01/11 Tue.-4
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ガチャーン。
受話器の向こうで、大きな音がした。
メイは、その激しく乱暴な音に、思わず受話器を耳から離してしまう。
しかし、すぐにまた耳に戻した。
「ど、どうしたの!?」
慌てて電話の向こうに話しかけるが、反応はまったくない。
回線自体は切れてはいないようだ。
切れているなら、ツーツーという音がするはずなのだから。
ということは、受話器は浮いたまま、ということである。
ただごとではない予感がして、不安が胸を刺す。
もしかしたら、具合が悪くなって倒れでもしたのではないかと、オロオロしてしまった。
何度か話しかけたけれども、やはり何の反応もない。
どうしよう!
受話器を持ったまま、キョロキョロする。
同時に、誰か助けてくれそうな人を探そうとしているバカな自分に気づいた。
ここで倒れているワケではないのだから、助けてもらいようがない。
メイは電話を切ると、鋼南電気のビルに向かって駆け出した。
社員なら、事情が分かるかもしれないと思ったのである。
さっきまで、どうあっても入れそうになかったビルの自動ドアの内側に、彼女は入り込んだのだ。
「いらっしゃいませ」
すると。
いきなり、カウンターの中の受付嬢が頭を下げるではないか。
「あ、あの…!」
どう伝えていいか分からないが、とにかく心配が先に立っている彼女は、何とかさっきの電話で起きた出来事を言葉にしようとした。
言葉を口にしようとした瞬間。
ダダダダダッッ!!!!
物凄い音が、端の方から聞こえてきたのである。
振り返ると、そっちには階段があって。
誰かが―― 駆け下りてきたのが見えた。
ひるがえる、ネクタイの先。
誰かって。
メイは目を見開いた。
階段を駆け下りた存在と、しっかり目が合ったのである。
一瞬、お互い完全に動きを止めてしまった。
チン!
しかし、二人の間にあるエレベーターの扉が開いて、数人の社員らしき背広姿の人たちが降りてくる。
その人たちの姿で、向こう側にいた彼が見えなくなった。
よかった。
メイは、その遮断のおかげで、ようやく我に返ることが出来たのだ。
そして、強い安堵を覚えた。
彼は、倒れたワケではなかったのだ。
あの電話については、どういう事故が起きたか分からないけれども、カイト自身は全然元気そうだった。
でなければ、階段を駆け下りて来たりはしな―― え?
メイは、真っ赤になってしまった。
すごく、変な翻訳が頭の中に現れたからである。
何でエレベーターがあるのに、階段で駆け下りてきたのだろうかという疑問に、勝手に答えを出してしまったからだ。
ブンブンとその翻訳を振り払った。
ここ数日、本当に翻訳が自分に都合がよいものばかりで、逆に落とし穴のような気がしてしょうがないのだ。
うっかり自惚れてしまいそうになる。
そうなったら、即座に転んで痛い目を見てしまいそうな予感があった。
そんな風に、彼女がいろんな思考にまとわりつかれたり、振り払ったりしている時。
「あの…お客様?」
後ろから声をかけられた。
メイは、すっかり受付嬢のことを忘れ切ってしまっていたのだ。
いきなり飛び込んできた客が、用件も言わずに相手をシカトしていたのである。
不審に思われないハズがない。
「あ、すみません…あの…」
メイは、慌てて受付嬢の方に向き直った。
しかし、これから何をどう説明すればいいのだろうか。
カイトに何かあったかも、ということに関しては、まったくの事実無根であることが、いま証明されてしまったのだ。
だからと言って、今更、『社長はいらっしゃいますでしょうか?』なんてことを聞くのも妙である。
だが、このまま放置していくワケにもいかず。
とにかく、取り繕ろえる言葉を探そうとしていた。
なのに。
「あら?」
カウンターの内側の女性が、不思議そうな声を出した。
え?
受付嬢の視線が、メイ自身を飛び越えていることに気づいて、後ろを振り返ろうとする。
「社長…?」
その声が、カウンターから聞こえてきた瞬間。
「きゃっ!」
メイは、悲鳴をあげてしまった。
いきなり強い力が、むんずと彼女の腕を捕まえて引っ張ったからである。
転びそうになりながら、何とか体勢を立て直す。
やっと、視線を前に固定することが出来た。
そのまま、彼に引っ張られ続ける。
あ。
背中だ。
忘れようもない。
今朝、会社に見送った背中と同じものだった。
階段を駆け下りたせいか、その肩には前の方から回ってしまったネクタイのシッポが見えている。
カイトだ。
間違いない。
「あ、あの…ごめんなさい。勝手にきちゃって…」
背中に向かって、メイは一生懸命言い訳をしようとした。
決して、仕事の邪魔をしたかったワケではないのだ。
それだけは、ちゃんと彼に伝えたかった。
結婚した途端、毎日こんなことをするような女だと思われたくなったのである。
本当に、今日は特別な用事で来たのだと。
しかし、彼の背中は何も聞いちゃくれない。
さっき1階に来たままだったエレベーターに乗せられる。
イラついたような動きで、カイトは4階のボタンを押した。
小箱の中で二人きりだ。
カイトは、扉の方に顔を向けたままで黙っているので、いまどんな気持ちなのか、全然分からなかった。
どこに連れて行かれるのかも。
声をかけそびれている内に、エレベーターは3階で止まった。
彼が指定した階は4階だったハズである。
なのに、3階で止まるということは―― 誰かが乗ってくる、ということだ。
カイトもそれに気づいたのだろうか。
はっと、身体が動いたのが分かった。
扉が開く。
「だからさぁ…そこの…」
そんな声が、開いた扉の向こうから聞こえてきた。
「でもよ…って、あ! 社長!」
乗ろうとしていたのは、男性社員2人。
入り口のところに立ちふさがるカイトを見つけるなり、声音が変わった。
本当に、彼は社長なのだ。
さっきの受付嬢の言葉もそうだし、今度もそうだ。
この会社の、一番上に座っている人なのである。
鋼南電気の会社社長としてのカイトに会ったのは、今日が初めてで。
だから、そんな風な現実を見ると、いままで分かっていたかのように思えて、実は自分が彼の立場というものを、全然分かっていなかったような気がした。
「次のに乗れ」
カイトが、社員に向かって言った言葉はそれだけで。
言うなり、彼の指が「閉」のボタンを押したのが分かった。
バタン。
相手の反応を見るまでもなく、再びエレベーターの扉は閉ざされた。
ああ。
メイは、この会社に来てしまったことを、激しく後悔した。
誰だって、恥ずかしいに決まっているではないか。
社長が女と一緒に会社内にいた、という事実だけでも、どんな噂が立てられるか分からないのに。
あの受付嬢には見られてしまったワケだから、もうその噂は止められないかもしれない。
これが、仕事場でなければ別にかまわないだろう。
二人の関係は、あくまでプライベートなことなのだから。
けれども、ここは職場なのだ。
勤務中に女性と会っていた―― かなり、聞こえが悪い。
ごめんなさい。
一回心の中で謝るのが精一杯だった。
エレベーターは、すぐに4階についてしまったのだから。




