01/11 Tue.-5
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階段を駆け下りた。
途中の階で、エレベーターが止まっていたせいである。
この階まで上がってくるのを、待ってなんかいられなかったのだ。
何で。
駆け下りながら、カイトは頭の中に疑問を飛び交わせた。
何で、わざわざ会社まで訪ねてきたのか。
それは、イヤだ、ということではない。
そうではないのだ。
そうではなくて、その理由をどんなに考えても、ばっちりはまるパズルピースが見つからないのである。
あのメイが―― そんなに長い付き合いをしたワケではないが、とにかくあの彼女が、くだらない理由でわざわざ電話してきたり、会社に訪ねてきたりするとは思えないのだ。
何か困ったことでも起きたのか。
そう思うと、もう本当にいてもたってもいられずに、階段途中から踊り場まで一気に飛び降りる。
ダダダダダッ!
ようやく、一階まで駆け下りた。
ゼイゼイと切れる息もそのままに、また走り出そうとした。
さっきの電話の感じからすると、きっとこのビルの外にいるのだ。
が。
動きに急ブレーキをかける。
上げた視線の中に、誰かがぱっと飛び込んで来たのだ。
受付カウンターの前。
そこから振り返るように、カイトの方を見ている存在が。
間違いない。
メイだ。
※
まさか、ビルの中で彼女と出会えるとは思ってもみなかったので、一瞬呆然としてしまった。
そこに、忌々しくもエレベーターが到着する。
2人の間に、一瞬人間の壁が出来たのだ。
クソッ。
その人波を横切って、受付の方に歩き出す。
視界が開けた途端、あの茶色の目はなかった。
違う。
受付の方を向いて、何か話しているようだった。
だから、カイトから見えているのは、その背中だけだったのである。
ズカズカとそっちの方に近寄っていく。
メイが。
胸が、バスドラムのように深くて速い音を立てる。
メイが―― そこにいるのだ。
その事実すら、カイトはまだ信じられずにいるのである。
向こうを向いている彼女の腕を、ぐっと掴んだ。
受付の女よりも、メイは自分に用があって来たはずなのである。
だから、そっちを向いている必要などない。
そのまま、強く引っ張った。
そんな風に、メイへの独占欲が炸裂してはいるものの、内心ではかなりまだ気が動転している。
どこか、ゆっくり話ができそうな場所。
そして、誰もこない場所が必要だった。
引っ張っている時に、後ろから彼女が何か言っているような気がしたが、いまの精神状態では、はっきり聞き取ることが出来なかった。
こんな落ち着かない公共の空間で、彼女を他の誰かに見られるのもイヤだったのだ。
カイトは、慌てて会社内で検索をかける。
冷静に考えれば会社の外でもよかったのだろうが、この時の彼は、それを思いつけなかったのだ。
か、会議室!
頭の中に電球が光ったワケではないが、閃いたその言葉に向かって彼は歩いた。
会議室は4階にあるのだ。
エレベーターは、幸いさっき到着したヤツが、まだとどまっている。
メイを引っ張ったまま、エレベーターに飛び乗った。
バタン。
ドアが閉まって。
4階のボタンのランプだけが点灯している、狭い箱の中。
2人キリになった。
本当に。
いま後ろにいるのは、メイだろうか。
そんな不安がよぎって、カイトは振り返れなかった。
あの時。
一瞬、人波で彼女の姿が消えた。
次に見たのは後ろ姿で、そのまま顔も見ずにここまで引っ張ってきてしまった。
もし振り返って、そこにメイがいなかったら。
何てことを考えるのか、この頭は。
カイトは、いま自分の考えたことを、首ごとちょんぎって投げ捨てたくなった。
いるに決まっているではないか、と。
もう、何も不安に思うことなどないのだ。
彼らは結婚したのだ。
夫婦なのだ。
その言葉のロープを、カイトはがっちり握りしめた。
そして、勇気を振り絞って身体をひねろうと思ったのだ。彼女の方に。
なのに、エレベーターは3階で止まってしまった。
ムッ!
カイトは、自分の短気の尾が、引きちぎれそうになったのが分かった。
誰かが―― おそらく社員が、このエレベーターで上を目指そうと言うのである。
「だからさぁ…そこの…」
「でもよ…って、あ! 社長!」
予想通り社員が2人、目の前に現れた。
開発室の連中で、見覚えのある顔だ。
くんじゃねぇ!
ドアの真ん前に立ったまま、カイトは、慌てる2人に感情を抑えずに言った。
「次のに乗れ」
すかさず、扉を閉める。
驚いた2人は、カイトが邪魔でエレベーターの奥の存在には気づけなかっただろう。
それが、最後のハプニングだった。
ようやく、2人は4階の会議室にたどりつくことができたのだ。
※
会議室は、案の定無人だった。
カイトは入るなりドアを閉ざし、カギまで閉めた。
うっかり、誰も入って来られないように、だ。
それから、やっとゆっくりと彼女を、視界に入れることに成功したのだ。
この環境が出来るまでは、まったく落ち着かなかった―― いや、いまでも全然落ちついてなんかいない。
一体、何があった。
見えない不安の霧がある。
それを感じたカイトは、つい眉を顰めてしまった。
きっと、その顔がいけなかったのだ。
「ご、ごめんなさい! 勝手に会社まで来ちゃって!」
怒られると思ったのだろうか。
彼女は心配そうな顔で、慌てて頭をさげたのだ。
んなこた、どうでも…
「…いい」
口から出たのは、最後の2文字だけだった。
本当は、気にするなとか言ってやりたいのだ。
別にカイトは怒っているワケではないのだから、それをうまく伝えてやりたいのに、このザマだ。
「ホントは、帰ってくるまで待とうかとも思ったんだけど…でも、どうしたらいいか分からなくて…だから、その…」
メイは、つっかえひっかえに言葉を出すが、全然要領を得ない。
早く用件を教えてくれないと、カイトの方が不安で圧死しそうだ。
一体何が、メイにこういう行動を取らせたのか。
やきもきしながら、とにかく言葉を待つ。
気をつけないと、うっかり「早く言え!」と怒鳴りそうだ。
それをぐっとこらえる。
彼女を余計に怖がらせるだけだし、きっと自分自身も自己嫌悪に陥ること間違いナシだ。
「あ、あのね…」
ばさばさ。
彼女は、持ってきたバッグの口を開けて中を探る。
そうして茶封筒を出した。
更に落ち着かない手で、封をしていない茶封筒の口を開けて、中身を取り出す。
白い紙。
ペラペラの。
「あのね…これ……」
差し出されたので、反射的にカイトは受け取ってしまった。
見覚えのあるものだった。
こ。
ん。
い。
こんい…… ―― 婚姻届ーーっっ???
まさしく、昨日提出したばかりの用紙だ。
中に書いてある文字も、全部見覚えがあった。
何故、こんなものが、いまここにあるのか。
何故、メイが持っているのか。
何故????
メイが、どうしたらいいのか分からない戸惑ったままの唇で言った。
「あ、あの…それ……記入不備で…受理されてなかったの」
カッチン!
カイトの時が。
凍った。