01/12 Wed.-4
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「おかえりなさい!」
声のトーンが、2音くらい違った。
ドアを開けるなり、本当に飛び込んできそうな勢いの声に、不意打ちをくらったカイトは盛大に固まってしまった。
帰宅するまでは、昨日と同じように『本当にあいつがいるのか?』という病気にかかっていたのだが、そんなウィルスも何もかも、この一瞬で吹っ飛んでしまう。
出迎えのメイを見ると、もう身体中から押さえきれないような笑顔で、にこにこと笑っている。
身体中から、『嬉しい! うれしい!』というオーラがびしばしに飛んでくるのだ。
何故、彼女がこんなにご機嫌なのか―― それについて、考えようとしたのだが。
「来て、来て!」
カイトの腕を捕まえて、子供のようにどこかへ連れて行こうとする。そんな彼女に、まばたきをしながらもついて行った。
一体、何があったんだ?
そう思っている内に、彼はダイニングに到着したのだった。
おいしそうな料理が、既にテーブルの上に用意されているのが見えたが、それは素通りだ。
彼女は料理に見向きもせずに、調理場まで連れて行くのである。
「ほら!」
中に入るなり、興奮さめやらぬ声をあげてカイトの注意を引く。
指をさされた先には。
流しの所には。
給湯器がついていたのだ。
あぁ。
それで、カイトは理解した。
今日の朝、カイトが一番最初にケイタイをかけた相手は―― ガス会社だったのだ。
冷たい水で後かたづけをさせたくなくて、また自分が忘れたりしない内に、と思った彼は、強引に今日中の工事をねじ込んだのである。
「ね、ね…見ててね」
メイは、ぱっとカイトから離れて袖口をまくると、給湯器のスイッチをポン、と押す。
すると、出てきた水がみるみるお湯に変わったのが分かった。
出てくる湯気のおかげだ。
それに、ばしゃばしゃと手をつけながら。
「これなら、お皿100枚、200枚洗っても平気…嬉しい」
はしゃぐような声で、彼女はそう言った。
そうじゃねぇ!
カイトは、ぐらっとした。
彼女を働かせるために、給湯器を入れたワケではないのだ。
そうではなくて、どうしても洗い物をしないと気が済まないメイに、せめて冷たい思いをさせないで済むようにという気持ちからなのだ。
『給湯器を入れたから、その分バカバカ働け』と、言っているワケではない。
そんなカイトの気持ちなど知らずに。
「ほら、あったかいから…触って」
子供のようにカイトの腕を引っ張って、指先が湯に触れるようにされる。
彼の反応など、見えていないかのようなはしゃぎっぷりだ。
たかが給湯器くらいで。
こんなにも喜ぶのだ。
カイトは、お湯の方ではなくて彼女の方を見ていた。
もっと早くつけてやればよかったし、そんなに欲しかったならねだればよかったのだ。
けれども、いまのメイがあんまりに嬉しそうなので、それに水を差すようなことは言えなかった。
ただ、カイトも強い充実感があった。
自分の甲斐性で、こんなに彼女を幸せに出来たのである。
やっと、メイのために、自分の懐が役に立ったのだ。
しかし、その内容が給湯器と言う、現実味溢れるものであるのだけが不満だった。
綺麗な服とかバッグとか靴とか。
詳しくはよく分からないが、そういう贅沢品の方が、普通の女は喜ぶものじゃないだろうか。
カイトは、複雑な気持ちを抑えきれなかった。
「ね、あったかいでしょ?」
ぱっと振り返った彼女の笑顔は、まるで―― 太陽のようだった。
こっぱずかしい表現かもしれないが、本当にカイトはそう思ったのだ。
いまが冬だということを忘れさせるような、ちょっと暑い初夏のような笑顔である。
欠けることなく、明るく高い温度を持っている球体。
反射的に、カイトはそれに目を細めてしまう。
「あぁ…」
目を彼女に奪われたまま、それだけを口にした。
メイの目も細くなる。
給湯器のスイッチを切って、改めて振り返った瞳を細めて。
「ありがとう、すごく、すごーく嬉しかったの…本当にありがとう」
そんなお礼を言うのだ。
一瞬、カイトの胸に昔がよぎった。
助けてくれてありがとう。
そういう響きを持つものだ。
あの頃は、彼女に感謝なんかされたくなかった。
あんな上下関係を、溝を、壁を、はっきり見せつけられるような感謝なんて、本当に大嫌いだったのだ。
そうか。
カイトは思った。
こんな感謝もあるのか、と。
嬉しくてしょうがなくてあふれ出た感謝の声と、昔の言葉が―― 比較になるはずもなかった。
「礼なんていい…」
夫婦になったのだ。
短絡的に言えば、もう何もかも2人の持ち物なのである。
家も金も、お互いの存在さえも。
だから、たとえ声音や言葉が昔と違ったとしても、お礼なんて必要なかった。
「ううん! すごく嬉しかった、すごくありがとう!」
興奮していたのか。
彼女は、妙な言葉になった。
『すごくありがとう』
妙だが、メイらしい言葉のように思える。
それで、カイトはクッと笑ってしまった。
彼女が、もう少し自分の側に、近付いたような気がしたのだ。
お互い知らないことだらけで、一生懸命相手のことを探って失敗して。
少しずつ、メイが自分に近付いてくるように思えた。
一時は、世界の裏側まで離れているように思えたのに。
不意にこぼれたカイトの笑顔に。
メイが、ビクンッと震えて硬直した。
視線は、彼に向けたまま。
そんなに自分が変な表情をしていたのかと思って、カイトは慌てていつもの顔に戻った。
すると―― みるみる間に、残念そうな表情になるのだ。
一体、何だってんだ??
彼女のこの態度の変化の意味が分からずに、カイトは困惑してしまう。
「あの……一つお願いをしていい?」
残念そうな表情が、今度はいいコトでも思いついたのか、少し明るくなる。
そして、彼女の口から信じられない言葉が出てきた。
お願い。
お願いしていい?
カイトは、心の中にぱっと花が咲いたように思えた。
メイの口から、彼にお願いとやらが来たのだ。
その言葉で、こんなに自分が昂揚するとは思ってもみなかった。
もう、何でも欲しいものを言え、というところだ。
昂揚の余り、すぐに答えられないでいたが、その表情からOKだと理解したのだろうか。
メイは、続きを言おうとした。
「あの、ね…あの………もう一回…笑って」
ドンガラガッシャーン!
心の中で、山積みの灯油缶の中にバイクを突っ込ませてしまった。
何を言い出すかと思えば。
笑顔!
しかも、カイトの、だ。
そんなものを彼女は、お願いしてきたのである。
彼の甲斐性とは、まったくもって違うカナタにあるものを。
笑顔なんて、誰でも出すことが出来て、1円もかからないスマイルというものなのだ。
そんな、どこにでもはいて捨てるようなものを、どうしてわざわざお願いなんて。
は。
己を振り返れば、そんなことを言えるハズもなかった。
これまで、何度彼女の前で笑顔を見せたというのか。
思い出しても、一番最初の出会いの『水割り爆笑事件』辺り以外では、まったくなかったような気がした。
ということは、自分はいつもメイの前で仏頂面だったり、怒鳴ったりと、そんな表情しかしていなかったのである。
そんな男と、よくも結婚してくれる気になったものだ。
それじゃあ、ここで笑顔を一つ。
しかし。
そんな器用なことが出来る男なら、もっとうまく彼女と幸せを掴めていたハズだ。
カイトは、イヤな汗をだらだらとかいた。
メイが望むのなら、笑顔の一つや二つをプレゼントしたかった。
しかし、かしこまって出せと言われても出るものではないのだ。
特に彼の笑顔とやらは。
その上、期待に満ちた目が自分を見ている。
期待に応えられるような笑顔を、自分は出せるのか。
メイの、あの太陽のような笑顔を見た後で、だ。
頭の中を、ぐるぐると、『期待と失望』、『甲斐性と人間性』、『プライドと愛』などという言葉が巡っていく。
熱が出て倒れそうなくらい、頭の中は大変な騒ぎだった。
「ダメ?」
見上げてくる、お願いの目。
絶体―― 絶命のピンチだった。
--終--