01/11 Tue.-6
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カイトが驚いている。
その事実と表情がつい珍しくて、メイは彼の顔をじっと見てしまった。
いつも不機嫌そうな顔ばかりしているので、そうでない表情を見ることが少ないせいだ。
だから、現状も忘れて見入ってしまったのである。
「あ…」
カイトの口から、信じられないような声がぽろっと一つこぼれ落ちて、そこでようやく彼女は我に返った。
「あのね…あの、私の記入漏れのところは直したの。あと、ここのところをカイトに埋めてもらったら、大丈夫らしいんだけど」
ボールペンを取り出しながら、彼女は早くその作業を終えてもらおうと思った。
カイトの仕事の邪魔にならないように、用事が済んだらすぐに出ていく気だったのである。
具体的なやるべきことを呈示されたせいか、カイトはハッと目に力を取り戻した。
彼女からボールペンを受け取ると、会議室の机の上で、立ったまま記入し始めてくれたのだ。
その横顔を。
ついつい、また見入ってしまった。
この人と、結婚したとばかり思っていた。
そう信じて疑っていなかった。
しかし、現実は違ったのだ。
まだ、彼らは他人のままで、昨日の出来事は『同棲』という言葉にすぎないのだ。
だから余計に、今日の電話で『妻』という単語を使っていいのかどうか迷ったのである。
自分がまだ、そういう立場ではないことが分かっていたので。
でも、もしもこの用紙を提出しないなんてことがあったら――
怖い考えを、思わずメイは振り払った。
そんなことはあるはずないのだ。
カイトは、自分を好きだと言ってくれて、彼が婚姻届も取ってきて、役所まで連れて行ってくれたのだ。
その彼が、いま記入してくれているカイトが、もう一度その用紙を提出するのを拒むハズはないのである。
その理屈だけをぎゅっと握りしめて、メイはじっと見ていた。
書き終わったのか、用紙を掴んだ彼が顔を上げる。
視線が、メイの方を見た。
「あ、それじゃあ…私、それ出しに行くから」
彼女は、手を差し出す。
これで用事は終わりなのだ。
「……」
しかし、カイトはためらうような態度を見せた。
用紙を渡しかけたのだが、その動きを止めてしまったのだ。
え?
メイは、指先が一瞬冷たくなった。
まさか―― な、態度だったのである。
まさか、その用紙を再提出するということに、カイトは何か思うところがあるのだろうか。
後悔してしまったの?
そんな言葉が、冷たくなった指先から、爪の間から入り込んでくる。
カイトは。
彼は、最初ゆっくりと動いた。
「来い…」
腕を捕まれた。
引っ張られる。
一体―― どこに連れて行こうと言うのか。
※
役所だった。
メイは、盛大に拍子抜けしてしまう。
ずっと助手席で不安だったのだ。どこに連れて行かれるのか。
彼があんな態度を取ったおかげで、生きた心地がしなかったのである。
頭の中に、怖い想像ばかりが駆けめぐって、何を言われるのかビクビクしてしまっていた。
なのに到着した先は、今日メイが記入不備の書類を受け取ってきた役所だったのである。
驚いて運転席を見る。
エンジンを止めたカイトも、彼女の方を見た。
しかし、すぐにその顔は、ぷいとそらされる。
カイトは、顔をそらしたまま、無言で車を降りてしまった。
そのまま置き去りにされるのかと思いきや、助手席のドアがガンと開けられて。
メイもそこから引きずり出される。
そして―― 役所の建物の中に連れて行かれるのだ。
あ。
そこで、メイはようやく翻訳ソフトが動いたのが分かった。
もしかして、と。
もしかして、カイトは彼女一人に任せておけないと思ったのだろうか、と。
だから、一緒に連れて来てくれたのだろうか。
無言で自動ドアの内側に入ると、暖房がよく効いていて暖かい。
しかし、その温度差にほっとしている暇はなかった。
彼は、そのままカウンターへ向かったのである。
「あぁ…あなた方ですか」
すぐに―― 発見されてしまった。
昨日、婚姻届の面倒を見てくれた職員の人が、二人を見つけるなりカウンターまで近づいてきてくれたのだ。
「いやぁ、昨日何度かお電話を差し上げたんですが、ご不在のようで心配していたんですよ。わざわざご足労、ありがとうございました」
記入不備の書類を押しつけられたというのに、あんなに昨日のカイトの態度はメチャクチャだったというのに、この職員は非常に物腰柔らかく応対してくれる。
メイが、用紙を受け取りにきた時もそうだった。
ヤマダさん、というらしい。
電話で、彼はそう名乗ったのだ。
カイトは、そのヤマダという職員に、不作法な手つきで書類を突き出した。
これで文句はねーだろ。
そんな態度だった。
しかし、今度は突き出すなり帰る、なんてマネはしない。
不機嫌な顔で相手を睨んだままだが、その場を動かないのだ。
ヤマダは、書類を確認しているようだった。
目と指先で内容を追って、それが最後のところまでたどりつく。
「はい、結構です」
にこっと。
まるで学校の先生だったら、『よくできました』と言いそうな笑顔で微笑むと、その書類を受理してくれたのである。
「結婚、おめでとうございます」
その笑顔のまま、頭を下げられてしまう。
カイトが、びくっと硬直したのが分かった。
「おめでとうございます」
側にいた他の職員までもが、祝福の笑顔を2人に向けてくるではないか。
その声が結構大きかったせいか、役所に来ていた一般の人たちの視線まで向けられてしまう。
「お、婚姻届ですか? おめでたいですねぇ」
などと、近くから聞こえてきた。
メイは。
照れて、真っ赤になってしまった。
いきなり、周囲の温かい視線にさらされてしまったのである。
落ち着かないこと、この上なかった。
「結婚記念日は今日になりますね…1月11日…ああ、1ばかりで覚えやすい日でよかったですねぇ」
ヤマダが、笑顔で畳みかけてくる。
カイトは硬直したままだ。
メイ同様、こういう状況に慣れていないのである。
いきなりスポットライトが当てられて、あなたたちが主役です、というような状態なのだ。
カイトは。
ついに耐えられなくなったようで。
来たときと同じように、むんずとメイの手を掴むと、役所を後にしたのだ。
歩きながらも、後ろからにこにことした笑顔と、祝福の波動が伝わってきて、メイでさえ振り返ることが出来なかった。
そのまま、無言で2人ずんずんと役所から歩いて逃げ、車に乗り込む。
ドアを閉める。
はぁ。
2人、同時に安堵のため息をついてしまった。
カイトの方を、視線の端で盗み見る。
すると、向こうもそうした瞬間だったようで、ばちばちっと目が合う。
カァ。
2人で――赤くなってしまった。
「……送ってく」
カイトは、いきなり忙しくなったような様子でエンジンをかける。
「あ、大丈夫…バスで帰れるから…カイトお仕事あるし」
車中の時計を見ると、12時40分。
いまからなら、カイトはきっと1時までに会社に戻れると思ったのだ。
そして、車のドアを開けようとしたら。
ばしっと。
運転席の手が、彼女の腕を押さえるように止めるのだ。
振り返ると、カイトがどういう表情を作ったらいいかも分からないような顔で、自分を見ていた。
「送る…」
そんな目で。
そんな、もどかしそうな目で見られては、断れるハズがなかった。
『でも会社が…』とか言おうと思ったのに、それさえ言えなくなってしまう。
だから、きちんと身体の向きを前の方に直して座り直す。
ようやく、カイトが手を離してくれた。
よかった。
車が走り出した時に、メイはポツリと思った。
彼が、再提出を拒んでいたのだというのが、誤解でよかったと本当に思った。
そして、困った。
夫婦だというのに――― 車の中での気楽な会話一つ、見つけられないままだったのだ。