変質者に疑われ
ようやく手帳の女と再会したので物語が動き始めます。とはいえ春樹は、相変わらず妄想バリバリですが付き合ってやって下さい。
昨夜とは服装も髪型も変わっていたので、すぐには分からなかったが、しかしあのグラマラスな唇には覚えがある。オレは女の後をつけながら、一体この女は何を考えているんだろうと首を捻った。今日の彼女は昨夜のダウンヘアとは打って変わって、前髪だけを残して後は全てひっつめていた。オレは女の髪型は下ろしている方が好きだがしかし、その辺は好みの問題だから別にい良い。問題なのは彼女は何と金色のダウンをはおっていたのだ。
もっともその金色具合は落ち着いており、下品だとは言い切れない程度の、キンキラ具合だったが、しかしデートに金のダウン着用とは是いかに。いや別に、デートに金のダウンを着てはいけない訳ではないが、しかし昨夜の彼女は、ややお嬢さんテイストに仕上げていた。どうして女同士の飲みにお嬢さんテイストでやって来て、男と会う日に金のダウンを着る? 普通逆だろ。
だがもしこのいでたちが、カレシの好みだったら構わないが、しかし少なくともこれは、三浦の好みではない。
オレは彼女の後を追いながら、じろじろとコーディネートを観察した。ダウンの下からは、白地に的みたいな形の、赤いプリント柄が散らされた膝下のフレアースカートが揺れ、その下には茶の乗馬風ブーツを履き間に覗くタイツは黒地の水玉模様。おそらくスカートの柄とタイツの柄を、リンクさせているのだろう。
そう考えると、そうまとまりの無い組み合わせとは言えない。何より今日のいでたちも、やはり何系とはカテゴライズし辛い。しかしやはり今日の格好は三浦の好みではない。彼はカテゴライズし辛い服装の中でも割合おとなしめないでたちを好むからだ。もしコートがもっと無難な物だったなら、三浦的ファッションチェックは合格しただろうが、しかし金のダウンは、やり過ぎだ。
ということは、手帳に記された「三浦くん」と三浦幸雄は別人なんだろうか。いくら初めてのデートとはいえ、サークルで知り合い何度か連絡を取り合った後のデートなら、相手の女は、ある程度、三浦の好みを心得ていると考えるのが妥当だろう。それともこの女はそのような推察が苦手な鈍いタイプなんだろうか。あるいは三浦に嫌われようと、敢えて派手な格好をして来たんだろうか。
オレがあれこれと考えあぐねていると、女は駅ビルのトイレへ入って行った。オレは携帯の液晶で時刻を確認した。十一時十六分。待ち合わせの時刻まであと十四分ある。ということはデート前の最終化粧直しというところか。そうすると出て来るまでに、最低五分はかかるな。その間どこで時間を潰すかな。
ところがオレが思案している間に、女はもうトイレから出て来てしまった。え、何で? オレは訳も分からずに、とりあえず目の前の土産物屋に飛び込み、そこに陳列された県の銘菓を、ほほうという顔で眺め始めた。里帰り支度をしているならまだしも、帰省シーズンでもないこの時期に、手ぶらの男が土産物を物色しているのは明らかに不自然な気がしたがしかし、そんなことを今更言い出しても仕方が無い。
ちょうど菓子コーナーに他の客がいなかったため、店のオバチャンがオレに、試食用の饅頭の切れ端が載った小皿を差し出した。断わるのも気が引けて素早く切れ端を口に運ぶと、オバチャンは更に
「美味しいのはそっちだけどねえ、日持ちするのはこっちの方」
などと金歯を光らせながら別の皿を勧めてくる。
何だか商売下手なババアだ。美味しくて日持ちするやつを勧めてくれよと思ったが、今は菓子の味や賞味期限など、どうでもいい。ババアに捕まっている間に、女はさっさとエスカレーターの方へ向かってしまった。オレは二皿目を辞退すると口をモゴモゴさせながら店を飛び出した。
エスカレーターに乗った女は三階で降りると、フロアーをスタスタと歩き始めた。周囲に陳列された商品に目をやるでもない。これは目的を持った人間の歩き方だ。だがしかし彼女は何の目的があるのかと俺は訝しんだ。このフロアーは、レディースファッション専門街だ。こんな所で普通男と待ち合わせるだろうか。
とはいえそもそも待ち合わせ場所が「K駅」というのもアバウトな話だ。しかし当初は
「K駅で、待ち合わせる?」
「そうだね」
という会話が交わされ、その時点で手帳には「K駅」と書かれ、その後でK駅のどこで待ち合わせるかが決まったが、詳しい場所は、手帳に書かなかったという可能性ならあるだろう。
約束の日が迫っていれば、敢えて手帳に書き込まなくても覚えていられるから、わざわざメモらなかったという、可能性もある。だから別に、手帳に記載された待ち合わせ場所がアバウトなのは構わないが、しかし男との待ち合わせ場所に、普通レディースファッション専門フロアーを選ぶだろうか。このフロアーには喫茶コーナーも無かったはずだ。ということは、彼女は待ち合わせ前に買い物でもしようというのだろうか。そろそろ待ち合わせ時刻になるというのに、何を考えているんだろう。
オレが首を傾げていると彼女は何と下着売り場に入って行った。オレは仰天した。デート前に下着売り場? 何で? 勝負下着でも買うの? 何で家で着けて来ないの?
オレは一瞬頭が真っ白になったが、しかしさすがに下着売り場の中までは入って行けず、慌てて周囲を見渡した。しかしレディースファッション専門フロアーだけあって、男一人がブラついていて自然なコーナーなど一つも無かった。仕方なくオレは、角の呉服店に足を向けた。下着売り場からは少し距離があるが致し方無いだろう。
オレは呉服店の壁に貼られたスナップ写真を、ほほうという顔をして眺め始めた。それは先月に行われた成人式でのスナップ写真だった。おそらくこの店で、振袖を購入した者の写真を募っているのだろう。 ふと名案を思いついた。オレは先月、成人式を迎えたカノジョがいる男ということにしたらどうだろう、カノジョに
「あたしの成人式の写真、駅ビルの着物屋さんに貼ってあるんだよ」
と聞かされ、今日たまたま駅ビルを通りかかり、ついでに見て行くことにしてやって来たということにしたらどうだろう?
オレは自分をそのような男だと思い込むと、ええと、オレのカノジョはどこかなあなどと考えながら、スナップ写真に目を走らせた。残念ながらそこにはオレのカノジョらしき女の姿は見当たらなかったが、その代わりオレは、同じゼミの大石令実の姿を発見した。
そういえば同級生たちは、先月成人式だったんだよなと思いながら、オレは大石の写真を観察した。爽やかな水色の振袖に柔らかそうな白いショールをまとい、楚々として佇む大石の姿。地味で野暮ったい女だと思っていたがなかなかどうして和装は似合っている。和服に袖を通すと、女というものは随分雰囲気が変わるんだなと、オレは感心した。
いや別に洋装から和装にチェンジしなくても、女は衣服で雰囲気が変わるものだ。手帳の女だってそうじゃないか。昨夜と今日の装いの違いで、彼女は別人のように雰囲気が変わっていた。ああいう女が着物を着たら、それこそ大石とは比較にならないほどの変身を遂げそうな気がする。この中に彼女の成人式の写真は無いだろうか?
オレは手帳の女の姿を求めて、スナップ写真を一枚一枚吟味した。残念ながら彼女の姿は見当たらなかった。三浦の証言によると、デート相手のサークルの子は一つ年下だということだから、もしこの中に手帳の女の姿があれば、彼女が三浦の相手である可能性は高くなる。しかしこの中には彼女の姿は無かった。
とはいえそれだけでは、手帳の女は三浦の相手ではないという証拠にはならない。K市にもK市近郊にも他に呉服屋はいくらでもあるし、あるいは購入せずに、レンタルで済ませた可能性もあるからだ。
振袖写真を見飽きたオレは、下着売り場に目をやった。そろそろ出て来てもいい頃だと思う。遠目とはいえ下着売り場の様子をチラチラ窺がうのは気詰まりだから、いい加減そろそろ出て来て欲しいと思う。そんな願いを込めて下着売り場に視線を送ると、ようやく手帳の女が小さい包みを抱えて出て来たので、オレは彼女の行き先に目を凝らした。
彼女は下着売り場を後にすると、やはり周囲に目もくれずスタスタと歩き始めた。下着を買ったということは、またトイレかなとオレが考えていると、果たして彼女はトイレへと入って行った。オレはどうしたらいいだろうと考えあぐねた。このフロアーはレディースファッション専門街だけあって、男性用のトイレが無い。それなのにトイレの入口でオレがウロウロしていては、何だか変態だ。
仕方無くオレはエレベーターの方に向かうと、その隣にかけられた館内の案内掲示板を、ふむふむといった顔で眺め始めた。ここもトイレからは少し離れているが、致し方あるまい。オレは案内掲示板をつぶさに眺めると、彼女は一体「三浦くん」とどこで待ち合わせているんだろうと考えた。
一階のファーストフードだろうか。二階の喫茶店だろうか。それとも四階の喫茶店、本屋、CDショップ……。いずれにしろ三階にはそれらしき場所は無いんだから、このままいけば待ち合わせに遅れることは明白だろう。それにも関わらず、彼女はなぜ今下着を着け替えている?
①先ほどの推理通り、勝負下着に着替えている。
②パンツが汚れた。
③パンツのゴムが切れた。
④新しい下着を身に着けていたが、サイズが合っていないことに気付いた。
まず①はあまり可能性が無さそうだ。勝負下着は家で着けて来ればいいんだし、たまたま切らせていたんだとしても、待ち合わせに遅れてまで、着け換えようとするとは考え辛い。第一彼女は最初にトイレに向かうまでは割合のんびりとした足取りだった。そう考えると、やはり①の線は薄い。
一方②の可能性はかなりありそうだ。何てったって今日はデートだからな。デートに興奮して思わず下着を汚す女……。ヤバい。何だかドキドキしてきた。
……でも下着ってそれ以外の理由でも汚れるからなあ。ウォシュレットの当たり具合で、濡らしたのかも知れないし……。でも彼女トイレに入った途端出て来たからなあ。個室に入ってウォシュレットを使ったとは考え辛い。しかしそうすると④の線も薄くなる訳だ。個室に入っていないのなら、相当のサイズ違いではない限り、下着が合っていないと感じたりはしないだろう。
そうすると②の線の興奮系が強いな。ただ③の可能性も否定は出来ない。デートにゴムの切れるような古いパンツを履いて来るなんて、あり得ない気もするが、しかし彼女が三浦の相手だった場合、今日は初デートになる。そうすると古いパンツを履いて来た可能性は大いにある。つまり彼女は三浦に軽い女だと思われないために、今日は絶対に体を許さないでおこうと、決意しているんじゃないだろうか。
だがその決意は、その場の雰囲気に流されて崩壊してしまう可能性がある。だから彼女は操を守るために敢えて古いパンツを選んだところ、うっかりゴムを切ってしまい、慌てて下着売り場に飛び込んだんじゃないだろうか。うん、これはあり得る話だ。というかもしそうだとしたら、彼女はかなりオレの好みだ。
初デートでパンツを汚すようなエロい女も捨て難いが、オレとしては、初デートでは心を開きこそすれ脚を開いちゃいけないわくらいの女の方が、落とし甲斐がある気がする。しかも体を許すまいと思いつつ、もしかしたら許してしまうかも知れないと恐れ、恐れる余りに古いパンツを着用するような危うさも、なかなかいい。
そしてせっかく古いパンツを履いたのに、うっかりゴムを切ってしまい、大慌てで下着売り場に駆け込むなんて何だかコミカルだ。そういう女と付き合ったら、いつまでも愛おしさを、感じていられそうな気がする。
だが③の線は彼女の相手が三浦幸雄だった場合の話だ。もし彼女の相手の「三浦くん」が三浦幸雄ではないのなら、今日が初デートではないんだからこの可能性は……、いや「三浦くん」が三浦幸雄ではなくても、今日が初デートだという可能性はある訳か。そうすると……。
オレがそこまで考えた時、突然後ろから
「えー、もっと早く言ってくれればいいのに」
と世にも苛ついた女の声が聞こえた。思わずオレが振り向くと声の主があの手帳の女だった。オレはぎょっとしながら彼女の様子を観察した。彼女はイライラとした足取りで携帯で誰かと通話していた。何かアクシデントでも起きたんだろうか?
「それじゃどうするの?……うん、……うん、分かった」
どうやら早々に話はついたらしく、彼女はすぐに電話を切ると、そのままスタスタと歩いて行ったが、当然のことながら俺には何が何だか分からなかった。
エレベーター前を横切っておきながら、どういう訳だかそこを素通りし、エスカレーターで更に上を目指し始めた彼女の後を追いながら、今のはもしかして、「三浦くん」からの電話だろうかとオレは考えた。一体何の用でかけてきたんだろう。「もっと早く言ってくれればいい」とは何のことだろう。待ち合わせに遅れるとか?その連絡が遅かったとか?
ありそうな話ではあるが、だったら彼女はどうしてああも不機嫌な声を出したんだろう。気が短い女なんだろうか。興奮し易い質なのか? そうなるとさっきの下着の件はもがぜん②の線が濃くなってくるな。ううむ興奮しやすく濡れやすいのは結構だが、興奮しやすくキレやすいのは厄介だな。どんな特徴も一長一短という事か。
段々目の前の女が生き生きと形を作り始め、オレは気分を高揚させながら、彼女の後を追い続けた。三浦のために始めた初の尾行ではあるが、こういう形でもやはり人間ウォッチングは楽しい。中でも女を観察するのは楽しい。
手帳の女は四階に降り立つと、本屋へと入って行ったが、やはり陳列された雑誌や書籍には目もくれず、本屋の中をスタスタと歩き始めた。
本屋で待ち合わせてたのかな? 「三浦くん」を探してるのかな? とオレは思ったが、ふと不審に駆られて彼女を見詰めた。何だか彼女の視線の動かし方が妙な気がしたのだ。通常待ち合わせ相手を探す際は、もっと大きく首を動かすものだと思うのだが、彼女は何やら、周囲を窺がうような仕草をしていたのだ。
まさか万引? オレの頭の中で、下着売り場から包みを抱えて出て来た彼女の姿と先ほど程の彼女の苛立った声色がオーバーラップした。そうか。彼女は生理になったのだ。だからトイレからすぐに飛び出し、下着売り場で替えのパンツを買い、電話の相手に生理時の鬱憤をぶつけ、そして今万引をしようとしているのだ。生理中につい手癖が悪くなる女もいるっていう話だからな。
だが三浦のデート相手が盗癖のある女では困る。いや仮にこの女が、三浦の相手ではなかったにしろオレの目の前で万引などされては困る。そんな現場を目撃してしまったら、オレはどうすればいい?
①口止めと称し、彼女を強請る。
②速やかに、一一〇番。
③店員に、知らせる。
④万引Gメンを、探す。
⑤彼女に、直接注意。
⑥見て見ぬ振り。
⑦せっかくの機会なので、彼女の技を盗む。
まず①は人として論外。②はテンパリ過ぎ。④はそもそも万引Gメンは客に悟られては仕事にならないんだから、見つけ出すことはまず不可能だと考えられるため却下。⑦はいくらオレが観察好きとはいえちょっと興味が湧かない。というかこれも、①と同じく人として論外。
⑤は一見理想的だが、(ドラマや漫画に出てきそうだ)そんな姿を、もし三浦に見られたら、もし三浦が手帳の女の相手だったら、何のために今日、人目につかない服装で来たのか分からなくなってしまうからこれも却下。
そうすると③が妥当だが、しかしこれも危険を孕む。もし見間違っていたら厄介だし、もう一つは店員に信じてもらえるかどうかも疑わしい。オレが店員だったら見知らぬ客が
「あの人が、万引してますよ」
なんて言って来た日には、そう言うお前こそ万引犯じゃないのか?と思うだろう。
つまり店員の注意を他の客に惹きつけておいて、その隙に商品を、失敬するつもりじゃないだろうな?などと勘繰ってしまいそうだ。仮に信じてもらえたとしても、彼女が俺のチクリに気付いて、商品を戻したりどこかに隠したりしないとも限らない。そんなことをされた日には結局オレが店員に怪しまれてしまう。そんなことはまっぴらだ。
となると結局⑥になる訳だが、どうも見て見ぬ振りっていうのは気持ちが悪い。それくらいならいっそ、最初から見なければいいんじゃないだろうか。
オレは彼女を追うのをやめると、新刊漫画コーナーに近付いた。元々本屋を覗こうと思っていたのだし、だったらいっそ漫画やら雑誌やらを物色して今日はもう帰ろうと思った。だがオレの目は新刊漫画コーナーで焦点を定めず、いたずらに視線を泳がせた。本当にこれでいいんだろうかと思った。
オレはあの女が、三浦幸雄の相手かどうか確認するために今日ここへ来たのに、志半ばで投げ出したのだ。それなのに漫画やら雑誌やらを漁っていていいんだろうか。せめて国文学を専攻する学生として、三島由紀夫の著書でも購入するべきなんじゃないだろうか。
いや違う。あの女はもしかしたら三浦幸雄の相手かも知れないのだ。だからこそ今日オレは、それを見届ける為に彼女をつけ回していたのだ。それが彼女に盗癖がありそうだという理由で、投げ出してしまっていいんだろうか。友人の想い人かも知れない女が万引をするのなら、オレはそれを見届けるべきなんじゃないだろうか。そして友人に忠告をするべきなんじゃないだろうか。今こそオレと三浦は現実を直視するべきなんじゃないだろうか。
オレは顔を上げると慌てて彼女の姿を探し始めた。すると彼女の姿はレジ付近にあった。何と大胆な。店員に対する挑戦か? それとも店員の様子をうかがっているのか? レジ付近は防犯カメラが無くて、むしろ死角だったりするのか?
オレが様々な憶測に絡め取られながら、彼女との距離を狭めると、彼女はそのままプイと本屋を出て行ってしまった。今日は状況が悪く諦めたのか? これから他の売り場を狙うのか? それともオレが目を離していた隙に仕事はもう終わってしまったのか?
だとしたらオレは何てことをしてしまったんだろう。僅かの間とはいえ、彼女から目を離すなんて。彼女が駅ビルに入った瞬間から彼女を追っていながら、肝心なところで目を離すなんて。
その時彼女はエレベーターの前でピタリと足を止めた。またフロアーの移動か? 忙しないことだと考えた瞬間、彼女は突然くるりと後ろを振り向き
「何か、用ですか?」
とオレに尋ねた。
オレは呆然としてその場に立ち竦んだ。彼女は何とオレの尾行に気付いていたのだ。本屋で周囲をうかがっていたのは万引のためではなく、オレの尾行に勘付いていたからだったのだ。そんな、そんな、そんな……。オレは頭を混乱させながら目の前の彼女を黙って見詰めた。不愉快そうな色を眉間に浮かべオレの返事を待っている女が目の前にいた。一体何て、返事をしたらいい?
オレが泡を食っていると、彼女は軽く溜息を吐き
「帽子、脱いで下さい」
と要求した。その有無を言わさぬ調子にオレはおずおずとキャップを外した。こうなってくると一体何のためにキャップを目深に被って来たのか、さっぱり分からなかった。
キャップを脱いだオレの顔を彼女はじろじろと眺め始めた。オレはふと、キャップで髪型が潰れてみっともない頭になってるんだろうなと考えた。こんな時に、何だかのん気な話のような気がするがオレは真剣だった。なぜならオレは今彼女に、変質者の疑いをかけられて観察されているからだ。
人に変質者として観察されるのは、あまり好ましいことではない。だがそれが逃れられないのならば、せめてオレはそれなりの見栄えで観察されたかった。けれど今日のオレは、洒落っ気の無い地味ないでたちに潰れた頭をしているのだ。そんな姿で、名も知らぬ女の視線に晒されているのだ。これが女をつけ回した罪、女の手帳を盗み見た咎の報いか……。
オレは湧き出でる羞恥に、くらくらして倒れそうだった。それだけ女に尾行を悟られていたことが恥ずかしかった。だが彼女は更に
「あなた、……もしかして昨日の店員?」
と尋ねてきた。オレはぎくりとした。
彼女はオレを覚えていたのだ。ああどうしてキャップを取ってしまったんだろう。どうして彼女に声をかけられた時、オレは一目散に逃げ出さなかったんだろう。オレは歯噛みしたい気持ちになった。まさか彼女に尾行を気付かれているとは思ってもいなかったオレは、突然彼女に声をかけられたため、うろたえてほいほいと、言いなりになってしまったのだ。
その時チンという音がして、後方のエレベーターのドアが開き、その向こうから数人の客が出て来た。オレと彼女は脇へと避けたが、客の一人がオレに向かって
「あ、毛利?」
と呼びかけた。聞き覚えのあるその声に顔を上げると相手は何と三浦だった。
いや「何と」というのはおかしいかも知れない。三浦が今日K駅で待ち合わせをすることを、オレは知っていた。だからこそオレもK駅へやって来たんだから、これは偶然というよりはむしろ必然に近い出来事だ。しかし突然の三浦の出現に度肝を抜かれ、オレは
「おう。今からか?」
と上ずった声で尋ねながら視線を軽く下げ、彼の首元のストライプシャツを、泳いだ視線で捉えた。
いたたまれない立場に追い込まれているオレは、手帳の女のみならず、三浦とも視線を合わせることが出来なかった。
「うん。十二時にそこの本屋で待ち合わせたんだ」
「そっか。頑張れよ」
車でやって来たらしく、コートも持たずに突っ立っている三浦に、オレはそう声をかけた。すると彼はようやくオレの傍らの手帳の女に気付き、彼女にチラと一瞥をくれた。だが彼女が会釈をするでもニッコリ笑うでもなく仏頂面をしているので、三浦はオレに、問うような視線を投げた。
しかしただならぬ気配を感じたのだろうか。そのまま
「うん。じゃあ」
と言ってスタスタと本屋に向かって行ってしまった。この女は、三浦の相手じゃなかったのか……。オレは安堵と失望の入り混じった気分で、去って行く彼の後姿をぼんやりと眺めた。
手帳に男の名前が四人もあるこの女が、ウブな三浦の相手ではなかったのは、喜ばしいことだし、何よりオレはこの女に尾行を気付かれてしまったのだ。もしこの女が三浦の相手だったなら、彼女は三浦にそれを言いつけるだろうし、そんなことを報告された日には、三浦に誤解されてしまう恐れがある。
だからこの女と三浦が無関係だったのは大変結構なことだ。しかしそうすると、オレは無関係な女を追いかけ回し、それを女に気付かれ詰問されているということになる。何と無意味で馬鹿げた話なんだろう。女をつけ回す必要が無くなった今になって、彼女にこの尾行の理由を打ち明けねばならないなんて。一体どうやって、この窮地を切り抜けたら良いんだろう。
オレが考えあぐねていると、彼女は威圧的に腕組みをしながら
「どうしてあたしの後つけてたの?毛利君」
と尋ねてきた。やばい。彼女に名前を知られてしまったとオレは焦った。全くどうして三浦とバッタリ出くわしてしまったんだろう。いやオレは、この手帳の女か、もしくは三浦の姿を求めて今日K駅に来たのだから、三浦とバッタリ会えたことは、むしろ当初の目的に叶っている。しかしあまりにタイミングが悪過ぎる。よりによってなぜキャップを脱いだ後で、三浦に見付かってしまったんだろう。
というかキャップを脱いだ姿を、手帳の女だけでなく三浦に見られてしまっては、今日何のためにキャップを被って来たのかいよいよ分からない。なのになぜオレは、言われるがままキャップを脱いでしまったんだろう。いやだからそれは、彼女に気付かれていると思い当たっていなかったため、うろたえて言いなりになったのだが、オレはなぜ彼女にバレる可能性を、想定していなかったんだろう。
今ここでそんなことを考えても仕方が無いのに、オレはなぜか黙り込んで、そのようなことを考えていた。気が動転していて、このピンチを切り抜ける妙案がさっぱり浮かばなかったので、仕方無く過去に遡って原因究明をしようとしていたようだ。
だが当然のことながら手帳の女は、オレの事情など意に介さず
「答えられないんなら、あなたのお店に行って店長さんに報告しようか。それともここの店員さんに知らせる? どっちがいい? 毛利君」
と畳みかけてきた。店長に報告? オレは青くなった。
そんなことをされては困る。オレは居酒屋のバイトを気に入ってるんだ。そんなことをされたら、バイトを続けられなくなってしまう。だがだからといって
「ちょっとうちの店は困るんで、ここの店員さんに知らせてもらえませんか?」
と頼むのも妙だ。というかここの店員にだって知らされたら困る。
全くさっきまでは、彼女のことを店員に知らせるか否かの選択肢を持っていたはずのオレが、気が付けば自分が、店員に引き渡されそうになるとは、正に一寸先は闇だ。だがいつまでも闇の中にいる訳にはいかない。オレは覚悟を決めるとまず「すいません」と頭を下げ、そして
「実はオレ、昨日あなたを見かけた時いいなって思ったんです。でもその時はそう思っただけで、具体的に何かしようとか思った訳じゃなかったんだけど、今日たまたまあなたのこと見かけて、それでつい気になって後追っちゃって……。ホント怖がらせるつもりとか全然無かったんですけどウザいですよね? すいません」
と口から出まかせを喋り散らした。
どうせ尾行に気付かれた以上は、十中八九オレが彼女に好意を抱いたと思われているんだろうから、だったらそういうことにした方が、自然だろうと考えたからだ。仮に彼女がそう思っていないにしろ、俺が彼女を気に入った事にすれば、彼女の自尊心をくすぐることが出来る。
とはいえ昨夜のあれしきの出会いで、オレが彼女に熱烈な想いを抱いたなどと伝えては、気味悪がられてしまう可能性もある。だからあくまで、自分の彼女への想いは淡いものであり、今日はたまたま彼女を見かけたのだということにした。そうすればオレが彼女の手帳を盗み見たこともバレずに済む。手帳に記載された「三浦くん」が、三浦幸雄ではなかったことが判明した以上、オレと目の前の女を繋ぐ線は他に無いのだ。
オレの偽の告白を聞くと、彼女は視線を斜め右に軽く下げたが、すぐにまたオレの目を見据え
「別にナンパを奨励する気は無いけど、気に入った女がいたら、さっさと声かければいいんじゃないの?声かける勇気が無いんなら、後ついて回るようなことしなきゃいいんじゃないの?」
と低い声を出した。もっともな意見だがオレはふと反発を覚えた。ナンパも出来ない意気地無しと暗に罵られた気分になった。
馬鹿言っちゃいけない。オレだってナンパは出来るさ。別に自慢にもならないけど、前カノの和音とはナンパがきっかけだったんだからな。オレは不意にアグレッシブな気分に駆り立てられ
「そうですよね。じゃあ昼飯でもどうですか?」
と尋ねた。つい先ほどまではどうこうしようなどとは夢にも思っていない相手だったが、オレはどうしても、彼女と飯を食わねばならないと思い込んだ。
「……あたしにそう言われたからって、何も馬鹿正直にナンパしなくていいよ」
「言われたからじゃないよ。ずっと声かけるタイミング見計らってたんだ。何だか急いでたみたいだったから……。腹減ってないんなら茶でも何でもいいから行こう」
「呆れた人ね。あたしに何かおごれば口封じになるとでも思ってるんでしょう」
そんなつもりは全く無かったが、しかしそれもアリだなと思った。一緒に食事をすれば、二人で和やかな時間を過ごせば、この女もうちの店長に言いつける気は無くなるだろう。
ということはやはりこの女と食事か喫茶に行かねばならない。オレは決意し
「駄目だよ。あなたはオレに、自分の想いを打ち明ければ、それはここの店員にもうちの店長にも、秘密にするって言ったんだから」
と、ちょっと意味ありげに言ってみた。女をつけ回す男の行為とそれにつながる好意は、法律の見地から見ればストーカーに限りなく近いかも知れない。しかし見方を変えれば、それは純愛に限りなく近いものになるからだ。
「どこかでご飯食べたりしたら、そこの店員には秘密に出来ないんじゃない?」
「じゃあ違う店に行けばいい。約束したのはここの店員と俺のバイト先だけだから」
オレはそう言うと、「行こう」とちょうど今しがた開いた下りのエレベーターの中を指し、彼女の顔をじっと見詰めた。彼女は一瞬ためらいの色を見せたが、迷っている時間は無いと判断したのか黙ってエレベーターに乗り込んだ。オレも後から続いて乗り込んだ。
エレベーターの中には、太腿も露わなスカートを履いた女子高生三人組と、頭皮も露な中年オヤジ二人組と、下着の線が露わなOL風の女が陣取っていた。その人いきれの中でオレは気まずさと高揚を思った。どんどんと彼女に話しかけて、さっさと彼女と打ち解けてしまいたいのに、人口密度の高い密室で意識せず投げられる話題が無かったからだ。
まだ知らない同士だからこそ、話しかける話題質問したい事項は山程あった。けれど下手に口をきいて周りを取り囲む見知らぬ連中に、俺と彼女が、まだ出会ったばかりだと悟られるのは癪だった。
ならばこの機会に、大好きな観察、今しがたオレのナンパを受け入れた彼女の観察をすればいい気もしたが、しかし今のオレはそれどころではなかった。今までに単独のナンパをしたことが無かったからだ。
そもそもナンパをするに当たっては、二人組の女を狙うのが、一番成功率が高いのは周知の事実だ。第一オレは基本的に一人でナンパをする勇気は持ち合わせていない。大体ナンパなんてものは、実行者の外見や実行方法にもよるだろうが、成功率は低いものだ。それを承知していても断わられれば恥ずかしいし傷付きもする。その恥と傷は一人で荷うのはあまりに重い。
また成功した場合でも、実際にいざ飲みに行ったりなんだりすれば、やっぱり大した女じゃなかったかなと思うこともある。だから自分の気に入りの女を確保するには、相手は複数である事が望ましい。しかし相手方の人数が多過ぎると、相手方の意見がまとまり辛く、結果的にナンパ自体が失敗に終わってしまう可能性が高い。だから相手は二人組であることが望ましい。
だからこそオレは、これまでにナンパをする場合は、頭数を揃えるために二人組で動くことを信条としていた。それなのに今回思いがけなく単独ナンパを実行することになった。しかもとりあえずは、彼女を連れ出す事に成功してしまった。これから一体どうすればいいのかとオレは戸惑っていた。
もちろん「昼飯でも」と誘ったんだから、昼飯を食べに行けばいいのだ。しかしオレは「腹減ってないんなら茶でも何でもいいから」とも言ってしまった。しかもそれに対する、彼女の返事は聞いていない。まあ彼女が食事希望か喫茶希望かということは、エレベーターを降りたらすぐ聞けばいいのだが、彼女は状況からいって、心から喜んで俺の誘いに応じたとは考え辛い。
彼女が応じた理由の半分は、おそらく引っ込みがつかなくなったからだろう。
「気に入った女がいたら、さっさと声をかければいい」
と言ってしまった手前、それを受けてナンパをしたオレを、断わり辛くなったというところだろう。そんな曖昧な心境の女に質問などをしてもいいのだろうか。曖昧な心境で返答を決定しなければならないという面倒臭さから、彼女は早速、オレのナンパを受けたことを後悔するのではないだろうか。
またもう一つの問題は、彼女はそもそも、「三浦くん」との待ち合わせのためにK駅へ来ていたということだ。それなのに待ち合わせ時刻の十一時半を過ぎた今になっても尚、「三浦くん」とさっぱり行き会わず、それどころか、出会ったばかりのオレのナンパを受けるのは明らかにおかしい。いくら引っ込みがつかなくなったとはいえ、まともな女なら引っ込むはずだ。
となるとやはり、先ほどの通話相手は「三浦くん」で、それはキャンセルか遅刻の連絡だったと考えるのが妥当だ。ただそれがキャンセルの連絡だったのか、それとも遅刻の連絡だったのかはかなりの差だ。キャンセルの連絡だったなら、彼女は突然多くの時間が空いたと捉えることが出来るが、もし遅刻の連絡だったなら、彼女にはあまり残された時間は無い。
彼女が今どれだけの時間を持て余しているのかが分からなければ、行き先も決め辛い。だがそうかといって、まさか
「『三浦くん』との約束は、いいの?」
などと聞けるはずが無い。そんなことを尋ねてしまったら、手帳を盗み見たとバレてしまう。
もっとも「三浦くん」の名はおくびにも出さずに、単に時間があるか無いかだけを尋ねる手もあるが、今このタイミングで、時間のある無しを尋ねるのはふさわしいことなのだろうか。
仮に「三浦くん」がキャンセルしていたとしても、彼女の時間は彼女のものだ。彼女は長い時間をオレに費やすことは、望んでいないかも知れない。というかオレと長い時間を過ごしたいか否かを、今の段階ではまだ彼女は決定出来ないだろう。そしてそれはオレにしても同じことだ。彼女が一緒にいて楽しい相手なのかどうかはオレにはまだ分からない。分からないがどうせナンパをしたんだから、楽しい時間を過ごしたいと思う。
するとこれからの時間を、双方にとって楽しいものにするには、その環境である行き先が、かなり重要になってくる。しかし彼女に残された時間がどれくらいなのかが分からないので、問題は振り出しだ。そのためオレは降下するエレベーターの中で首を捻っていたのだが、首を捻りきる前に、エレベーターはチンという音を立てて一階に到着してしまった。
わらわらと箱から飛び出す乗客たちと共に、オレは外に出た。そして同じくエレベーターから降り立つ彼女を横目で確認しながら、いずれにしろ「違う店に行けばいい」と発言した手前、駅ビルからは出るしかないと考えた。そこで彼女に
「どこに、行きたい?」
と尋ねながら手にしていたキャップを普通に被り直した。
面は割れてしまったので、もう被る必要は無かったが、持っているのも邪魔だったからだ。
「どっか、ファーストフード」
「……え、何で? 遠慮してんの?」
「そうじゃなくて、さっきから何かハンバーガーが食べたかったの」
無邪気な様子で答える彼女を見て、オレはやはり彼女には、時間があまり無いのだろうかと考えた。やはり「三浦くん」との約束は、時間が変更になっただけなのかも知れない。おそらく三十分か一時間ぽっかり空いてそんな時にたまたまオレに声をかけられ、いい時間潰しになると、考えたのかも知れない。
カレシと会うまでのつなぎに使われるのは、癪な気もするが、しかし考えようによっては気が楽だ。だってもし彼女に
「今日は、丸々一日空いてるの」
と言われたらどうする? 彼女に憧れてつけ回したことになっているオレは、今日一日を、この見知らぬ女と過ごさねばならない羽目になる。
いやオレは今日もバイトがあるから夕方には切り上げる事が可能だ。しかし夕方までは、共に過ごさねばならない羽目になる。別に彼女は可愛い顔をしているし、決して嫌いなタイプじゃあないが、だからといって突然長い時間を二人きりで過ごすのは億劫だ。
それは彼女が、今日の件を店長に言いつけないために機嫌を取り結ばなければならないからだ。機嫌を取らねばならない相手と、長時間共に過ごすのはストレスが溜まる。だが彼女の側があまり時間が無いのなら、この接待を、早々に切り上げることができる。
オレはすっかり気を楽にすると、駅ビルから数百メートル離れた店に入って行った。駅ビルの一階にもファーストフードはあったが、「違う店に行けばいい」と言った以上、やはり違う店に行くべきだと、考えたからだ。
ちょうど昼飯時ということもあり店内はやや混雑していたが、まだ空席は幾つかあった。この辺はランチを食わせる店が多いため、客が分散する様だ。
カウンターの前に立ったオレは、傍らの彼女に
「さあ、じゃんじゃん注文して」
と促した。高額なグルメバーガーを扱っている訳でもない普通のファーストフードで、「じゃんじゃん注文して」も無いものだが、しかし普通のファーストフードだからこそ、じゃんじゃん注文してもらわなければ、借りを返せない。
彼女は、こんな安上がりな店で太っ腹に振舞うオレがおかしかったのか、オレの発言にクスリと笑った。そして本当にハンバーカーやらポテトやらをじゃんじゃんと注文した。接待相手がとりあえず店のメニューを気に入って、じゃんじゃん注文して下さったので、オレはホッと胸を撫で下ろした。
しかもこんなに早く彼女の笑顔が見れるなんて、幸先がいい。さっきまではオレのことをバイト先の店長に報告するの、駅ビルの店員に引き渡すのと脅しをかけていた女から、さっさと笑いを取れた上に食欲まで満たすことができる。首尾は上々だ。大体人間の怒りなんてものは、生理的な欲求を満たしてやれば軽減される。その怒りを生理的欲求を満たす前に緩和させたことは、まずまずな結果だと言えるだろう。
支払いを終え、トレーを持ってテーブルを探しながらふと彼女を眺めたオレは、彼女のやや下品なスタイルが、店内に大変マッチしていることに気付いていたく感心した。色使いの大胆な、けれど洗練されているとは言い難いこの服装は、アメリカのチアリーダー風と言えなくもない気がする。アメリカンな人間にはやはりファーストフードはよく似合う。似合いの場所に存在している人間は、観察者を落ち着いた気分にさせるものだ。
例えば彼女が、今出入り口付近でコーラを飲んでいる四十絡みの女 ―フェイクかリアルかは知らないが、やたら毛足の長い毛皮のコートに、ロシア人のような帽子を被っている― のようないでたちだったなら、オレは居心地が悪くて仕方無かっただろう。別にこういう女には、ボルシチしか食べさせられないとまでは思わないが、しかしファーストフードに、似合いの存在とは言えまい。
彼女はソファーに腰を下ろすと、金色のダウンを脱いで膝にかけた。ダウンの下に着ていたのは緑のジャージ風の上着だった。よく分からんが、これもアメリカンと言えばアメリカンな気がする。というか仮にアメリカンではなくとも、ジャージにファーストフードは、よく似合う気がする。
店内の空気に果てしなく溶け込み始めた彼女のドリンクにストローを差してやりながら、(何しろ接待だからな)オレはまず
「名前を、聞いてもいい?」
と尋ねた。オレの名前はもう知られているのだから、オレも彼女の名前を聞かなければ不公平だからだ。
「アシザワ」
「え?」
「ア・シ・ザ・ワ。草冠の『芦』に簡単な『沢』で芦沢」
鷲澤の聞き間違いじゃなくて、本当にアシザワだったのかとオレは愕然とした。だったらもっと早く言ってくれればよかったのに。そうすればオレは、寝入りばなだろうと何だろうと、昨夜三浦に
「お前が明日会うサークルの子って、アシザワって名前?」
と尋ねることが出来たのに。そして「違うよ」という三浦の返事を受けて、オレの心配が杞憂だったことに気付けたのに。
オレは意気消沈しながらも、それでも彼女に
「下の、名前は?」
と尋ねた。いずれにしろ結果的に彼女をナンパしてしまった以上、ナンパ相手を苗字で呼ぶのは、流儀に反するからだ。
「小さい春で、チハル」
「千の春じゃなくて?」
手帳の女改め芦沢小春にそう尋ねつつオレは、自分の名前に似ているなと考えた。友人の鷲澤桃子と似た苗字を持ち、そしてオレと似た名前を持つ目の前の芦沢小春は、何だか鷲澤桃子とオレの二人に属している存在のような気分になった。まるで鷲澤桃子とオレが、二人で芦沢小春を共有しているみたいだ。
二人も主人がいる感じがする女は、何だかどっちつかずで悪くない。オレにほんの少し属しているのに完全には属していない女は、ほどよい距離感があって悪くない。
そんな風にオレが考えていると、芦沢小春は
「千の春じゃなくて」
とオウム返しに答えると
「小さい春なの。何でそんなケチ臭い名前にしたんだろうね? ケチケチしないでパーッと、千の春にしてくれればよかったのに」
とグラマラスな唇を尖らせた。
確かに千の春ではなく小さい春にしてしまった両親は、あまりにも慎ましく思われた。慎ましい両親に名前まで節約されてしまった彼女が、何となく不憫な感じがして、オレは少し胸がキュンとした。
オレは同情心に富んだタイプなので、不幸な生い立ちで育った人間の話を聞くと、途端に感情移入してしまう傾向があるのだが、その不幸というのは別に、実は捨て子だったとか、捨てられはしなかったが親に虐待されていたとか、親に可愛がられてはいたものの、父親には床の中でも可愛がられていたとかいうような、ヘビーなものでなくとも構わないのだ。
とはいえ不幸度が高いほど心は掻き乱されるが、しかし出会ったばかりで、ヘビー級の打ち明け話をしてくる人間は好きではない。物には順序というものがあるからだ。その点、芦沢小春の名前に対する不満は、初対面の人間が発するものとして、決して重くなかった。
気をよくしたオレは
「でも小さい春っていうのも、始まりを予感させる感じで悪くないと思うけどな。『小さい秋見つけた』みたいでさ」
とつぶやいた。
とはいえ彼女の両親は、単に「千」より「小」の方が可愛らしいと思っただけかも知れないが、オレとしては「千」と「小」を「大いなるもの」と「小さきもの」と捉えるよりは、「真っ盛り」と「これから始まるもの」であると解釈する方が、好ましかった。
「……あー、始まりの兆候って結構些細なモンだったりするもんねえ。そういう感覚だったのかなあ」
「そうだよ。この子はまだ小さいけど、無限の始まりの可能性を秘めてるんだっていう輝かしい未来が約束された名前だったんだよ。千の春よりずっとすげえじゃん」
「フフッ。実は親もそんなようなこと言ってたんだけどね」
そう言って舌を出す芦沢小春に対しオレは、何だよ、じゃあさっきの愚痴は嘘かよとは思わなかった。オレはやはり日本人なので
「あたしの名前の由来はかなりすごいよ。もう千の春なんてメじゃないよ」
などと自慢されるよりは、「ケチ臭い名前」と軽く卑下するくらいの人間の方を、謙虚だと考えるからだ。俺の当てずっぽうの推測が、彼女の両親の考え通りだったとは喜ばしい。
オレは安堵しながら
「そっかあ、よかったあ」
と口にした。実は俺はもう一つの可能性を考えていたからだ。
「『良かった』って?」
「いやさ、もしかして『小さい春』は、『小春日和』とかの『小春』のことかなとも思ったからさ」
つまりオレは芦沢小春は実は秋生まれ、陰暦十月頃の生まれで、三月生まれの女の子が弥生と名付けられる感覚で、神無月の異称である小春と、名付けられただけかも知れないとも考えていたのだ。
それを伝えると芦沢小春は
「成る程ねえ。そうするとあたしの名前を見て、もしかして秋生まれかも知れないとか考える人もいる訳だ。……でも陰暦十月の小春じゃないことが何で『よかった』なの?」
と尋ねた。先程の尾行理由追及の件といいどうやら彼女は追及好きなタイプのようだ。
「だって『小春』って『春みたいな』って意味だろ? 本当の春じゃないんだから」
「んーでも我が子に、『春みたいな』うららかな人間になって欲しいってゆうのも、アリなんじゃないの?」
「それでもやっぱ、始まりを感じさせるっていうニュアンスには負けるよ」
接待相手に反論するのはあまり好ましいことではないが、しかしここで反論すること事は、芦沢小春の名前の由来を褒めることにつながる。だからオレは敢えて反論した。とりあえず褒められる所は念のため端から褒めておきたいのだ。このような考え方は、オフクロから見たらやはりプライドが無いだろうかとチラリと思ったが、しかし不快な思いをさせてしまった相手を、褒めることによってなだめられるなら、むしろ褒め倒すのが人の道だとオレは思う。
すると彼女は
「でも毛利君若そうなのに、『小春』の意味知ってるなんて偉いねえ。『小春日和』とか、春に使う言葉じゃないって知らない人多いのに」
と話の矛先を変えると、ポテトをつまみ始めた。接待する側が接待される側に褒められてはあべこべだが、何にせよ人に褒められるのは悪くない。
だがそれよりも「若そうなのに」とはどういう事だろう。
「え、『若そうなのに』って……。小春ちゃんていくつ?」
「二十五」
抑揚の無い声で答えた芦沢小春にオレはのけぞった。二十五だって? オレの五つ上じゃないか。オレはまじまじと目の前の彼女を観察した。そもそも芦沢小春を、三浦幸雄の相手かも知れないと考えていたオレは、その相手が一歳年下だという彼の証言により、芦沢小春のことも、それくらいの年齢なのだと考えていたのだ。
いや芦沢小春が、三浦幸雄の相手だという確証は無かった。だからそれくらいの年齢だと決めつけていた訳ではないが、彼女が明らかに年上に見えたなら、彼女を三浦の相手ではないかとは思わなかったのだ。だから芦沢小春が、実は三浦の相手ではなかったと分かった時点でも、まさかそんなに歳が離れているとは、思わなかったのだ。
改めて彼女の顔を眺めたオレは、言われてみれば、肌はそんなに張ってないかも知れないなあと思った。とはいえ明らかに張りが足りない訳でもなく、皺がある訳でもなかったが、ただ大学の同級生達の肌のようには、ピチピチパンパンはしていないかも知れないなと思った。
しかし早ければ、十代の女でも笑えば目尻に皺が寄る者もいる。一方、芦沢小春は先ほどから何度か目を細めた笑顔を浮かべたというのに、その目元には、一筋の皺も寄ってはいなかった。ただ弾けるような肌の代わりに、しっとりと柔らかそうな皮膚が顔全体を包んでいる感じだった。
もしかしたら皺の存在というものは、年齢を当てる上で、あまり当てにはならないのかも知れない。それよりも肌全体の質感に注目するべきなのかも知れない。そんな風に考えながらオレは、「見えないねえ……」と感に堪えたようにつぶやいた。その柔らかそうな頬に何だか手を触れてみたくなった。
「引いた?」
「引かないよ。何で?」
「だってあたしのこと、もっと若いと思ってナンパしたんでしょ?」
聞きようによっては媚とも取れる発言だが、芦沢小春はまるで、「しくじったわね」とでも言いたげな顔でそう問いかけた。もしかしたら彼女は、自分が若く見えることとオレの大体の年齢は承知の上で(オレは大抵、歳相応に見られることが多いから)オレのナンパに乗り、頃合を見て、年齢を打ち明けることにより、オレを意気消沈させようと目論んでいたのかも知れない。
ひょっとしたらそのつもりだったからこそ、誘いに応じたのかも知れない。芦沢小春はオレをほんの少しでも気に入ったからこそ、ついて来た訳ではなく、オレを諦めさせるために、今ここでジャンクフードをほうばっているのかも知れない。
ムラムラと闘志が湧き立ってくるのを感じた。たかが五歳差くらいで、戸惑う男だと思われた可能性が癪だった。
若い子は若い子同士じゃなきゃ楽しめないでしょう? お金が無いから、ファーストフードとか定番でしょう? あたしはお姉さんだからその幼い味覚に付き合ってあげるわ。でも未熟だから付き合ってもらってたことに気付けなかったんでしょう? フフッ。しくじっちゃったわね。さあこれに懲りたらさっさとママの所に帰りなさい。そして女の年齢の見分け方でも、教えてもらいなさいな。
決して彼女にそのようなことを言われた訳ではないのに、オレは何だか、そのようなことを言われた気分になった。そこで一人発奮して
「そりゃあそんなに年上だとは思わなかったけど、でもオレは別に、年齢とか関係無く小春ちゃんをいいと思ったから」
と訴えた。
何だかこうなってくると、引っ込みがつかなくなったのは芦沢小春の方というより、オレの方かも知れなくなってきた。
「毛利君は、いくつなの?」
「来月、二十一」
二人共春生まれなのだから、ここにきて来月二十一になると主張したって、彼女も三ヶ月以内には更に歳を重ねるのだから、全然二人の年齢差は縮まない。だがオレは敢えてそう返事をした。四月進級の日本に於いては、誕生日を四月一日までに迎えるか否かは大きな問題になるからだ。
ところが彼女は残念なことに
「三月生まれなんだ? あたしもだよ」
と嬉しそうに返事をした。普段なら知り合った人間に、生まれ月が同じだと告げられると何となく親しみを感じ。しかしオレは、芦沢小春は四月か五月生まれであって欲しかった。そうすれば二人の学年差は一年縮むからだ。
「じゃあ来月二十六? 見えないね」
「童顔なんだよね」
「童顔っていうか……、赤ちゃん顔だよ?」
オレはふと、芦沢小春をこちら側に引き入れたい気分に駆られてそう言った。いや芦沢小春の顔は童女というよりも、むしろ赤ん坊に近いものがあるとは確かに思ったのだが、それ以上にオレは、彼女との距離を縮めるために背伸びをするのではなく、彼女をこちら側に引き入れたいと考えた。
大抵の男は、女の側の世界に飛び込むのではなく、女を自分の世界に引き込もうとするものだが、それはオレとて例外ではない。それに女とは若く見られて喜ぶ生き物なのだから、この発言はおべっかにも成り得るはずだった。しかし芦沢小春は
「二十六にもなる女が、赤ちゃん顔じゃ困るよね」
とやや硬い声を出した。「赤ちゃん顔」は少し言い過ぎだったのだろうか?
「でも若く見えるんだから、いいじゃん」
「別に若く見えたって、いいことばっかじゃないよ」
つまらなそうにつぶやく彼女の返事は、意外な気がした。てっきり世の中の年上の女は皆、アンチエイジングに励んでいるのだとばかり思っていたが、そうではないのだろうか。
オレは今までに年上の女と付き合ったことが無い。年上の女友達もいないから、現実的に若作りに励む女との交流がある訳ではないが、しかし昨今の、テレビやら雑誌やらによると、世の女共は皆、年齢を誤魔化すことを、人生の目標にしているんじゃなかっただろうか。
仮にそうではないにしろ若く見えることは得なはずだ。日本の男は大抵若い女が好きだし、男にモテれば色々なメリットがある。そう思いながら俺は
「でも見た目若い方が、モテるじゃん」
と答えた。顔が綺麗な上に若く見えるなんてこれ以上の話は無いはずだ。
「あたしは本当は二十五なのに、二十四か三か二に見えてナンパされたとして、それが何なの? 相手はあたしを本当にその年齢だと思って声かけてるのに、勘違いでナンパされたって、意味無いじゃん」
「え、今までに勘違いでナンパされて年齢言って引かれた事あるの?」
「あるよ。まあだから普段は相手が明らかに若ければ、『あたしの年齢分かってる?』って、最初に聞くけどね」
ううむ、この女は普段からそんなに若者にナンパされてんのか。まあでも確かに二十歳そこそこにしか見えないもんなと思いながら、オレは
「じゃあ何で俺には、最初にそう聞かなかったの?」
と尋ねた。もしかしたら芦沢小春はオレのことを気に入ったんだろうか?
「だって言うタイミングも無かったし、それにああなった以上毛利君も、あたしにお昼でもおごらないと、すっきりしないだろうなと思ったから」
「オレに、借りを返させようとしてくれたってこと?」
オレを気に入った訳ではなかったのは少々残念だが、しかし彼女は、彼女なりに気遣ってくれたのだから、これはありがたいことだとオレは考えた。年上の女というものは随分粋な計らいをするものだ。それともこれは芦沢小春個人の特徴なのだろうか。そうオレが考えていると、彼女は
「まあそれだけじゃないけど。たまたま約束してた人が遅れて来ることになって、時間も空いてたから」
と答えコーンポタージュをコクンと飲んだ。オレは今まで、年上の女というものは皆大人っぽいものだと思い込んでいたのだが、芦沢小春は、動作の一つ一つが子供じみていて、何だか可愛らしかった。
「その人って、何時に来るの?」
「さあ? 着いたら連絡くれるようなこと言ってたけど」
「彼氏?」
手帳の「WX」欄に、四人もの男の名前がある芦沢小春にとって、「三浦くん」は果たしてどのような存在なのかと、俺は胸を騒がせた。彼女はなぜああも不機嫌な電話の対応をしていたのか。芦沢小春はどういう関係の男に対しああいった態度を取るのか。すると彼女は
「うん。でも別れるけど」
と意味深な返事をした。それは一体どういう事なんだろうか?
「何で?」
「んー、まあ色々あってね。……毛利君はカノジョは?」
どうやら芦沢小春は、「三浦くん」のことはあまり話したくないようだ。確かに別れの理由などあまり楽しい会話にはならないし、初対面同士の会話にはふさわしくない。しかしオレは理由を知りたかった。オレは彼女を気に入って彼女をつけ回し、ナンパしたことになってるんだから、それを知りたいと思うのは当然だ。
とはいえ相手が嫌がっているものを無理に聞き出す訳にもいかず、仕方無く
「いたら、ナンパなんかしないよ」
と答えた。実際オレはフリーの時しかナンパはしないのだ。
「そうなの?」
「え、小春ちゃんは彼氏いてもナンパすんの?」
「あたしは女だから、ナンパなんかしないよ」
おかしそうに笑う芦沢小春を見てオレは、そういうもんなのかと思った。ネットに載っていた、大学教授が調べたという最近の大学生カップルのアンケートによると、告ったのは女からの方が多いという話だが、二十五の彼女にとっては、イニシアチブを握るのは、まだまだ男の方からという感覚があるんだろうか。それとも告白は自分からしてもいわゆるナンパはする気が無いということなんだろうか。
そう考えながらオレは
「逆ナンとか、したいとは思わない?」
と尋ねた。「WX」欄の四人の男たちは、どのようなきっかけによって得た人間関係なのかを、探るためだ。
「んー、若い頃はしてみたいと思ったこともあるけどね。思ってる間に二十五になっちゃった」
「今からでも、別に出来るんじゃないの?」
「若い頃」という言葉に、何となく違和感を覚えながらオレは答えた。オレは過ぎ去った年月を語る時に、「浪人の頃」とか「高校生の頃」という言い方はしても、「若い頃」という表現はしないからだ。大体「若い頃」と言われても、それがどの年代を指すのかは分かり辛い。いや芦沢小春の言うところの「若い頃」の指す年代が、全く予想出来ない訳ではないが、しかし正確には分からない。
というかオレは別に、芦沢小春が具体的に、何歳の頃に逆ナンをしてみたいと思っていたのかをどうしても知りたい訳ではない。ただ彼女がオレにとって、馴染みのない言葉を使ったことに違和感を覚えたのだ。別に若ぶるつもりは無いが、オレは過去を振り返ってあの頃は若かったと感じたことが無い。
そりゃあ同い年の連中の中にも、過去を「若い頃」とか「昔」と表現する奴が、たまにはいる。ただそういう奴らは大抵、大人ぶってその様な表現をしているので、その粋がり方が何だかわざとらしい。俺たちくらいの年代だったら、過去を振り返った時は、あの頃は子供だったと感じるのがまともな感覚のはずだからだ。しかし現在二十五歳の芦沢小春は、何の気負いも無く過去を「若い頃」と表現したので、オレは戸惑った。
オレはまだ二十五になった事が無いから、二十五の人間が、過去を「若い頃」と表現するのが自然な感覚なのかどうかは分からない。分からないが分からないからこそ、それが自然なのかも知れないとも思う。
結局年上の人間と接する時は、経験値の問題で相手のことが判断し辛い。判断し辛いから判断材料がもっと欲しくなる。判断材料に成り得る相手の言葉がもっと欲しくなる。判断し辛い言葉に戸惑いながら、その言葉をもっと聞きたくなる。芦沢小春の言葉がもっと聞きたくなる。
そんな風に感じていると彼女は
「何よ、勧めてんの?」
とまたおかしそうに微笑んだ。確かにオレは、芦沢小春を気に入ってつけ回しナンパしたことになっているんだから、そのオレが彼女に逆ナンを勧めてはおかしかろう。
「いや、そういう訳じゃないけど、でも小春ちゃんなら逆ナンすればついてくる男いっぱいいると思うからさ」
「んーでもやっぱそういうのは若い内でしょ。そういう類のチャレンジは、若い内じゃないとね。この歳になると失敗が許されない」
「いや、大抵の男はついて来ると思うよ」
何だかんだいってナンパする女は少ないんだから、女の方が成功率は高いはずだ。その上、芦沢小春は美人だし若く見えるし、仕草も可愛いししゃべってて嫌な感じも無いし、逆ナンは成功しそうだと思われる。それなのにどうしてそんなに失敗を恐れるんだろうとオレは不思議に思った。
すると彼女は
「ついて来てもさ、その後の展開っていうか、声かけられてついてく経験はあっても自分から声かけた経験は無いんだから、やっぱ勝手が分かんないじゃん? そういうのがスムーズに出来ないってこと。若い頃だったら上手く出来なくても、まあ若いからってことで許されるけど、この歳になっちゃうとちょっとね。どうせやるんなら、もっと早くやっとけばよかったって話になる訳よ。まあでも若い頃も、一回くらいやってみたいかなと思いつつやらなかったのは結局面倒だったからだし、だから別に、後悔はしてないけどね。これからチャレンジする気も無いし」
とポテトをつまみながら答えた。
どうやら彼女の言う「失敗」とは、男がついて来るか否かではなく、ついてきた男を上手くさばけるか否かという事だったらしい。
「自分から声かけるのって、そんなに面倒臭い?」
「毛利君だって、なかなかあたしに声かけなかったじゃん」
痛い所を突かれてしまったが、しかしオレが芦沢小春になかなか声をかけなかったのは、ナンパを面倒がっていたからでも、失敗を恐れていたからでもなく、彼女が三浦幸雄の相手かも知れなかったからだ。とはいえそんなことを言う訳にもいかず、オレは
「だって、真昼間からナンパしたこと無かったからさ」
と答えた。これは別に嘘ではない。
「あー、確かに昼間から声かけてくる人は少ないよねえ」
「でも、今までにもいたんだ?」
「うん。でもやっぱ夜の方が断然多いよね。何でだろうね?」
なぜ昼より夜の方がナンパが多いのかということよりも、オレとしては、芦沢小春は今までに何回ほどナンパされたことがあるのか、その内何割くらいの相手について行ったのか、ついて行った後にどうなったのかということの方が気になった。
しかし今や会話は、昼と夜のナンパの違いについてというテーマになってしまった。仕方無くオレは
「そりゃあそうだよ。昼間外歩いてる女の子は暇かどうか分かんねえもん」
と答えた。ナンパというものは実行者の容姿や実行方法以上に、ナンパされる側がある程度、暇でなければ成功しないのだ。
「ああ、そっか。夜、女同士で盛り場にいればある程度、暇な可能性が高い訳だ」
「そういうこと。まあ盛り場でも人と待ち合わせしてる感じの子じゃ駄目だけど、例えば女の子二人で、飲んでたりゲーセンで遊んでたりすれば、とりあえず急ぎの用事は無いってことだからOKしてもらいやすい。それに夜なら、とりあえず居酒屋かカラオケでも行けば飲めるから、そうすると知らない同士でも盛り上がりやすい」
夜のナンパが多いのは、他にも色々理由があったが、とりあえずオレはそこで言葉を切った。あまりあれこれ理由を述べては、オレが夜ナンパをしまくっていると思われてしまうからだ。自分をナンパしてきた相手が普段からナンパしまくっているということになると、芦沢小春もあまりいい気はしないだろう。 すると彼女は
「やっぱナンパした後は、とりあえずお酒が欲しい?」
と小首を傾げながら尋ねた。その尋ね方は何だか色っぽくて、オレはふと芦沢小春と飲みたい気分になった。
「欲しいね。相手を酔わせるためっていうのもあるけど、自分自身が酔うためにも飲みたいね。シラフで知らない女の子と話すのは緊張するしね」
「今、緊張してる?」
「そりゃあ、してるよ」
芦沢小春はほぼ初対面の相手だし、そんなつもりではなかったのに、どういう訳だか引っかけてしまったという微妙な立場の相手だ。弱味も握られてるし、おまけに五つも年上だし緊張する要因は山程あった。でもそれが、いつの間にか心地好い緊張に変わっていることにオレは気付いた。何というか居心地は決して悪くないのだ。
話せば話すほど、芦沢小春という人間がおぼろげに見えてきた。けれどまだ彼女をこういう人間だと把握出来るほどの情報は一つも掴んでいない。だからそれを知りたくて、知るための質問は次々と浮かんでくる。けれど全ての質問を投げかける前に、更に違った疑問が湧く。その合間に彼女からの質問も受ける。彼女もまたオレに興味を持ち始めていることが嬉しい。
だからオレの色々をもっと沢山話したくて、彼女の色々ももっと沢山知りたくて、けれど一つのセリフにまつわる質問を全て投げかける前に、会話のテーマはどんどん移ってしまう。それが物足りないと同時に新鮮で、だから話せば話すほどもっと彼女と話したい気分になって……。
こういう気分になったのは久し振りだった。仲のいい友達と、出会ったばかりの頃に感じる感覚、付き合うことになる女と、出会ったばかりの頃に感じる感覚に似ているなと思った。すると芦沢小春は
「してるんだ? 全然普通にしゃべってんのにね」
とクスリと笑った。普通にしゃべっていると評されたことで、オレはふと全ての緊張から解き放たれた気分になった。
「多分小春ちゃんがしゃべりやすい相手なんだと思う。オレ今まで周りに、あんまり年上の女の人とかいないかったから、最初五つも年上って聞いた時、上手くしゃべれるか不安だったけど、小春ちゃんには何ていうか壁を感じない。もちろん周りのオレらくらいの年代の子と全く同じじゃなくて、しゃべり方とかも落ち着いてんだけど、別にそういうのが壁にならないっつーか」
「それって、いいことなのかな?」
その言葉に、オレは先ほどの芦沢小春の
「二十六にもなる女が、赤ちゃん顔じゃ困るよね」
という発言を思い出した。
どうやら彼女は、若く見られることや年下の人間に親しまれることを、いいことだとは考えていないらしい。それはナンパしてきた相手に年齢を言って、引かれた経験ゆえだろうか?そう思いながらオレは
「何で? 壁感じて欲しい?」
と尋ねた。芦沢小春はなぜそこまで大人に見られたがるんだろうか?
「別に感じて欲しいとは思わないけど。あたしは元々、年上の人間より年下の人間に受けがいい方だし、だから年下の子が、あたしにあんまり壁感じないのは分かってるんだけど、でもそれが自分があまりに子供っぽいせいなら嫌だなあってゆうか……。年下に見られて嫌な思いしたこと、何度もあるし」
「嫌な思い?」
「例えばさ大人数で飲んでる時とか、その場にいる人が皆、あたしの年齢知ってる訳じゃなかったりすることもあるでしょ? そんな時にちょっとマジトークになったりして、あたしがつい語りを入れたりすると、何も知らない小娘が、偉そうに何言ってんだよみたいな反応されることあるんだよね。で、そういう相手の方が、明らかにあたしより年下だったことが結構あるの。でもその時点であたしも、相手に年齢誤解されてること気付かなかったりして、自分より三つも四つも年下の子に、人生はそんな理屈通りじゃないみたいな説教されたりとか結構あって……。そんであたしは、何でいっつもこう人に馬鹿にされんのかなとか思ってると、後になって相手があたしの年齢知って、『さっきは失礼なこと言ってごめんね』とか言ってくるんだけど、でも皆が皆謝ってくる訳でもないし、それに年齢知ったからって謝られるのも嫌なの。そりゃあね、年上の意見は尊重するっていうのは分かるよ。年上の人間は自分より経験積んでるから、経験者の意見は尊重した方がいいとは思う。でも年上でもいたずらに年食ってるだけの人もいるし、だから年齢っていうのは結局、参考の一つに過ぎないのに、謝ってくる人は、あたしの発言を聞いていい意見か悪い意見かって判断するんじゃなくて、あたしの見た目で、小娘かそうじゃないかを判断するだけだからそういうのが嫌なの。でも結局そういう、人を見た目でしか判断しない人となんか、あたしが若く見えようが見えまいが関わる価値無いから、どう思われても別にいいじゃんとも思うけど、でもあたしが若く見えさえしなければ、こういう嫌な思いはしなくて済んだはずなのにとか思うと、若く見えることなんて、全然得じゃないと思うんだよね」
突然の芦沢小春のマシンガントークにびっくりしつつもオレは、そうか、若く見えるということも案外大変なんだなと考えた。とはいえ彼女が、こういった悩みを打ち明けるほどにオレに心を開き始めたとは。
オレは嬉しく思いながら
「でも、『相手に年齢誤解されてる事気付かなかった』って何で? 自分が若く見えることは知ってるでしょ?」
と尋ねた。ここら辺をはっきりさせとかないと、どうも芦沢小春の言い分はよく分からん。
「本当―に自分が若く見えるんだって、きちんと理解したのは最近。だって既存の知り合いには、そんなしょっちゅう『若く見えるね』とか言われる訳じゃないし、そう言ってくるのは、初対面で年齢言った時だけだし、それに昔は、二、三コ若く見られるくらいだったからあんまり気にしてなかったの。てっきりお世辞だと思ってたし。それが最近歳言うとやたらびっくりされるようになって、中には信じてくれない人とか、酷い時は『十代かと思った』とか言われるようになったから、これはもしかしたら、本当に若く見えるのかも知れないって思い始めたの」
「でも毎日鏡見てれば、分かりそうな気がするけどなあ」
男だったらあまり鏡を見ない奴もいるから、自分の外見が、客観的に見てどれくらいの位置なのかイマイチ把握していない奴もいるかも知れないが、女の場合は、把握出来そうな気がするけどなあとオレは思った。もちろん女でも、あまり鏡を見ない者もいるかも知れないが、芦沢小春はそう厚くはないもののきちんと化粧をしている。化粧は鏡を見なければ出来ないのだから、彼女は毎日鏡を見ているはずなのだ。
ところがオレがその疑問を投げかけたと同時に、突然テーブルの上の、芦沢小春のケイタイが鳴り始めた。もしかしたら「三浦くん」はもう着いたんだろうか?
「もしもし」と電話に出る彼女を眺めながらオレは、せっかく話が、盛り上がり始めたところだったのになと失望した。今までオレは、老けて見られるからと愚痴る人間には会ったことがあったが、若く見られるからと不平を鳴らす人間に会ったことが無かったので、もう少し彼女の意見を聞きたかったのだ。だが電話の相手が「三浦くん」だった場合は、会話の打ち切りは必至だ。
仕方なくオレは、テーブル脇に据えられた、アンケート用に設置されていたポールペンを手に取ると、やはりアンケート用の用紙を手にして裏返し、連絡先を書き始めた。まず「毛利春樹」とフルネームを記入してから、その下にケー番とケイタイのアドレスと、パソコンのアドレスを書き込む。書きながらふと、そういえば芦沢小春はオレの名前は尋ねてくれなかったなと考える。
もし尋ねてくれたなら、同じ「春」を用いた名前ということで、意気投合出来たかも知れなかったのにとか、オレの名前になぞ興味を持ってくれなかったんだなとか、自分から言えばよかったかなとか、でも言うタイミングも無かったしなとか、芦沢小春も聞くタイミングが無かっただけかも知れないなとか、あれこれ考えた。
すると電話を切った彼女が
「じゃあ、あたし行かなきゃ」
と言ってケイタイをパチンと畳んだ。オレは
「連絡先、教えて」
と頼んだ。
芦沢小春は一瞬ためらいの色を浮かべたが、すぐにアンケート用紙に、フルネームと携帯のアドレスを走り書きした。その紙をスッとオレの前に滑らせると、オレの連絡先を手早く掴む。そして
「じゃあね、ご馳走様」
と立ち上がった。こんなに慌しく別れてしまうのは何だか不本意だったけど、カレシを待たせている女にこれ以上時間を使わせる訳にもいかず、オレは座ったまま、「どういたしまして」と答えた。
くるりと背を向け立ち去る彼女の足元で、フレアースカートがフワリと揺れる。その姿を名残惜しげに眺めていたオレは、ふとスカートの下のタイツの色が黒からグレーに替わっている事に気付き、ハッとした。
駅ビルに入った時点では、タイツは黒地の水玉だった。ところがいつの間にやらそれは無地のグレーになっていた。いつの間にやら? いや違う。オレは芦沢小春が下着売り場に駆け込む姿と、二度もトイレに入る姿を見たじゃないか。彼女はタイツが伝線してしまったので、タイツを履き替えていただけだったのだ。
それなのによりによってパンツを替えたのではないかと思い込み、その理由を、あろう事かカレシとの性行為や月経に結び付けていたなんて、オレは何て、いやらしい男なんだろう?
店内から立ち去る、芦沢小春の姿を見送りながら、うっかり卑猥な想像をしてしまった自分をオレは恥じた。一体なぜオレはそんなにもエロい勘違いをしてしまったんだろう。そんなことは、トイレから出て来た芦沢小春の姿をきちんと観察していれば、分かったことなのだ。それなのに彼女の脚というセクシーな場所を見落としつつ、猥褻な誤解をしていたとは、オレは一体、何をやっていたんだろう。
つまりはあれか? 脚というエロティックな場所を見落として、エロティックな誤解をしていたということは結局オレにはエロが足りないのか? いや違う。そんな風に自分に都合よく解釈してはいけない。オレはつまり包装にあまり興味を持たないタイプなのだ。女の脚を包むタイツよりも、女の脚自体の方に興味を持っているばっかりに、こんなことになったのだ。
ううむ、こんなことではいかん。オレは人間観察、特に女の観察が好きだったはずじゃないか。とはいえ女の観察が好きだからこそ、ついつい女を包む布よりも、女本体の方が気になるという気持ちは分かるが、しかし女本体の内面を推測するには、女を包む被服を観察することも必要だ。
推測には多くの情報としての事実が必要になる。事実に基づかない推測は、邪推に過ぎない。オレは観察によって事実により近い推測をするためにも、なるべく冷静な視点で、多くの情報をキャッチする癖をつけねばならない。
オレはファーストフードを飛び出すと、早速道を行き交う女たちの脚を観察しながら、道を歩き始めたが、静止していた方が一度により多くの脚を観察出来ることに気付いた。そこでとあるデパートの前で立ち止まると、フェンスに寄りかかって、デパートに吸い込まれたり吐き出されたりする女たちの何十本もの脚を、じっくりと観察し始めた。
ミニスカートから覗く生脚がある。ハーフパンツから覗く紫色のタイツの脚がある。ロングスカートに守られた脚がある。カーゴパンツに形を誤魔化された脚がある。
こうして眺めてみると女の脚は十人十色で、かなり面白かった。様々な衣装を身に着け様々な形の靴を履き、長かったり短かったり、真っ直ぐだったりO脚だったりX脚だったり、白かったり黒かったり、肌が綺麗だったり傷やシミがあったり、静脈が浮き出てたり、生脚だったり靴下を履いていたり、ストッキングを履いていたり、そのストッキングも、地味だったり洒落てたり、伝線してたり静脈瘤の治療用のぶ厚いものだったりと、千差万別だった。
もしかしたら女の脚というものは、様々な情報の宝庫なのかも知れない。例えば今デパート前でケイタイをいじっている、三十絡みのあの女、和柄のスカートの下に黒いレギンスを合わせ、シルバーのバックル付きサンダルを履き、赤いレーシーなソックスをチラ見させているあの女は、その衣装から様々なことが推測出来る。
①和柄スカートの考察。
一、 洋服にまで和風を取り入れるほどの、和風好き。
二、 和風が好きだが、経済的な事情から和服を所有出来ないので、代償行為として、和柄のスカート を所有している。
三、 単に昨今、和柄の洋服の供給が増えた為、彼女はさしたる理由も無くそのスカートを購入した。
四、 あのスカートはもらい物なので、彼女の嗜好は反映されていない。
②黒いレギンスについての考察。
一、 スカートの下にレギンスを合わせるのが、お洒落だという感覚の持ち主。ストリートカジュアル に傾倒している可能性あり。
二、 嗜好というよりも若作りしているだけ。若く見られることに、価値を覚えるタイプ。つまり芦沢 小春と真逆のタイプ。
三、 嗜好や若作りというよりも単にパーツとしての問題。つまり脚が太い、あるいは脚の形が悪いか 肌が荒れているので、それを誤魔化している。
四、 スカートに裏地が付いていないので、透け防止の為に、レギンスを着用している。
五、 単に冷え性なだけ。
六、 冷え性ではないが、今日はたまたま風邪をひいている。
七、 冷え性ではなく風邪もひいていないが、寒冷じんましんの気がある。
八、 ではなくて、腹をこわしている。
九、 ではなくて生理中である。
十、 生理どころか、妊娠中である。
十一、まだ孕んではいないが、将来の出産に備えて、下半身を温める事に余念が無い。
十二、あのレギンスは貰い物で、今日贈り主と会う予定がある。レギンスはスカートと合わせる他に使 い道が無いので、自分の趣味には反するが、仕方なく着用している。
十三、実は今日会うのはスカートの贈り主の方。会見の場は座敷なので、膝を隠すため、レギンスを着 用している。
十四、単に足癖が悪い。
③シルバーのバックル付きサンダルについての考察。
一、 シルバーが好き。
二、 特にシルバー好きではないが、合わせやすいのでシルバーを購入した。
三、 単に昨今、シルバーの靴の供給が増えたため、彼女はさしたる理由も無くそのサンダルを購入し た。
四、 巷に溢れているのはパンプス型の為、彼女は差をつけるために、バックル付きサンダルを購入し た。
五、 本当はパンプス型が欲しかったが、諸事情により、バックル付きしか手に入らなかった。
六、 実は大のシルバー好きのため、シルバーのパンプス型も所有している。
七、 足首を細く見せるため、バックル付きを選んだ。
八、 こんにゃく足(床に足を着いた時と足を上げた時で、サイズの変わる足)のため、バックル付き を選んだ。
九、 もらい物のため、彼女の嗜好や意思は反映されていない。
十、 どちらにしろ、まだ地面に雪が残っているのにサンダルを履くのは、考えが足りない女。
十一、考えは足りているが、冒険心に富んだタイプ。
十二、雪道にヒール靴やサンダルで出掛けて、転んで脚を折るくらいでなければ、都会人の名折れだと いう考えの持ち主。とはいえ、K市のデパートを利用している以上都会人である可能性は低い が、彼女は都会への憧憬が強く、格好だけでも、シティーガールを装っている。
十三、実はあのサンダルには、滑り止めが付いている。
十四、水虫なので、ブーツや長靴が履けない。
④赤いレーシーなソックスに対する考察
一、 赤が好き。O型である可能性あり。
二、 特に赤が好きな訳ではないが、スカートに入っている赤と、色をリンクさせている。
三、 実は生理中。(生理中の女は、赤を身に着けたがる傾向があるという統計がある。それも生理開 始時には体の上部に赤を着けたがり、日数を経るに従って下部へと移動させたがる傾向があると のことだから、その説によると、彼女は生理も後半か。いずれにしろ赤の着用が生理によるもの とすれば、赤いスカートを履いていた芦沢小春も、やはり生理中であった可能性がある。とは
いえ芦沢小春が二度もトイレに行ったのは、タイツの交換のためだったことは、もう分かった し、万引も濡れ衣だった訳だから、今更芦沢小春がやはり生理中だった可能性があったとして も、どうでもいいことではあるが)
四、 組み合わせは特に考えていないし、別に生理中でもない。たまたま引き出しの一番手前にあった のが、赤のソックスだった。
五、 実はあれはソックスではなくストッキング。冷え対策のため、レギンスの下に ストッキングを 履いている。
六、 あのストッキングはもらい物。赤いストッキングなんて、普通には履けないから、チラ見せ使い をするしかないと考え、レギンスの下に履いてチラ見せしている。
七、 本日のラッキーカラーが赤なので着用しているだけ。しかしそうなると、スカートもレギンスも サンダルも、全てラッキーアイテムである可能性もある。
何だか考えていたらよく分からなくなってきた。女の脚を飾る小道具には、何て多くの可能性があるんだろう。オレはあの三十絡みの女に対し、これだけ多くの可能性を発見したが、しかしまだ他の可能性もあるかも知れない。そうなってくるとたかが女の脚を彩る小道具とはいえ、あだやおろそかには扱えない。それにも関わらずオレは先ほど、芦沢小春のタイツの変化を見落としたのだから、オレは大変不注意な人間だということだ。
自分が不注意だということは、もう重々承知したからいいのだが、これだけ多くの可能性があるとなると、何が何だかよく分からなくなってくる。可能性を絞る方法は無いのだろうか。やはりそれは経験値だろうか。つまり十人の和柄スカート着用者と仲よくなれば、和柄スカート着用者たちの何らかの共通点を、統計学的に発見出来るようになるだろうか。
その可能性はあるだろう。要するにオレが今まで以上に統計を取ることを意識すれば、統計学的な結果を得られる可能性はあるだろう。つまり女観察好きのオレは、女の外見を観察することにより、なるべく正確な女の内面を推測したいという願いを持っているのだから、その願いを叶えるためには、統計を取る必要がある。また統計を取るためのチェックポイントを、意識する必要がある。
そして今回オレは、自分が女の脚を飾る小道具を、見落としやすい人間であることに気付いた。だからここで女の脚を観察する癖をつけておく必要がある。だが別に堅苦しく考える必要は無い。どうせならここで自分好みの脚、好みの小道具を探してみたらどうだろう。どうせ個人的に統計を取るなら、好みの脚を持ち、好みの小道具を身に着けた女の統計を取った方が楽しいし、闇雲に全ての統計を取るのは無理がある。
そうだなあ。例えばあの別珍のパンツを履いた女はどうだろうと、オレはデパートに向かってゆっくりと近付いて来た、一人の女の脚に目星を付けた。
ああいう手触りのよさそうな布地を身に着けた女を見ると、その感触が、パッと脳裏に浮かんで何だかゾクゾクする。とはいえオレは痴漢ではないので、実際に見知らぬ女の衣服に手を触れたりはしないが、しかしこうやって感触を想像しながらそれを眺めていると、まるで目で、その女に触れているような気分になってくる。
視線で女の脚に触れながら、オレはその形態をじっくりと確認し始めた。小さくてキュッと上がったヒップを持っているのに、案外太腿は肉付きがよく柔かそうだ。あの膝で膝枕をしてもらったらどんな気持ちになるだろう。片頬を膝に押し当てながら寝そべる俺。女は頭上から、俺の名を呼び……。
その時女がツカツカとこちら側へ向かって来たので、オレはそっと、女の脚から視線を外し目線を下げた。別にオレは女の顔を眺めていた訳ではないので、観察がバレた可能性は低いのだが、しかしデパートに入るでもなくまた目の前を通り過ぎるでもなく、こちら側に近付いて来た女を、オレは少々訝しんだ。
すると頭上から「モーちゃん?」という声が降り注いた。オレはハッとして顔を上げた。オレのことをこんな風に牛のような呼び名で呼ぶ人間は僅かしかいない。見上げるとそこには、サングラスを片手に微笑む、ゼミ友の上島ルイが立っていた。元々顔はじっくり観察していなかった上に遠目でサングラスをかけていたので、オレは上島だとは露知らず、彼女の脚に見惚れていたらしい。
顔は平凡だが、美人っぽい雰囲気を持っている上島は、高そうなベージュのムートンを羽織っていた。ムートンの襟元に付いたフワフワした毛と、耳元のジャラジャラしたピアスが、彼女のともすれば寂しげなショートカットに華やぎを与えている。
とはいえオレはこの上島に対し、恋愛感情を覚えたことは一度も無い。それにも関わらずつい今しがた彼女を妄姦していたことが何ともきまりが悪く、俺は
「おう。久し振りじゃん。何、一人?」
と早口で尋ねた。「何してたの?」などと尋ねられても答えようが無い時は、さっさと質問を投げかけてしまうのが賢明だ。
「令実ちんと、待ち合わせなんだけど」
「へえ、ほんっとに仲いいよなあ」
上島と、先程呉服店で振袖姿が飾られていた大石令実が、始終つるんでいるのは今に始まったことではない。だから二人が待ち合わせしているからといって、別に驚くことではないのだが、オレは上島に
「モーちゃんは、何やってたの?」
と尋ねられないために、さも感心したそぶりでそう答えた。少しでも彼女の気を他に逸らさなければならないからだ。すると上島は何を思ったか
「そうだ。モーちゃんも来ない? そこで待ち合わせてんだけど」
とデパートの一階のカフェを指した。彼女の気を逸らすことが出来たのは結構だが、しかし大石と、ほとんど口をきいたことの無いオレを突然誘うとは、どういった風の吹き回しだろうか。
「俺、邪魔じゃないの?」
「邪魔じゃないよー。令実ちんも喜ぶからさあ」
「なら、いいけど」
断わる理由も思いつかなかったオレは同意する事にした。断わるためには、「予定がある」と言わねばならないし、デパート前のフェンスにもたれていた以上、そこで待ち合わせをしていた風を装わねばならないが、上島たちの待ち合わせたカフェはガラス張りなので、デパート前の通りは丸見えなのだ。ということは待ち合わせを装うには、そこで上島たちの視線を受けながら、決して現れない待ち人を待ち暮らす羽目になる。
そんな羽目に陥るくらいなら、上島たちと茶でもしばいた方がいいに決まっている。上島とは会えば与太話を交わす仲だから、大石が現れるまでの間、二人きりになったところで別に気詰まりでもない。それに大石にしたってオレは別に嫌いではない。おとなしい女だからほとんど口をきいたことは無いが、先ほど振袖姿の写真を見て見直したところだし、たまには女二人の無駄話に付き合うのも悪くないだろう。
上島の後に続いてオレはラス張りのカフェに入って行った。土曜日ということもあり、遅目の昼飯を取る者が多いのか、店内にはコーヒーの匂いに混じって、パスタやらサンドウィッチやらの軽食の匂いが強く漂っていた。
注文を終えると、上島は高そうなムートンを脱ぎながら
「時間間違えて、一時間も早く来ちゃってさあ」
と笑った。ムートンの下はグレーの柔らかそうな素材のカーディガンだったが、毛にほのかに光沢があり、何だかそれも高そうだった。
「何だよ。じゃあオレはそれまでのつなぎかよ」
「違うよ。ちょっと聞きたいことあったの」
今日はいやに、女につなぎに使われる巡り合わせの日だなあと思っていると、上島は無邪気な様子で微笑んだ。いや本当に上島が無邪気なのかどうかは分からないが、しかし彼女の笑顔は、いつも変に邪気が無い。
身に着けている物は、大抵値が張りそうな物が多く、何となくプチバブルの申し子のような雰囲気があるのだが、いかにも日本人然とした、のっぺりとした顔立ちに浮かぶ笑顔に、邪気が感じられないため、そのアンバランスさが妙に艶かしい。
とはいえその艶かしさはオレの好みではないが、(オレはどちらかといえば、粗末な身なりで、女王の微笑みを浮かべる女の方が好みだ)しかし大して綺麗でもない上島が、男が途切れないことを考えると、やはりそのアンバランスな艶かしさが、男心に訴えかけているのかも知れないという気がする。
そんなアンバランス上島にオレは「何?」と尋ねた。聞きたいことがあるとはいえ、ケー番もメアドも知っているくせに、連絡をよこさなかったんだから、どうせ大した用件ではないのだろう。
「モーちゃん、明後日のゼミの飲み会来るんだよね?」
「行くよ」
「でも明後日ってバレンタインじゃん? モーちゃんカノジョまだ出来ないの?」
「まだ出来ないの?」と言われても、和音と別れたのはまだ二ヶ月前だ。そんなにすぐ新しいカノジョなんて出来ねえよと思いながら、オレは「悪いかよ」と答えた。常に二、三人の男をキープしているアンバランス上島とオレは違うのだ。すると彼女は
「好きな人とかは?」
と畳みかけてきた。
和音と別れて二ヶ月、新しいカノジョも好きな女もいないのは、そんなに悪いことだろうかと思ったオレの脳裏にふと芦沢小春の顔がちらついた。まさか。いくら別れる気があるとはいえ、カレシつきの五つも年上の女なんてとオレは思ったが、何となくアンバランス上島の態度が癪で、つい
「気になってる人なら、いるよ」
と答えた。
「えっ」とアンバランス上島がつぶやくのと同時に、ウエイトレスが現れて、オレにはブレンドコーヒー、アンバランス上島には紅茶をサービスした。
ウエイトレスの登場により、不意に宙に浮いた格好になった話題を、頭の中で反芻しながらオレは、そうだ、オレは芦沢小春を気にしているのだと気付いた。最初は三浦の相手ではないかと思ったからこそ、気にしていたのだが、三浦の相手ではないと分かった今になっても、いや芦沢小春が友人である三浦の相手ではなかったからこそ、むしろ何の躊躇も無く、彼女を気にかけることが出来るのだ。
アンバランス上島は、ウエイトレスが立ち去るのを待ってから、「どういう人?」と尋ねた。「どういう人?」と聞かれても、オレも芦沢小春のことはよく知らないので説明するのは難しい。
「俺の、五つ上で……」
「えっ、モーちゃんて年上好みなの?」
ティーポットに伸ばしかけた手を止めて、オレの発言を遮るアンバランス上島を見て、幸先の悪い気分になった。第三者にそんなに驚かれてしまうと、改めて五歳差という年齢差が、非常に大きなもののように思えてしまう。しょんぼりとした気持ちになりながらオレは
「いや、そういう訳じゃないけどさ」
とつぶやいた。オレは元々は同い年の女が好みだ。
「だったらよくないよ。大体女の方が年上なんてよくないって」
「そうか?」
「そうだよ。だって女の方が精神年齢高いんだよ? だから女が年下なのがちょうどいいの」
ようやくカップに紅茶を注ぎ始めた上島を眺めながら、確かにそういう話はよく聞くなと思った。ということはオレと芦沢小春は実年齢は五つ差だが、精神年齢的にはそれ以上の、開きがあるということなんだろうか。何だかますます、彼女との間に大きな壁が設けられた気がして、オレは何だか弱気になり
「じゃあ、どうしたらいい?」
と尋ねた。経験豊富な上島は年下男と付き合ったことは無いのだろうか。
「だから、年下の女と付き合えば?」
「でもオレは、彼女がいいんだよ」
少し腹を立てながらオレは答えた。女の方が精神年齢が高いのだから、年下の女と付き合った方がいいという意見は分からないではないが、しかし例外はあるはずだ。現に世の中にはカノジョが年上というケースもあれば、姉さん女房だって存在する。「年上の女房は金の草鞋を履いてでも探せ」という諺だってあるじゃないか。それにも関わらず、いたずらに年上の女を否定する年下の女に、オレは何だか不愉快な気分になった。
するとアンバランス上島は
「何で? どこが気に入ったの?」
と否定的な声色で尋ねてきた。ここまで年上の女を否定されると、何だか一時代前にタイムスリップしたような気分だ。
「何つーか、オレが今までこうだって思い込んでたことを打ち砕くことを言うっつーか、そういうのに対する新鮮さかな。周りの人間とちょっと違うことを言うから、そういうのが面白い」
「まあそりゃあ人生長く生きてる人は、うちらとはまた違った考え持つんだろうけど、でも長く生きてる人って、考え方が守りに入っててつまんなくない?」
「『守り』って?」
女が年上だというだけで、反対するアンバランス上島の方が、よほど守りに入っているように思われたオレは、呆れ返って尋ねた。ここまで保守的な女が「守りに入ってる」と表現する場合、それは一体どういう事柄を指すんだろうか。すると彼女は
「んーと例えば、変に結婚意識してたりとか」
と答えた。
そんなことを言われても、芦沢小春とはさっき初めて会ったばかりだから、彼女が一体どんな結婚観を持っているのかは知る由も無い。しかしオレは、その「結婚」というワードに冷水をぶっかけられた心地になり、「結婚か……」とつぶやいた後、しばし押し黙った。
確かに来月二十六になる芦沢小春が、結婚を意識しているとしても不思議は無い。それもこれから、カレシと別れようというのなら尚更だろう。年齢的に次に芦沢小春と付き合う男は、彼女の結婚相手になる可能性が高いのだから、彼女も当然結婚を意識下に置いた男選びをする可能性が高い訳だ。そんな芦沢小春が、五つも年下で学生のオレと付き合おうと考える可能性は低い。
いやオレは今の時点では、ただ芦沢小春のことが気になるだけであって、どうしても彼女と付き合いたいと思っている訳ではない。しかしこれから、結婚を前提としたカレシ探しをしなければならない女が、あまり結婚相手にならなそうなオレと、関わってくれる可能性は低い。
そんなことを考えているとアンバランス上島は
「モーちゃんは、まだ結婚とか考えられないでしょ?」
とカップを掲げながら尋ねた。その指先からは魔女のように長い爪が伸び、一つ一つに丁寧なネイルアートが施されている。そう言う彼女自身、まだ家庭に入り家事にいそしむなど、到底考えられないような爪先だ。
「まあ今すぐは無理だよな。学生だし」
「だったら近付かない方が、向こうにとっても罪無いって」
確かにそういうもんかも知れないとオレは思った。別に学生結婚という手もあるが、そんなことはオレの親は許さないし、芦沢小春の親だって許さないだろう。というか仮に双方の親が許したとしてもオレ自身が嫌だ。仕送りを受けている身で結婚だなんて、ちゃんちゃらおかしい。結婚なんてものは社会に出てからゆっくり考えたい。
だが来月二十六になる女と付き合うということは、そういう先送りしたい問題を、常に意識しなければならないということだ。そんなことは何だか面倒臭い。やっぱりアンバランス上島の言う通りかも知れないと思う。
だがオレは
「でも向こうが、結婚意識してるかどうかも分かんないしさ」
と答えた。最近は結婚しない女も増えてるし、芦沢小春ももしかしたら結婚願望は無いかも知れない。だとしたら彼女に結婚願望があることを前提に、ああだこうだ言っても仕方無いのだ。
「もし意識してたら、付き合ったらプレッシャーまみれになるんだよ」
「つーか意識してたら、オレとは付き合わないだろ」
「えー? 最初は、『あなたは学生だしわたし別にまだ結婚とか望んでない』とか殊勝なこと言いながら、いざ付き合うとじわじわプレッシャーかけ始める人結構いるよ」
それはちょっと嫌だなと思ったが、しかし結局それも想像の域を出ていないのだから、今この場であれこれ言っても、仕方の無いことだった。
この小説を書いた頃は、小説家になろうと思ってからまだ日が浅く、小説家になるなら人間観察をしなきゃという思いが強い頃でした。
その考え自体は間違っていないとは思いますが、観察しなきゃという思いがこの小説には如実に表れすぎていて、泥臭いなあと感じます。
この小説が、皆様に受け入れられるかどうかはまだ分かりませんが、こういった小説はもう書けないだろうなあと思います。
泥臭い小説なのにもう書けないと気付くと、なぜか寂しさを感じます。