01/12 Wed.-2
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失敗しちゃった…。
結婚翌日―― もう、一体どれが初夜でそうでないんだか、分からなくなってしまっているが、正式な法律上の翌日―― メイは、見事に寝坊してしまった。
そして、ベッドからカイトを、見送ることになってしまったのである。
会社に遅刻しなければいいのだが、遅刻すまいと急いで事故なんかにあっては大変だ。
何事もないように願いながら、彼女は毛布にくるまったままベッドから降りた。
昨日は、結局カイトにベッドまで連れてこられてしまったので、何の着替えもベッドの側にはなかったのである。
せっかくだから、このままもう一度、シャワーを浴びようと思ったのだ。
脱衣所で毛布を落とそうとしたら、洗面所の下が濡れているのに気づいた。
カイトが、慌てて顔を洗っていったせいだろう。
メイは、その後始末を最初にした。
クスッと、ちょっと笑いながら。
生活する、という点については、彼にはいくつも欠点があった。
そういうものが見えると、何となく嬉しいのと親近感がわくのと、可愛いとさえ思える。
結婚した今、親近感がわく、などという表現を使うのは、すごく変な感じがするのだが、それ以外にぴったりくる言葉がないのだから仕方がない。
お互いのことを空気のように思える日が、いつか来るのだろうか。
メイは、ぽつっと考えたけれども、まだ随分先のことのように思えた。
そうなっている2人の姿というのは、いまの彼女には想像できなかったのである。
床を拭いてしまった後、毛布をはらりと脱いだ。
途端、部屋よりも低い気温に身震いを覚える。
早く、温かいお湯で身体を流そうと、足を踏み出した時。
「きゃー!!!!!!!!」
メイは―― また悲鳴を上げてしまった。
今日3度目の悲鳴である。
1番目は、寝坊したこと。
2番目は、全裸でベッドから出ようとした自分に気づいたこと。
そして、3番目は。
自分の身体中に。
たくさんの赤い跡が見えたこと。
何気なく、洗面所の鏡を見たのがいけなかった。
そこに自分の上半身が映っていたのは分かった。
何も着ていないのも知っているし、ずっと付き合ってきた身体なのだから、大体のことは分かっているつもりだった。
しかし、首筋、鎖骨、胸、腕。
跡が残っているところは全て、カイトの唇が触れて強く吸った、という証拠なのだ。
「あ……あ…」
その光景が、想像とはいえビジュアルで頭の中に甦ったのだから、物凄い騒ぎになってしまった。
メイは、鏡から逃げるようにお風呂場に駆け込むと、シャワーのお湯を出した。
強く身体を洗うのだが、勿論、石鹸ごときではその跡は消えないのだ。
そう言えば。
昨日一緒にお風呂に入った時に、カイトは言ったではないか。
『それだったら……洗っても消えねぇ』と。
確かに、メイは彼のしるしが欲しかった。
カイトがいない間も寂しくなくてすむように―― そう願ったからだ。
しかし。
多すぎだ。
これでは、襟ぐりの開いた服は着られない。
今が冬で本当によかった。
メイは、喜ぶべきなのか困るべきなのか、すごく複雑な気持ちのままで、身体を洗い流したのだ。
あのカイトが、いっぱい自分を好きだと言ってくれた証のようで、それは恥ずかしくて嬉しかった。
よそのカップルも、みんなあんな風なのだろうかと、しばらく洗い場で考え込んでしまった。
ハルコとかソウマとかも―― 思いかけて、メイは頭がシュゥと音を立てたのが分かった。
自分が、何て失礼でハレンチな想像をしようとしていたかに気づいたのだ。
慌てて身体を洗い終わるとシャワーを止めて、脱衣所に戻る。
タートルネックのシャツを着て、作業のできるジーンズに着替えた。
バカなことを考えているヒマはなかった。
寝坊した分を、一生懸命の家事で取り返さなければならないのだ。
朝ご飯の分は、夕ご飯でカバーしようと思った。
おいしい夕ご飯を用意して、カイトに『うめぇ』を言ってもらいたかったのだ。
※
「あら、元気そうね」
車の音がしたから、まさか、と思ったら。
ハルコが現れたのだ。
午後3時1分前だった。
「ハルコさん…」
久しぶりに会ったような気がして、メイはちょっと驚いた声になってしまった。
本当は月曜日に会っているのだから、わずか2日ばかりなのだが―― 間に、いろんなことがサンドされてしまったために、随分長く感じられた。
「あの、その節は…」
月曜日のドタバタを思い出して恥ずかしくなり、妙にかしこまって挨拶をしようとすると、ハルコがクスッと笑った。
「いきなり改まらなくてもいいのよ。はい、これおみやげ」
どう見ても、ケーキが入っているとしか思えない白い箱を差し出される。
いつもこうやって、彼女にいただきものばかりをしているような気がした。
「ありがとうございます」
本当に借りを作ってばかりである。
いつか恩返しが出来ればいいのに、とメイは思ったのだが、何でも一人で出来そうなハルコの手伝いを、自分がきちんとこなせそうにはなかった。
うーん、頑張らなくっちゃ。
心の中で、自分に苦笑いを浮かべる。
「それじゃあ、お茶でもいれますね」
とりあえずは、出来ることからだ。
お茶くらいなら、メイにも振る舞える。
ダイニングの方に案内しようとすると、ハルコがちょっと考えるような素振りをした後。
「まあ…ケーキ一つくらいなら大丈夫よねぇ」
彼女も苦笑いだった。
そう。
ハルコは妊婦で、お医者さんに体重制限をされているようだった。
妊娠も大変である。
あ。
しかし、それは他人事ではなくなるかもしれないのだ。
メイは、自分の考えに赤くなった。
カイトのあの様子からすれば、そうなる日が遠くなくてもおかしくないのだ。
彼女は、急ぎ足でハルコの先を歩きながら顔を隠した。
見つかってしまうと、きっとどうしてか聞かれてしまう。
しかし、答えられないようなコトを考えてしまったのだから、聞かれるのは困る。
だから、慌てて逃げたメイは正解だった。
無事、ごまかせたのだ。
※
ダイニングの席で、おいしいおやつを味わう。
お茶とケーキと女2人というパターンがあれば、次に来るのは『おしゃべり』と相場が決まっていた。
にこやかなハルコは。
「それで…カイト君の様子はどう?」
どう―― と聞かれても。
ハルコの質問の枠が大きすぎて、メイはどう答えていいか分からなかった。
「結婚してから、何か変わったかしら?」
彼女が質問に困っていると分かったのだろう。具体的な内容に切り替わった。
ああ、それなら。
メイは、変わった部分を思い出そうとした。
が。
きゃー!!!!
彼女は心の中で悲鳴をあげた。今日は悲鳴だらけだ。
どれもこれも、思い出すもの全部が、ハルコに答えられないようなものばかりだったのである。
走馬燈のように。とんでもない記憶ばかりが頭の中を駆け抜けて、全身が火を吹いた。
「え、あの…その……」
言葉も思い切りどもってしまって。
これでは、ハルコに誤解してくれというようなものである。
しかも、いまは彼女の目の前でお茶というシチュエーションなのだから、自分の顔の赤さや表情を隠す、なんてことは不可能だった。
「あら…幸せそうね」
おかげで。
にっこり微笑みながら、そんなことを言われてしまった。
ああ。
恥ずかしさに、穴があったら入りたかった。
このままでは、もっと恥ずかしい質問が繰り出されるのではないかと、メイがオロオロし始めた時。
来客を告げるチャイムが鳴った。
「あら、お客様?」
ハルコが彼女の表情を伺う。
そんな予定はなかった。
メイは、立ち上がって玄関まで向かう。
結果的に、ハルコの視線から逃げられたので、ちょっとほっとした。
「どちらさまですか?」
ドアごしに聞く。
「○×ガスです! ガス工事に来ました」
ガス工事??????
予想外のお客に、メイは面食らってしまった。