが、そんな答え方をしては、思いっきり引かれてしまうだろう。そこでオレは「何時でも」とワクワクしながら答えた。こんな質問は、芦沢小春が長居をしたがっている証拠だからだ。

「あたし今日はとことん飲みたいんだ。でも外風強いでしょ。だから店はハシゴしないでひとっところに腰落ち着けて飲みたいのね。だからなるべく近所で長居出来そうで、とことん飲めるとこっていったらどこ?」

「俺んち」

 無理を承知で、そう答えてみた。探せば彼女の言う条件に見合った店もあるのだろうが、K市の中心部は最近空洞化が進んでいて、遅くまで開いている安い居酒屋を探すのは困難だったからだ。とはいえ別に安い店である必要は無いのかも知れないが、長く飲むとなると金がかかる。だったらいっそのこと、家で飲んだ方が安上がりだと、貧乏学生であるオレは考えたのだ。

 芦沢小春は、冗談だと思ったのか、「ええ?」と目を見開いて笑った。年上の女がちょっと意外そうな顔をするのは、ふとこぼれた素の顔を見ているようで何だか心地好かった。

「オレんちここからチャリで十分かかんないよ。後ろ乗ってきなよ。下で何か食うもん買ってけば安上がりだしさ」

「でもあたし、帰り電車なんだよね」

「時間になったら送ってあげるよ。チャリンコで」

 無理かなあと思いながらオレはそう提案してみた。帰りは電車とはいえ、地方暮らしの二十五歳である彼女は普段の移動はおそらく車だろう。そんな女が、この寒空の下チャリに揺られるような選択をしてくれる可能性は、低い気がした。

 年上女と関わるということは、こういった生活レベルの違いを実感することでもある。芦沢小春はこれまでに、自分と年回りの合う何人もの男と関わってきただろう。彼らは彼女を助手席に乗せこそすれ、決してチャリの二ケツを提案したりはしなかっただろう。その上でオレが今出したアイディアは、芦沢小春にとっては決して魅力的なものではないはずだ。

 けれど彼女は、何と

「じゃあ、そうしよっか」

 とつぶやいた。オレは自分の案でありながらびっくり仰天した。いやはや何でも言ってみるもんだなあと思う。

 デパ地下に降りたオレたちは、あれこれと相談しながら惣菜を買い漁った。彼女の買いたがる物は、全てオレにも美味しそうに見えたので嬉しかった。

 和音とは食べ物の好みが全く合わず、その辺も別れの原因の一つだったのだ。食の好みというものはある程度の相違は仕方無いが、あまりに相違点があると、相手の人格すら受け入れがたくなってくる。和音のことは、最初は料理が下手だからこそ、上手になろうとしてやたらと料理を作る女なのかと思っていたのだが、その内彼女と、味付けの好みがあまりに違い過ぎることに気付き、額然としたものだ。

 食の好みなど、どちらが正しいとか間違っているなどという問題では無いかも知れないが、しかし桃の味噌汁やら、ユンケルの煮込み料理やらといった物を作られると、何だか憎しみが湧いてくる。作ってくれると言うから、乏しい生活費の中から食材費を渡していたというのに、その貴重な財源で訳の分からん料理を作られては、生存の危機に直面してしまう。

 別に和音は、オレを殺そうとしていた訳ではないだろう。しかしオレが生活費に窮していることや、二十歳の男にとって、食事というものがどれだけ大事な物かということを、ちっとも把握していなかったということは言えるだろう。

 オレは、恋人の前で見栄を張っても仕方が無いと思っているから、生活がそう楽ではないことや、兼業農家で育ったから、食べ物を粗末にするのが嫌いなことは伝えてあった。ところが彼女はオレの言わんとすることをさっぱり理解しなかった。カレシが貧乏なら、料理を作ってやりさえすればいいとでも思い込んだのか、頼んでもいないのに、やたらと押しかけては変てこな料理を作るので、オレは度々困惑していた。

 とはいえ、せっかくの和音の好意を無にしてはいけないと思い、最初は我慢していた。だがその内彼女がレシピを無視して変な物を作っているということに気付き、理由を尋ねると

「だって、普通に作ったってつまんないじゃん」

 と答えた。オレは呆気に取られた。よくもまあ自分が楽しむためだけに、人の金で変な料理を作れたものだと思う。

 オレは和音のその行為以上に、それを全く悪いことだと思っていない彼女に失望し、別れることにしたのだ。和音はオレを「好きだ」と言っていたし、多分本当に好きだったんだろうとは思う。けれどそれは身勝手な好意だった。オレは和音にとって彼女を楽しませるための玩具に過ぎなかった。

 いやひょっとしたら、オレは玩具以下だったかも知れない。気に入りの玩具が壊れてしまわないように大切に扱う者も少なくないというのに、和音は変な食生活で、オレの体が壊れてしまう可能性には、無頓着だったのだから。

 だが別れた後オレの気は塞いだ。玩具以下の扱いをされながら、それでも玩具以下の存在であるオレに対する得手勝手な和音の好意の記憶が、いつまでもオレを苦しめた。失意の中でオレは、せめて和音が根っからの料理下手だったら良かったのにと思った。

 けれどこうして、芦沢小春と楽しく惣菜を選んでいると、自分がおかしなことを考えていたと気付くことが出来る。そもそもオレは、少々お子様テイストではあるものの基本的にはノーマルな食の好みを持っている方だ。だったら食の好みくらいは、自分と合う女を選んでもいいはずだ。出来れば料理下手ではない女を望んでもいいはずだ。

 例えば芦沢小春。食の好みは今のところ合格。料理の腕前は不明。出来ればあんまり下手じゃない方が嬉しい。でも彼女だったら下手でも許してしまいそうだとも思う。とりあえず好みさえ合っていれば、もう後は、受け入れてしまいたいような気もする。こういうのが惚れた弱味というものなんだろうかと思う。

 惣菜を買い込んだオレたちは、チャリでえっちらおっちらとアパートへ向かった。北風は相変わらずうなり声を上げていたし、二人分の体重を乗せたチャリは少し重かったけれど、オレの心は弾んでいた。全く人生はどこで何が起きるか分からない。今年は気の重いバレンタインになりそうだと思っていたが、なかなかどうして今夜は楽しい夜になりそうだ。

 アパートのドアを開け芦沢小春を促したオレは、中に入ると、急いでファンヒーターを点火した。「お邪魔しまーす」と言いながらブーツを脱いだ彼女は、キッチンを通り抜けてワンルームに入ると

「へえ、割と片付いてるね」

 と月並みな感想を言った。

 全く昨日、三浦が来てくれて本当によかったと思う。来訪時には必ず掃除を終えてから帰宅する彼のおかげで、オレの部屋は随分と片付いていた。

 とはいえその後で敷いた布団はそのまま敷きっ放しになっていたし、こたつの上には、昼食に食べた冷や奴丼(飯の上に、豆腐と鰹節と生姜と醤油をかけるだけ。さっぱりして美味い)の丼がまだ残っていたので、先ほどの芦沢小春のセリフは、お世辞ということになるだろう。しかし昨日三浦の訪問が無ければ、オレはお世辞すら受けられなかったんだから、ありがたいことだ。

 オレは芦沢小春の社交辞令をとりあえず流すと、こたつの上を片付けながら、「座って」と勧めた。彼女はコートとストールを脱ぐとこたつに入って惣菜を卓上に並べ始めた。コートの下に着ていたのは、アーガイル調の水色のカーディガンだった。

 やっぱり今日の芦沢小春は、OL風に見えるけれど、見ようによってはまだ学生にも見えた。後で何の仕事をしてるのか聞いてみようと考えながら、オレも真似してダウンとマフラーを脱ぎ捨てた。部屋はまだ暖まってはいなかったけど、ダウン姿ではやはり動き辛い。

 パーカーにジーンズ姿になったオレは、冷蔵庫に向かいながら

「何飲む? うちにあるのは第三のビールと焼酎だけど割るやつなら結構あるよ」

 と彼女に尋ねた。今日の昼間に酒を買い込んであったため、デパ地下では惣菜しか買わなかったのだ。

「とりあえず、第三のビール」

「じゃあ、オレもそうしよ」

 缶入りの第三のビールを二つこたつの上に運ぶと、オレと芦沢小春は乾杯をして、第三のビールに口を付けた。オレが一口飲む間に、芦沢小春はゴクゴクと喉を鳴らして第三のビールを流し込んだので、オレは一瞬、呆気に取られながら、彼女の「あたし今日はとことん飲みたいんだ」という言葉を思い出していた。

 突然の誘いといいこの飲みっぷりといい、何かあったんだろうかと思いながらオレは

「何か、飲みたくなるようなことでもあったの?」

 と尋ねた。芦沢小春とは一度飲んでみたいと思っていたし、こうして家でゆっくり飲めるのは嬉しいことなのだが、彼女はもしかして自棄飲みをしたいんだろうか。

「飲みたくなるようなことがあったっていうか、予定の出来事だったんだけど、一昨日結局あの後、カレシと別れたのよ」

「あ、別れたんだ」

「別れるって、言ったじゃん?」

 確かにそうは言っていたが本当に別れたのかと、オレは少し衝撃を受けた。芦沢小春がフリーになったのは嬉しい気もするが、しかし手放しで喜んでいいのかどうかは、微妙なところだ。

 いやオレは彼女を気に入っているし、気に入りの女が暇になったのは喜ばしいことだ。もうカレシへの遠慮はいらないから誘いやすいし、芦沢小春が応じてくれる可能性も高くなった。オレと出会う前から別れを決めていた訳だから、奪ったということにもならず、罪悪感も芽生えない。

 しかし彼女がフリーになったということは、オレの中の防波堤の一つが決壊したことも示す。五つも年上の女だ。そして手帳に複数の男の名が書かれた女だ。そんな女に本気になってしまっては色々と厄介なことになる。出来ればオレは芦沢小春に惚れたくない。けれど彼女は「三浦くん」と別れた。それを知って尚オレは、自分の想いをちょうどいい塩梅に留めておく事が出来るだろうか。

 そんなことを不安に思いつつオレは

「それで、飲みたくなったの?」

 と尋ねた。別れようと決めて別れたのなら振られた訳ではないということだ。それなのに飲みたくなったのは、どうしてなんだろう。

「昨日友達に愚痴聞いてもらったんだけど、車だから飲めなかったんだよね。まあ別にシラフでも聞いてもらわないよりはいいんだけど、やっぱそれじゃ足りないっていうか。あたし男と別れた時は、とりあえず酒飲んでくだ巻かないと、次に進めないとこがあって」

「じゃあどんどん飲んで、どんどんくだ巻きなよ」

 芦沢小春がカレシとの別れというものを、適当に流すタイプではないことを知ったオレは、少しホッとしながらそう答えた。案外彼女は恋愛にのめり込むタイプなのかも知れない。のめり込むタイプということは、一途な女である可能性があるということだ。自分が惚れるかも知れない女が、一途である可能性があるということは喜ばしいことだ。

 とはいえ芦沢小春がオレに惚れる保証は無いのだから、そうするといずれ、彼女は別の男を見つけその男に一途になり、オレの相手をしてくれなくなる可能性もある。しかし適当に気のある素振りをされて深みに落とされるくらいなら、その方が安全だ。恋愛面である程度誠実そうな人間の方が、こちらも安心して近づきやすい。

 そんなことを思いながら、オレは立ち上がってキッチンに向かうと

「二杯目何にする? また第三のビール?」

 と呼びかけた。芦沢小春のピッチはやけに早く缶はすでに空いていたからだ。

「焼酎にしよっかなー。割るの色々あるんだよね?」

「うん、水割りお湯割りは当たり前だけど、ウーロン割りも出来るしジュースも……」

「お湯割りいいねえ。あったまりそう」

 オレは二つのマグカップに焼酎を注ぐと、湯沸し器から熱湯を出して混ぜ、冷蔵庫から梅干を出してこたつの上に運んだ。彼女は

「おー梅干まで。気が利くじゃん」

と言いながら、カップに手を伸ばした。

 梅干を落とし、両手でカップを抱えお湯割りを飲み始めた芦沢小春は、傍目にはまるでホットミルクを飲んでいる幼子のようで、何だか可愛らしかった。よそで苛められて帰って来た小さい子を見ているような気分になったオレは

「小春ちゃんのカレって、そんなに酷い奴だったの?」

 と優しく尋ねた。

 聞いたところで仕返しをしてやる訳にはいかないが、しかしせめて子供の訴えを聞いて、慰めてやりたいような気持ちだった。

「んーまあ欠点数え上げればきりが無いんだけど、別れのきっかけになったのは、手帳とケイタイを、見られたことかな」

 オレは危うく、第三のビールを噴き出しそうになった。いやはやお湯割りを飲んでいなくて本当によかったと思う。もしお湯割りに手を出していたら、火傷をしていたかも知れない。だってそうだろう? オレだって芦沢小春の手帳を盗み見ているんだから。

 オレは体中に変な汗をかきながら

「え、何で分かったの?」

 と恐る恐る尋ねた。ひょっとしたら彼女はオレが盗み見たことを知っていて、カマをかけているんじゃないかという気までした。

「だって向こうが言ってきたんだもん。『見た』って。それで『この手帳にあるこの男は誰だ?』とか根掘り葉掘り聞いてくる訳。もうあたしあったまきちゃったよ。普通手帳とかケイタイとかってバレないように見るでしょ? てゆうかこっそり見られてもムカつくけど、あの人全然悪びれてないの。そんであたしのこと追及してくんの。もうふざけんなって感じよ」

「それは、確かにすごいね」

「もう盗人猛々しいって、この人のこと言うんだなと思って、もう付き合ってらんないなと思ったの。でもさあそれで別れたからって、これでスッキリって気分にはならないんだよね。そんな根性悪い人と自分は十ヶ月も付き合ってたのかと思うと、全く何やってたのかなあって思うし、それに結局向こうが謝ってこなかったのも悔しいしさあ」

 そう言って芦沢小春は、お湯割りをコクコクと飲んだ。熱さが災いしたのか幸いしたのか先ほどよりはペースが落ちている。オレはそんな彼女を眺めながら何となく感心していた。

「男と別れた時は、酒飲んでくだ巻かないと、次に進めない」

 と宣言したのはついさっきだというのに、もうすでに宣言通りに、くだをまき始めたこの早業加減は実に鮮やかだった。

「三浦くん」との別れを聞いた当初

「あ、別れたんだ?」

 と問い返したオレに、すかさず

「別れるって言ったじゃん?」

 と切り返したことからも分かる様に、芦沢小春は、大変な有言実行タイプだということだろう。

 こういう人間は信用出来るので付き合いやすくていい。そんな風に思いながらオレは

「何で謝らなかったんだろ。手帳に他の男の名前がある方が、悪いっていう考えなのかなあ」

 とつぶやいた。手帳に書かれている男たちは何者なのか、そもそも手帳には何人の男の名があるのかを、探るためだ。

「それって管理者の視線だよね。それも一方的な管理。支配者の視線だよ。あたしはそういうのついてけない。別に男を負かしてやろうとは思わないし、ガチガチのフィフティーフィフティー目指そうとも思わないけど、そういうんじゃなくて、信頼して欲しいんだよね。男友達がいるのかいないのかどういう付き合いなのか知りたいんなら、あたしに直接聞けばいい。あたしの答えだけじゃ信用出来なくて裏が取りたいんなら、そもそもそんな信用出来ない女と付き合わなきゃいいじゃん。それなのに不安抱えながら付き合って、こそこそ探ろうとするなんて意地汚いよ。信頼出来る女が現れるまでは、誰とも付き合わないくらいのこと、何で思えないのって思う」

「結局カレは、どうしても小春ちゃんと付き合いたかったってことじゃないの」

 意図する方向へ会話が進まず、ガッカリしながらもオレは答えた。

 芦沢小春の言うことはもっともだし、それに彼女は有言実行タイプだから、自分は信頼に足る人間だという自負は人並以上にあるんだろうとは思う。しかし人間というものは、そんなに人を見る目が、ある訳ではない。

 現に芦沢小春は、実年齢を誤解されまくっているし、オレだって彼女の年齢を誤解していた。それどころか単なるタイツの伝線からエッチな誤解をしたし、本屋では彼女が、万引きをしようとしているのではないかと勘違いした。前述したように幼い頃はカレールーと板チョコを混同していたし、とにかく人間というものは誤解をするものなのだ。つまり人間というものは、自分の観察眼や洞察力に自信の無いものなのだ。

 それにも関わらず、本当の信頼感が持てる女が現れるまで女断ちをしていたりしたら、替えのパンツが幾つあっても、間に合わなくなってしまう。つまり信頼出来る女が現れるまでは誰とも付き合うなというのは、夢精をしない女の理屈であって、男は洗濯に於ける手間を省くためには、疑わしい女であれ何であれ、惚れた女と付き合わなければならないのだ。

 とはいえその疑惑の心が、「三浦くん」にとっては、手帳とケイタイの盗み見という行為を生んだ。パンツを洗う回数を減らしたところで、盗み見という行為が発生するなら、手間がかかるという点では同じではないかという考えもある。しかし盗み見をする人間は、そもそも盗み見ることを手間だとは考えていないのだから、その辺は問題が無いのだ。

 しかしながらそれを

「管理者の視線。一方的な管理。支配者の視線」

 と糾弾する芦沢小春の気持ちも分からなくはないが、しかし完全には分からない。

 確かにオレは男だから、ある程度女に対しての支配欲を持っている自覚はある。とはいえオレは封建的な亭主関白であるオヤジを嫌っているだけあって、女を徹底的に、支配しようとは思っていないが、しかし何だかんだ言って女は、支配されたがっているという話も聞く。

 その話が本当かどうか、あるいは女によって違うのか、女によって違うのはいいことなのか、男にとっては男によって違うものなのかあるいは違っているべきものなのか、オレにはよく分からないのだ。だからこそ先ほどの彼女の

「男を負かしてやろうとは思わないし、ガチガチのフィフティーフィフティー目指そうとも思わない」

 という発言には興味を惹かれた。

 この辺を追及すれば、何がしかの新しい視線を提示してもらえそうな気がする。若く見られるマイナス面を提示してくれた件のように、オレにまた新しい見方を指し示してくれそうな気がする。しかし今や会話のテーマは、「信頼と男女交際について」になってしまっているので、それを「支配欲と男女交際について」に変えるには、しばらく様子を見てからにしなければならない。

 そんなことを考えながら前述の発言をしたオレに対し、芦沢小春は

「どうしてもあたしと付き合いたかった人が、何で手帳とケイタイ見た件は謝んないのさ。謝れば許したかも知んないのに」

 とたどたどしい口調で不平を鳴らした。どうやら彼女は少々酔い始めているようだ。

「謝っちゃったら、手帳とケイタイに載ってる男が誰なのか、追及出来なくなるからじゃないの?」

「つまりあたしとの別れを視野に入れても、追及する方を選んだってことでしょ。あたしを信用出来ないんなら最初っから付き合わなきゃいいのに、気軽に付き合って、それでいざ付き合い始めたら、今度は別れの危険を冒してまで人のプライバシー侵害して、そして別れの危険を冒してまで、あたしを追及したかったって事でしょ。そういうのがあたしは嫌なの。あたしを信用出来ないんなら最初から近付かなきゃいいのに、敢えて近付いて疑うようなことされたくないの。そんなことされたらこっちは傷付くじゃん」

「疑うっていうか、小春ちゃんは可愛いからカレもきっと不安だったんだよ」

 何だか自分のことを言われているような気分になりながら、オレは答えた。オレも「三浦くん」と同様に芦沢小春を疑いながら彼女に近付いたからだ。しかし「三浦くん」とオレは、少々違う。オレは最初は芦沢小春を気に入って近付いた訳ではないからだ。だから確かに、芦沢小春の、「三浦くん」に対する憤りは分かる気もする。しかし最初のきっかけは何であれ、結果的に現在彼女を疑いつつ近付いているオレにとっては彼女の憤懣が痛かった。

 すると芦沢小春は

「不安なんて持つ資格があった人だと思えない。体験人数三桁超えてたし、そんな人と付き合うことになって、こっちの方がよっぽど不安だった」

 と言い放つと、冷めかけたお湯割りをゴクゴクと飲み下した。オレは腰を抜かしそうになった。確かにそんな男に男関係を疑われては心外に思うだろう。

「三桁超えてたってのは、すごいね」

「あたし正直言って、そういうの理解出来ないんだよね。今までに百人斬りやった人には二人会った事あるし、百歩譲って、百人斬りならまあ理解出来なくもないかなっていうか、キリのいい数字だから、目標として掲げるには、まあ分からないでもないかなって感じだけど、カレは『百三十人数を超えた辺りから数えるの止めたから、正確な数字は分かんない』とか言って。だから単純に性欲だよね。でも性欲だけで普通百三十人以上も斬れる? あたしと同い年だよ。一体どれだけの貴重な時間を女斬るのに使ったんだって感じでしょ。そこまでの女好きに対してあたしは何も探ったりなんかしなかったのに、何であたしが探られなきゃなんないのって感じだよ。ほんっとにムカつくよ」

 オレは目を丸くしながら彼女の演説を聞いていた。まず世の中に、そんなにも三桁の体験人数の男がいることにたまげてしまった。いやテレビや雑誌の中には、そういった男も出てくるが、こんなK市近辺の片田舎に少なくとも三人はそのような男がいることが意外だった。当然のことながら、田舎は人口が少ないため、必然的に知り合える女の数は少なく、また必然的に、好みの女と知り合える確率は少ないのだ。

 そんな中で三桁以上の女を斬るためには、都会人以上の積極さを持つ必要が生じる。こんな片田舎で三桁以上の女を斬っているということは、ひょっとしたら、シティーボーイが四桁の女を切るのに、匹敵する難業と考えられるかも知れない。そんな難業を成し遂げた男が、この近辺に少なくとも三人は生息しているなんて、のどかな地方都市のイメージを覆す大事件だ。

 それにも関わらず、そんな男に対し、百人斬りならキリのいい数字だから分からないでもないとの見解を示す芦沢小春も、何だかすごく大物だ。キリがいいとか悪いとかの問題ではない気がするのだが、しかしプレイボーイを、何とか新たな視点から理解しようとの試みをする健気さは好感が持てなくもない。とはいえ芦沢小春は、百三十人以上を斬った男を嫉妬に狂わせた女なのだと思うと、何だか背筋が寒くなった。

 オレは恋愛の経験値を大人の目安として捉えてきたのに、彼女のエピソードにより、それが覆されてしまったのだ。人はどれだけ恋愛経験を積んでも、不安や嫉妬から解放されない。だとしたら一体どうしたらいいんだろう。目の前の女に対する支配欲を満たし不安や嫉妬から逃れるためには、一体どうしたらいいんだろう。

 にわかにおびえ始めながら

「でもオレ、そのカレの気持ち分かるな」

 と言うと、オレはぬるいお湯割りをぐいっとあおった。焼酎をカップに注ぎ足していた芦沢小春は、オレの顔を見て「え?」とつぶやいた。

「そんだけ女知ってる男でも、小春ちゃんに対して不安隠せなかったってことでしょ。分かるよ。オレだって小春ちゃんと一緒にいると不安になるもん。そんだけ経験ある奴を不安にさせる女なら、大して経験無いオレが不安になるのも当たり前だよなって思う」

 そんなことを言うつもりは全く無かったのに、オレはふと本音を漏らしていた。普段だったらこの程度の告白でも、言うか言わざるかを吟味した上で打ち明けるオレなのに、吟味どころか決意すらしない内に、本音を漏らしていた。

 あ、酔ってるなとオレは何やら他人事のように考えた。発言に自制心を欠き始めている。けれどやばいなとは思わなかった。むしろ憎からず思っている女の前で、本音を漏らすことが気持ちよかった。

「不安って?」と芦沢小春が聞き返すや否や、オレは「好きなんだよ」と答えた。ああ言っちゃったという思いと、いや言っても構わないはずだという二つの思いが、オレの胸を去来した。そもそもオレは芦沢小春をいいなと思ったからと言って、一昨日ナンパしたのだから、オレが彼女を好きなのは当たり前なのだ。当然のことを口にするのは、当然だという気がした。

 当然で本当のことを言うのは、全然悪いことじゃないと思った。それにオレは一昨日、芦沢小春をいいなと思ったからとナンパしたんだから、彼女だってオレの気持ちを承知の上で、今夜ここに来たはずなのだ。

 芦沢小春がどれくらい具体的にオレの好意を承知しているのか、知りたくなったオレは、彼女を抱き寄せるとそっと唇を合わせてみた。その唇は驚く程に官能的で柔かく、不意に脳裏に、三日前に見たグラスの残り紅が浮かんだ。結局あの口紅が、芦沢小春のものかあるいは鷲澤桃子のものかは分からずじまいだったが、オレは確かに、あの残り紅の持ち主と唇を交わしていると確信した。

 言葉を交わすことさえ不可能と思われたあの残り紅の女の唇を、オレは今味わっている。何だか信じられない奇跡が起こったような気がした。その奇跡が奇跡であるゆえに、オレは貪欲になった。

 出会った時にきちんと眺めておかないと、あっという間に掻き消えてしまう虹のように、虹の根元を見届けようと、虹に向かってひたすら歩いた幼年時代のように、オレは煌めき始めた奇跡を逃すまいと、芦沢小春の体を掴み、彼女を布団に引っ張り込んだ。寝たくなったらいつでも寝られる本能剥き出しのだらしない万年床。その上でオレは、気忙しく芦沢小春の服を脱がせ始めた。

 酔いのせいか残念ながら、その後の細かいディティールはよく覚えていない。よみがえるのは断片的な記憶だ。

 闇に浮かぶ芦沢小春の白い体を眺めて、なぜかホワイトチョコレートを連想したこと。今日はバレンタインだから、オレは惚れた女から、甘い甘いホワイトチョコレートを受け取るんだと肯定的に考えたこと。彼女の下着を脱がしながら、つい先日、観察を怠ったことを悔いた脚から今は下着を剥ぎ取っているという事実に、不思議を感じたこと。

 オレの愛撫に応える芦沢小春を見て、彼女は「三浦くん」の腕の中でも、こんな顔をしていたんだろうか。いや百三十戦練磨以上の「三浦くん」は、もっともっと彼女を反応させていたんだろうかと嫉妬に駆られたこと。けれど芦沢小春の中に入った途端、不安と嫉妬が全て消えてしまったこと。彼女の体がとても温かかったこと。酷く高揚していたのになぜかはっきり北風のうなり声を、耳が捉えていたことなどだ。

 温かさに包まれるようにしてオレは眠りに落ちた。もうこれで大丈夫だと思った。芦沢小春と出会ってからの様々な不安が、全て馬鹿馬鹿しいものに思えた。彼女は確かにオレの腕の中でオレと一つになった。だからもう大丈夫だと考えたオレは安らかな眠りの中に落ちた。



 けれど飲酒後の安眠は長くは続かない。不意に尿意にせっつかれたオレは、のろのろとトイレへ向かって行った。

 辺りは暗くひんやりとしている。オレはぼんやりした頭で下半身をまさぐったが、いつまで経ってもなぜか目当ての物がつかめなかった。オレはぎょっとして下半身を見た。何とオレのペニスは無くなっていた。突き上げるほど強烈な尿意がオレを襲っているというのに、用を足すための物が無ければ、放尿が出来ない。

 一体どうして? これじゃ困る。これじゃあ用が足せない。

 今まで味わったことの無いような大きな恐怖が到来した。その時オレは、ようやく目を覚ました。

 夢だったのか。オレはホッと安堵の溜息を漏らしたが尿意だけは現実のものだった。寝床から起き上がると、オレは芦沢小春を起こさないように灯りを付けずにトイレに立った。右手が確かに下半身の控え目な突起物を捕らえ、オレはようやく尿意と恐怖から解放された。

 よかった。ちゃんとあった。無くしてしまいそうなほど小さなものとはいえこれが無くなったら困るもんな。オレはクスリと微笑むと、それを大切にトランクスの中にしまい、トイレから出て部屋に戻った。

窓の外から入る街灯の僅かな光が、布団の端で眠る芦沢小春の姿と、その横に出来た窪みを薄く照らす。オレが先程まで眠っていた場所。彼女の隣で眠っていた場所。

 こんな狭い寝床の中で二人が眠っていたことに、今更ながらに驚きながら、オレはその窪みにそっと体を沈めた。自分の部屋の自分の布団なのに、侵入して芦沢小春のスペースを侵食してしまうことが、何だかとても申し訳ないことのような気がした。

 オレまだ緊張してるのかな。そう思いながらオレは固く瞼を閉じたが、その時ふと気付いた。「まだ緊張してる」? オレがいつ緊張してた? 一番緊張するべきだった性交時にオレは全く緊張してなかったじゃないか。

 突然、ものすごいい緊張感がオレを襲い始めた。一体どうして、あの時もっと緊張して慎重に行動しなかったんだろうと思った。あの時感じるべき緊張感を放棄したせいで、今更ながらにオレに襲いかかった緊張感はあまりに強烈で、恐怖と呼べるほどになるまで膨れ上がった。その恐怖は先ほどの悪夢の記憶を呼び起こし、オレは痛烈な恐怖に突如震え始めた。

 それでも最初は馬鹿馬鹿しいことだと思った。あれは夢だったのだ。悪夢にうなされ目覚めた後も尚、悪夢の残像におびやかされ眠れなくなるなど馬鹿馬鹿しいことだと思った。けれどその内オレは、恐怖の正体に気付いた。オレは先ほどの悪夢のせいで、眠れなくなった訳ではない。あれは単なるきっかけに過ぎなかったのだ。オレは今現実的におののいているのだと。

 一体なぜセックスの後には、もう大丈夫だと思ったのか、オレはさっぱり分からなくなった。一体何が大丈夫だというのだろう。オレたちはただ単に体を交えただけで気持ちはまだ確かめ合っていないのだ。

不意に傍らにいる彼女を揺さぶり起こし、どうしてオレと寝たのかと、オレのことをどう思っているのかと問い質したい衝動に駆られた。

 けれどそれは実行する訳にはいかなかった。どうしてもそれを尋ねたいのなら、行為が終わった直後に質問するべきだった。いや本当なら、行為を実行する前に確認するべきだったのだ。

 順番を逆転させてしまったオレは、今はただ、再度の眠りの到来を待ち侘びるしかなかった。もう一眠りしそして芦沢小春の目覚めを待ち尋ねるしかない。

 いや……、性急な情事の後の慌しい朝にそんな重苦しい質問は興醒めかも知れない。ならばせめてオレは彼女に

「次は、いつ会える?」

 と尋ねよう。ややこしい話は次に回してせめて約束だけを取りつけよう。

 そう決意したのに睡魔はさっぱりオレの元を訪れてくれなかった。当然だ。オレが次の約束を持ちかけるまでもなく、「これっきりにしようね」と告げられてしまう恐れがあるからだ。

 芦沢小春が今夜のことを後悔していないとなぜ言える? 彼女はカレシと別れた直後だった。そして酩酊していた。そんな時に知り合ったばかりの五つも年下の男、それも駅ビルで自分をつけ回していた怪しげな男、しかも共に酔っ払っていた相手と営んでしまったのだ。自棄になって馬鹿なことをしてしまったと、無かったことにしようと考えていたとしても、全く不思議ではないと、オレは気付いた。

 一体どうしてこんなに早くヤッちゃったんだろうとオレは後悔した。交接それ自体は、楽しかった気がするのだが、酩酊していたためいかんせん記憶があやふやだ。こんなあやふやな記憶のために、二人の関係を犠牲にするのはまっぴらだった。

 いや……、まだ「関係」などと呼べるような間柄にはなっていない。オレはテンパッて既成事実を作ってしまっただけであって、オレたちにはまだ、「関係」などと呼べるような付き合いすら無いのだ。そんな中で突然、一足飛びに肉体関係を持ってしまうなんて、表紙裏に犯人の名前がいたずら書きされた推理小説を手にしたようなものだ。そんな小説は、即座に本棚にしまわれ、二度と手に取られることは無いだろう。

 オレは布団の中で歯噛みしながら悔恨の念に駆られた。オレがしたかったのは、こんなことでは無かったのだ。いや芦沢小春に対し確かに劣情は感じていたが、しかしこんなに早く実行するつもりは無かった。確かに彼女とは寝たかったが、しかし一回寝ただけでさよならするような関係などまっぴらだった。それくらいならオレは、十回芦沢小春に会ってしゃべったり遊んだりしたかった。

 もちろん十回も会えば、情欲は更に強まり、何が何でも満たしたくなってしまう可能性もある。それでもオレは、一回寝ただけでさよならするような関係はまっぴらだった。それなのに酒により自制心を吹っ飛ばしたオレは、目先の欲に駆られて、大慌てで彼女を抱いてしまった。一体何ということだろう、この事実を受け入れた上で、芦沢小春と「関係」を作っていくことは出来るんだろうか。

 すっかり気落ちした俺は、その気分に耐えられなくなり、考え方を変えてみようと思った。芦沢小春はもしかしたらオレを気に入って寝たのかも知れないと考えてみたのだ。けれどその瞬間、オレは昨日彼女に受けた「その内ねー」メールを思い出した。気に入った男にあんな簡素なメールを送る訳が無い。

 いや例え簡素な文を送るにしろ、相手に好意を持ったのなら、普通は

「そうだね。近い内に行こうね」

 などともう少し前向きな文にするはずだ。つまり芦沢小春は、オレのことを大して気に入ってはいなかったのだ。しかしならばなぜ今日連絡してきたんだろう。いくら酒を飲んでくだを巻かないと次に進めないとはいえ、なぜその相手をオレに選んだんだろう。

 そこまで考えたオレは、ふと忌まわしい答えに気付いてしまった。ひょっとしたら芦沢小春はオレを大して気に入らなかったからこそ、オレを選んだのではないかと考えたのだ。つまり酒を飲んで自暴自棄になりたかった彼女は、壊れても構わない間柄であるオレを、選んだのではないかということだ。

 不意に傍らの芦沢小春の体温が、オレに迫ってきたような気がした。そのまとわりつくような生温かい体温の持つゾッとするほどの冷たさにオレは背筋が凍る思いをじた。温かい皮膚、温かい粘膜でオレを包んだ女は、本当は冷え冷えとした心でオレに抱かれたのかも知れない。いやもしくはその逆か。彼女の心は本当は燃えたぎり「三浦くん」を求めていたか。「三浦くん」を想いながら、彼女はオレに組み伏せられたのか。

 オレはカッと目を見開いた。暗闇の中で、こんな恐ろしい推察を続けることが耐えられなかった。何か気を逸らすものが欲しかった。瞳が何かを捉え何らかの情報をオレに告げ、今の状況から救い出してくれる事を望んだオレは、見飽きた室内に、ぼんやりと視線を走らせた。室内にこぼれ入る街灯の光が、部屋の隅に置かれた芦沢小春のショルダーバックを、うっすらと照らしていた。

 パッと脳裏にあの赤い手帳が浮かび上がった。あれを見れば、何かが分かるかも知れないと思った。もしかしたら日記をつけているかも知れないし、つけていなくてもアドレスを見ることに価値はある。もし知り合ったばかりのオレの連絡先が記入されていれば、少しは期待を持てるし、仮に記入されていなくても他の知人の情報が分かる。芦沢小春にはどれくらい男の知り合いがいるのかという、かねてからの疑問が解決出来る。

 オレはそろそろと寝床から這い出すと、音を立てないように、慎重にバックのジッパーを開けた。最初にケイタイのストラップらしき物が手に絡まったが、ケイタイはそこに残して手帳を探った。

 知らないケイタイを迂闊に操作して、画面を戻せなくなっては大変だ。第一操作中にもし電話がかかってきたら、通話状態になってしまうかも知れない。こんな夜中に電話がかかってくるとは考え辛いが、しかし起こり得ないことではない。もしうっかり電話を取ってしまったら、非常にまずいことになる。

 いや仮に電話を取らなかったにしても、突然着信音が鳴り響けば、芦沢小春は目を覚ますだろう。その時オレが彼女のケイタイを持っていては大変だ。そんな危険を冒すくらいなら、アナログに手帳を盗み見た方が無難だ。

 見覚えのある赤革の手帳を目にすると、オレはそれをつかみ、抜き足差し足忍び足で再びトイレに入って行った。鍵をかけ便器に腰を下ろしてガバッと手帳を開く。最初に目に入ったのは、横線が引かれただけのフリーのメモ欄だった。オレはそこに興味深い記述を見つけた。


「結婚したまえ、君はそれを悔いるだろう。結婚しないでいたまえ、やっぱり君は悔いるだろう」

 キルケゴールの「あれかこれか」


 キルケゴールは哲学の講義でさわりを習った記憶がある。十九世紀の思想家の言葉をメモるなんて、芦沢小春は何やらインテリちっくだが、しかしこれにより、少しは彼女の結婚観も分かろうというものだ。

いや本当にそうか? 結婚してもしなくても、後悔するだろうなどという言葉をメモるような女の結婚観が本当に分かるか? ともオレは思ったが、考えるのは後回しにして、その下に目を走らせた。今はなるべく多くの情報を掴むのが先決であって、情報を分析したり解釈したりしている暇は無いからだ。

 ページの下には、次の文章が書きつけてあった。


「忘れねばこそ思ひ出さず候」

 仙台候伊達綱吉に身請けされた、江戸期の遊女高尾太夫の恋文。慕い続けて忘れないので、思い出すことも無いの意。


 このメモにはオレはいささか衝撃を受けた。こんな候文を書きつけるということは、芦沢小春は漢字に強いということじゃないだろうか。いやそれよりも、こんな文章を書きつけるということは、彼女は別れた男をなかなか忘れないタイプという事じゃないだろうか。だがオレは悲しみを振り切って、隣のページに目をやった。

 おそらくこのメモ欄は、恋愛や結婚にまつわる格言やら名文やらの、記録に使われているのだ。ということはこの欄に全て目を通せば、芦沢小春の結婚観及び恋愛観が分かろうというものだ。それらが分かれば、朝になってからのオレの取るべき行動がおのずと決まってくる。

 さて隣のページには、次のような文章が書きつけてあった。


「げに無分別は青春につきもの、分別は老熟につきものである」

 古代ローマの哲人キケロの言葉。


 どうやら芦沢小春は、哲学的なものに造詣が深いようだが、オレは何だか拍子抜けしてしまった。どうもこのメモ欄は、恋愛や結婚に関わらず、彼女が見聞きした名言が書き連ねてある雑多なコーナーのようだ。時間があればじっくり読みたい気もするが、いつ芦沢小春が起きだしてくるか分からない今、目を向けるべきコーナーではない。

 オレはもっと重要そうなコーナーを求めて、ページをめくろうとしたが、キケロの言葉の書かれた下の欄の文に、ふと目がいった。


 Aを見かけた観察者の眼差しは、暴力的にAの存在の一部分だけを切り取る。観察とはかくも暴力的で傲慢だ。ある観察者はAの年齢を幼く誤解することにより、Aの生きた歳月を否定する。ある観察者はAを尻軽と見なすことによりAの人生に架空の時間を押し付け、それと引き換えに、実際にAの生きた歳月を削除する。誤解されるということは、ひいては半生を奪い捨てられるということか。観察とはかくも暴力的で傲慢だ。


 最初はこれも何かの格言かと思った。しかしこの文章の末尾には、他の格言のように発言者が記載されていなかった。では誰の格言か不明なのかと思ったが、オレはこの文章に他の格言のように「」が付いていないことに気付いた。もしかしたらこれは、他人の格言ではなく芦沢小春自身の言葉なのか? オレは生唾をゴクリと飲むと、もう一度最初からこの文を読み始めた。


 Aを見かけた観察者の眼差しは、暴力的にAの存在の一部分だけを切り取る。観察とはかくも暴力的で傲慢だ。


 オレは芦沢小春の年齢を、誤解していたことを思い出した。下着売り場に駆け込む彼女を見て猥雑な想像をしたことを思い出した。本屋での彼女の動行を見て、万引を疑ったことを思い出した。それらは全て、オレが芦沢小春の一部分だけを切り取って観察したゆえに生じた誤解だ。誤解されやすい人間というものはこんな風に感じるものなのかと、オレは戦慄した。

 いや……、オレは元々観察というものの不完全さを承知しているから、自分が知り得たわずかな情報だけで、対象者の人柄を決めつけたりはしない。より真実に近い人柄を推測するためには、多くの情報が必要になることは知っているから、「暴力的に」「一部分だけを切り取」って悦に入ったりもしない。しかし何をどうしようと、誤解というものはされる側にとっては、暴力性と傲慢さが感じられるものなのかも知れない。

 しかしオレは芦沢小春が、「誤解イコール暴力的で傲慢」ではなく、「観察イコール暴力的で傲慢」と定義付けた点が気になった。ふと寝る前に彼女が言った

「管理者の視線。一方的な管理。支配者の視線」

 という言葉が脳裏によみがえった。

 これほどまでに芦沢小春は観察を嫌悪している。オレは二重の意味でゾクリとした。一つは、オレの生き様でもある人間観察を嫌う女と合体してしまったということ。もう一つは、それほどまでに観察されることを嫌がる女の手帳を今盗み見ているということ。

 その時、ドアの向こうから「毛利君?」と芦沢小春の呼びかける声が聞こえて、俺は飛び上がらんばかりに驚いた。彼女が起きてしまったことも驚きだが、声をかけてくるとは全く計算外だった。すると彼女は

「大丈夫? お腹でもこわした?」

 と心配そうな声を出した。

 どうやら途中で目覚めた芦沢小春は、なかなか寝床に戻らないオレの腹具合を心配して、声をかけてきたらしい。

「あ、大丈夫。すぐ出るから布団戻ってていいよ」

「そう?」

 トイレの前から、足音が遠のいていったことを確認すると、オレは手帳をジャージの腹部に隠し水を流してトイレのドアを開けた。結局肝心な部分は見れなかったが、こうなった以上、もうトイレには篭っていられないからだ。

 ところがドアの前には、オレの貸したパジャマを着た芦沢小春が突っ立っていた。オレは口から心臓が飛び出るほどに驚いた。さっきの遠のいていった足音は何だったんだ? オレは不吉な予感に襲われた。けれどその予感の訪れは遅過ぎた。彼女は右手をオレに差し出すと

「手帳、返して」

 と硬い表情で要求した。

 とっさに返す言葉が出ずオレはうろたえた。しらばっくれてしまおうという思いと、こんな腹を押さえた不自然なポーズで、しらを切り通せるはずが無いという二つの思いが交錯した。芦沢小春はオレが心を決めるのを待たずに

「早く、出して」

 とまるで汚らわしいものでも見るような目つきで、オレの腹部を見やった。

 この腹部のその先の下腹部の辺りには、数時間前にオレと彼女がつながった、ささやかではあるが生きた絆があるというのに、彼女はまるで汚らわしいものでも見るような目つきで、オレの腹部を見やった。オレはふと先ほどの悪夢を思い出した。肉体のつながりというものはかくも弱いものかと思った。

 恐る恐る差し出した赤い手帳を、オレの手から乱暴にもぎ取ると、芦沢小春はくるりと背を向けてワンルームへと戻って行った。慌てて後を追うと、彼女はファンヒーターのスイッチを入れ、電球を一つだけ点けた薄暗い部屋の中で、オレに背を向けてパジャマを脱ぎ始めた。

「何してるの?」

「着替えて、帰る」

「だってまだ、こんな時間……」

 そう言いかけながらオレはビデオデッキの液晶を見た。時刻は五時二十五分だった。朝と言えばもう朝なのかも知れないが外はまだ暗かった。けれど芦沢小春は

「『まだ』じゃなくて『もう』よ。どうやら長くい過ぎたみたいだから」

 と皮肉な口調で答えると、オレに背を向けたままブラジャーを付けた。チラと一瞬、彼女のお椀型の乳房が垣間見え、こんな時にも関わらずオレはついそちらに目をやった。

「帰る前に、オレの話聞いてよ」

「そんな時間、無い」

 芦沢小春は冷たく言い放つと、畳の上に脱ぎ捨てられていた衣服を探し当てながら、きびきびと身支度を整えていった。オレは薄闇に浮かぶ彼女の肌が、順々に衣服に覆われる様を眺めていた。数時間前には確かにオレの前に差し出されていた肌が、無粋な衣装に覆われていく様が悲しかった。もう二度と手に入らない、もう二度と見ることを許されない彼女の肌。共に布団の中にいた時よりも余程熱心にオレは芦沢小春の肌を眺めていた。このまま別れてしまうのはあまりにやるせなかった。

 オレは

「だってまだ、外暗いよ」

 と芦沢小春を引き止めた。暗かろうが明るかろうが、そんなことは何の関係も無い気がしたが、他に何と言って彼女を引き止めたらいいのか分からなかった。

「暗くたって仕事があるの。うちに帰ってシャワー浴びて、服替えてから出なきゃいけないんだから」

「シャワーなら、うちにもあるよ」

 ひょっとしてシャワーを使わせれば、少しは気分がさっぱりして、芦沢小春の立腹も緩和されるんじゃないかと思ったオレはそう提案した。人間の怒りというものは、生理的欲求を満たしてやれば少しは治まる傾向があるからだ。けれど彼女は

「いい。うちで浴びるから」

 とにべも無く断わった。

 確かにこんな気温の低い時間帯に、シャワー直後に外に出たりしては、風邪をひいてしまうかも知れないので、オレも強く勧める訳にはいかなかった。

「帰るって……、ここから駅まで行くの?」

「昨夜、そう言ったでしょ」

「歩いたら、遠いよ」

 オレは芦沢小春が心配になってそう言った。確かに彼女を引き止めたい思いはある。許してくれるかどうかは分からないが、とにかく謝り倒して、何とか許される可能性に賭けたいから、そのために芦沢小春を引き止めたいという思いもある。けれどそれとは別に、オレは彼女が心配になった。

 まだ暗く一日中で一番冷え込む時間帯に、徒歩で二十分以上もかかる駅まで、一人でやらせる訳にはいかなかった。この時間帯では流しのタクシーも見付からないだろう。

 けれど芦沢小春は、「遠いだろうね」と言いながら、ベージュのパンツに足を通していた。綺麗にプレスされたパンツだったのに、畳まずに脱ぎ捨てられていたのが悪かったのか数本余計な皺が入っていた。オレはその皺を愛しく眺めた。オレが確かに彼女に与えた今肉眼で確認出来る影響の、確かな形だという気がした。

「チャリで、送るよ」

「いい」

「それくらいさせてよ。頼むから」

 オレは思わず悲痛な声を出していた。手帳を盗み見た上に、女をこの寒空の中一人で帰すなんてことになるのは耐えられなかった。オレはそんな酷いことをしたい訳ではない。オレの気持ちを分かって欲しかった。すると芦沢小春は

「じゃあ、早く支度して」

 と静かさの中に苛立ちを含んだ声を出しながら、水色のカーディガンを羽織った。

 昨夜この部屋で見た時と寸分違わぬ装いに戻ったというのに、目の前の彼女は、昨夜とは違う女になっていた。オレは壁にかかったグレーのダウンに手を伸ばしかけたが、ふと思いついて、台所に向かいながら

「コーヒー入れる。それくらいいいでしょ。チャリで行く分時間も稼げるんだから」

 と言うと、棚から不揃いのマグカップを二つ取り出した。

 芦沢小春はしばらく押し黙ったが、台所に立ってしまったオレを、今さら諌めるのも面倒だと思ったのか、「五分だけよ」と返事をした。

 その「五分」には、コーヒーを入れる時間も含まれるのか、それともコーヒーを運んだ時点でカウントが始まるのかは分からなかったが、そんな細かいことを、いちいち聞く訳にもいかず、オレは大慌てでインスタントコーヒーの瓶を手に取った。

 湯沸かし器を熱湯にセットしながら、オレはふと、昨夜湯沸かし器で彼女のためにお湯割りを作ったことを懐かしく思い出した。ほんの数時間前のことを懐かしむのは、大抵惨事に見舞われた時だ。丸刈りにされた時も入試に落ちた時も、オレは数時間前ののん気な自分を懐かしんだ。幸せな時はいつも長くは続かない。

 慌てて入れたインスタントコーヒーと、砂糖とミルクを部屋に運ぶと、コンパクトで顔を確認していた彼女はそれをパチンと閉じ、コートを手に取って袖を通した。どうやら約束の五分が経ったら、速やかにここを出て行くつもりらしい。

 こたつの上には、昨夜の飲みかけの酒や惣菜の残骸が散乱していたので、オレは急いでそれを片付けた。それらの飲食の証拠が、寝る前にオレたちが過ごした時間とその後の失敗を嘲笑っているようで、何ともやるせなかった。

 コートを着てストールを巻いた芦沢小春は、こたつに入ると、砂糖もミルクも入れずにマグカップに手を伸ばし口を付けた。どうやら彼女はブラック党らしい。オレもチョコや菓子は甘い物が好きだけど、基本的にコーヒーはブラック党だ。

 こんな時に芦沢小春との共通点を見出し、悲しい気分になった。名前に誕生月に食の好み……。彼女とは多くの共通点があったのに、今のオレたちはその話題で盛り上がる事が許されない。オレが口にしなければならない言葉は今はただ一つ謝罪の言葉だけだ。オレは彼女がマグカップを下ろすのを待って、「ごめん」とつぶやいた。

「何に対して、謝ってるの?」

「手帳を、見たこと」

 神妙にオレは答えたが、その時ふと芦沢小春に苦手意識が芽生えた。なぜオレを責め立てないんだろうと思った。こんな時ギャアギャア責め立ててくるタイプの女なら、一見面倒だが実は扱いが楽なのだ。人間は嫌なことがあった時に、泣くなり喚くなりして発散すれば気分転換になるから、実は問題など何も解決していなくても、何となくうやむやになったりするものなのだ。

 それなのに全くそんな様子を見せず、それどころかオレに何一つ言わないままで、去って行こうとしていた芦沢小春に、オレはゾッとした。今だっていくら不機嫌そうな様子は見せているからといって、彼女は冷静に怒っているのだ。冷静に怒っている人間の機嫌を取るのは酷く難しい。それも明らかにこちらが悪い場合は尚更だ。

 そんなことを思いながら萎縮するオレに、彼女は

「謝るくらいなら、見なきゃいいじゃない」

 と冷たく言い放った。冷静に怒る人間というものは、全くもってその通りの事を言うので、いかんとも対応しがたい。

「不安だったんだ。小春ちゃんがオレのことどう思ってるか分かんなかったし」

「どう思って欲しかったの?」

「好きになって欲しかった」

 半信半疑のままでオレは答えた。オレは今は芦沢小春に惚れて欲しいと思っているが、実は手帳を見た時点では、必ずしもそう思っているとは限らない部分があった。あの時は確かに彼女の心が分からず不安に陥り手帳を見た。しかし本当に、彼女に惚れて欲しいと思っていたのかは、よく分からなかった。

 オレはただ単に、あまり相手のことを知らない内に寝てしまったので、心のバランスが崩れてしまい、情報を得て落ち着くために、手帳を盗み見た部分もある気がした。ひょっとしたら行きずりの相手と援交を行った女が、相手のシャワー中に相手の身元調査をする心理に、通ずるものがあるかも知れない。そうだから今だって、本当に自分が芦沢小春に惚れられることを望んでいるのか、本当に彼女に惚れているのかもよく分からないのだ。

 確かに彼女に好意は持っているし、また会いたいしまた抱きたい。そのためには彼女に許してもらわなければならないのだが、だからといって、惚れているのかどうかはよく分からなかった。

 オレの中で二つの思いが揺れていた。一つは惚れた方が楽だという思い。惚れてしまえば、好きだから知りたいから手帳を盗み見たという理屈が成立するから、惚れた方が楽だという思い。

 もう一つは惚れない方が楽だという思い。彼女は怒っているから、許してもらえないかも知れないから、だったら惚れない方が楽だという思い。

 けれどどちらもずるい感情だということは分かっていた。そしてそんな感情とは別に、オレの中には確かに芦沢小春への好意が、恋愛への芽が芽生えていたことも。だがその小さな芽は先ほどの二つの思いの間に立たされ揺らぎ始めていた。オレはもう、自分の感情自体がよく分からなくなっていた。

 そんなオレに対し芦沢小春は

「手帳を見れば、あたしが毛利君を好きになると思ったの?」

 と唇を歪めて笑った。あどけない顔であるはずの彼女に、その皮肉な表情はぎょっとするほど似合い、オレは皮膚が粟立つような思いをした。

「そうじゃなくて、小春ちゃんの気持ちが知りたくて……」

「だったらあたしに、直接聞けば良かったじゃない」

 至極ごもっともな返答ばかり繰り返す芦沢小春に、オレは焦りを覚えた。確かにその通りなのだ。だから芦沢小春に許してもらうには、彼女の中のオレへの好意に訴えかけるしかない。だが芦沢小春はそもそもオレにどれほどの好意を抱いているんだろう。それが分かっていれば、オレはそもそも手帳を盗み見たりはしなかったのだ。

 芦沢小春が、オレにどの程度の好意を持っているかが、分からないからこそ実行した行為が、彼女の中のオレへの不確かな好意をますます損ねる結果に陥り万事休すだった。けれどオレは、諦める訳にはいかなかった。彼女に与えられた五分間という僅かな時間に、精一杯の試みをしなければオレはきっと後悔するからだ。

 そこでオレは自分の精一杯を振り絞りながら

「そう思ったけど、起こしちゃ悪いと思ったから」

 と何やらとんちんかんな返事をした。おかしな答えであることは分かっているが、しかしこれはこれで、真実の答えだった。

「起こすくらいなら、手帳を盗み見た方が罪が無いと思ったんだ? 随分面白い理屈こねるのね」

「……じゃあ、起こしてもよかった?」

「あたしが起きてる内に、聞けば良かったじゃない」

 至極ごもっともな返答に追い詰められながらも、オレはあることに気付いた。あのマシンガントークの芦沢小春が、この件に関しては言葉数が少ないのだ。幼く見られがちな件といい「三浦くん」に手帳とケイタイを盗み見られた件といい、彼女は面白くない事柄に対し、とうとうと文句を述べるタチだったはずなのに、この件に関してはなぜか口数が少ないのだ。

 矢継ぎ早に不平を言われた方がマシだと思った。自分が明らかに分が悪い時に、相手があまり自分を責めずに、冷ややかに冠を曲げている様を見るのは辛い。こんな時はいっそ口汚く罵られた方が、少しは自己嫌悪から救われるのに。相手の言葉数の多さによって、相手の心理を理解して相手の心に寄り添うことが出来るのに。

 けれど芦沢小春は自分の心を明かさずに、至極ごもっともな一般論を、繰り返すのみだった。オレは心許なさに震えながら

「寝る前は……、酔ってたから……」

 と答えた。そんなことはある意味関係無い気もしたが、しかしオレは寝る前は酒とセックスに酔って有頂天だったから、不安を感じていなかったのだ。

「寝る前は酔ってたから聞く気にならなくて、それでお酒が抜けたら途端に聞く気になって、でもあたしが寝てたから手帳を見ることにしたって訳? 随分身勝手な理屈ね」

「いや違う。小春ちゃんが酔ってたから」

 オレは慌てて嘘をついた。芦沢小春が酔っていたから聞くのを遠慮していたということにして、何とか彼女を納得させる方向に持っていきたかった。しかし彼女は

「あたしが酔ってると、何で聞けない訳?」

 と尋ねながら白ベルトの腕時計に目を走らせた。どうやらきっちりと、約束の五分を守るつもりらしい。

「だって酔ってる人に、そんな大事なこと聞けないし」

「でも『好きだ』って言って、布団に引っ張り込むことは出来るんだ?」

「……それは確かに……、つーかオレも酔ってた。でも『好きだ』って言ったのは本当だし好きだから小春ちゃんの気持ちも気になって、つい見ちゃったんだ。いけないことだってのは分かってるし本当に悪かったと思う。もうしないからオレのこと許して」

 何だか言っている内に、本当に芦沢小春のことが、熱烈に好きになってきた。そもそもオレは元々彼女を気に入っていたし今のところ嫌な点も無い。まあ怒った時に冷静過ぎる点はちょっと怖いけど、でも考えてみれば、大暴れする女の方がもっと怖いから、何だかもう付き合っちゃってもいいような気がした。

というかここまで言ってしまったら、芦沢小春がオレを許す限り、付き合う流れになってしまうのだろうと思った。自分で起こした件でありながら、オレは何だか流れに乗せられているようなそんな受身の気分を感じていた。

 しかし彼女は

「酔ってた時のことは許せても、シラフに戻った後のことを許せると思う?」

 とオレに尋ねた。ということは酔っ払いを装えばいいのだろうか。

「分かんないよ。オレ多分まだ酒残ってるし」

「じゃあもう帰る。自転車だって酒酔いは違法なんだから」

 まさかこんな切り返しが来るとは思わなかったオレは、仰天した。さっきから嘘をつけばつくほど泥沼化している気がする。ならばここは腹を決めて、本音のみで語るべきなのかも知れないが、そんなことが出来る訳は無かった。なぜならオレは手帳を盗み見たことをそれほど悪いこととは思っていないからだ。

 いや……、自分がされたら嫌なことは、人にもしてはいけないということは分かっているのだが、何というかこの件に関しては許されてもいい気がするのだ。だがそんなことを口走った日には、全ての望みを捨てることになってしまいそうだ。

 許されてもいいということは、結果的に許されて初めて立証されるのであって、こちらからそのような意見を述べては、許されるものも許してもらえなくなってしまう。だからオレはまずは結果的な許しを得たいのだ。そこに辿り着くまでの道筋は、正直言ってどうでもいいのだ。

 もちろんどうでもよくないと考える人もいるだろうし、本当ならそれが正しいのだろう。しかしオレに残された時間は五分なのだ。そんなわずかな時間で、誠実で正しい道筋を経る話し合いなどしていては時間切れになってしまう。オレは芦沢小春を失いたくないのだ。

 だがそのような考えで嘘を重ねるオレに彼女が会話の打ち切りを告げたため、オレは大慌てで

「残ってない。残ってない」

 と打ち消した。これでは結局嘘を認めたことになってしまうが、背に腹は変えられなかった。

「本当に残ってないの? 自転車で転ばれて巻き添え食ったりしたくないんだけど」

「寝起きでボーッとしてただけだった。勘違いだった」

「酒残ってるんじゃないかって、勘違いするほどボーッとした頭で、運転なんて出来る訳?」

 何だかやぶ蛇になってしまった。考えてみれば日頃から追及好きの女に、嘘をついて切り抜けようと考えたのが、間違いだったのかも知れない。とはいえ本音を洗いざらいぶちまける訳にもいかないのだから別の手法が必要だ。

 そこでオレは

「何で小春ちゃんオレのこと許してくれないの? 前カレのことは、『謝れば許したかも知れないのに』って言ってたじゃん。オレ謝ってるじゃん」

 とこちらから追及してみた。世間ではこれを「逆ギレ」と呼ぶことを、この時オレは忘れていたのだ。

「前カレとは付き合ってたんだよ。付き合うには理由があったの。でもあたしと毛利君は付き合ってる訳でも何でもないんだから、何もあたしに許してもらう必要無いじゃない」

「でもオレは小春ちゃんを責めてないじゃん。すぐに謝ったじゃん」

 芦沢小春の言葉に傷付きながらオレは答えた。確かにオレたちは付き合ってはいないが、しかし昨夜枕を交わした仲じゃないか。オレは彼女を「好き」と言ったじゃないか。それなのにどうしてそんな言い方をするんだろう。

 けれど芦沢小春は追い討ちをかけるように

「『責めてないじゃん』って、そんなの当たり前でしょ。毛利君に責められる筋合い無いじゃない」

 と呆れたような口調で言い放った。だったらどうしてオレと寝たのと、オレは心の中でつぶやいた。

「それはそうだけど、でもオレは小春ちゃんのことが好きだから……」

「好きだから?」

「好きだから手帳を見ちゃったんだよ。悪いと思ってる。悪いと思ってるけど好きだから心配だからつい見ちゃったんだよ。分かってよ」

 オレの好意が芦沢小春にとってどれほどの価値があるものか分からないまま、オレは訴えた。本当は「好きだ」なんてこんなに早く伝えるつもりは無かったのだ。いやオレは、元々彼女を気に入ってナンパしたことになってるんだから、今更「好きだ」という言葉を隠しても、仕方無いかも知れない。しかしパッと見の印象だけで声をかけるのと、ある程度関わってから好意を告げるのでは意味が違う。大体ナンパなんて普通は軽い気持ちでするものだ。

 その軽い気持ちで行ったナンパによって、持った関わりにより芽生えたこの想いを、オレは本当は、こんなに軽々しく伝えるつもりは無かった。もっと自分の気持ちを確かめてから、そして彼女の気持ちをある程度探ってから、もっといい状況の中で伝えるつもりだった。

 それなのに現実は、酒の酔いにまかせて口走り、そして今は芦沢小春の憤りを解くために連呼している。オレは今「好きだ」という言葉を繰り返すことにより、その言葉の価値を下げている気がした。

「時間だ。行くよ」

 芦沢小春がマグカップを置いて立ち上がった。オレは絶望的な気持ちで彼女を見上げた。彼女はオレの視線をものともせずに、玄関に向かって行った。このままぐずぐずと時間を稼いでいても、芦沢小春は徒歩でアパートを出て行ってしまうのだろう。オレは仕方なくダウンに袖を通すと、ファンヒーターを消火して彼女の後を追った。

 ドアを開けると風はいつの間にか治まっていたが、東雲にはまだ遠く、ものすごい冷気に襲われた。こんなにも暗く凍えるような寒さの中、外出することが酷く異常なことに思われ、何だか不安定な気分になった。何だか昨夜から異常なことばかり続いている気がする。とはいえどの辺から異常だったのかは、よく分からなかった。

 芦沢小春を後ろに乗せ、オレはチャリをこぎ始めた。二人共、昨夜と大して体重は変わっていないはずなのに、そればかりか今は障害となる風も吹いていないのに、今朝の方がずっとペダルが重く感じられた。こんなことは正常な状態では起こり得ないのだから、やはり異常な事態が起こっているんだろう。

 一体いつから、異常な事態になってしまったのかと考えたオレは、もしかしたら芦沢小春との出会い自体が、異常なものだったのかも知れないと思い当たった。そもそもオレがあの手帳を見なければ、芦沢小春を追尾することにはならなかった。彼女を追尾しなければ彼女に気付かれることも無かった。彼女に気付かれなければ、彼女をナンパすることにもならなかったのだ。

 芦沢小春と出会わなければよかったとオレは思った。結果論かも知れないが、異常な出会い方というのはあまり望ましいものではない。もし手帳など見ていなければ、男たちのアドレスなどを見ていなければ、オレはここまで不安に駆られなかっただろう。そうすれば必然的に、手帳など盗み見たりはしなかっただろう。

 というかオレは最初にあの手帳を見ていたからこそ、二度目もあまり抵抗を感じずに、手帳を手に取ってしまった気がする。もし最初にあの手帳を見ていなければ、そもそも手帳を見ようなどという発想が、起こらなかったかも知れない。

 けれどそんな仮定が何になるだろう。現実的にオレは手帳を二度に渡って盗み見、二度目に彼女にバレてしまった。よく泳ぐ者は溺れる。よく盗み見る者は盗み見がバレる。よく観察するものは観察により失敗する。結論はおそらくそんなところだ。

 駅前とはいえ二月も半ばの早朝は、まだ薄暗くうら寂しい。シャッターの下ろされたキオスク前を通り過ぎ、階段付近でチャリを停めたオレは、「着いたよ」と芦沢小春に告げると、チャリにまたがったまま彼女が降りるのを待った。するりと生温かい体温と共に、芦沢小春が地面に降り立った。

 化粧が剥がれたのかいつもより更に幼くなった顔立ちと、巻きの取れかかった髪が、何やら彼女にあどけない清潔感を与えている気がした。オレはもう一度、こんな女とは出会わなければよかったと思った。早朝の冷気に洗われたこの女を素直に綺麗だと思う。けれど手に入らないのなら、最初から出会わなければよかった。

 オレは

「いい電車、あるの?」

 と尋ねた。最後なのだから本当はもっと気の利いたことを言いたかったが、こんな場合何を言ったらいいのか分からなかった。

「大丈夫」と無表情に答えた芦沢小春は、チャリの前カゴからバッグを取り出すと、視線を斜めに下げて「じゃあね」と口の中でつぶやいた。オレは最後の足掻きで

「もう、会ってくれないの?」

 と尋ねてみようと思ったが、その時不意に彼女はオレと目を合わせ、「毛利君」と呼びかけた。

「はい」

「不安なのは、自分だけだと思ってた?」

 オレは思わず芦沢小春の顔を凝視した。化粧の薄らいだその顔には、何とオレを憐れむような色が浮かんでいた。なぜそんなセリフを口にしながらオレを憐れむ? 訳が分からずオレが気を動転させていると、彼女は唇の端に悲しげな微笑みをたたえくるりと後ろを向いた。

 ツカツカと駅の階段を登って行く芦沢小春の後ろ姿を、オレは呆けたように、いつまでも眺めていた。

 不安なのは、自分だけだと思ってた?

 不安なのは、自分だけだと思ってた?

 不安なのは、自分だけだと思ってた?

 先ほどの彼女の言葉が頭の中でいつまでもこだまする。オレは突如、突き上げるような思いに駆られて、チャリをめちゃくちゃにこぎ始めた。本当はチャリをこぎたかった訳ではなかったのかも知れない。本当はもっと別のことをしたかったのかも知れない。けれどオレはその時自分が何をしたいのかよく分からなかった。とにかくオレはその時何かをしたかった。何かものすごく活動的な事をせずにはおれなかったのだ。

 風が起こった。オレは凍てつくような寒さの中にいた。けれど体は火照っていた。肉体は熱いのに外気が冷たくて、肉体は熱いのに心は冷え冷えとしていて、その熱さと冷気のサンドイッチ現象が不快で不快でたまらなかった。オレは確かに春を手放した。げに無分別は青春につきもの。青春期には春を手放すような無分別な事故がつきものだ。



 どれくらい走ったのだろう。いつの間にかオレは見知らぬ道をひた走っていた。単純な肉体運動により、やや落ち着きを取り戻していたオレは、そろそろ引き返した方がいいんじゃないかという頭の中の冷静な声を聞いた。

 確かにここで道に迷っては、何だかとても馬鹿馬鹿しい。寝不足で極寒の中チャリをこぎ続けていたせいで体も疲れてきたし、芦沢小春との別れで参った心に、道に迷うという厄介事を加えるのは、好ましくない。

 元来た道を戻るべくオレは通りを横切ったが、その時通り一本隔てた向こう側に、二十四時間営業のスーパーがあることに気付き、そちらに進路を向ける事にした。肉体も心も疲れ果てていたが、だからといってこのまま帰宅するのも気が乗らなかった。こんな気分の時に、一人暗い部屋の中で自分と向き合うのは憂鬱だ。それくらいならスーパーのゲーセンにでも寄ってゲームに没頭し、頭を冷やしたい。

 まだ朝の六時半を回ったばかりだというのに、スーパーの駐車場には、ちらほらと車が停められていた。もっとも早朝の集客が全く見込めないのならば、開店している意味が無いのだから、客の車が点在しているのは当然なのだが、オレはそれらの車を煩わしく思いながら駐車場を横切り、チャリ置き場にチャリを停めた。

 チャリから降りたオレは、ダウンのポケットからサングラスを取り出してかけると、自動ドアを通り抜けて中に入って行った。こんな時にうっかり知り合いに行き会って、声をかけられるのは億劫だった。また知り合いではなくても、誰かに観察されるのは億劫だった。

 しかしそれなら人気の無い公園にでも行くべきなのだろうが、オレはいい加減、冷えた外気に飽き飽きしていた。冬は視線恐怖症に陥った人間すらも、人の集まりやすい屋内へと導く、残酷な季節だ。

 早朝のまばらな買い物客とすれ違いながら、ゲーセンを探していたオレは、フロアーの隅のコーナーを見てチッと舌打ちした。どうやら営業時間外だったらしく、ぐるりとネットが張り巡らされている。仕方なくオレはその場を離れしばらく店内をうろつくと、二階の自動販売機コーナーに設置されていたベンチに、どっかりと腰を下ろした。

 ゲーセンが開いていないのなら、こんな店に用は無い気もしたが、いかんせんオレは疲労していた。しばらくこのささやかな喧騒の中で、ぼんやりとしていたかった。

 ビーッと耳障りな音を立てて、目の前で女が自販機からジュースを買った。どうということの無い服装をした三十前後の女だった。女は買い物袋を、オレの斜め対面のベンチの上にドサリと下ろすと、その傍らに座って脚を組み、ジュースを片手にタバコを取り出してライターでシュッと火を点けた。見ると買い物袋の中には、割引シールの貼られたバレンタインチョコの売れ残りが、ごっそりと入っていた。

 見たところ普通の主婦のようなのに、こんな早朝に、どういう訳だかチョコの買い溜めにやって来て、しかも灰皿も無い場所でわざわざタバコを吸い始めた女を、オレは少し不審に思った。年上の女というものはやはり不可解でミステリアスだと思う。芦沢小春にしたって、どうして最後にあんなセリフを残したのかオレにはよく分からない。

 不安なのはオレだけではないと言いたかったんだろうかと、オレは考え始めた。彼女も不安だったと?けれどなぜ不安を抱く必要がある? まさかオレを好きだったとでも言うのか? あんな素っ気無いメールを送ってきた女が? オレの盗み見を知った途端、さっさと着替えて出て行こうとした女が?

 だが好きだったからこそショックを受けて、出て行こうとしたという可能性もある。しかし本当に好きだったならなぜオレに理由を聞かない? 理由を聞けば、納得出来たかも知れないじゃないか。俺を本当に好きだったなら、納得して仲直りしたいと思うはずじゃないか。そう思わないということは所詮その程度の好意だったということじゃないか。

 いや……、その程度の好意だったとしてもそれは当然か。まだ会って日も浅いしオレだって彼女に対し確固たる想いを持っていた訳じゃないし……。ということはあれか? 芦沢小春もオレ同様、まだ気持ちが確定していなかったと考えるのが妥当か?

 おそらくはそうだったんろう。まがりなりにもメールは返信してきたし、翌日には誘いの電話もかけてきた。多分彼女は俺を嫌いではなかったんだろう。うっすらとした好意くらいは持っていたんだろう。そんな中で「三浦くん」と別れ気持ちが乱れていて、オレへの好意の表れが、乱高下していた部分もあったんだろう。

 芦沢小春の抱いていた不安とは、そういったことだろうか。出会ったばかりのデリケートな時期に、出会ったばかりのデリケートな感情が、「三浦くん」との別れの事実により乱高下する不安感。

 自分の相手への好意が、恋愛に変わるのか友愛に変わるのか、それともただの思い違いだったと確信するに至るのか、まだ予想のつかない時期に、前カレとの別れの余波が、始まったばかりの感情を揺さぶりあらぬ方向へ導いてしまいそうな不安感。そういったことだったんだろうか。

 オレは脳裏に芦沢小春の顔を浮かべてみた。記憶の中の彼女は、愛らしい笑顔を浮かべていた。思えば優しい女だったと思う。彼女をつけ回し気味悪がらせておきながら今度は強引にナンパして、半ば渋々とついて来てくれたのに、いざついて来るとなるとニコニコとよく笑い、よくしゃべってくれた。「三浦くん」との別れを控えた不安定な時期だったのに、変質者と見まごう行為をしたオレに、気遣いを示してくれた。

 悪いことをしちゃったなあとオレは溜息を吐いた。芦沢小春はオレに、「三浦くん」との別れの理由を告げてあったのだ。手帳とケイタイを盗み見られ、自分がどれほど傷付いたかを告げてあったのだ。それにも関わらず数時間後にオレに同じことをされるとは、自分が気遣いを示した相手、しかも自分を「好きだ」と言って抱いた男にそんなことをされるとは、彼女はどれほど、傷付いたことだろう。

 それなのにオレは、芦沢小春が傷付いたり不安がったりするということを、イマイチ想定していなかった。彼女は初対面で幼く見られるデメリットを口にし、二度目に会った時には「三浦くん」との別れの際に感じたやるせなさをオレに告げた。芦沢小春は決して、強がりを言うタイプではなく、むしろ傷を素直に晒すタイプだったというのに、オレは彼女の傷と不安を想定していなかった。

 五つも年上だったからか。美人でモテそうで、実際に手帳に複数の男の名前があって、ナンパも多くされているような口ぶりだったからか。百三十人以上の体験人数を持つ「三浦くん」を、嫉妬に狂わせたからか。

 そう、だからだ。それらの情報は芦沢小春の一部に過ぎなかったのに、オレはそれらの情報から彼女の傷と不安の可能性を消し去った。

 芦沢小春は手帳や携帯を盗み見られることにより受けた傷を、あんなにはっきり、オレに告げてあったのに、オレは彼女の言葉を無視して彼女の情報を得ようと盗み見の行為に出た。そのことにより、芦沢小春が受けるであろう傷は予測できたはずなのに、オレは与えられた情報を活用せずに、奪ってはならない情報を得ようとした。

 オレは深々と溜息を吐いて頭を垂れた。盗み見という行為が、なぜいけないこととされているのか、オレは今になって初めて分かった気がした。

 盗み見というものは、情報分析や推察といったことの出来ない、頭の悪い人間がやることなのだ。相手の気持ちを推し量れない鈍い人間がやることなのだ。洞察力のある人間なら、そんな卑怯な手口を使わなくても、正攻法でいくらでも情報が拾えるはずなのだ。それにも関わらず盗み見をするということは、自分がいかに愚鈍な人間であるかを、宣伝しているようなものだ。だから芦沢小春はオレと「三浦くん」を見限ったのだ。

 気付きと同時に深い絶望が来た。この時この瞬間非常に皮肉なことに、オレは芦沢小春の気持ちが分かってしまった。オレだって洞察力の無い愚鈍な人間は嫌いだ。だからオレと彼女の価値観は一致している。

 けれど芦沢小春はオレをその愚鈍な人間と見なしたのだ。もうとても無理だ。彼女の気持ちが分かってしまっただけにとても無理だ。オレはこの世で一番、芦沢小春にとって可能性の無い男になってしまった。そう「付き合う理由があった」前カレ「三浦くん」よりも、更にずっと、可能性の無い男に。

 ガツンと大きな音を立てて、先ほどの三十絡みの女が缶ジュースをベンチの上に置いた。その荒っぽい動作にオレの思考は一瞬破られた。女は床に灰を落としながら、相変わらず紫煙の中にいた。早朝のこととて店員の数も少なく見落とされているが、それを最初から見越しているんだろうか。

 思考が破られたことをふと心地好く思いながら、オレは再度女に目を向けた。とはいえこんな時は、本当は思考の邪魔をされない場所に行くべきなのかも知れない。そして自分の失敗を、しっかりと胸に刻むべきなのかも知れない。

 けれどオレは今の自分の心から逃げたかった。どう考えても自分が悪く、そして悪いことをしてしまった相手とは価値観の一致を感じ、そして今になって、本当に相手を好きになってしまったもののオレには世界で一番可能性が無い。そんな事実に、真っ直ぐに向き合うことはキツ過ぎた。だから一瞬でもオレを闇から救ってくれたそのガサツな女が、変に好ましかった。

 ……その時オレはあることに気付いた。女の履いているシルバーのバックル付きサンダルに、見覚えがあったのだ。そうあれは確か一昨日の……、デパート前で見かけた和柄スカートの女が履いていたサンダルだ。オレに様々な想像力を喚起させた女のサンダルだ。

 オレは改めて斜め前の女の顔を眺めた。うつむいた顔に薄黒い隈が浮かび、一瞬化粧をしていないのかと見まごうほどだが、その割にはやけに濃く引かれたルージュが目立つ、時代錯誤なメイク。オレは一昨日の記憶を反芻した。あの時は女の下半身に気を取られ顔はあまり見なかったが、しかし確かにこれは一昨日の和柄スカートの女だった。オレは不意の再会に呆気に取られつつ、女を凝視した。

 肌にはやや衰えが見られるものの、鼻の尖った割合美しい顔立ちだ。偶然の再会をした女が美人であることにオレは気をよくしたが、しかし女が、ケイタイを取り出し操作を始めたため何だか嫉妬を感じた。あの腱鞘炎を起こしそうなほどの激しい指使いは、おそらくメールの作成だろう。

 そういえば一昨日デパート前で見かけた時も、女はケイタイをいじっていた。誰宛かは知らないが、送りたいと思う相手に躊躇無くメールを送れる女にオレは嫉妬した。なぜならオレはもう送れないからだ。芦沢小春の心が嫌というほど分かってしまったオレは、もう彼女に、連絡を取れないからだ。

 だって一体何て告げればいい? オレは先ほど芦沢小春に、嘘を重ねてまとわりついてしまったのだ。今更今度は本気で反省したなどと言って、どうしてそれが信用される? オレは彼女の信頼を損ねるようなことばかりしてしまったのだ。嘘を重ねた狼少年は、本当に狼が来た時に村人に助けてもらえない。オレが今更、誠心誠意真心込めたところで、芦沢小春はもうオレを信頼してくれないのだ。

 ならばいっそ反省などするのはやめてしまおうかと、オレは思った。どんなに改心したところで、それを芦沢小春が認めてくれないのなら意味が無い。だったらこんな改心は無駄だ。願っても願っても彼女が手に入らないのなら、いっそ彼女から世界で一番遠い人間になって、盗み見をじゃんじゃんしてやろうかという気分になった。

 けれどオレの脳裏に三浦の顔が浮かんだ。続いて温井房敏君の顔が浮かんだ。こんな時過去に恋した女たちではなく、三浦や温井君の顔が浮かぶのは奇妙な話だが、しかし現実的に脳裏には彼らの顔が浮かび、オレの良心を刺激した。

 自暴自棄になりたくても、手放したくない友人や過去の記憶がオレを引き止めてしまう。オレが恥知らずな人間になることを目指したら、三浦はオレから離れていってしまうんだろう。現在交流は無いとはいえ、胸の中に住んでいた温井君の記憶と、記憶により形作られていたオレの思考は崩壊し、オレのアイデンティティーも揺らぐんだろう。

 だがそんなことは当たり前だ。自棄になって堕落の道に進むなら、過去に感じたいい人間への憧憬の念や、現在進行形のいい友人との関係に亀裂が入るのは当然なのだ。それなのにそれを惜しいと思う。惜しむ心が結局オレを堕落から救いある程度の辺りに押し留める。そうある程度の辺りだ。オレは決して大悪人ではないけれど、かといって聖人君子でもない。

 客の手帳は盗み見るし、それによってその相手をストーキングする。それがバレれば嘘をついてナンパするし、あろうことか連絡先までゲットする。そうして知り合った女と二度目の逢瀬で酔いに任せてヤッちゃうし、ヤッたらヤッたで不安になって、女の手帳を盗み見る。それがバレれば嘘を重ねて言い訳するし、そこまでしておいて振られておきながらいっちょまえに傷付いてみたりして、オレはただの小悪党だ。イチモツだけでなくケツの穴が小さい。

 三浦と温井君の存在により、小悪党の辺りに押し留められ続けることに、果たして意味はあるんだろうかという気がした。こんなに苦しい思いをしたのに、結果的に小悪党のままでいるなんて、あまりに意味が無い気がした。

 じゃあ大悪党を目指すか? それとも善人になってみるか? 突如思いついたこの二者択一問題に、オレはハッと体を硬直させた。

 そんな問いをオレは今まで考えたことも無かった。善人になろうとか悪人になろうとか、そんなことは考えたことも無かった。オレはただ単に比較的いい人間を好ましく思い、そういった人間と関わっていただけで、自分自身が善人になろうという発想が無かった。そもそもオレが善人を好んでいたのは、オヤジが自由勝手な男だからだ。

 オレはなるべく、オヤジから遠い人間と関わりたかったのだ。それなのになぜ今選択肢の中に、「大悪党」が浮かんでしまったんだろう。

 その時、後頭部に温かく冷たい何かが流れた。それはとても気持ちのいい恐怖だった。自分はオヤジの子だと親父の血が流れていると、認めてしまったらどうなのだと思った。そうオヤジと同類になるのだ。もっともっと身勝手で器の小さい男になるのだ。そうすればオヤジを許すことが出来るかも知れない。そして芦沢小春のことなど、忘れてしまえるかも知れない。

 けれどオレは忘れたくないと思った。叶わない恋心が、自分をこんなにも苛んでいることを痛いくらいに承知しつつ、この恋心を捨てたくないと思った。どんなに苦い恋心でも必ずそれは、甘美な何かに包まれているからだ。だがそんな袋小路の恋愛感情を抱えていてどうする? 何らかの突破口を探し出さなければ頭がおかしくなりそうだ。

 オレはぼんやりと天を仰いだ。天井には黒ずみ始めた蛍光灯が鈍い光を放っていた。視線を下ろした。ふと気が付くと先ほどの三十絡みの女の姿が消えており、女のいた場所には、タバコの灰に塗れた空き缶と忘れ物がポツンと置かれていた。

 先ほどまではあんな大きな音を立てていたガサツな女が、いつの間にか、音も無く姿を消していた事実にオレはしばし唖然とした。女が立ち去ったことに気付かないほど、考えごとに没頭していた自分にも驚きだったし、それ以上に、女の存在にいつの間にか依存し始めていた自分に愕然とした。ただ二日前に街で見かけたばかりの女、あんな年増で肌の荒れたガサツでマナーの無い女に依存し始めていた自分に、オレは震えた。

い くら整った顔立ちをしているとはいえ、普段のオレだったら嫌悪するタイプの女だ。それなのに今のオレは、女のガサツさマナーの悪さを好ましく感じていた。芦沢小春のような真摯な女は、あまりにも澄みきっていてくたびれる。

 白河の、清きに魚も、住みかねて、元の濁りの、田沼恋しき。

 あれくらい品が無くて、社会性の無い女の方が、こちらが自己嫌悪に陥らずに済んで安心だ。汚らしいものに交わって汚されて、汚されることにより自分の中のわずかな清らかさに気付かされるような、そんなセックスをしてみたい。

 オレは立ち上がると女の座っていたベンチに近付き、残された空き缶をじっと見詰めた。その飲み口は煙草の灰だけでなく、テカテカと光る紅によって汚されていた。その唇の驚くほどのグラマラスな跡に、オレは下半身がたぎるのを感じた。

 オレは空き缶の隣に置かれた、女の忘れ物のケイタイを見詰めた。ジャラジャラと安価なストラップが重ね付けられたそれは、オレに対し媚びたような光を見せた。オレは女の顔を思い浮かべた。そして芦沢小春の顔を思い浮かべた。黒ずみ始めた蛍光灯に照らされながら、卑猥に光るケイタイを眺め、強く思った。

 オレは今、試されている。


 久しぶりに読み返して、小説家を目指す、ということを観念的にあれこれ考えていた時期だったなと思い出しました。

 この小説自体は成功作とは言えません。省くべき箇所が多いし、本来ならもっと短くできたはずです。ただ観念的なことが長々書かれていたからこそ、この頃考えていたことが思い出されました。

 小説家になりたいなら、観察は必要な行為ですが、観察という行為は暴力的だとこの頃考えていたことに驚きました。言われてみればそうかも知れません。

 今回読み返したことにより、思い出したその事実を踏まえ、謙虚に頑張っていきたいなと思いました。

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