01/11 Tue.-3
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この声。
社長秘書――リエは、受付から回ってきた電話の声を聞いた瞬間、記憶を甦らせた。
自慢ではないが、彼女は非常に記憶力がよかった。
特に、仕事に関した出来事については、ムキになって覚えるような習慣がついてしまっている。
それもこれも、ボスである社長の性格のおかげだ。
ボスの名前をカイト、という。
彼は、開発の仕事の才能は凄い―― らしい。
らしい、としか表現できないのは、リエ自身はテレビゲームなどはやらないからだ。
本体さえも、自宅には置いていない。
社長が開発に関わったソフトが、どんどん売上を伸ばしていることを彼女は知っている。
経営面の手伝いをすることはないが、業績のチェックだけは、怠らなかった。
それらを考えると、社長という存在は、この会社を高みに押し上げられるだけの力を持った人間、と考えて間違いない。
しかし。
リエは、社長に好意は抱いていなかった。
仕事が出来ようが、開発の社員に尊敬されていようが、ちっともカイトのことを尊敬できなかったのである。
それどころか、『何…この人、信じられないわ』、と思うことしばしばだった。
メインとなる社長としての仕事は、かなりぞんざいな態度だ。
ネクタイが嫌い、書類仕事が嫌い、接待が嫌い。
社長は、嫌いなものがたくさんあり、気分屋で、気に入らないことがあると、あからさまに表情に出すのである。
特に、その嫌いなものについてリエが何らかの失敗をしようものなら、おまえは無能だ、とでも言わんばかりの態度を取られるのだ。
こんなに腹立たしいことはない。
これでよく、社長としての立場が務まるものだと思うが、それでも取引などは成功させていた―― が、取引先に好かれているようには感じなかったので、かなり強引な取引を行っているのだろう。
おかげでリエは、社長の開発以外の雑務については、慎重になるように出来上がってしまったのだ。
管理職としての処理能力では、副社長の方が余程仕事が速く、正確で、不機嫌な態度を取られることもなかった。
とりあえず今のリエは、この社長宛の電話を処理しなければならなかった。
現在、書類作業中ということもあるので、迂闊な電話を取り次ぐと、またとばっちりが来かねないのだ。
電話の声は、女性だった。
去年の年末くらいに、同じような内容がかかってきたことを思い出す。
大体。
これまで、社長宛に『家のもの』という名で電話があったのは、過去1回だけである。
だからこそ、記憶が鮮明に残っていたのだ。
しかも、妙な内容の電話だったのである。
家のものだという割には、社長自宅の電話番号を知らなくて、事もあろうにリエにそれを聞こうしたのだ。
勿論、自宅の電話番号もケイタイの番号も知っている。
しかし、それを誰かも分からないような相手に教えるハズがなかった。
その妙な電話が、再びやってきたのである。
「…失礼ですが、社長とはどのようなご関係でいらっしゃいますか?」
記憶のせいで、リエはそのまま社長に電話をつながなかった。
もしも、これが不審な電話であるというならば、書類作業というナーバスな仕事をしている社長に、爆発の火種を放り込むことにもなりかねない。
その不機嫌の矛先が、一番近い自分に向く可能性だって高いのだ。
本当に家族関係者であれば、ここでためらわずに返事があるはずだった。
しかし。
電話の向こうはためらいを見せた。
これは。
どう考えても、不審以外の何者でもない。
適当に話をはぐらかして電話を切ろう、と思いかけた時、リエは信じられない返事を聞いてしまったのである。
『あ…あの………つ………妻です』
は????
自慢するわけではないが、リエは動揺したり取り乱したりすることが少ない女性だった。
いつも、出来るだけ冷静に考えて判断しようと努めていたのだ。
しかし。
これには、驚いた。
この電話は、妙というどころではなかったのだ。
あの社長の。
妻―― いわゆる、奥方と名乗る相手からの電話だったのだ。
社長が既婚者であるというのを聞いたことは、一度もなかった。
彼は親元を離れて、一人暮らし。
いや、副社長と2人で生活をしているのは知っていた。
まだ、姉とか妹とか言われたら、すんなり納得しただろう。
社長のプライベートを、そこまで知っているワケはないのだから。
しかし、妻となると話は別だ。
社員の誰が、既婚者であるか未婚者であるかというのは、普通は周知の事実だ。
特に社長となると、リエが一番側にいる仕事相手である。
それを知らなかったという事実に、珍しくパニックに陥ってしまったのだ。
と、とりあえず。
社長に確認を取るのが、一番いいと思った。
たとえ、この電話が頭のおかしな人からの悪戯電話であって、社長から『ふざけるな!』と怒鳴られようとも、大事を取って確認する必要があった。
普通なら、ありえないと思うだろう。
会社を統べる社長が結婚したとなると、いろんな取引先などを呼んで、大々的な結婚式などを開くものではないだろうか。
会社でも、噂が広まるのではないだろうか。
リエは電話の相手に待つように伝えると、社長室への内線を開いたのである。
あの社長、だったからだ。
彼とプライベートなことは、一切話したことがない。
仕事以外で、まっとうなコミュニケーションを取ったことがないのである。
いつも、相手からの一方的な言葉を投げつけられるだけだった。
社長が本当は何を考えて生きているのか、ちっとも理解できない。
ワンマンで、強引で、粗暴で、それから―― いや、いまはそういう話ではなかった。
とにかくそんな、内側をよく知らない相手だからこそ、一般的に考えたら突拍子もない出来事でも、『もしかしたら』という疑惑になるのだ。
ブツッ。
社長室と通じた音がする。
呼びかけると、やはり不機嫌な反応が返ってくる。
「その…失礼なことかもしれませんが、社長…社長は、ご結婚なされていましたか?」
しばらくの沈黙の後に、相手から帰ってきた答えは。
『仕事とは関係ねぇだろ』、というものだった。
リエは、言葉にちょっと引っかかった。
否定でも肯定でもなかったのだ。
しかし、いま忙しいという波動がはっきりと伝わってきて、そんな話題に付き合うのはお断りのようだった。
彼女としても、これ以上話題を続けるのは得策ではない。
「そう…ですか。いえ…いま、社長の奥さんとおっしゃる方からお電話が入ってまして…ちょっとご確認が必要かと思いまして」
ただし、わざわざそんなくだらないことを確認するためだけに、内線を開いたのかと思われたくなかったので、簡単に事情を説明する。
噂好きの女性社員と、ひとくくりにされたくなかったのだ。
これで説明は終わりだ。
「何か切羽詰まったようは声の女性でしたが…では、会議中とでも伝えてお切りしましょうか?」
もう、リエは電話を切るつもりでそう言った。
一応、確認の形は取っているが、どうせ社長からの返事は『勝手にしろ』とか、そういうものに決まっているのだから。
受話器を軽く耳から離しかける。
あと一言くらい言葉を言って、電話を切ろうと思っていたのだ。
『つなげ!』
聞き違いかと思った。
「は?」
慌てて、リエは受話器を耳にきちんと戻した。
ちょっと離していたために、音を拾いそこなったのかと思ったのだ。
「いいから、つなげっつんだ!!!」
何ですって????
リエは―― 信じられなかった。
しかも、話はここで終わりではない。
呆然としたまま、電話を切り替えてしばらくした後。
バタン!
大きな音と共に、社長室のドアが開いたのだ。
中から、社長が物凄い顔で飛び出してくる。
「あの…」
どちらへ。
最後まで聞くことは出来なかった。
社長は、あっという間に彼女の目の前を走り抜けて、秘書室を出てすぐのエレベーターに向かうのだ。
ドアは開け放されたままなので、その動きがはっきりと彼女から見えた。
あっけに取られてその背中を見ていると、彼はエレベーターが途中階にあるのに気づいたようで。
何と。
階段の方に駆けて行ったのである。
ここは、7階だった。
い…。
リエは、何度も何度もまばたきをした。
いまのは……何なの?
あなたの知らない世界―― だった。